『般若心経』をただ「空=無」として説明する解説文を良くみかます。
深い意味が読み取れてないんですね。
龍樹はこの経典の中で「析空・体空・法空・非空」が説かれている事を読み取っております。
その内容を詳しく解説して参ります。
『般若心経』に説かれている有名な一句、
「不生不滅 不垢不浄 不増不減」
をご存じでしょうか。
この言葉は次のようなことを示しています。
まず「不生不滅」について見てみましょう。 これは「ものは生じることも滅することもない」という意味ですが、ここを誤解して「だから永遠不滅の存在なのだ」と考える方が少なくありません。
しかし、仏が外道が説く「永遠不滅の存在」などを説くはずがないでしょう。 この「不生不滅」とは、ものを細かく観察し、分解して見ていく「析空」の見方を言い表した言葉なのです。
よく「空」を説明する際に、次のようなたとえが出されます。 「車を部品に分解すれば、もはや『車』という姿は消えてしまう」 「テーブルも脚を外せば、天板と棒に分かれ、『テーブル』そのものはなくなる」 つまり、すべてのものは多くの要素が縁によって一時的に集まり、仮の姿として成り立っているにすぎない、という縁起の法門です。
これを科学的に言えば、水を分解すれば水素と酸素になり、液体としての水は姿を消します。しかし両者が再び結びつけば水となり、冷やせば氷となって固体化します。 このように形を変えながら現れたり消えたりする、そのあり方こそが「空」なのです。 もっとも、これは「空」の初歩的な理解にあたります。 対象を細かく分析して本質に迫るこうした見方を「析空」と呼びます。時間の流れの中で物の姿・形が変化するさまを科学や物理学的に観察する世俗的な真理として説明ができるわけです。
仏教ではこれをすでに『阿含経』の中で「此縁性縁起」として説いています。 「此れあるとき彼あり」という言葉で示されるように、モノは縁によってそのあり様を変えていきます。つまり、構成要素が集まったり離れたりすることで姿を変えるだけであり、その構成要素そのものが新しく生まれたり消えたりするわけではないのです。
繰り返します。 ものは「生じたり滅したり」しているのではなく、縁によって仮に現れているにすぎないのです。
次に二番目の「不垢不浄」(汚いことも綺麗なこともない)について説明します。
これは、最初の「不生不滅」(生じることも滅することもない)が物質的な実体に即した真理を示していたのに対し、対象の姿かたち、すなわち「色相」から離れて、心の働きによって生じる「相依性縁起」を意味します。つまり、心という「性」を因として起こる縁起です。
では「綺麗」や「汚い」とは誰が決めるのでしょうか。――それは見る人の主観に過ぎません。
たとえば、大好きな人と過ごす一時間は一瞬のように感じられますが、嫌いな上司の説教はやけに長く感じられる。同じ一時間であっても、心の持ちようによって時間の長短が変化してしまうのです。
また、リンゴを「美味しい」と喜んで食べる人もいれば、「こんなもの食べられない」と嫌う人もいます。坂道も、上から見れば「下り坂」、下から見れば「上り坂」となり、立場によって意味が変わります。
このように、対象そのものが固定的な性質を持っているのではなく、見る人・味わう人・感じる人との関係によって「有り様」が変化していく――これを「相依性縁起」と呼びます。龍樹が『中論』で詳しく解き明かした、空のより深い理解です。
ところが、「空」をモノの状態としてのみ捉える立場もあります。上座部仏教では「主体は存在しない」と説き、禅宗では「実体は存在しない」と強調します。これは「空」を「有る」「無い」という形容詞で理解し、モノの状態を分析する立場、すなわち「析空」の特徴です。
しかし、「相依性縁起」が示すのは、客観的なモノの有り様ではなく、それを受け取る心の側の変化です。つまり、対象ではなく主体の心に基づく縁起です。こうした体感を空じる理解を「体空」と呼びます。
整理すると、
このように、同じ「空」であっても、その理解には段階があるのです。
(編集中~!)
そして最後、三番目の「不増不減」(増えることも減ることもない)は、やや理解の難しい教えです。ここで説かれているのは「法空」の理であり、龍樹は『中論』第二章「運動の考察」において、この問題を徹底的に解き明かしています。
小乗の立場では「我は空じられるが、法は実在する」という“法有”が主張されます。これに対し龍樹は、法そのものもまた空じるべき対象であると説き、運動を否定する逆説的な論理をもってその主張を鮮やかに論破しました。
すでに去ったものは、去ることがない。 まだ去らないものも、去ることがない。 すでに去ったこととまだ去らないことを離れて、 現に去りつつあるものも、また去ることがない。
一見すると当然のことを述べているようですが、実際には極めて深い洞察が込められています。現代風に言い換えると、例えば救急車のサイレンの音が近づいてくる時と遠ざかる時とでは「同じ音」でありながら音程が異なって聞こえます。音には変わらぬ特性(本質)があるのではなく、人の認識の中で生じるものだからです。
龍樹はこれを「運動」という現象に置き換えて論じます。すでに去ったものはそこに存在しないため「去る」という行為は成立しません。まだ去っていないものも同様に「去る」という行為は存在しません。そして「去りつつある」と見える姿も、よくよく観察すれば「去る」という行為そのものはどこにも存在していないのです。これは、ゼノンの「飛ぶ矢のパラドックス」と同じ逆説であり、運動そのものを否定する洞察なのです。
我々が当たり前と信じる法則や真理は、実は人間の概念が生み出したものであり、空の理を覚ってこそ本当の真実が顕れる——これが空の真理、空諦です。『般若心経』にある「色即是空 空即是色」という言葉は、そのことを端的に示しています。
<色即是空> 実体に即した此縁性縁起=人間の世界観(有無の仮観)—(実在論)
<空即是色> 実体を空じた相依性縁起=仏の世界観(縁起の空観)—(認識論)
龍樹は、お釈迦様が「我」を空じて弟子たちに無我を説いたことを踏まえ、さらにその空じられた「我」を因として起こる事象の法理を逆観で捉え、「無自性」すなわち事象にも変わらずにあり続ける本質(自性)はないという真理(無自性空)を見出しました。
考えてみてください。自分の息子に向かって「あなたは誰ですか」と問う認知症を患った祖母が、テーブルに置いてあったリンゴが床に転げ落ちたのを見た時、テーブルにあったという記憶が無い訳ですからそれは「落ちたリンゴ」ではなく「床に置かれているリンゴ」としてしか認識されません。つまり、私たちが信じている「引力の法則」すら実は人間が縁となって起きている現象(縁起)でしかないのです。
これはゼノンの「飛ぶ矢」の逆説にも通じます。ハイスピードカメラで撮影された矢は、一瞬一瞬では静止しています。それを連続的に再生して初めて「飛んでいる矢」として認識されるのです。運動も時間もまた、人間の記憶と認識作用が生み出す現象(縁起)にすぎません。
このように『般若心経』に説かれる「不生不滅 不垢不浄 不増不減」は、それぞれ「析空」「体空」「法空」を示しています。では「非空」はどこに説かれているのでしょうか。
答えは最後の真言にあります。
「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」
この部分はあえて訳されることなく、三つの真理を含む言葉としてそのまま示されます。意味を限定せず、言葉そのものが持つ力を保持するためです。そして「菩提」は仏の悟りを、「薩婆訶」は成就を意味します。ここに三身即一の「非空」が説かれているのです。
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『般若心経』に説かれている有名な一句、
「不生不滅 不垢不浄 不増不減」
をご存じでしょうか。
この言葉は次のようなことを示しています。
まず「不生不滅」について見てみましょう。
これは「ものは生じることも滅することもない」という意味ですが、ここを誤解して「だから永遠不滅の存在なのだ」と考える方が少なくありません。
しかし、仏が外道が説く「永遠不滅の存在」などを説くはずがないでしょう。
この「不生不滅」とは、ものを細かく観察し、分解して見ていく「析空」の見方を言い表した言葉なのです。
よく「空」を説明する際に、次のようなたとえが出されます。
「車を部品に分解すれば、もはや『車』という姿は消えてしまう」
「テーブルも脚を外せば、天板と棒に分かれ、『テーブル』そのものはなくなる」
つまり、すべてのものは多くの要素が縁によって一時的に集まり、仮の姿として成り立っているにすぎない、という縁起の法門です。
これを科学的に言えば、水を分解すれば水素と酸素になり、液体としての水は姿を消します。しかし両者が再び結びつけば水となり、冷やせば氷となって固体化します。
このように形を変えながら現れたり消えたりする、そのあり方こそが「空」なのです。
もっとも、これは「空」の初歩的な理解にあたります。
対象を細かく分析して本質に迫るこうした見方を「析空」と呼びます。時間の流れの中で物の姿・形が変化するさまを科学や物理学的に観察する世俗的な真理として説明ができるわけです。
仏教ではこれをすでに『阿含経』の中で「此縁性縁起」として説いています。
「此れあるとき彼あり」という言葉で示されるように、モノは縁によってそのあり様を変えていきます。つまり、構成要素が集まったり離れたりすることで姿を変えるだけであり、その構成要素そのものが新しく生まれたり消えたりするわけではないのです。
繰り返します。
ものは「生じたり滅したり」しているのではなく、縁によって仮に現れているにすぎないのです。
次に二番目の「不垢不浄」(汚いことも綺麗なこともない)について説明します。
これは、最初の「不生不滅」(生じることも滅することもない)が物質的な実体に即した真理を示していたのに対し、対象の姿かたち、すなわち「色相」から離れて、心の働きによって生じる「相依性縁起」を意味します。つまり、心という「性」を因として起こる縁起です。
では「綺麗」や「汚い」とは誰が決めるのでしょうか。――それは見る人の主観に過ぎません。
たとえば、大好きな人と過ごす一時間は一瞬のように感じられますが、嫌いな上司の説教はやけに長く感じられる。同じ一時間であっても、心の持ちようによって時間の長短が変化してしまうのです。
また、リンゴを「美味しい」と喜んで食べる人もいれば、「こんなもの食べられない」と嫌う人もいます。坂道も、上から見れば「下り坂」、下から見れば「上り坂」となり、立場によって意味が変わります。
このように、対象そのものが固定的な性質を持っているのではなく、見る人・味わう人・感じる人との関係によって「有り様」が変化していく――これを「相依性縁起」と呼びます。龍樹が『中論』で詳しく解き明かした、空のより深い理解です。
ところが、「空」をモノの状態としてのみ捉える立場もあります。上座部仏教では「主体は存在しない」と説き、禅宗では「実体は存在しない」と強調します。これは「空」を「有る」「無い」という形容詞で理解し、モノの状態を分析する立場、すなわち「析空」の特徴です。
しかし、「相依性縁起」が示すのは、客観的なモノの有り様ではなく、それを受け取る心の側の変化です。つまり、対象ではなく主体の心に基づく縁起です。こうした体感を空じる理解を「体空」と呼びます。
整理すると、
このように、同じ「空」であっても、その理解には段階があるのです。
(編集中~!)
そして最後、三番目の「不増不減」(増えることも減ることもない)は、やや理解の難しい教えです。ここで説かれているのは「法空」の理であり、龍樹は『中論』第二章「運動の考察」において、この問題を徹底的に解き明かしています。
小乗の立場では「我は空じられるが、法は実在する」という“法有”が主張されます。これに対し龍樹は、法そのものもまた空じるべき対象であると説き、運動を否定する逆説的な論理をもってその主張を鮮やかに論破しました。
すでに去ったものは、去ることがない。
まだ去らないものも、去ることがない。
すでに去ったこととまだ去らないことを離れて、
現に去りつつあるものも、また去ることがない。
一見すると当然のことを述べているようですが、実際には極めて深い洞察が込められています。現代風に言い換えると、例えば救急車のサイレンの音が近づいてくる時と遠ざかる時とでは「同じ音」でありながら音程が異なって聞こえます。音には変わらぬ特性(本質)があるのではなく、人の認識の中で生じるものだからです。
龍樹はこれを「運動」という現象に置き換えて論じます。すでに去ったものはそこに存在しないため「去る」という行為は成立しません。まだ去っていないものも同様に「去る」という行為は存在しません。そして「去りつつある」と見える姿も、よくよく観察すれば「去る」という行為そのものはどこにも存在していないのです。これは、ゼノンの「飛ぶ矢のパラドックス」と同じ逆説であり、運動そのものを否定する洞察なのです。
我々が当たり前と信じる法則や真理は、実は人間の概念が生み出したものであり、空の理を覚ってこそ本当の真実が顕れる——これが空の真理、空諦です。『般若心経』にある「色即是空 空即是色」という言葉は、そのことを端的に示しています。
<色即是空>
実体に即した此縁性縁起=人間の世界観(有無の仮観)—(実在論)
<空即是色>
実体を空じた相依性縁起=仏の世界観(縁起の空観)—(認識論)
龍樹は、お釈迦様が「我」を空じて弟子たちに無我を説いたことを踏まえ、さらにその空じられた「我」を因として起こる事象の法理を逆観で捉え、「無自性」すなわち事象にも変わらずにあり続ける本質(自性)はないという真理(無自性空)を見出しました。
考えてみてください。自分の息子に向かって「あなたは誰ですか」と問う認知症を患った祖母が、テーブルに置いてあったリンゴが床に転げ落ちたのを見た時、テーブルにあったという記憶が無い訳ですからそれは「落ちたリンゴ」ではなく「床に置かれているリンゴ」としてしか認識されません。つまり、私たちが信じている「引力の法則」すら実は人間が縁となって起きている現象(縁起)でしかないのです。
これはゼノンの「飛ぶ矢」の逆説にも通じます。ハイスピードカメラで撮影された矢は、一瞬一瞬では静止しています。それを連続的に再生して初めて「飛んでいる矢」として認識されるのです。運動も時間もまた、人間の記憶と認識作用が生み出す現象(縁起)にすぎません。
このように『般若心経』に説かれる「不生不滅 不垢不浄 不増不減」は、それぞれ「析空」「体空」「法空」を示しています。では「非空」はどこに説かれているのでしょうか。
答えは最後の真言にあります。
「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」
この部分はあえて訳されることなく、三つの真理を含む言葉としてそのまま示されます。意味を限定せず、言葉そのものが持つ力を保持するためです。そして「菩提」は仏の悟りを、「薩婆訶」は成就を意味します。ここに三身即一の「非空」が説かれているのです。