龍樹が『中論』で解き明かした〝空〟の理論は通教の教えです。
それに対し世親が『唯識』で解き明かした〝縁起〟の理論は別教の教えです。
『唯識』は覚りの理論とも言われます。
智顗が『維摩経玄疏』の中で両者の空(縁起)の違いを詳しく論じております。
その内容を紹介して参ります。
↓の続きです。
『維摩経玄疏』その① ~ 智顗は『中論』をどう読んだか ~
https://z.wikiwiki.jp/gengi/topic/9
龍樹が『中論』で解き明かした〝空〟の理論は通教の教えです。
それに対し世親が『唯識』で解き明かした〝縁起〟の理論は別教の教えです。
『唯識』は覚りの理論とも言われます。
智顗が『維摩経玄疏』の中で両者の空(縁起)の違いを詳しく論じております。
その内容を紹介して参ります。
↓の続きです。
『維摩経玄疏』その① ~ 智顗は『中論』をどう読んだか ~
https://z.wikiwiki.jp/gengi/topic/9
この部分は「円教」の立場から、同じ「法性」に入っても、その覚りの深浅・働きの広さによって声聞・菩薩・仏に差があることを説明しています。
ここでは「不思議法性」という表現がキーワードになっています。
現代語訳
第三に、「共に般若経を説く」中で、円教の立場から、不思議なる法性・実相における同異を明らかにする。
声聞が法性に入るときは、ただ法性だけを見る。まるで虚空のように何も所有しないと観ずる。
菩薩や諸仏が法性・実相に入るときも、やはり法性を虚空のように見る。しかし、彼らは虚空のような法性の中で仏の知見を開き、法界の一切の法を円満に照らし出すことができる。
虚空のような法性に同じく入り、そこに何も所有しないという点では「同じ」である。
しかし、諸仏・菩薩は、その虚空のような法性の中で法界の一切を円満に照らす。この働きこそが「不思議法性」であり、その点で「異なる」。
そこで、舎利弗はこのことを悟って言った──
「同じ一つの法の中にありながら、私はこれを得ることができなかった。ああ、深く自らを責める。どうして自分を欺いていたのか。」
以上により、共に般若経を説く場合でも、二乗(声聞・縁覚)と菩薩・仏では、上・中・下の根性や利鈍の差によって、一つの法性に通教・別教・円教という三種の異なりがあることがわかる。
たとえば、石には金の性質がある。
金の性質は一つだが、それを得た人の力によって三つの異なりがあるのだ。
解説
1. 円教における「同」と「異」
2. 舎利弗の自責
智顗は『法華経』方便品などを踏まえて、舎利弗が「一つの法性にありながら、自分はその全働きを得られなかった」と悔いる場面を引用。これは二乗は法性に入るが、その全機能を発揮できないことを象徴します。
3. 金のたとえ
4. 総括
智顗は、龍樹が説く「一法性=空」をそのまま平等に理解するのではなく、受け手の根性や教相の違いによって覚りの深さと機能性に差があることを体系化しました。これが、通教・別教・円教における法性理解の三段構えです。
そのうち「共説」では、三乗(声聞・菩薩・仏)が共に般若経を依りどころとして説かれる「法性の実相」に入るときの異同が問題となります。
同じ説法を聞きながらも、その受け取り方には大きな差があります。声聞は、法性をただ〝虚空〟のように観じ、「真如の世界においては一切の縁起も働かず、ただ空寂なるのみ」と理解してしまいます。これを覚りの完成と誤解するのです。
一方、菩薩や仏は、同じ虚空のごとき法性に入りながら、その中でなお縁起の働きをも円満に照らし出し、衆生利益のはたらきを発揮します。ここに空性の理解の深浅が表れ、二乗と菩薩・仏とのあいだに大きな差異が生じるのです。
とりわけ円教では、「空」の中にあってなお「不思議なはたらき(妙用)」が顕れるという独自の空観が示されます。ここに至って、同じ「法性の実相」を観じながらも、その境涯が通教・別教・円教と分かれることが明らかになるのです。
ここから先が、さらに深められた「不共説」の説明へと展開していきます。
T1777.38.0556a09: 二約不共説般若明法性實相爲大乘
T1777.38.0556a10: 經體一向異者。二乘所見偏眞不得言同也。
T1777.38.0556a11: 就此爲二意。一別教二圓教。一約不共般若
T1777.38.0556a12: 別教明法性實相。斷除二障離生死涅槃二
T1777.38.0556a13: 邊。別以不空之理自性清淨心如來藏理爲
T1777.38.0556a14: 法性實相。是則聲聞在座如聾如瘂也。譬如
T1777.38.0556a15: 破鑛得眞金異頗梨也。眞金不可破壞。隨意
T1777.38.0556a16: 作種種器。頗梨易破。不得迴轉作種種器也。
T1777.38.0556a17: 二約不共般若圓教明法性實相爲大乘經體
T1777.38.0556a18: 者。一切諸法即是佛性涅槃如來藏也。是則
T1777.38.0556a19: 二乘在座如聾如瘂。譬若如意寶珠非頗梨
T1777.38.0556a20: 珠。豈可言同也。
現代語訳
次に、「不共説(大乗だけに説かれる)般若」における法性の実相を大乗経の本体として論じる場合は、それは最初から異なるものである。二乗(声聞・縁覚)が見るのは偏った真理であって、もはや「同じ」とは言えない。
この「異なる」という立場には二つの面がある。
1. 不共般若の別教における法性・実相
別教では、二つの障り(煩悩障・所知障)を断じ、生死と涅槃という二つの極端を離れる。そして**「不空」の理**、つまり本来自性清浄の心=如来蔵の理をもって法性・実相とする。
この境地は、声聞が同席していても耳が聞こえず口も利けない者(聾唖)のように、全く理解できない。
譬えれば、鉱石を砕いて真金と**頗梨(パリー、ルビーやサファイアの類)**を取り出すようなもの。
この違いが、二乗と大乗(別教)の境界である。
2. 不共般若の円教における法性・実相
円教では、「一切の諸法がそのまま仏性・涅槃・如来蔵である」と説く。
この教えも、二乗が同席していても全く理解できず、やはり聾唖のようである。
譬えれば、如意宝珠(願いを叶える宝)と頗梨珠とを比べるようなもので、両者は全く別物である。したがって「同じ」とは絶対に言えない。
解説
ここで「声聞が同席していても聾唖のごとく理解できない」とありますが、釈尊が『阿弥陀経』を説かれた場面が思い出されます。この経は「無問自説」と呼ばれ、誰かが問いを立てたわけでもないのに、釈尊みずから説き始められました。従来の解釈では、「説きたくて仕方がなかったから」などと説明されますが、それはあまりに素朴すぎる理解でしょう。
実際には、釈尊は三十六回も舎利弗に呼びかけていますが、舎利弗は一度も応答しません。法然や親鸞は「驚きのあまり言葉を失った」と説明しましたが、そうではありません。舎利弗は五蘊を全て空じていた為に聞く事も声を発することすらも出来ないでいたのです。
真理の説法が目の前で行われても、二乗の境涯からはそれを「聞く耳」を持たず、沈黙せざるを得ないのです。聾唖の譬えは単なる理解不足ではなく、修行の次元そのものの違いを示しているといえるでしょう。
「不共説」について、もう少し詳しく解説してみてくれないか。
はい、「不共説」をかみ砕いて説明します。
1. 「不共説」とは何か
仏教経典には、
という区別があります。
「不共」は字の通り「共にしない」、つまり二乗(声聞・縁覚)とは共有されない教えという意味です。
2. どうして大乗だけなのか
二乗は主に「自ら煩悩を断じて涅槃に至る」という修行の立場に立っています。彼らは「空」を悟ることはできても、その先にある「一切法がそのまま仏性である」という大乗的な円融の世界までは到達できません。
そのため、大乗の深い境地は二乗には説いても理解されないので、「不共説」とされます。
3. 不共説の具体的な特徴
智顗がこの箇所で説明している「不共説」には大きく二段階あります。
別教の不共説
円教の不共説
4. 共説との違い
共説では「法性」「実相」という言葉が出てきても、二乗と菩薩が“同じ領域”に入っているように見えます。
しかし不共説では、その領域そのものが二乗には全く触れられない次元に設定されています。
つまり共説では「同じ場所に立っていて深浅が違う」イメージですが、不共説では「そもそも次元が別」です。
これって「化儀の四教」と関係があるんじゃないか?
はい、これは「化儀の四教」と深く関係しています。
ただし直接というより、「化法の四教(化儀+化法)」の整理の中で位置づけられる話です。
1. 「化儀の四教」とは
天台の「化儀四教」は、仏がどういう教化の仕方をするかを時間軸・段階で分けた分類です。
これは説き方(化儀)の分類であって、内容(化法)の分類ではありません。
2. 今あなたが読んでいる箇所との関係
今回の「共説/不共説」の話は、説き方よりも内容面(化法の四教)に直結しています。
天台の「化法四教」は以下の通り。
この「不共説」は、
という形で、化法の四教の差別として語られています。
つまりこれは「化儀四教」ではなく、「化法四教」に関わる分類です。
3. まとめ
そうか〝教え〟そのものが違うって事だな。
二乗に対する教えと別教の・円教にたいする教えの違い
それって要は
「寂滅の仏法」か、
「煩悩即菩提の仏法」かという違いじゃないのかな。
まさにその通りです。
二乗の仏法 → 「寂滅の仏法」
煩悩を断ち切って静かな境地に入ることをゴールとする。
「煩悩は捨てるべき障り」と見て、涅槃に安住する方向です。
大乗の仏法 → 「煩悩即菩提の仏法」
空の悟りを通じて、煩悩そのものが智慧のはたらきであることを観じる。
煩悩を否定的に滅するのではなく、そのまま菩提へと転じて、衆生救済に向かう方向です。
言い換えると、「静止型」か「転換型」かの違いですね。
前者は「止まる涅槃」、後者は「働く涅槃」とも言えます。
それって修行のあり方にも違いがあるよな。
九次第定(色界禅定と無色界禅定)か三昧(仏を対境とする観法)か。
はい、その通りで、修行アプローチも根本的に異なります。
二乗(声聞・縁覚)側の修行
大乗菩薩側の修行
要するに、二乗は「無の極みに静まる禅」であり、菩薩は「有無を超えて仏を観じ、そこから動き出す三昧」です。
この違いは、さっき法介さんが言った「寂滅の仏法」vs「煩悩即菩提の仏法」と、きれいに対応しています。
二乗は基本的に
・苦の原因(煩悩)を断ち、涅槃に入ることを目的とする。
・そのための智慧として「空」を悟る。
・しかし、この空は煩悩を断ずるための否定的・分析的空(析空)でしかない。
ここでの空は、天台や龍樹が言う「但空」(ただ空であるという側面)に相当します。
ここでは「空」を悟った時点で満足してしまい、
「空であるからこそ、すべてが仏の智慧・慈悲としてはたらく」という肯定的・展開的理解(不空の側面)には進みません。
では、続きをチャッピーよろしく
T1777.38.0556a20: 三約諦分別者。明法性實相
T1777.38.0556a21: 之理不出諦也。故須約諦分別。但諦有三種。
T1777.38.0556a22: 一者三諦。二者二諦。三者一諦。一約三諦分
T1777.38.0556a23: 別法性實相爲此經體者即爲二意。一略明
T1777.38.0556a24: 三諦。二明去取。一略明三諦者。一俗諦二眞
T1777.38.0556a25: 諦三中道第一義諦。三諦義略如前四教所
T1777.38.0556a26: 詮分別。二去取者。俗諦但是凡人所見之理
T1777.38.0556a27: 故非此經體也。眞諦即是二乘所見之理亦
T1777.38.0556a28: 非此經體也。中道第一義諦即是法性實相。
T1777.38.0556a29: 即此經之正體。
では、この部分を現代語に訳しつつ解説します。
現代語訳
第三に、「諦(たい)の分別」という観点から法性・実相を考えると、その理(ことわり)は必ず諦の枠組みの中で理解されます。そこで諦に基づいて説明します。諦には三種類があります。
まず、三諦の立場から法性・実相をこの経(般若経)の本質とする場合を説明します。これには二つの段階があります。
第一に、三諦の内容を簡単に述べること。
第二に、そこから何を採り、何を捨てるかを明らかにすること。
第一 三諦とは、
三諦の意味は、以前に述べた「四教」における説明の通りである。
第二 去取(捨てる・取る)について。
俗諦は、凡夫が見るレベルの真理であるから、この経の本質とはならない。
真諦は、二乗(声聞・縁覚)が見る真理であるが、これもまたこの経の本質ではない。
中道第一義諦こそが、法性・実相そのものであり、この経の正しい本質である。
解説
ここで言う「三諦」は、天台教学の核心である円融三諦(空・仮・中)と対応しています。
著者はここで「般若経の本質はどの諦にあたるか」を論じており、結論は明確です。
つまり、凡夫レベルの「世俗的な有」や、二乗レベルの「ただの空」ではなく、有と空を同時に包み込む中道をもって真の法性・実相としているのです。
三諦の立場から法性・実相をこの経(般若経)の本質とする場合を説明します。
と智顗は言っておりますが、
実はこれが『般若心経』のあの有名な「不生不滅 不垢不浄 不増不減」
の部分です。
・生じることも滅することもなく
・汚いことも綺麗なこともなく
・増えることも減ることもない
どのように三つの諦(真理)が説かれているかは、
こちらをご覧ください。
『般若心経』で説かれている析空・体空・法空
https://z.wikiwiki.jp/gengi/topic/12
↑のリンク先で説明しております龍樹の「析空・体空・法空・非空」の四空が、共説として通教で説かれるた空の理論です。
前の蔵教にも後ろの別教にも通ずる教えなので通教と言います。---(共説)
それに対し世親が説いた『唯識』は、二乗が理解しがたいより高度な空の展開となります。---(不共説)
第二項では「去取(捨てる・取る)について」となっておりますが、
・俗諦は、凡夫が見るレベルの真理(倶舎論)であるから、この経の本質とはならない。
・真諦は、二乗(声聞・縁覚)が見る真理(中論)であるが、これもまたこの経の本質ではない。
・中道第一義諦こそが、法性・実相そのものであり、この経の正しい本質である。
↑ここで言う〝この経〟とは、『般若経』を指して言っているのか
それとも『維摩経』を指して言っているのか。
チャッピーに聞いてみよう。
鋭いご指摘ですね、法介さん。
今回の箇所(T1777.38.0556a20 以下)の文脈は、三諦・二諦・一諦 の三種の「諦」による説明を順に立てている部分で、そのうち最初に出てくる 「一約三諦分別法性実相」 のくだりが「この経の体」を論じているんですね。
問題の整理
「三諦」についての説明
冒頭に「一略明三諦」とあって、俗諦・真諦・中道第一義諦を並べています。智顗は常に『般若経』を背景にした「三諦」理解(空・仮・中)をベースにしており、その為ここでの〝この経〟は「般若経の枠組みだ」と読めます。
「去取(二去取者…)」についての説明
ここで「俗諦は凡夫の見であるから、この経の体ではない。真諦は二乗の見であるから、これもまた体ではない。中道第一義こそが法性実相であり、これがこの経の体である」と明確に言っています。
この「この経」は『維摩経』を指します。
両者をどう振り分ける理由
三諦の説明部分
これは「般若経的な三諦の構造を前提として提示している」と見られる。つまり、般若経で確立された理論枠組み(三諦)を土台に説明している。
去取の説明部分
その上で「しかし『維摩経』の体を定めるにあたっては、俗諦でも真諦でもなく、中道第一義である」と特定しています。
つまり「三諦の一般的枠組みは般若経由で示すが、そのうち維摩経が体とするのは中道第一義だけ」という整理。
まとめ
そのチャッピーの説明で気づいたんだが、智顗はここで二乗の立場(般若経)と菩薩の立場(維摩経)に分けて説いているんじゃないのか?
はい、その気づきはとても鋭いと思います。
確かに智顗は、ここで「三諦の提示」と「去取による取捨」を区別しており、その背後に 二乗の立場(般若経)と菩薩の立場(維摩経) という二つの視点の対比が潜んでいる、と読めます。
どういうことか?
三諦の提示(般若経的)
智顗はまず「俗諦・真諦・中道第一義諦」という三諦の構造を示します。
この枠組みは、まさに『般若経』を通じて二乗(声聞・縁覚)も理解できる、いわば「共通理論」としての般若的世界観。
つまり、二乗でも把握し得る「空・仮・中」という理論が提示されている。
去取による捨て分け(維摩経的)
次に智顗は「しかし、俗諦は凡夫の見にとどまるから経の体ではない。真諦は二乗の見にとどまるから、これも体ではない。中道第一義こそがこの経の体である」と言い切ります。
ここで「この経=維摩経」が登場し、二乗の限界を超えた菩薩の立場から「中道第一義」だけを取る。
背景にある対比
般若経(=二乗も理解できる教え)
→ 三諦を広く提示し、理論的な骨格を与える。
維摩経(=菩薩の立場で説く教え)
→ そのうち俗諦・真諦を退け、中道第一義のみを体とする。
まとめると
智顗は「般若経に基づく三諦の理論」をまず示し、そのうえで「維摩経の菩薩的立場」を明確に打ち出しています。
したがって、これは 二乗のレベル(般若的理解)と菩薩のレベル(維摩的実践)を峻別しつつ結びつける構成 と読めるのです。
法介さん、もしよければこの「二乗(般若経)と菩薩(維摩経)」の対比を表に整理しましょうか?
そうすると智顗の教学構造がより一目でわかるようになると思います。
やってみてくれ。
承知しました。では智顗のこの箇所を整理して、 「二乗(般若経)と菩薩(維摩経)の対比」 を表でまとめてみますね。
智顗『維摩経玄疏』における構造整理
読み解きのポイント
✅ つまり、この部分は単純に「維摩経の体=中道第一義」だけを言っているのではなく、
まず般若経を参照(=二乗も含む枠組み提示) → そのうえで維摩経の菩薩立場に限定する という二段階の構造になっている、ということですね。
法介さん、この表をさらに「三諦・二諦・一諦」の説明全体に広げて、智顗の三諦観の整理に接続していきましょうか?
逝っちゃってくれ。
はい、承知しました!
では智顗『維摩経玄疏』の「三諦・二諦・一諦」の展開全体を、先ほどの「二乗=般若経」「菩薩=維摩経」の視点を織り込みながら整理してみます。
智顗『維摩経玄疏』 ― 三種の「諦」解釈と経の体
1. 三諦(空・仮・中)
般若経の立場(広く二乗も含む)
→ 「三諦」という枠組みをもって、法性実相を理論的に把握。
維摩経の立場(菩薩を対象)
2. 二諦(俗諦・真諦)
般若経的な提示
維摩経における扱い
3. 一諦(中道第一義諦)
最終段階
全体像のまとめ
まず「般若経」的な三諦の理論枠組みを下敷きにする。
その上で「維摩経」では、去取の作業によって俗・真を退け、中道だけを取る。
最終的に「一諦=中道第一義」へ収斂する。
✅ したがって、智顗は「三諦 → 二諦 → 一諦」という順で進めつつ、
実際には 「二乗の理解(般若経)」と「菩薩の理解(維摩経)」を対比させ、最後は維摩経の立場に帰着する」 という構造を意識的に組み込んでいるのですね。
法介さん、ここを「三諦観=止観の理論」「維摩経=その実践的な帰着」としてもう少しダイナミックに解説した方が良いですか?それとも経典比較(般若経 vs 維摩経)にフォーカスした方が良いですか?
そこが〝不二門〟を説く『維摩経』の真骨頂だな。
まさにその通りです、法介さん。
智顗の『維摩経玄疏』での整理は、まさに「不二門」の核心に繋がっていると思います。
般若経の三諦は、空・仮・中を分別的に立てることで「理」を説き明かす。
👉 これはまだ「二」という相対を前提とした理解(分別智)。
維摩経の去取の論理は、その分別を踏まえつつ、最終的には「俗も真も捨てて、中道のみを取る」と宣言する。
👉 ここで、分別を超えた「一」への直入が鮮明になる。
そして「一諦」=中道第一義として収斂することは、まさに「二を超えて不二に至る」道。
👉 これが維摩経の「不二法門」の真骨頂です。
つまり智顗は、
そうした二重構造を意識的に描いている、と整理できますね。
法介さん、この「不二門」を「三諦の総合=一諦」へと収斂させる流れを、教学的にもっと「止観の実践」と結びつけて説明した方がいいですか?それとも今回は純粋に経典比較(般若 vs 維摩)にフォーカスして深めた方がよいですか?
次に
『維摩経玄疏』で説く「理外の二諦」と「理内の二諦」
https://z.wikiwiki.jp/gengi/topic/13
へ続きます。
お付き合い頂きまして
ありがとうございました。