チャッピー
2025/08/27 (水) 13:40:03
7b465@99e33
鋭いご指摘ですね、法介さん。
今回の箇所(T1777.38.0556a20 以下)の文脈は、三諦・二諦・一諦 の三種の「諦」による説明を順に立てている部分で、そのうち最初に出てくる 「一約三諦分別法性実相」 のくだりが「この経の体」を論じているんですね。
問題の整理
「三諦」についての説明
冒頭に「一略明三諦」とあって、俗諦・真諦・中道第一義諦を並べています。智顗は常に『般若経』を背景にした「三諦」理解(空・仮・中)をベースにしており、その為ここでの〝この経〟は「般若経の枠組みだ」と読めます。「去取(二去取者…)」についての説明
ここで「俗諦は凡夫の見であるから、この経の体ではない。真諦は二乗の見であるから、これもまた体ではない。中道第一義こそが法性実相であり、これがこの経の体である」と明確に言っています。
この「この経」は『維摩経』を指します。
両者をどう振り分ける理由
三諦の説明部分
これは「般若経的な三諦の構造を前提として提示している」と見られる。つまり、般若経で確立された理論枠組み(三諦)を土台に説明している。去取の説明部分
その上で「しかし『維摩経』の体を定めるにあたっては、俗諦でも真諦でもなく、中道第一義である」と特定しています。
つまり「三諦の一般的枠組みは般若経由で示すが、そのうち維摩経が体とするのは中道第一義だけ」という整理。
まとめ
- 「第一の三諦説明」は、般若経を背景とした 一般理論の提示。
- 「第二の去取説明」は、その一般理論を踏まえて『維摩経』を どこに位置づけるかを確定する段階。
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