この部分は智顗が「別教」の立場から、空と不空の見方の差を説明している箇所です。
「共説般若」という枠組みの中で、声聞・縁覚・菩薩が法性を見るときの同異を分析しています。
現代語訳
第二に、「共に般若経を説く」中で、別教の立場から、空と不空の区別に基づいて法性の同異を明らかにしよう。
『涅槃経』にいわく──
「第一義の空を智慧と名づける。智慧ある者は、空と不空とをともに見る。声聞・辟支仏(※縁覚のこと)は空だけを見て、不空を見ることはない。」
つまり、声聞は空だけを見る。菩薩も声聞と同じく空を見る。この点では、法性の理は一つであるから「同じ」といえる。
しかし菩薩はさらに不空を見る。不空とは、智慧の本性であり、仏性を見ていることにほかならない。この点が「異なる」といえる。
たとえば三匹の獣が川を渡るようなものである。二匹(兎と馬)は浮かびながら渡り、水が柔らかいことしか知らない。象は浮かびつつも、水の底に足をつけて進み、水が柔らかいことも知り、さらに底に着いたときに「地は柔らかくない」ことも知る。
ここで問う──
「不空とは、何かが有るからそう呼ぶのか? それとも空ではないからそう呼ぶのか?」
答える──
この不空には二つの意味がある。
- 有るから不空というのは、智慧の本性そのものだから空ではないという意味。
- 無いから不空というのは、真諦の法性の理はすなわち空であるが、この空は究極においては捉えることができない。ゆえに「不空」と言う。
つまり、「不空」というのは、真諦法性の空そのものではない空を指すのだ。
『大智度論』にもいう──
空には二種ある。
- ただ空(但空)
- 得ることができない空(不可得空)
声聞はただ空だけを得る。智慧はホタルの光のようである。
菩薩は、ただ空も不可得空もともに得る。智慧は太陽の光のようである。
二乗(声聞・縁覚)が共に「ただ空」を得る点では同じ。
菩薩が「不可得空」を得る点が異なる。
これはちょうど土を掘るようなものだ。土を除いて泥が出る。泥を除いて、もし掘りきれば水に至るようなものである。
解説
1. 用語の説明
別教
天台の四教判における一つ。大乗専用の教えで、小乗と共有しない深い法門。ここでは「空と不空の両面」を説く。空と不空
『涅槃経』や『大智度論』に依拠。
- 空=真諦としての空(空諦)
- 不空=第一義諦(中諦)但空と不可得空(『大智度論』)
- 但空=単に「無」と見る
- 不可得空=無すら捉えられないという究極の空
2. 例えの意味
- 三獣渡河
前段と同じ喩えだが、今回は「底まで足が届く」象を菩薩に喩え、水底(不空)まで知ることができるのが特徴。 - 土を掘る喩え
土=煩悩、泥=粗い迷い、水=清浄な仏性。泥を除いて水に至るのが「不可得空」に相当。
3. ポイント
智顗はここで、「空の理解は三乗に共通するが、不空の理解は菩薩に特有」という差異をはっきり描きます。
この構図は後の三諦説(空・仮・中)へと繋がります。
・仮諦=俗諦
・空諦=真諦
・中諦=第一義諦