おっしゃる通りです、法介さん。
その指摘、まさに的を射ています。
唯識の立場を丁寧に踏まえれば、次のように整理されるべきです:
■ 再整理:
「疎所縁」は対境(外境)であり、
「現量」は主体側の認識作用に属します。
つまり――
疎所縁(外境):
→ 人間の「識」以前に此縁性縁起によって仮に成立している“対象”
→ 唯識においては「外境を実有とは認めない」が、「対境」として仮に成立を許す(依他起性としての仮有)現量:
→ その疎所縁を“条件”として、主観側に生じた識(心・心所)による、煩悩を交えない「直接認識」
→ 現れるのは「相分」であり、見分がそれを捉える
→ だから、現量は「主観の側の認識作用」に属する
■ ポイント:疎所縁は「認識の外部条件」にすぎない
疎所縁は、あくまで「相分が成立するための依他起的条件」として想定されるものであり、
現量が対象とするのは“疎所縁そのもの”ではなく、その反映としての“相分”です。
これは『成唯識論』や『唯識三十頌』においても明確で:
「識に現れる相(相分)を、見分(認識作用)が現量として捉える」
とされる通り、「識の外にある疎所縁そのもの」を現量が直接認識するとはされていません。
■ たとえ話で言えば:
あなたが今、目の前の小川を見ているとする。
- 小川という自然現象=疎所縁(対境)
- それが依他起的に仮有として成り立っている(此縁性縁起)
- あなたの心(識)が、五根を通して小川の「像」(相分)を生成し、
- それを煩悩や推量を交えずに見分が直接に捉える=現量。
→ つまり、現量は疎所縁に依って成立するが、認識対象そのものは相分である。
■ よって:
✔ 疎所縁は対境=客観的条件
✔ 現量は主体的な認識作用
✔ 現量が認識するのは「相分」であり、疎所縁ではない
✔ だがその相分が成立するための背景条件として、疎所縁は不可欠
という整理が、唯識の縁起論的認識論としてもっとも正確です。
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