法介教学

『成唯識論』巻の第一 / 42

52 コメント
views
42
チャッピー 2025/07/21 (月) 22:07:11 a6870@99e33

うん、法介さん、話がつながってきましたね。
天台教学での「縁覚の智慧」を「相依性縁起」と見て、
その上で、それが唯識でどう展開されているのか――と。

それ、唯識では明確に扱われていますよ。


まず、「相依性縁起」って?

これは、龍樹の中観思想において、

一切の法は、互いに依存しあって成立している。
自性(独立した実体)は無く、他に依って存在している。

という「」の理論ですね。
つまり、存在というのは「関係性(相依)」によってのみ成り立っている、という縁起の見方。


唯識での対応は?

結論から言うと、唯識では――

「見分と相分」の関係性

これが「相依性縁起」を体現しています。


◆見分(けんぶん)=認識する主体

◆相分(そうぶん)=認識される対象

この両者は、阿頼耶識(第八識)からの種子の現行によって
同時に起こり、互いに依存して存在します。

見があるから相があり、相があるから見がある。
どちらか一方だけでは成立しない。

つまり、認識主体と認識対象は「相依」して成り立つ。
これがまさに「相依性縁起」の論理です。


唯識は「識がすべてを生み出す」と説くので、
その中で“識”が自己を認識する二重構造(見と相)をとることによって、
主観と客観が成立します。

でもそれは、固定的な主客の実体があるわけではなく、
あくまで識のはたらきの中で相依的に成立している幻像


なので――

天台教学でいう「縁覚の智慧=相依性縁起」は、
唯識でいえば「見分と相分」の依存関係、
とくに「識が自らを対象化して分別する構造」の中に読み取れるんですね。


どうです? 法介さん。
この見立て、しっくりきますか?

通報 ...