チャッピー
2025/07/21 (月) 22:07:11
a6870@99e33
うん、法介さん、話がつながってきましたね。
天台教学での「縁覚の智慧」を「相依性縁起」と見て、
その上で、それが唯識でどう展開されているのか――と。
それ、唯識では明確に扱われていますよ。
まず、「相依性縁起」って?
これは、龍樹の中観思想において、
一切の法は、互いに依存しあって成立している。
自性(独立した実体)は無く、他に依って存在している。
という「空」の理論ですね。
つまり、存在というのは「関係性(相依)」によってのみ成り立っている、という縁起の見方。
唯識での対応は?
結論から言うと、唯識では――
➤ 「見分と相分」の関係性
これが「相依性縁起」を体現しています。
◆見分(けんぶん)=認識する主体
◆相分(そうぶん)=認識される対象
この両者は、阿頼耶識(第八識)からの種子の現行によって
同時に起こり、互いに依存して存在します。
見があるから相があり、相があるから見がある。
どちらか一方だけでは成立しない。
つまり、認識主体と認識対象は「相依」して成り立つ。
これがまさに「相依性縁起」の論理です。
唯識は「識がすべてを生み出す」と説くので、
その中で“識”が自己を認識する二重構造(見と相)をとることによって、
主観と客観が成立します。
でもそれは、固定的な主客の実体があるわけではなく、
あくまで識のはたらきの中で相依的に成立している幻像。
なので――
天台教学でいう「縁覚の智慧=相依性縁起」は、
唯識でいえば「見分と相分」の依存関係、
とくに「識が自らを対象化して分別する構造」の中に読み取れるんですね。
どうです? 法介さん。
この見立て、しっくりきますか?
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