ここで智顗が言う、
・世親は別教と円教
・龍樹は通教と円教
という言葉の意味を、もう少し噛み砕いて説明します。
まず龍樹の場合です。
龍樹が重視したのは通教であり、その中心にあるのは「時間」という概念でした。説一切有部は、時間そのものを実在する法(法有)と捉え、それを『倶舎論』の体系の中で論じています。これに対して龍樹は、時間とは不変の法則として存在するものではなく、五蘊の働きに依存して生じる現象にすぎないと批判しました。
つまり、世俗諦として語られる「時間」はあくまで人間の概念世界における真理であり、それを自然界に普遍的に備わる法則と捉えた説一切有部の立場を「法有」として退けたのです。そして龍樹は、これに対して真諦として「相依性縁起」を説き出しました。
要するに龍樹の俗諦とは「説一切有部の法有(倶舎論的世界観)」を指しており、それを打ち破ることで「相依性縁起」を真諦として立てた、これが通教で展開された龍樹の「法空」なのです。
これに対して世親です。
世親の展開した別教の立場もまた「法空」ですが、その対象はさらに深い層にあります。龍樹の法空が表層の意識――つまり人間の時間的・因果的な世界観を対象としていたのに対し、世親は『唯識』の思想をもって、末那識に潜む根本的な自我意識が作り出す法そのものを空じようとしました。言い換えれば、龍樹が批判したのは「表層の自我意識による法の認識」であり、世親が空じたのは「深層の根本自我による法の認識」だったのです。
整理すると次のようになります。
・龍樹の法空(通教)
対象=表層の自我意識に基づく法(時間や因果を法則として捉える認識)
・世親の法空(別教)
対象=深層の末那識に潜む根本自我がつくり出す法(自己中心性に根ざした認識)
このようにして、龍樹と世親の法空はともに「空」を説きながらも、その射程と深さに違いがあるのです。