【考察のキッカケ】
すみません、前提から入って恐縮ですが、自分の興味に「人を道具として使うこと/自分が使われること」がずっとあり、その文脈で金カムを読んでいます。
明治という「国作り」が行われた時代に国を支える「国民」が創出され、農民や漁民、狩猟民など土地で生産してきた人々が「軍隊の兵士」という道具になったとき何が起きるのか。主体性や自己決定が奪われたとき、人はどうなっていくのか。
同時に、「国民」という枠組みの外にいる自然信仰のアイヌがどう変化して行くのか。道具化の先の一つに差別があると思うのですが、アイヌが受けた差別の大元は土地と言葉を奪うことで、生きていく術を奪われた歴史に対して“カッコいい”アイヌをどう野田先生が落とし込んでいくのかにも興味があります。
金カムは現代と“地続き”な作品だと思っているので、史実に寄ったり離れたりしつつも、今の社会や生活とつなげて考えるのが好きです。
自分は11巻 尾形の「あんこう鍋」の回だったと思います。まずは尾形の闇の美しさにやられた(笑)のですが、台詞の「祝福」「神」「愛」という単語に引っかかりました。この時代の人が持っている概念だっけ?と。あと、明治の男(軍人)が「父親に愛されたい」というストレートな欲求を抱くものなのかな?とも。自分の認識だと「家や共同体や国といった所属集団のために役目を果たす」ことが自己実現の最たるものだろうと思っていたので、妙に個人主義っぽい物言いだなーと。それで尾形のことを考えて、時代というより「尾形」という人の“個人史”が描かれようとしているのかなと思いました。
で杉元という主人公はその逆で、実際の戦争帰りであった大勢の男たちの“集大成”ではないか、と思いました。道具として戦地で戦ったけれどたいして報われず居場所がなくなってしまった人は実際にたくさんいたんだろうな、「人を殺して賞賛される」という特殊な状況から離れてしまえば「人殺し」は周囲から目をそらされるような扱いになっちゃうんだろうな、と。その重さを自分で積極的に選んだ訳でもないのに抱え込むことになった人がどう生き続けるかは、すごく普遍性のあるテーマだと思いました。
後に野田先生がインタビューで「杉元佐一が祖父の名前で、日露戦争の白襷隊の生き残りだって祖父のことを漫画で描きたかった」とおっしゃっているのを読んで、なるほどーと。
あと11巻に関しては、尾形の「愛情がない親が交わってできる子供は何かが欠けた人間に育つ」という話と、極悪人の稲妻・お銀の「濃厚な愛あふれる親」の元に生まれた子供の話とか対比として描かれる、さらにそのあと姉畑という「自分本位の愛」が描かれるという構成にうなり(一回読んだだけでは理解できなかった)、ちゃんと読み解きたいと思いました。ついでに言うと、鯉登が鶴見に嘘をつかれているシーンが2ページ程度短くはさまれることも、どういう計算なんだろう??と引き込まれた一因です。
アイヌ民族の方々と少しばかり関わったことがあり、野田先生がここまで関係性を作り上げて商業誌で取り上げることのすごさに戦きまして、行く末を見届けたいという気持ちになりました。
私はアイヌの代弁者でないのでうかつなことはいえないのですが、虐げられた存在としてでなくカッコいいアイヌを思い切り描いたことはものすごい挑戦だろうなと思います。