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議題【尾形の経歴】
タグ【資料】【年表】【尾形百之助】【第七師団】
※年表は作成途中の不完全版(最終更新日2018年11月21日)であり、
本来は尾形百之助の年齢を特定するために作成しはじめたものです。
※参考文献、思考の過程、副次的に得た知識などを随時追加予定です。
※オンライン上の参考URLに関して、権利者様から問題点をご指摘頂いた場合は、
可能なかぎり速やかに該当箇所を修正もしくは削除いたします。
※薄茶、濃茶の部分は花沢勇作の陸士在籍期間に関わる
※寒色系の部分は鶴見篤四郎の陸士在籍期間に関わる
考察過程
《1》基本データ
参照:
ゴールデンカムイ公式質問箱 https://youngjump.jp/goldenkamuy/contents/qa/beginner.html
俺的ゴールデンカムイ年表 https://29man.homeblo.net/blog/190/
公式質問箱のA.040およびA.049で判明している年齢差一覧に、
上記「俺的~年表」による杉元・月島の年齢を入れ込んでみると、
【1】
杉元(23~24) ≒ 谷垣 ≒ 二階堂
< 尾形
< 宇佐美 ≦ 白石 ≒ インカラマッ
< 月島(32~33)
となります。
次に、年代の情報を整理。
原作開始時点から時系列さかのぼる形で書いてみました。
★マークを附記しているものは「俺的~年表」さんの情報をそのままお借りしてます。
【2】
1907年02月 原作開始 ★(23~24)
1906年11月 杉元満期除隊 ★(22~23)
1905年09月 日露戦争終戦
1905年01月 旅順攻囲戦終了
1904年08月 旅順攻囲戦開始
1904年02月 日露戦争開戦
1903年12月 杉元入営 ★(19~20)
1899年 第七師団、他師管(関東~東北)からの徴集を開始
1896年05月 第七師団創設
1895年03月 日清戦争終結
1894年 日清戦争開戦
※入営時期については「12月1日」と「1月10日」2つの説がありましたが、
「俺的~年表」さんの情報を元に12月と仮定してみました。
考察過程
《1-2》入営年齢から
さらに、徴兵検査・入営(入隊)時期から杉元・月島の年齢を絞ります。
当時の年齢は数え年が一般的ですが、
徴兵検査は満年齢で行われていたそうで、
その対象者は
前年12月1日から当年11月30日までに満20歳に達する男子
(コトバンク 世界大百科事典 第2版 【徴兵検査】)
あるいは
前年12月2日~当年12月1日の間に満20歳に達したもの
(参考:一ノ瀬俊也『皇軍兵士の日常生活』)
とのこと。
つまり入営日が12月1日であれば、その日には必ず満20歳だということです。
(※徴兵検査の時期は地域によって4月~9月、同年12月1日入営。)
(※病気による徴兵延期・翌年再検査という場合もあるが、可能性が低そうなので省きます。)
なので、上の年表をもとにすれば、
杉元は1903年12月1日時点で20歳
月島は1893年12月1日時点で20歳
およそこのように断言できるでしょう。
1906年12月1日(本編開始の数ヶ月前)の時期であれば、
杉元は23歳、月島は33歳となります。
ここから、
杉元は1883年12月1日時点で0歳
月島は1873年12月1日時点で0歳
としておいてもよさそうです。
ここで、年齢差リスト【1】における「<」記号を
「最低でも一歳の差がある」という意味だと仮定するなら、
杉元(23)<尾形<宇佐美≦白&マッ<月島(33)
となります。つまり、
【3】1906年12月時点の尾形の年齢は、24歳~31歳のどこか
となります。杉元との年齢差が+1~+8歳のあいだになります。
《2》では兵卒の現役期間などから考察してみます。
考察過程
《2-1》兵卒の入営・兵役・下士官教育
杉元の入営が1903年12月なので、尾形の入営は1902年12月以前のはず。
ですが、
【1】明治22(1899)~昭和2(1927)ころの兵役は現役3年です。
参考:大江志乃夫『徴兵制』p.83
1902年12月以前の入営ならば、どんなに遅くとも1905年11月末には満期除隊になります。(原作開始は1907年2月)
陸軍では、徴兵検査による入隊(満20歳)のほかに、
【2】志願により17歳~19歳で入営できる制度
参考:大江志乃夫『徴兵制』p.84
もあるのですが、
17~19歳で志願入隊しても在営年数が伸びるわけではないようです。
※海軍の場合、志願兵は現役5年だが、陸軍は3年のまま。
参考:【志願制度】https://ja.wikipedia.org/wiki/志願制度
現役3年ののちも軍隊に残るには、
【3】現役中に下士官勤務を願い出、所属部隊で2年間下士官教育を受け、伍長となる
必要があります。
参考:【コラム:軍人になるには】http://www.ndl.go.jp/scenery/column/tokyo/military.html
【伍長】https://ja.wikipedia.org/wiki/伍長
考察過程(ちょっと寄り道)
《2-2》原作開始時の立場
と考えると、おおまかに3方向の可能性があると思います。
(※ひとまず現役の場合のみ考えています。予備役については《4》で。)
(1)そもそも「軍人なのかどうか」も微妙な立場。
本来なら軍に残っているはずではないが、
鶴見中尉が中央との連絡をごまかして存在をうやむやにしている。
給与や生活物資が配給されているかどうかも謎。
鶴見が(阿片の売上とかで)養っていたのかもしれない。
入営時期の特定にはつながらない。
(2)原作開始時点(1907年2月)下士官教育を受けている(ということになっている)。
1902年12月入営、1905年11月末に満期予定で、下士官勤務を希望し、
1907年12月まで2年間の下士官教育を受けている(ということになっている)。
(3)1899年または1900年12月に入営、
1902年または1903年11月末に満期予定だったが、下士官勤務を希望。
そのまま進めば1904年12月または1905年12月に伍長に昇進するはずだったが、
教育期間中に日露戦争が始まり、上等兵のまま戦地に送られた。
戦地から戻り、下士官教育がつづいている(ということになっている)。
ちなみに下士官候補者の教育は、時代によっては
「教導団」「教導学校」など、中央直轄の機関で一括して行われているのですが、
1899(明治32)年~1927(昭和2)年の間はこの制度は廃止中で、
下士官の養成・補充は各部隊で行うこととなっています。
参考:【陸軍教導団】https://ja.wikipedia.org/wiki/陸軍教導団
【陸軍教導学校】https://ja.wikipedia.org/wiki/陸軍教導学校
なので、実際に下士官教育をしてるかどうかはともかく、
尾形を「下士官候補者」として鶴見さんの手元に置いておくことはできるかもしれません。
※きちんと確認していませんが、宇佐美や二階堂にも応用がきくかもです。
考察過程
《3》尾形の経歴(仮)その1
このように、原作開始時の尾形がどういう立場だったのか、複数の可能性がありますが、
とりあえず「日露戦争時に現役兵だった場合」の入営時期を考えてみたいと思います。
(※予備役・後備役の可能性については《4》で。)
【1】1902年12月入営(満期予定は1905年11月末)
1904年2月の日露開戦時、1905年9月の終戦時、どちらも現役兵の立場
※戦後は《2-2》(1)または(2)なら可能
【2】1901年12月入営(満期予定:1904年11月末)
現役中に開戦、満期除隊予定日も戦時中のため、そのまま兵役延長(予備役にあたる)
※戦後は《2-2》(1)なら可能
【3】1900年12月入営(満期予定:1903年11月末)
1903年12月~下士官教育に入ったものの、3ヶ月後1904年2月に開戦し、
上等兵の立場のまま戦地に送られる
※戦後は《2-2》(1)または(3)なら可能
【4】1899年12月入営(満期予定:1902年11月末)
1902年12月~の下士官教育中に開戦(本来なら1904年11月末に修了)
上等兵の立場のまま戦地に送られる
※戦後は《2-2》(1)または(3)なら可能
つまり、
尾形が日露戦争に現役(またはその延長)で参戦しているのであれば、
入営年は1899年~1902年です。
また、入営時には満17~満20歳である必要があります。
…と、ちょっとだけ絞れそうな気配が漂ってきたのですが、
わずかながら「予備役」の可能性もあるため、《4》にて考えます。
※徴兵令は1899(明治22)に大改正が行われ、「必任義務」=「特権にもとづく免役制も金銭による代人制も認めない」ことが原則となった。(大江志乃夫『徴兵制』p.59、p.83)
考察過程
《4》日露戦争に予備役等で召集されていた場合
軍隊で現役期間を終えると「予備役」「後備役」などの立場になります。
「平時は民間人として暮らしているが、戦争が始まったら動員される可能性がある」
という立場です。
※1895年改正の制度下では
「現役3年」+「予備役4年4ヶ月」=常備兵役7年4ヶ月
→後備役5年
→第一国民兵役(40歳まで)
と思われる。
参考:大江志乃夫『徴兵制』
『精選版日本国語大辞典』【常備兵役】
『平凡社 世界大百科事典 第2版』【予備役】
【召集】https://ja.wikipedia.org/wiki/召集
日露戦争には予備役・後備役・国民兵役すべてが動員されているそうなので、
たとえば日露戦争以前:1903年11月末までに満期除隊、
日露戦争開戦時に予備役等で召集されたという可能性も考えられなくはない。
ただし、日清戦争(1894年7月25日~1895年4月17日)には尾形は参加していないと思われますし、
杉元との年齢差は+1~+8歳までなので ※《1》-【3】
予備役等で動員されてる場合、可能性があるのは
入営:1895年~1900年どこかの12月1日
除隊:1898年~1903年どこかの11月30日
でしょうか。
ただ予備役等の場合、あくまで「戦時の臨時召集」なので、
戦争が終われば軍を離れるはずなのですが、
《3》で見たように、そもそも「現在もちゃんと軍人なのか」からして謎です。
「本来は民間人に戻るはずが、あいまいな立場のまま鶴見中尉の下にいた」
という可能性もなくはない。
「現役よりも難しそうだが、可能性は捨てきれない」という感じでしょうか。
いろいろな情報が出てきましたが、現段階では尾形の年齢をほとんど絞り込めていません。
杉元+1~+8歳のままです。(予備役の可能性を排除すればかなり狭まりますが…)
次項からは「勇作さんの年齢を特定する」という方向から攻めてみたいと思います。
【副産物1】上等兵という立場
年齢の絞り込みにはあまり役立たなかったのですが、
上等兵という等級について調べたことです。
二〇三高地戦のシーンですでに、尾形は鶴見に「上等兵」と呼ばれている。
第七師団が二〇三高地戦線にいるのは1904年11月28日(または29日)~12月5日です。
(それまでは予備隊。二〇三高地戦は11月27日~)
参考:【旅順攻囲戦】https://ja.wikipedia.org/wiki/旅順攻囲戦
「日露戦争第七師団年表」https://m0rishio.hatenablog.com/entry/2018/07/06/001534
上等兵へ昇進するには二通りの方法があり、
戦時中なら
「戦時、事変に際し功績の抜群の者」「召集中の予備役兵の成績の優秀な、あるいは行為の卓越した者」
などが進級することがあります。
参考:【兵(日本軍)】https://ja.wikipedia.org/wiki/兵_(日本軍)
平時であれば、次の段階を踏みます。
・入営から約4ヶ月間の勤怠や成績から「上等兵候補者」に指名される
・上等兵候補者特別教育を受ける
・この教育を修了した者から、数ヶ月おきに数次に分けて上等兵に選ばれる
上等兵への最初の選抜は、現役1年目の終わり(12月)に行われ、
「ここで進級する者を「一選抜上等兵」と呼んだ。兵隊の出世頭である。」
とのことです。
参考・引用:
【兵(日本軍)】https://ja.wikipedia.org/wiki/兵_(日本軍)
【上等兵】https://ja.wikipedia.org/wiki/上等兵
二〇三高地戦までに「平時の方法で」昇進するのであれば、
1902年12月までに入営し、1903年12月までに昇進している必要があるでしょう。
(1902年入営→1903年12月昇進なら一選抜上等兵です。つよい。)
むろんこれ以前に入営している可能性も、もっと時間をかけて昇進している可能性も全然ありますし、
日露戦争開戦後の功績で上等兵に昇進している可能性もあります。
予備役兵も昇進する場合があるようです。
【副産物2】第七師団・歩兵第27聯隊
Wikipediaで第七師団を調べると
「北海道は人口が希薄であったために1万人の兵力は捻出できず、実際には東北地方出身の兵も加えられた。」
引用:【第七師団(日本軍)】
https://ja.wikipedia.org/wiki/第7師団_(日本軍)
とあるのですが、
じゃあ、茨城出身の尾形や静岡出身の二階堂がいるのはなぜなんだろう?
と思って調べてみました。
名古屋第三師団の下には静岡を拠点とする隊がありますし、
茨城なら第一師団(東京)隷下の佐倉あたりが最寄りではないかと思われたのですが、
参考:「昭和12年現在の日本陸軍常備兵力」http://kitabatake.world.coocan.jp/rikukaigun22.html
(※このページを見ると第14師団は水戸にも拠点を持ってますが、
第14師団は日露戦争で国内軍が出払ったために編成された師団だそうなので、無関係。)
もうちょっと突っ込んで調べてみたところ、
第七師団の兵員は「第一、第二、第七、第八師管から」
つまり「関東以北から」徴兵すること、と定められていたそうです。
“…師団創設直後の明治二十九年における「歩兵連隊現役兵徴集連隊区区分表」によると、
第七師団隷下の歩兵第二十五〜二十八連隊の兵員徴集区は全く定められておらず、
明治三十二年に同表を廃止し新たに制定された、「歩兵隊兵員徴集区指定表」欄外において、
「第七師団諸隊ノ兵員ハ当分第一、第二、第七、第八師管ニ配スル」と規定された。
これ以降、第七師団隷下の各歩兵連隊は、昭和十五年の同表廃止に至るまで、
一貫して欄外の扱いとされていた。…”
引用:阿部剛「北海道における徴兵制の展開」
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180926125004.pdf?id=ART0009381745
参考:【師管】https://ja.wikipedia.org/wiki/師管
なお上の論文によると、
【1】第七師団が道外から兵を徴集しはじめたのは、1899年からのようです(表5)。
また、
【2】歩兵第27聯隊が軍旗を拝受したのは1900年12月22日
【3】歩兵第27聯隊の編成が完了したのは1903年10月
です。(この情報は勇作さんの年齢特定にあたって使うことになりそうです。)
参考:【歩兵第27聯隊】
https://ja.wikipedia.org/wiki/歩兵第27連隊
《5》花沢勇作の年齢について>> 11~
《6》鯉登音之進の年齢から
※単行本未収録分(第198話~第200話)のネタバレを含みます。
近々の本誌の情報から、波及的に尾形の年齢も絞り込みが進みましたので、まとめます。
第198話~第200話で鯉登音之進の年齢がほぼ確定されました。
原作で提示された情報は以下の三点です。
・兄が戦死した明治27(1894)年9月17日時点で8歳
・14歳、海城学校(海軍兵学校のための予備校)に在籍
・16歳で「海軍兵学校の受験」の前に、誘拐事件後に遭う(のち陸士を志願し合格)
明治27年9月17日時点で8歳ですから、単純に計算すれば、
誘拐事件が起きた年(=音之進16歳)は、明治35(1902)年周辺と思われます。
この時期の海軍兵学校の記録を参照しますと、
参考:「海軍兵学校 歴史年表」http://www2b.biglobe.ne.jp/~yorozu/sub7-8.htm
こちらでは明治35年の記録は確認できませんでしたが、
明治30年、32年、33年、34年、37年、38年、明治40年は「7月上~中旬」に入学試験が行なわれており、
明治32年~36年は「12月中~下旬」が卒業・入校時期となっています。
複数年くり返されているため、この時期を基準に考えてよいと仮定します。
入校時期に満16歳である必要があるはずですから、
①音之進は明治34年12月末~35年7月初めのどこかで16歳を迎えた
②誘拐事件は明治35年の6月ころまでに起こった
この二点はほぼ確定としてもよさそうです。
※秋元書房『陸軍士官学校』p.37に、日露戦争前後の慣例として
「例年なれば、明治三十七年三月に旧制中学校卒業、同年十二月、士官候補生として入隊、翌三十八年十二月、陸軍士官学校入校という経路を踏むのであるが……」
という記述があり、②誘拐事件の時期を「3月~6月」まで絞り込むことも可能かと思いますが、
当時は地域や各校によって入学・卒業の時期に差が見られるようなので、断定を控えます。
尾形は上記の「誘拐事件」に関与していますので、
明治35(1902)年6月時点ですでに第七師団に所属している必要があります。
このため、「1902年12月入営」の可能性が消えました。
(※本誌でも肩章の聯隊番号がぼかされてましたが、当時、歩兵第27聯隊の編成は完了していないため、第27聯隊所属であったかどうかは不明です。)
さらに、明治35年6月時点では戦時編成ではなく平時編成(現役兵のみの編成)のはずですので、
「日露戦争に予備役等として動員された」可能性も晴れて消え、
「尾形は1900年12月、もしくは1901年12月入営の(日露戦争当時)現役兵である」
ことがほぼ確定したかと思われます。
入営時期が比較的絞られたとはいえ、志願による早期入隊《2》-【2】の線も捨てきれませんが、
「杉元と1歳以上の差がある」《1》-【3】とすれば、
「1900年12月時点で18~20歳」または「1901年12月時点で19~20歳」である必要があります。
つまり、尾形の生年は「1880年12月~1882年12月のどこか」ということになりそうです。
かなり絞り込むことができました。
ところで、音之進が入学したのが本当に「陸軍士官学校」なのか不明です。
陸軍士官学校の年齢制限に関しては、
・「十六年以上二十年未満」(秋元書房『陸軍士官学校』p.9)
・「陸士予科(予士)入校時の年齢は最若年者で16歳」(Wikipedia【陸軍士官学校 #教育課程】)
といった記述も見られますが、これはどちらも1920(大正9)年以降の「陸軍士官学校予科」についての記述です。
明治35(1902)年当時、この教育機関はは「陸軍士官学校予科」ではなく「陸軍中央幼年学校」と呼称されています。
当時の「陸軍士官学校(後年の”本科”)」を志願する者の年齢制限に関しては、今のところ、
明治十八年制定「士官生徒入学検査格例」による「18年以上23年未満」という記述しか発見できていません。
(斉藤利彦『軍学校への進学』https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyouikushigaku/32/0/32_KJ00009273425/_pdf)
こちらはいわば「旧・士官学校」の制度下で決定されたもので、いつまでこのまま運用されていたのかは不明です。
(音之進や勇作は「士官候補生」制度下の陸士出身ですが、それより古い「士官生徒」時代の制定です)
年齢特定には関わってこないので、この問題はちょっと脇へおいておきます……。
【尾形に関する心理面の考察】
前提1:尾形考察に際する己の姿勢と留意点
タグ【研究発表】【考察】【分析】【心理】【尾形百之助】
▼前記
2019年8月31日(第210話公開)現在、この前提をもって全ての考察を進めている。この前提では理解できない描写が見られた場合は、速やかに修正を行う。
▼「前提1」概要
筆者が考察を進めるにあたって前提としている姿勢、および留意点について。
※ あたかも尾形が実在しているかのような表現にドン引きされた方もいらっしゃるかもしれませんが、このテンションでしか考察できない人間なのでご了承ください。
※ 以上の注意点は、本稿筆者が個人的に掲げる信条に過ぎませんが、本稿をお読みになる方には、前提としてご理解頂ければ幸いです。
議題【花沢勇作の経歴】
タグ【資料】【年表】【尾形百之助】【花沢勇作】【第七師団】
《5-1》勇作の年齢(1)
>> 1から>> 8で尾形の年齢を特定しようとしてきたのですが、
「勇作さんの年齢を割り出せたらもっと絞り込める可能性がある」
ということに気づいたので、勇作さんの年齢を考えてみます。
「本妻との間に男児(勇作)が生まれ」たとき、尾形は「まだ赤ん坊」とされる年齢です。
この証言は「何歳までを赤ん坊と呼ぶか」という感覚に左右されてしまうのがつらいところですが、
参考程度に3点。
(1)現代日本の児童福祉法および母子保健法では、1歳未満「乳児」、1歳~未就学児を「幼児」と定義
(2)梶谷真司「母乳の自然主義とその歴史的変遷」によれば、「1894年に医師の進藤玄敬は『乳の友』で、(略)満1歳以下の死亡率の高さを指摘して、嬰児の衛生に気をつけなければならないと主張」
(3)厚生労働省「授乳・離乳の支援ガイド」2019年版によれば、「離乳の開始時期は、『6か月』の割合が(略)最も高く、(略)離乳の完了時期は、『13~15か月』」
数少ない根拠ではありますが、この辺を考慮すると尾形と勇作との年齢差は0~2歳程度、
と仮定してもよいように思います(が違和感ありましたらご意見頂けたら助かります…)
《5-2》勇作の年齢(2)
花沢勇作は少尉であり旗手(聯隊附旗手)、
歩兵第27聯隊(※第七師団、歩兵第14旅団。日露戦争では第三軍隷下)の所属と思われます。
そして、ほぼ確実に陸軍士官学校の卒業生であろうと考えられるので、
陸士の卒業・任官時期と、日露開戦~二〇三高地戦の時間軸を整理してみます。
可能性がありそうなのは「陸士14期~16期生」です。
陸軍士官学校卒業生は通常、11月に卒業して6月に任官(少尉として勤務開始)されていたようなのですが
15期生、16期生に関しては、卒業や任官の時期が大きくずれてます。
参考:【陸軍士官学校卒業生一覧(日本)】
https://ja.wikipedia.org/wiki/陸軍士官学校卒業生一覧_(日本)
日露戦争開戦や旅順攻囲戦に伴い、急いで将校を確保する必要があったためのようです。
実際の陸士16期生は、戦地へ赴いた人と留守部隊として日本に残った人にわかれるようで、
かなりぎりぎりな感じですが、もしかしたら大連へ向かう27聯隊にすべり込めたかもしれません。
「旗手(連隊旗手)は、新任の少尉(稀に中尉)の中の成績最優秀者が1年間交代で務め」たそうなので、
勇作は「任官から1年以内の新任少尉」であると考えるのが最も妥当な気がしたのですが、
引用:【軍旗】https://ja.wikipedia.org/wiki/軍旗
選択肢として14期生も含めているのは、
戦時や出兵前に配属替えをどれだけ行うのかがわからなかったためです。
(ご意見募集中です)
少なくとも、第七師団に動員令が出た1904年8月4日以降、
現任の旗手を交代させる可能性は低いのではないか…?
16期生の任官は1904年11月1日なので、可能性はかなり低いのではと思っています。
15期生についても、任官が開戦の4日後ですし、
15期生の任官当時、まだ14期生が任官1年未満ですし(15期生の任官が4ヶ月繰り上がったため)
よほどのことがなければ14期生を続投しそうな気がします。
「師団長の息子」という立場にはどれくらいバイアスが働くのか? とか
陸軍士官学校の席次とかも絡んできそうで、ややこしいです。
《5-3》勇作の年齢(3)
大事な補足3。ひるがえって、「確実に14期生」とも断言できません。
これには二つの理由があります。
多門二郎『日露戦争日記』の冒頭には、日露開戦直後、筆者が異動を言い渡され、国内に留まることになった、
しかし「戦地に行きたい」と訴えつづけたところ、再異動になり、従軍が叶った、という記述があります。
そもそも、開戦時には「平時編成」から「戦時編成」への編成替えは行われるわけですから(各編成については別項にまとめたいと思います)開戦時に異動があってもまったく不思議ではありません。
ただ、聯隊旗手は平時編成にもある役職ですし、ある種の特権的な意味合いのある立場でもあったようです。
まず、日本陸軍ではとりわけ「軍旗が神聖視」されており、「戦場では軍旗を守護するために1個中隊が編成」されたとのこと。(引用:【軍旗】https://ja.m.wikipedia.org/wiki/軍旗)
また、「明治23年(1890年)11月1日制定時の『陸軍定員令』(明治23年11月1日勅令第267号)」によれば、
平時編成の一個歩兵聯隊には「将校70名、准士官下士145名、兵卒1,440名、各部66名の総計1,721名」が所属しますが(引用:【歩兵連隊】https://ja.m.wikipedia.org/wiki/歩兵連隊)
このうち少尉は25名ほどで、就きうるポジションは「中隊附」または「聯隊本部附」=「聯隊旗手」のどちらか。
(※さらに上位単位では、師団司令部の副官部に少尉が任官されることもあるようです)
中隊附少尉24名、対して聯隊旗手は1名のみと考えると、やはり容易ならぬ役職のようには感じられます。
参考:【師団】https://ja.wikipedia.org/wiki/師団#師団司令部の構成
【歩兵連隊】https://ja.wikipedia.org/wiki/歩兵連隊#歩兵連隊の定員(明治23年平時編制)
【大隊】https://ja.wikipedia.org/wiki/大隊
【中隊】https://ja.wikipedia.org/wiki/中隊
さらに、「旗手に選ばれる」ということは、参謀将校を養成するための陸軍大学校(陸大)への進学にも関係してきたようです。
「陸大に合格するには3年程度をかけての受験勉強が必要とされていた。陸大受験資格を有したのは『所属長の推薦を受けた、陸士を卒業して少尉任官後に隊附(部隊勤務)2年以上の中尉・少尉』であったが、中尉・少尉の期間に陸大の受験勉強をするためには、所属長が便宜を図ってくれることが重要であり、かつ優秀な部下が陸大に入校することは所属長にとって喜ばしいことであった。所属長から陸大入校を期待された中尉・少尉に対しては(中略)1.連隊旗手(連隊本部での勤務となるため、余暇が多い)に選ぶこと。…などが行われた。」
引用:【陸軍幼年学校】https://ja.wikipedia.org/wiki/陸軍幼年学校
以上三点、特に有力な証拠とは云えませんが、
「聯隊旗手は特殊っぽい」ということは憶えておいたほうがよさそう、とは思いました。
もう一つは、「士官候補生」「見習士官」などの期間を考慮すると、任官から日が浅くとも旗手も務められたかもしれない、と考えられるからです。
陸士の学生は、入学前には「士官候補生」として、卒業後は「見習士官」として、各隊にいわば実地実習に出されます。
陸軍士官学校の制度はかなり改変が多く、ややこしいのですが、勇作さんが在校していた(と思われる)時期は、
「士官候補生(a)→陸軍士官学校→見習士官(b)→少尉として任官(c)」
という流れのようです。
また (a)~(c)はすべて同じ隊に配属されることが基本だったようです。
(※任官までに必要な期間は、中央幼年学校卒業者、地方幼年学校卒業者、中学校卒業者で異なる。別記。)
参考:『陸軍士官学校』秋元書房、1969
【陸軍士官学校(日本)】https://ja.wikipedia.org/wiki/陸軍士官学校_(日本)
「軍人になるには」http://www.ndl.go.jp/scenery/column/tokyo/military.html
15・16期生は、卒業・任官時期の調整が行われている点を見ても、在学中からすでに日露戦争が想定されている状況で教育を受けていたはずです。
であれば、たとえ勇作が15・16期生であったとしても、見習士官時代から「日露戦争で旗手を務められるように」予め教育訓練を受けた、という可能性は否めません。
見習士官は「曹長」として配属されるとのことなので、その時点で聯隊旗手を任されるということはないでしょうが、
間もなく戦争が始まるという危機感をうけて早期教育を考え、さらに、たとえば成績優秀者である、あるいは師団長の子息である、という理由により、
見習士官時代の勇作が、任官すれば「聯隊旗手」という役職を担うものと期待され、相応の教育を施された、という可能性は考えられるかと思います。
【(1)補足】に書いたように、ある種の特権性を帯びた「聯隊旗手」という役職ではありますが、
任官から日の浅い15期生または16期生であっても、これに任ぜられた可能性はある、と考えます。
《5-3つづき》
14期生であった場合、勇作が任官されるタイミングでは第27聯隊の編成は完了していません。
・士官候補生時代、見習士官時代は別隊に配属されたのか
・編成途上の27聯隊に一貫して配属されていたのか
年齢特定には影響しなさそうですが、これらも気になるところではあります。
いずれにせよこの時期は、陸軍も軍学校もまだまだ発展途上であり、
さらに「間もなく戦争が始まる」というイレギュラーさもあります。
後年の陸軍、また平時の陸軍の状況に比べて、変則的な動きが見られることは想定しなければならないでしょう。
①士官候補生の教育の詳細、特に14~16期生の士官候補生時代の状況はどのようなものだったか?
②日露開戦直前の異動はどのように行われたか?
③士官候補生、任官後、ともに成績優秀者の扱いはどのくらい違うのか? そもそも勇作さんの成績はどの程度だったのか? 聯隊旗手=陸大進学候補者と考えるならやはり成績優秀だったのか?
さらに、
④以上全ての点において、「師団長の息子」という立場は(直接間接を問わず)どの程度、どんなふうに影響したか? 士官候補生時代、原隊や任官先の選定、役職を受ける際などにこの条件はどの程度の効果をもったか?
⑤同じく全ての点で、「上官の判断による差」「部隊ごとの慣例の差」などはどの程度あったのか?