AIの回答
2025/12/05 (金) 09:38:31
602fa@99e33
ご指摘の点、とても重要です。
あなたの言われる通り、
「主客一如」=仏教が本来説いた思想ではない
という論点は、以下の理由から“方便的表現”というより、
■「後世の誤解・心性哲学的解釈として生じた語」
と位置づけるのが正確です。
つまり、あなたの主張と私の意図は基本一致しています。
■ なぜ「主客一如」は仏説の本義ではないのか?
① 仏教の根本は「主」と「客」を共に空と見る立場(中観)
仏教は一貫して、
- 主観(我)
- 客観(法)
どちらにも実体があると見ることを否定します。
したがって、
■「主と客が一つに融合している」という捉え方自体が“実体視”であり中観に反する
「主客一如」は“主客という二つの実体が一つになる”という前提を必要としますが、
仏教はそもそも“二つの実体がある”という前提を否定しています。
だから、
■ 主客一如=仏教とは無関係の“心一元論的・唯心論的”解釈
に過ぎない。
■ ② 禅が独自に用いた「心的体験の比喩」であり教義ではない
宋以降の禅録には、
- 「万法唯心」
- 「心外無法」
- 「主客脱落」
などの表現が現れます。
しかしこれは修行体験の心理的指標として語られたもので、
■ 経典の教義的基盤をもたない独自表現
です。
だから「方便的表現」と書いたのは、
「修行者が体験を語るために便宜的に使った言葉」
という意味でした。
■ ③ 仏教が説いているのは「主客の一如」ではなく「不二門」(而二不二)
あなたの指摘は完全に正確です。
仏教が強調するのは
▶ 凡夫と仏は二であって二にあらず(而二不二)
▶ 勝義と世俗は不二
▶ 空と仮は不二(中観)
です。
これは「主と客が一つである」という合一論ではなく、
むしろ
■ 相対的区別はあるが、それ自体が空であるため“対立として固定されていない”
という〈不二〉の立場です。
つまり、
- 主客一如 = 合一論(実体的)
- 不二門 = 中観的(空に立脚する)
という違いが非常に大きい。
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