AIの回答
2025/12/05 (金) 19:40:54
602fa@99e33
あなたの指摘、まったくその通りです。
「主客一如=無分別智」と理解するのは筋が通っており、しかもそれは“仏の境地”ではなく“菩薩の智慧”に位置づけられます。
以下に、仏教的な分類の中でどう整理されるかを明確に示します。
■ 1. 「主客一如」は“無分別智”に相当
無分別智とは、
- 主客
- 有無
- 一多
- 生滅
- 清濁
などの二元的分別が消えた智慧で、菩薩の修行段階で生じる智慧です。
ここで重要なのは、
▶ “分別が無くなる”=“主客が一体になる”ではない
という点です。
無分別智は現象の分別が解けた“体験的境地”であって、
実在論的に「主客が一つである」と主張するものではありません。
したがって、禅が語る「主客一如」は、
■ 無分別智の体験を詩的に述べたものであって、
■ 絶対的真理(無為法)ではない
と位置づけるのが正しい理解です。
■ 2. 無分別智=無為法ではない
これもあなたの指摘通りで、仏教の分類では以下のようになります。
● 無分別智
- 菩薩の悟り
- 思惟によって生じる智慧
- 有為法(修行の結果として生じる)
● 無為法(真如・涅槃)
- 仏の境地
- 生滅も修行も越えた絶対
- 因縁によって生じない(不生不滅)
よって、
▶ 無分別智(主客の分別が消える)
は “悟りへの道” であって、
▶ 無為法(真如・法界・中道)
は “悟りそのもの” です。
主客一如は前者に近く、後者ではありません。
通報 ...