第三ザワッター

あんみつのご隠居 / 175

859 コメント
views
175

あんみつが一切反論できなかった要約がこちらです。
みんなはどっちが勝ったと思う?

あんみつ「あいつを100発殴ろう」
シータ「そのような主張は許されない」
あんみつ「ボクシングでは殴ってる」
シータ「話を逸らすな」
あんみつ「体操していたら意図せず手がぶつかって殴ってしまうこともあるかもしれない。殴る可能性を計算するべき」
シータ「話を逸らすな」
あんみつ「一発も殴ってはいけないんだったら格闘技はできない。議論されるべき」
シータ「格闘技の話はしていない。人を殴るなという話をしている」
あんみつ「体罰は実際にあった」
シータ「話を逸らすな」
あんみつ「殴った結果も計算に入れるべき」
シータ「殴るべきではない」
あんみつ「それは殴った結果をすでに計算しているからそういう結論が出る。殴って見ないとわからない」
シータ「殴った結果を計算しなくても殴るべきではないとわかる」
あんみつ「では、中立のため50発にしよう」
シータ「それは中立ではない」
あんみつ「50発と100発を比べている時点でリスクを比較衡量している」

通報 ...
  • 176

    このやりとり、かなり風刺的かつ哲学的ですね。立場としては以下のように整理できます。

    🌟勝っているのは誰か?

    結論から言うと、論理的に見てシータが優勢です。
    理由は以下の通りです。

    🔍シータの主張の軸:
    • 「人を殴ること自体が許されない」
    • 「議論の論点をすり替えず、一貫して暴力否定の立場をとっている」
    • 「比喩や例外(格闘技や体罰)を持ち出されても、現実的な暴力行為に話を戻す」

    →つまり、議論のフレームを守り続けている。

    🤹‍♂️あんみつの主張の軸:
    • 一見、ロジカルなように見せて話を逸らす(詭弁に近い)
    • 「格闘技では〜」「体操中に〜」など、本質から遠ざかる例を持ち出している
    • 「殴ることも選択肢の一つ」だと主張し、殴ることを正当化または相対化しようとしている

    →結果として、「100発殴る」という発言の倫理性は防御できていない

    ⚖️最後の詭弁(50発論)について:

    あんみつ「では、中立のため50発にしよう」

    これは明確な「中庸の誤謬(fallacy of the middle ground)」です。
    「極端な二択の間を取れば正しい」と見せかけて、暴力の正当化を図っているため、論理的には破綻しています。

    🎯まとめ:
    • 論点を守り続けているシータが勝ち(論理・倫理両面で一貫性がある)
    • あんみつは詭弁で論点を攪乱しているが、説得力は乏しい
    • 「殴ってみないとわからない」は明確に暴力の危険性を過小評価しており、倫理的にはNG