>> 177
私の東遷説は、卑弥呼=岩戸隠れ前のアマテラス説。
それと、魏志倭人伝の「卑弥呼以死」から想定される卑弥呼の死亡時期と日食が重なることから、太陽の巫女とされる卑弥呼の死が日食関連だというのは有力な説になってるよね。そして狗奴国との戦争に負けたことも。
卑弥呼の死後、男王が立つけど治まらずに内乱状態。台与を女王にしてやっと治まるけど台与は13歳。これで邪馬台国が弱体化しないはずがない。
私は、東遷の理由は中国にたとえると西周と東周の関係よりも、匈奴が漢に圧迫されて西方に移動してフン族になった例や、契丹族の遼が金に敗れて耶律大石が西遼(カラ・キタイ)を作った例に近いと思う。つまり狗奴国の圧が東遷の理由。ここで狗奴国は熊襲の前身と考える。
ここから先は小説的な空想を加えてだけど、ヤマトタケルがクマソタケル兄弟を討ったときに女装したという話も、熊襲がかつて卑弥呼を破った国なのでその仇討ちとか、卑弥呼の加護を願ったとかいう解釈もできる。狗奴国を熊襲の前身と考えれば昔からの説だけど「クマソ」は「球磨」+「阿蘇」の連合国だから「兄弟」として描かれてるんだとか。
ところで私が甚だ疑問なのは、卑弥呼は狗奴国と戦の最中に死んだうえ、おそらく敗戦。そうでなくても日食で権威失墜して、男王のクーデターで死亡。さらにその後は内乱。この状態で、魏志倭人伝に記す「径百余歩」の墓を作る余裕がどこにあったかだよ。何が言いたいかと言うと、卑弥呼の墓は実はそれほど大きくないのではないか。魏の使いが、卑弥呼の墓を実地で測ったとは言えない。または魏志倭人伝に書いてある直径を信じるとしても、卑弥呼の墓とされる箸墓古墳は出来すぎてるんじゃないかと。親魏倭王であってもね。だから卑弥呼の墓は想像するほど目立たないから見つからないんじゃないか。
あと「邪馬台国」は「ヤマタイ国」と読むのが慣わしなのに、「台与」は「トヨ」と読むのも矛盾なんだよね。なら「ヤマト国」と読むか「タイヨ」と読むか二者択一になるけどやはり音の類似性で邪馬台と大和が無関係とは思えないので、「ヤマト国」だと思う。
神武天皇が東征して畿内の邪馬台国を倒したという見方もできる一方、逆に畿内の大和政権が九州の邪馬台国を倒したという説もあるよね。私は素直に九州の邪馬台国が神武のときに東征して畿内を制したと見るけど。でも天孫降臨のニニギの後に海幸彦山幸彦の兄弟喧嘩の話が入ってたりするから、正統性をめぐってけっこうゴタゴタがあったのかもしれない。