H.O.P.E.

「常識陣」 / 180

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オビディ✩.*˚ 2025/03/20 (木) 20:20:00

>> 179

箸墓古墳が卑弥呼の墓だと見られてる理由は3つあって、
1つ目は倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼説があるからっていうもの。
というのも、箸墓古墳に埋葬されてるといわれている人物がその倭迹迹日百襲姫命なんだよ。
彼女は記紀の中から「誰が卑弥呼か?」とした時に挙がる人物の一人。
日本書紀では孝霊天皇の娘で、巫女的な性質を持った皇女だとされてる点から「卑弥呼ではないか」と言われてる。

2つ目は、築造年代が卑弥呼が活動してた3世紀前半だとされてるから。
もともとは3世紀後半〜4世紀だとされてたんだけど、最近の研究から3世紀前半に作られた可能性が出てきてる。

3つ目は後円部の大きさが魏志倭人伝の記述と一致するという点。
ただ、この点は「なんで前方部が無視されたのか?」が問題になってるけどね。

箸墓古墳が卑弥呼の墓だと言われてる理由はこれぐらいじゃないかなぁ。

でもたしかに権力が不安定な中で大きな古墳を作れるとは思えないのはそう。
「径百余歩」って記述から、前方後円墳じゃなくてただの円墳だったんじゃないかとも思う。
まあ魏では円墳が主流だったそうだから使者がそう捉えただけの可能性もあるけどね。
前方後円墳は日本と朝鮮半島でしか見つかってないし、魏の人にはそもそもわからなかった可能性がある。

台与の権力に関してはどうだろう。
13歳っていうのは今の感覚だから幼く感じるけど、例えば貴族は14〜15歳で元服するし、武士だと早くて12歳で元服する場合もあるから、必ずしも幼いかは微妙。
倭人伝の中でも、献上した生口の数が卑弥呼時代の倍以上に増えてることや張政らを丁重に送ってる辺り、少なくとも内乱は治めてる可能性が高い。
だから単純な権力としては卑弥呼より上がってる可能性すらある。
狗奴国との争いの顛末はわかんないけどね。

あと、戦火から逃れる目的で東遷したとしても、やっぱり畿内に移る必要がない気がするな〜。
逃れるなら副都のようになってる伊都国か、九州から出るとしてもより近い四国か中国地方(今の山口県とか)に拠ると思う。
そもそも本拠地の移動は大事業だし、あまり遠いところに行くのは難しいからね。
フン族や西遼も支配地域から少し離れた上で現地勢力を支配下に治められたからこそ成立したものだし。
ついでにフン族に関していうと騎馬民族っていう性質もある。
騎馬民族は農耕民族と違って定住するっていう概念がないから大きく移動しやすいからね。

畿内のヤマト王権が邪馬台国を倒したっていうのも有り得るね。
実は弥生時代の墓の話で、方形周溝墓というものがあるんだけど、これはもともと朝鮮半島から畿内に伝わったものとされてるものなんよ。
というのも、最古のものが大阪で発見されてて畿内に多く分布してるから。
でもなぜか北九州でも方形周溝墓が発見されてる。
城野遺跡っていう邪馬台国の時代だとされてる遺跡。

ちなみに、瀬戸内では円形周溝墓が分布してて、方形周溝墓と円形周溝墓の境界が西兵庫・香川県の辺りになる。
このことから北九州と畿内の間には文化的な隔たりが見られる。
にもかかわらず、北九州で方形周溝墓がみられるってことは畿内から流入したか、朝鮮半島から流入した可能性しかなくて
もし畿内からだったとしたら邪馬台国の時代に畿内の文化が入ったことになるから
畿内のヤマト王権が邪馬台国を滅ぼした可能性も十分考えられるよ。

天皇の正統性についての研究がしっかり始まったのは戦後になってからだからわからない部分が多いんだよね。
それまでは天皇=神様で、万世一系だとされてきたから、その正統性に関する議論をすること自体がタブーだった。
いわゆる皇国史観ってヤツだね。
だから正統性に関する問題は倭の五王や壬申の乱、乙巳の変もそうだけど、もっと複雑にあったと思うよ。

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