いつも見てるサイトで龍造寺隆信についてやってたから龍造寺氏の紹介を少々。
もともと隆信の家系は分家で、ひいおじいちゃんの代に分かれたもの。
そのひいおじいちゃんは家兼って言うんだけど、その時代は長兄が父と喧嘩をして出奔、次兄の家和が継いでた。
その家和の死後に嫡男である胤和が家督を継ぐんだけど、胤和は早世。
弟である胤久が兄の未亡人を娶って家を継いだ。
宗家がこんな状態だったから、自然と長老であった家兼がその補佐をするようになった。
ここで当時の龍造寺氏の九州での立ち位置を言うと、龍造寺氏は九州千葉氏に仕えながら少弐氏にも仕えていた状態だった。
もともとは九州千葉氏に仕えてたけど、この時期はどこでもよくある家督争いによって内乱が続いて力を失ってて、少弐氏にもつくようになった。
後に少弐氏から九州千葉氏に養子に行ったりして支配下に収まるのはまた別のお話。
さて、龍造寺氏の話に戻ると、家兼はやり手だったらしく、少弐氏に直接仕えるようになった。
そんな中、少弐氏の支配する北九州に、周防からの魔の手が迫った。
大内氏である。
大内氏は当時周防国を中心に、長門、石見、安芸などの守護で中国地方を支配する家だった。
大内氏は少弐氏と戦争をしたが、家兼は少弐氏を支援しなかったのである。
しかもこの時大内氏と内密な関係にあったとも言われてるんだよね。
ただ、家兼はその後も少弐氏に仕えてたから真相は闇の中ということで。
まあそんな感じで大内氏の大勝利に終わり、少弐氏の当主であった資元が死ぬこととなった。
これに面白くないのは少弐氏の家臣たちである。
中でも馬場頼周は憤慨し、彼は家兼の2人の息子と4人の孫を殺してしまったのである。
家兼自身は高齢であることからなんとか許された。
ちなみにこの時家兼はなんと90歳。
「人間五十年〜」と流行りの能で言われるくらい異例だった。
さすがの頼周もこんなヨボヨボの爺さんをわざわざ殺さなくてもすぐに死ぬだろうと見ていたに違いない。
失意の最中に命を落とすというのは歴史の常套句。
しかし、そんなことでは終わらないのがやり手家兼。
なんと彼はその老躯を奮い立たせ、なんと息子たちの敵討ちに成功するのである。
それでも息子たちも孫も殺され困った家兼。
当時は息子を失うだけでも大損害な時代。
家を継ぐものがいなければすなわち滅亡なのだから。
ただ、そんな彼にはまだ希望が残されていた。
曾孫が生きていたのである。
幼くして出家してたこともあって、生き残っていたのだ。
早速彼を還俗させ、自分の家である水ケ江家を継がせたのだった。
どうにか家を継がせられ安心したのか、家兼は92歳でその波乱万丈の生涯を終える。
さあここで最初に戻る。
その還俗した曾孫、それが後の龍造寺隆信なのである。
ひょんな事から彼は宗家も継ぐことになり、五州二島をその支配下におさめ肥前の熊と恐れられるようになる。
しかしその栄光も長くは続かなかった……
そんな彼の活躍はそのサイトを見てほしいね。