最近興味を持ってる戦国武将をメモついでに紹介。
いつか関係する論文を読む予定。
なお今書かれてるのはだいたいwikipedia調べ。
足利義明
生年不詳〜1538年10月29日(戦死)
わりとマイナー寄りで信長の野望・創造PKでは城を持ってるのに家臣がまったくいないという悲しい戦国武将。
足利という苗字だけど関東の武将で、鎌倉公方の一族……正確には鎌倉公方を再興させた古河公方の人(次男)
この頃関西でも応仁の乱とかでいろんな足利さんが争ってるんだけど、それは関東でも同じ。
ただこの人のすごいのは、ただの傀儡にとどまらずそれなりに政治をしてたってとこ。
もともと僧侶で空然と名乗ってた(次男あるある)んだけど、上総に勢力を持って関東支配を夢見る真里谷武田氏の当主、武田(真里谷)信清に担ぎ出されて小弓城を攻め落としたところから足利義明、もとい小弓公方の歴史が始まる。
ちなみに小弓城は当初千葉氏のもので、それを奪ったことで千葉氏の一族だった臼井景胤が呼応して自立するという事件も起こった。
そして公方を味方につけた信清はその勢いのまま安房里見氏の内訌に関与して、里見氏の当主義豊の味方として参戦するんだけど、義豊は分家である義堯に敗北して戦死してしまう。
そこに目をつけた義明は信清に敗戦の責任を押し付けて強制隠居、出家させたことで立場が逆転。信清は失意の中死去してしまう。
しかも義明はすぐに義堯の里見家継承を認めて、里見義堯を自軍に引き入れることで安房と上総を支配することに成功してる。
その後信清の跡目争いが起こると、信応を支持して真里谷武田氏の実権も奪って、まさしく下剋上の逆を成功させてるんだよね。
名実ともに公方様として力を示すと、それを脅威に感じたのが北条氏。
北条氏はこの時扇谷上杉氏を敗死させて関東支配に乗り出し始めたところだった。
ここで北条氏は古河公方と連携して小弓公方と全面対決することになって始まったのが国府台合戦。
最初こそ義明側が押してたものの、上記のような経緯から里見氏も真里谷武田氏も一枚岩じゃなくて次第に押され始めて主戦力だった一族家臣が討ち果たすという状況に。
激昂した義明も単身突撃して討死して、戦国大名としての小弓公方は滅亡する。
ただ、その後も義明の末子である頼純は生き残って諸国を流浪した後に中央と連絡し、小田原征伐の時に里見氏と連携して千葉(北条氏)氏側だった小弓城を落として小弓公方を再興してて、しかも古河公方の惣領娘だった足利氏姫が頼純の嫡子である国朝、その亡き後は弟である頼氏と結婚、後の喜連川氏の基礎になった。
私がいちばん気になってるのはその家臣。
信長の野望・創造PKにまったく登場せず、戦国立志伝でようやく佐野弘綱っていう家臣が入るようになる。
実際には佐野弘綱の他にも、逸見祥仙、椎津行憲、佐々木氏、町野氏とかけっこういるんだけど何故か登場しない。
まあ佐野弘綱は名前から下野佐野氏だとわかるし、逸見祥仙は武田の一族逸見氏から来てるのはわかるんだけど、彼らの直接の先祖がネットだけじゃ出てこない。
椎津行憲にしても二階堂家庶流の椎津氏であることしかわからない。
この辺りをもうちょい調べてみたい。
とりあえず調べたら
佐藤博信『古河公方足利氏の研究』,校倉書房,1989年
滝川恒昭「小弓公方家臣・上総逸見氏について―国立国会図書館所蔵「逸見文書」の紹介―」『中世房総』6号、1992年
とか出てきたんでとりあえず探して読んでみる。