(8)ヘロデス・アッティコス
ヘロデス・アッティコスまたはヘロデス・アッティクス(羅: Herodes Atticus、古希: Ἡρῴδης ὁ Ἀττικός、古代ギリシア語ラテン翻字: Hērōidēs ho Attikos、101年頃 - 177年頃)は、ローマ帝国期アテナイの大富豪、政治家、ギリシア語弁論家、第二次ソフィスト。ヘロデス・アッティコス音楽堂やパナシナイコスタジアムの建設者。ハドリアヌスやマルクス・アウレリウスの寵愛を受けた。
フルネームはルキウス・ウィブッリウス・ヒッパルクス・ティベリウス・クラウディウス・アッティクス・ヘロデス(羅: Lucius Vibullius Hipparchus Tiberius Claudius Atticus Herodes)。
アテナイ郊外のマラトン出身。ミルティアデスやキモン、アイアコスの末裔と称し、アテナイにおけるローマ皇帝崇拝を司る名家に生まれた。祖父の代、フラウィウス朝の諸皇帝に財産没収されて没落していたが、同名の父親がネルウァから財産回復を認められ、自宅で埋蔵金を発見(おそらく隠し財産の相続を意味する)して再び名家となった。この父親は元老院議員やコンスルを務め、富豪の令嬢アグリッピナと結婚した。ヘロデスの財源はこの両親に由来する。
120年代頃から政治家・弁論家として活動を始めた。官職としては、クァエストル、護民官、プラエトル、元老院議員、コンスル、アシア属州自由諸都市のコッレクトル、アテナイのアゴラノモスやアルコンを務めた。
古代ギリシアの復興を目指して、アテナイなどで私財を投じて土木事業・パトロン事業・慈善事業(エヴェルジェティズム)を行い、民の人気を得た。パンアテナイ祭の主宰者も務め、143年頃にパナシナイコスタジアムを総大理石に改築した。
140年頃に14歳の妻レギッラと結婚した。レギッラはローマ人の元老院家系の令嬢であり、上記の事業の多くもレギッラと共同で行われたものだった。レギッラとの間に6児をもうけたが、第4子のブラドゥアが元老院議員になったのを除いて全員早逝し、追悼のため墓碑や像を建てた。
150年代末頃にレギッラが没すると、ヘロデスが殺害したという容疑で、レギッラの弟の元老院議員ブラドゥアから告訴されたが、裁判で無罪を勝ち取った。真相や無罪の理由については現代でも諸説ある。160年頃、レギッラの追悼のため、アテナイに音楽堂(ヘロデス・アッティコス音楽堂)を建てた。
実子とは別に、男の養子兼弟子を複数持った。彼らが早逝した際も墓碑や像を建て、特に美少年のポリュデウケスが没した際は自失するほど悲嘆した。ヘロデスと彼らは、ギリシア的な同性愛・少年愛の関係にあったと推定される。弟子の一人メムノンは、黒い肌のエチオピア人だったともいう。
【弁論・思想】
ピロストラトスによって第二次ソフィストの筆頭に位置づけられ、「弁舌の王」「ギリシアの舌」とも称されたが、その弁論はほぼ全て散佚している。
弁論術や哲学を、半陰陽のソフィスト兼哲学者のファウォリヌス(パボリノス)に学んだ。ファウォリヌスが没した際は、ローマの邸宅・蔵書・インド人奴隷を遺贈された。
ピロストラトスによれば、即位直後のハドリアヌスの面前で弁論したが失敗した。
ゲッリウスによれば、あるときヘロデスのもとに「哲学者」を名乗る物乞いが訪れた。ヘロデスは、その物乞いが「長い髭とギリシア風の外套」という典型的な哲学者の装いだけで「哲学者」を名乗っていることを非難しながらも、気前よく大金を与えたという。このゲッリウスのエピソードが由来となり、ラテン語の成句「髭は哲学者をつくらない」(Barba non facit philosophum)ができた。