「第二次ソフィスト」について、ネットの記事などを参考とし、主に人工知能(生成AI)と対話しながら探究してまいります。
もちろんわざわざ掲示板で行うのですから、参加、介入、質問、提案、議論提起など、HOPEメンバーや他の方々の言論も大歓迎です。
「喧嘩師」の起源、「喧嘩」に代わる言葉は何がいいかなど、いまHOPEで議論されていることとも関係していくと思われます。
「第二次ソフィスト」について、ネットの記事などを参考とし、主に人工知能(生成AI)と対話しながら探究してまいります。
もちろんわざわざ掲示板で行うのですから、参加、介入、質問、提案、議論提起など、HOPEメンバーや他の方々の言論も大歓迎です。
「喧嘩師」の起源、「喧嘩」に代わる言葉は何がいいかなど、いまHOPEで議論されていることとも関係していくと思われます。
破茶滅茶煮長杉内
さて、ここからは「第二次ソフィスト」に属するソフィスト達を個別にみていくことにしましょう。
主にウィキペディアの記事を参照しつつ、AI、そしてちゃわわんと対話を重ねていくことにします。
>> 50
お願いします
(1)アプレイウス
アプレイウス(Lucius Apuleius Madaurensis, 123年頃 - ?)は、北アフリカ・マダウロス出身の帝政ローマの弁論作家。名前は長音表記ではアープレーイウス(ルーキウス・アープレーイウス)となる。奇想天外な小説や極端に技巧的な弁論文によって名声を博した。
ヌミディア属州のマダウロス(現在のアルジェリア・メダウルッシュ)で生まれた。
カルタゴで初等教育を受け、アテーナイで哲学・修辞学などを修業した後、ローマ、小アジア等に旅行し、神秘宗教や魔術などの知識も吸収する。
その後、アレクサンドリアへの旅の途中、オイアで友人シキニウスのもとを訪れた際に熱病にかかり、熱心な看病をしてくれたプデンティラ(シキニウスの母親で未亡人)と結婚した。155年ごろの法廷弁論書『アポロギア』によれば、プデンティラが資産家であったことやその年齢差などから、アプレイウスは魔術を用いて未亡人を手に入れたとして、彼女の親族に告訴された。これに対し、アプレイウスは雄弁に自己弁護を行い、無罪となった。
その後の経歴や没年は不明であるが、カルタゴに居住した。哲学者・修辞学者として市民の尊敬を得て、カルタゴやマダウロスにアプレイウスの彫像が建てられたと伝えられている。
【主な作品】
『黄金の驢馬』(『変容』)…魔術に興味を抱いた主人公ルキウスが誤ってロバに変えられ、数多の不思議な試練に堪えた後、イシスの密儀によって再び人間に復帰するという内容の小説。挿話の『クピドとプシュケ』(アモルとプシュケ)でも知られる。ローマ時代のラテン語小説中、完全に現存する唯一のものである。
『アポロギア』
『フロリダ』…アフリカでの演説の中から抜粋した名句集。全4巻。
『プラトンとその教説』
『ソクラテスの神について』
『弁明』
偽アリストテレス『宇宙論』、ギリシア語からラテン語への翻訳。
「偽アリストテレス」なんていう成り済ましがいるんですねw
キャスフィ避難所みたい(←いや、お前がいうか)
『黄金の驢馬』をパクって魔術に興味を抱いた主人公「霧雨」が誤って馬に変えられ、数多の不思議な試練に堪えた後、イシスの密儀によって再び人間に復帰するという小説を書いてみたくなりました(笑)
HOPEからも「彫像」を建てられるような有名人を出さねばなりません。なぐもん?
(2)エウナピオス
エウナピオス(希: Εὐνάπιος, Eunapios, 羅: Eunapius, 345年頃 - 414年)は、ローマ帝国期のギリシア語弁論家・歴史家・異教主義者。著作として、新プラトン主義・密儀宗教・第二次ソフィスト等の史料である『哲学者およびソフィスト列伝』と、断片のみ伝わる題名不詳の歴史書がある。
345年から346年頃、小アジアのサルディスに生まれる。同地にて、親戚かつイアンブリコス派新プラトン主義者のクリュサンティオスに師事して育ち、若くして古典を諳んじられるようになる。
361年から362年の冬以後、約5年間アテナイに滞在し、キリスト教徒のソフィストプロアイレシオスに師事して弁論術を学ぶ。またアテナイにて、エレウシスの秘儀に与ったり、同時代のソフィストと同様に医学を兼学したりする(イアトロソフィスト)。アテナイからエジプトに旅行しようとしたところ、両親に就職するよう請われて帰郷する。
以後サルディスにて、弁論術の教師として働きつつ、再びクリュサンティオスに師事する。著述を始めたのはこれ以降と推定される。
【著作】
『哲学者およびソフィスト列伝』(希: Βίοι Φιλοσόφων καὶ Σοφιστῶν)は、3世紀のピロストラトス『ソフィスト列伝』などを引き継ぐ形で、主に3・4世紀東方の哲学者とソフィストの評伝を述べる。具体的には、プロティノス、ポルピュリオス、イアンブリコス、アリュピオス、アイデシオス、ソパトロス、エウスタティオス、ソシパトラ、エフェソスのマクシモス、プリスコス、イウリアノス、プロアイレシオス、エピパニオス、ディオパントス、ヒメリオス、リバニオス、アカキオス、ニュンピディアノス、キュプロスの医師ゼノン、オレイバシオス、クリュサンティオスらを扱う。とくにマクシモス伝は、背教者ユリアヌス伝の要素も持つ。
題名不詳の歴史書は、『哲学者およびソフィスト列伝』の中で言及されており、オレイバシオスの勧めで書かれた。本書は、アンミアヌスら多くの歴史家に利用され、特にゾシモスの『新しい歴史』(Ἱστορία Νέα)の材料になっており、コンスタンティノス7世の『史書抜粋』に断片が収録されている。内容は、デクシッポスの『年代記』(Χρονικὴ ἱστορία)が270年(すなわちクラウディウス2世治世下)で終わっているのを引き継いで、404年(アルカディウス治世下)までの歴史を述べたものである。論調は、異教主義的でユリアヌスを讃美するものだったと推定される。9世紀のフォティオスによれば、キリスト教への攻撃的記述を除去した新版が存在した。
「アテナイからエジプトに旅行しようとしたところ、両親に就職するよう請われて帰郷する」ってところが令和日本にもありそうでワロタ。
就職っていっても、「弁論術の教師」なんですね。
昔、NMB48の須藤凜々花が「哲学のお仕事だと思って行ったら脱がされた」的なことを言ってて、「哲学のお仕事なんて、この世にはないよ」と心でツッコんだことを思い出します。
キリスト教徒のソフィストもいるんですね。
(3)シュネシオス
キュレネのシュネシオス(古希: Συνέσιος 英: Synesius 370年ごろ - 413年ごろ)は、東ローマ帝国初期・古代末期の新プラトン主義哲学者、第二次ソフィスト、キリスト教司教、ヒュパティアの教え子。複数の著作、書簡、讃歌が現存する。
370年ごろ、キュレネの異教徒の貴族の家に生まれる。読書と狩りの田園生活を過ごし、アレクサンドリアでヒュパティアの学校に入る。395年から399年、アテナイに滞在する。
399年、減税陳情の使者に任命され、401年までコンスタンティノポリスのアルカディウス帝の宮廷に滞在する。滞在中に下記『統治論』『エジプトの話』を作る。
403年、キュレネでキリスト教徒の女性と結婚し3人の子をもうける。405年、キュレネを蛮族の襲撃から守るため私兵を組織する。
410年、プトレマイス司教に任命され、6ヶ月悩んだすえ受諾、これに伴い離婚する。この司教任命も結婚式も、アレクサンドリア総主教テオフィロス(キュリロスの先代)によるものだった。任命された理由は、シドニウスと同様、信仰の厚さよりも人材としての有能さのためだった。シュネシオスは当初、非哲学的な司教職に就くことを嫌がっていたが、最終的に哲学的なやりがいを見出して妥協した。
没年は413年と推定される。これは、同年に死の床からヒュパティアに書簡を宛てていること、および415年のヒュパティアの死に言及する書簡がないことによる。
【著作・思想】
以下の著作が現存する。すべて原語はギリシア語。英訳あり。
『統治論』…コンスタンティノポリスでアルカディウス帝に哲人政治を説き、ゴート族軍人を追放してローマ人の軍隊を作るよう訴える弁論作品。当時はガイナスのようなゴート族軍人が跋扈していた。
『エジプトの話』…『統治論』とともに作られた政治寓話。
『禿の賛美』…ディオン・クリュソストモスの弁論『髪の賛美』に倣った弁論作品。
『ディオン』…ディオン・クリュソストモスを主題に、当時の批判者に応答する作品。403年ごろ成立。
『夢について』…アリストテレス『夢について』『夢占いについて』や、マクロビウス『スキピオの夢注解』等と並ぶ夢理論の古典。神の命により一夜で書き上げたという。403年ごろ成立。
『アストロラーベについて』
Constitutio
Catastasis
156篇の書簡…期間は395年から413年まで。415年のヒュパティアの死にかんする書簡はない。内7篇はヒュパティア宛て]。内1篇は弁論作品。
10篇の讃歌…キリスト教と新プラトン主義が混淆した両義的な詩。
2篇の説教
散逸した著作に、『狩猟論』や、書簡で言及される詩がある。
イアンブリコス派新プラトン主義の系譜に属しながらも、その影響はあまりうかがえない。これは師のヒュパティアと同様である。わずかな影響として、『夢について』や讃歌に『カルデア人の神託』の影響、書簡にポルピュリオスの影響などがうかがえる程度である。
【受容】
1489年、マルシリオ・フィチーノが『夢について』のラテン語訳を刊行し、ルネサンス期を通じて版を重ねた。
1562年、ジェロラモ・カルダーノが『夢について』を出発点にした夢理論の書『シュネシオス派夢の書』(羅: Somniorum Synesiorum)をラテン語で刊行し、翌1563年にはドイツ語でも刊行した。
2009年の映画『アレクサンドリア』(原題: Ágora)では、ルパート・エヴァンスがシュネシオス役を演じた。
「405年、キュレネを蛮族の襲撃から守るため私兵を組織する。」このあたり、小説にしたら面白そうですね。
それにしても、『禿(ハゲ)の賛美』読みたい!!遊戯的弁論の極みでしょうね。
神の命により一夜で書き上げたという夢理論の古典にも興味があります。
登場人物多すぎるて w
>> 58
喧嘩界を題材にした小説だってめちゃくちゃ登場人物多くなるよw
そろそろ『喧嘩師列伝』みたいなのを書かなくてはならない時期にさしかかってると思うけど、これは霧雨の仕事でしょうね。
(4)シュリアノス
シュリアノス(古希: Συριανός 英: Syrianus, 437年没[1])は、東ローマ帝国初期・古代末期の哲学者。新プラトン主義者。アテナイのアカデメイアの学頭であり、アテナイのプルタルコスの次代、プロクロスの先代にあたる。
アレクサンドリア出身。同地で修辞学と哲学を学んだ後、何らかの経緯でアテナイに移住した。時代背景として、415年にヒュパティアの殺害、425年にテオドシウス2世と皇后エウドキアのキリスト教徒夫妻によるコンスタンティノープル大学の設立があったが、シュリアノスは異教の学問を続けていた。
430年プロクロスがアテナイに移住してきた際に迎え入れ、師のプルタルコスに引き合わせた。432年ごろプルタルコスが没すると学頭を継承し、437年自身が没するまで務めた。学頭在任中、プロクロスに「小秘儀」としてアリストテレスの全著作を、「大秘儀」としてプラトンの全著作を教授した。プロクロスが没した際はシュリアノスと同じリュカベットス山麓の墓所に埋葬された。
アンモニオスの父ヘルメイアスと母アイデシアは、それぞれ弟子と親戚にあたる。
ダマスキオスの『イシドロス伝』によれば、容姿学識ともに優れた人物だった。
【著作】
以下の著作が現存する。
・アリストテレス『形而上学』註解
・修辞学者タルソスのヘルモゲネスの著作の註解(著者は「ソフィストのシュリアノス」とされる)
・プラトン『パイドロス』講義(ヘルメイアスの著作を通じて伝わる)
他にもアリストテレスやプラトンの諸著作の註解があったが散逸した。
ふむふむ、容姿学識ともに優れた人物ね…。✍
(5)ディオン・クリュソストモス
ディオン・クリュソストモス (古希: Δίων Χρυσόστομος, 羅: Dio Chrysostomus, 英: Dio Chrysostom, 45年頃 - 115年頃) は、ローマ帝国期のギリシア語著述家・哲学者・弁論家・第二次ソフィスト。「クリュソストモス」は「黄金の口(弁舌力)を持つ男」を意味するあだ名。プルサのディオン(英: Dion of Prusa)、ディオ・コッケイアヌス(羅: Dio Cocceianus)とも呼ばれる。
犬儒派のディオゲネスが登場する君主鑑(理想的・模範的な君主のあり方を述べた中世ヨーロッパの文学ジャンル)的作品『王政論』、トロイア戦争の異説『トロイア陥落せず』など、80篇からなる『弁論集』が伝わる。
ビテュニア属州のプルサ(現トルコのブルサ)にて、皇帝ともゆかりのある富豪の家系に生まれた。同じくビテュニア出身のカッシウス・ディオの親戚とも推測される。
青年期、新ピタゴラス学派のテュアナのアポロニオスに師事したとピロストラトスは伝えるが、ディオンの作品にその影響は見られない。また青年期に、皇帝即位前のウェスパシアヌスがエジプトを訪れた際、アポロニオスならびにストア派のエウプラテスとともに面会し助言した。
青年期の後、ローマに遊学した。この頃、ストア派のムソニウスと知り合いになった、あるいは師事した。ディオンの作品にもムソニウスの影響が見られる。
81年にドミティアヌスが即位してまもなく、暴政により追放されたためか自発的な雌伏のためか、乞食のような身なりで帝国各地を放浪した。その間、プルサの実家が荒廃する一方、黒海北岸やダキアなど辺境まで旅した。放浪中はプラトン『パイドン』とデモステネス『偽りの使節について』を心の支えにした。ディオン本人によれば、放浪中にデルポイの神託を受け、地の果てまで行くよう命じられた。そして行く先々で「哲学者」と呼ばれるうち(当時の哲学者の典型は乞食のような身なりだった)、自分でも哲学に目覚めたのだという。
96年にドミティアヌスが没すると放浪を終え、ネルウァ、トラヤヌスの寵愛を受けた。以降、プルサで政治に関与した。小プリニウス『書簡集』所収の、110年のプリニウスとトラヤヌスの往復書簡によれば、プルサの公共施設の建設工程をめぐって政敵に難癖をつけられ訴訟された。これ以降の足跡は伝わらない。
ディオンの同年輩にプルタルコスがいる。プルタルコスの著作目録である『ランプリアス・カタログ』に、ディオンとの論争を内容とする作品があることから、二人は少なくとも知り合いだったと推測される。
ディオンの教え子にファウォリヌスやポレモンがいる。
【作品・受容】
現存する80篇の作品は、『弁論集』(ロウブ版英題: Discourses)に収録されて伝わっている。そのほか、シュネシオス『禿の讃美』所収の『髪の讃美』断片などがある。散逸した作品に、『鸚鵡の讃美』『ムソニウスへの反論』『アレクサンドロスの徳について』『ゲタイ族について』などがある。
『弁論集』第1-4篇を占める『王政論』は、主にトラヤヌスに向けて書かれたと推測され、後世のユリアノスやテミスティオスにも影響を与えた君主鑑的作品である。第11篇『トロイア陥落せず』は、古代に複数書かれたトロイア戦争異説ものの一つで、ホメロスの嘘を暴いてトロイアの名誉を回復するという作品である(当時ホメロスは史実とされており、ローマ人はトロイア人の末裔とされていた)。第53篇『ホメロスについて』では、ホメロスがインドでも翻訳され歌われていると述べるが、これは『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』を誤認したものと推測される。
ディオンの作品は由緒正しいアッティカ方言で書かれていることもあり、中世ビザンツ帝国に至るまで盛んに受容された。シュネシオスは伝記『ディオン論』を著している。フォティオスも伝記を著しており、フォティオスの弟子のアレタス(英語版)は注釈書を著している。テッサロニキのエウスタティオスもディオンに度々言及している。ヨーロッパでは、15世紀から『王政論』と『トロイア陥落せず』を中心にラテン語・ギリシア語での出版が行われている。
【哲学】
ディオンは哲学を扱ったが、明確に属する学派は無い。ディオゲネスを複数作品で主役にしているが、犬儒派を信奉していたわけではなく、乞食のように放浪したが、奇矯な行為まではしなかった。ストア派の要素も持つが、属するというほどではなかった。プラトン対話篇を愛読したが、プラトン哲学に強く関心を抱いたわけではなかった。ただエピクロス派だけには冷淡だった。
ピロストラトスは『ソフィスト列伝』で、ディオンを「ソフィストと称された哲学者」に分類しつつ、ソフィストと哲学者両方の面を持っており、何と呼ぶべきか分からないと述べた。作品においても哲学と弁論術が融合しており、『弁論集』第22篇では「自分は弁論家ではなく哲学者である」ということを弁論家的に演説している。
「行く先々で「哲学者」と呼ばれるうち(当時の哲学者の典型は乞食のような身なりだった)、自分でも哲学に目覚めたのだという」。このあたり面白いね。「哲学者」というのは、本来、このように他人から言われる呼び名で、自称するものではないと思う。ましてや、社会的な肩書きで「哲学者」を名乗ってるやつは漏れなく死ぬべき。
「ディオンは哲学を扱ったが、明確に属する学派は無い。ディオゲネスを複数作品で主役にしているが、犬儒派を信奉していたわけではなく、乞食のように放浪したが、奇矯な行為まではしなかった。ストア派の要素も持つが、属するというほどではなかった。プラトン対話篇を愛読したが、プラトン哲学に強く関心を抱いたわけではなかった。ただエピクロス派だけには冷淡だった。」
これもかっこいい。
「ソフィストと哲学者両方の面を持っており、何と呼ぶべきか分からない」ってのも、最高。「『自分は弁論家ではなく哲学者である』ということを弁論家的に演説している」という矛盾もキマってる。👍
(6)パボリノス
パボリノスまたはファウォリヌス(希: Φαβωρίνος, Phabōrinos, 羅: Favorinus, 80年頃 - 150年頃)は、ローマ帝国期のガリア人の半陰陽のギリシア語弁論家、哲学者。弁論家としては第二次ソフィスト思潮、哲学者としては折衷主義と穏健な懐疑主義に属する。
ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』等の情報源の著者としても知られる。
ピロストラトス『ソフィスト列伝』に伝記がある。
ピロストラトスによれば、生まれつきの両性具有であり、年老いても髭が生えず、声も宦官(古希: εὐνοῦχος)のような高い声だった。同時に、姦通罪で訴えられた経歴もあるほど恋愛に情熱的な人物でもあった。
ガリアのアレラテ(現フランスのアルル)にガリア人として生まれ、おそらくマッシリア(現マルセイユ)でギリシア語を学んだ。成人後ローマに移り、哲学者で第二次ソフィストのディオン・クリュソストモスに師事した。
ハドリアヌス帝の寵愛を得たが、あるとき不興を買い(『ローマ皇帝群像』にその描写がある)、キオス島に流された。これを受けて、アテナイに建てられていたパボリノスの銅像も撤去された。アントニウス・ピウスの代になると赦された。
第二次ソフィストのポレモンとライバル関係にあり、イオニアの諸都市を巻き込む党派争いを展開した。友人にプルタルコス、キュニコス派のデメトリオスがいた。教え子にヘロデス・アッティコス、アウルス・ゲッリウス、マルクス・コルネリウス・フロントがいた。とくにヘロデスに対しては、ローマの邸宅・蔵書・インド人奴隷を遺贈した。
【作品・受容】
パボリノスの作品は全て散逸している。
弁論作品では、3篇が断片的に伝わり、うち1篇はパピルス文書で伝わる。また『夭折者について』『剣闘士のために』『入浴のために』という題名が伝わる。ディオン・クリュソストモス『弁論集』第37篇(コリント人の銅像撤去にかんする弁論)は、ディオンではなくパボリノスの作品とする説もある。ピロストラトスによれば、流暢な即席弁論やリズム等に秀でていたが、師のディオンの影響は薄かった。
哲学作品では、『ピュロンの方式(トロポス)について』『プルタルコス、あるいはアカデメイア派の性向について』などの題名が伝わる。プルタルコス『モラリア』所収『冷の原理について』や『食卓歓談集』では、パボリノスはペリパトス派・アリストテレス信奉者として扱われている。プルタルコスの著作目録『ランプリアス・カタログ』には、『友愛に関するパボリノス宛の書簡』という題名が伝わる。その他、ガレノス『最良の学説について』からも、パボリノスの哲学が窺える。
パボリノスの『覚書』(Ἀπομνημονεύματα)と『歴史研究雑録集』(Παντοδαπὴ ἱστορία)を、ディオゲネス・ラエルティオスは『ギリシア哲学者列伝』で約50回参照しており、同書の原資料著者で最多となっている。また、教え子のゲッリウス『アッティカの夜』も多くの言説を伝えている。その他、アイリアノスやアテナイオスも情報源としている。
ルキアノスの『宦官』『ヘラクレス』に出てくる人物のモデルとも推測される。
両性具有のソフィストか…ラノベに登場させたら面白そう。
作品が全て散逸しているのに、歴史的な書物でめちゃめちゃ参照されているというところも面白い。
(7)ピロストラトス
ピロストラトスまたはフィロストラトス(古希: Φιλόστρατος, Philostratos ; 羅: Philostratus ; 170年頃 - 240年代頃)は、ローマ帝国期のレムノス島出身のギリシア語著述家・弁論家・第二次ソフィスト。
主な著作として、「第二次ソフィスト」の由来になった伝記集『ソフィスト列伝』、ナザレのイエスと同時代の奇跡行者の伝記『テュアナのアポロニオス伝』、トロイア戦争の異説物語『英雄が語るトロイア戦争』(『へーローイコス』)、などがある。
フルネームはフラウィウス・ピロストラトゥス(羅: Flavius Philostratus)またはプラビオス・ピロストラトス(古希: Φλάβιος Φιλόστρατος, Phlabios Philostratos)。あるいは「ルキウス・フラウィウス・ピロストラトゥス」(Lucius Flavius Philostratus)というローマ市民式の名前も持っていた。
ピロストラトスの人物像には不明な点が多く、断片的な資料を繋げ合わせることで推測される。
おそらく170年頃にレムノスで生まれた。青年期にアテナイに赴き、ナウクラティスのプロクロスのもとで弁論術を修得した。その後ローマに移り住み、セウェルス帝妃ユリア・ドムナの主宰する知的サロンに参加した。彼女との縁によりカラカラ帝にも仕え、各地の遠征にも随行した。『スーダ』によれば、軍人皇帝ピリップス・アラブスの在位時(244年 - 249年)まで活動した 。
【主な作品】
親族のピロストラトスと混同されやすい等の理由から、作品の帰属にも諸説ある。いずれも古代ギリシア語で書かれている。
①『へーローイコス』(邦題:『英雄が語るトロイア戦争』『英雄論』、古代ギリシア語: Ἡρωικός ; ラテン語: Heroicus ; 213-214年ごろ成立)は、トロイア戦争を題材にした物語作品で、ホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』の異説にあたる。枠物語として、現代(3世紀)のトラキア・ケルソネソス(トロイア遺跡の対岸)に住むぶどう園主が、トロイア戦争の英雄プロテシラオスの幽霊(英雄神[13])と交流して、その交流内容をフェニキア人の旅人に対話形式で聴かせる、という形式をとる。作中では、ホメロスへの賛辞と批判修正が入り交じる。
②『テュアナのアポロニオス伝』(古希: Τὰ ἐς τὸν Τυανέα Ἀπολλώνιον ; 羅: Vita Apollonii, 217-238年ごろ成立)は、テュアナのアポロニオスの伝記の形をとった物語作品で、ユリア・ドムナの依頼により書かれた。テュアナのアポロニオスは、1世紀のテュアナ出身の新ピタゴラス学派の哲学者であり、ナザレのイエスと同時代に活動した奇跡行者でもある。本書では、そのアポロニオスが、西はヒスパニア東はインドまで世界各地を旅する様子を描く。そのなかで、彼の奇跡や哲学の描写だけでなく、地誌や伝説上の生物など雑多な内容が描かれる。本書によって伝えられたアポロニオスは、後世、キリスト教批判者などに注目された。また、本書におけるラミアーの描写は、17世紀のロバート・バートンに受容され、さらにそのバートンを経由して19世紀のジョン・キーツにも受容された。
③『ソフィスト列伝』(古希: Βίοι Σοφιστῶν ; 羅: Vitae Sophistarum ; 英: Lives of the Sophists, 231年-237年ごろ成立)は、ソフィスト達の伝記で、執政官ゴルディアヌス1世への献呈作品。全2巻からなり、第1巻ではゴルギアスら古代ギリシアのソフィストを、第2巻ではローマ帝国期のソフィスト(第二次ソフィスト)を扱う。内容は、史実に即した伝記というよりは、ピロストラトスの視点に基づく評伝として書かれている。ピロストラトスのいう「ソフィスト」は、蔑称ではなくむしろ「哲学者」と並ぶ尊称だった。
このスレッドに名前が何度も登場する超重要人物。
『ソフィスト列伝』はもちろんだが、『テュアナのアポロニオス伝』も読んでみたい。イエス・キリストにはライバルが何人もいて、その中にはメチャメチャムスゴいやつが何人かいたという話はナショジオの番組かなんかで見た。
(8)ヘロデス・アッティコス
ヘロデス・アッティコスまたはヘロデス・アッティクス(羅: Herodes Atticus、古希: Ἡρῴδης ὁ Ἀττικός、古代ギリシア語ラテン翻字: Hērōidēs ho Attikos、101年頃 - 177年頃)は、ローマ帝国期アテナイの大富豪、政治家、ギリシア語弁論家、第二次ソフィスト。ヘロデス・アッティコス音楽堂やパナシナイコスタジアムの建設者。ハドリアヌスやマルクス・アウレリウスの寵愛を受けた。
フルネームはルキウス・ウィブッリウス・ヒッパルクス・ティベリウス・クラウディウス・アッティクス・ヘロデス(羅: Lucius Vibullius Hipparchus Tiberius Claudius Atticus Herodes)。
アテナイ郊外のマラトン出身。ミルティアデスやキモン、アイアコスの末裔と称し、アテナイにおけるローマ皇帝崇拝を司る名家に生まれた。祖父の代、フラウィウス朝の諸皇帝に財産没収されて没落していたが、同名の父親がネルウァから財産回復を認められ、自宅で埋蔵金を発見(おそらく隠し財産の相続を意味する)して再び名家となった。この父親は元老院議員やコンスルを務め、富豪の令嬢アグリッピナと結婚した。ヘロデスの財源はこの両親に由来する。
120年代頃から政治家・弁論家として活動を始めた。官職としては、クァエストル、護民官、プラエトル、元老院議員、コンスル、アシア属州自由諸都市のコッレクトル、アテナイのアゴラノモスやアルコンを務めた。
古代ギリシアの復興を目指して、アテナイなどで私財を投じて土木事業・パトロン事業・慈善事業(エヴェルジェティズム)を行い、民の人気を得た。パンアテナイ祭の主宰者も務め、143年頃にパナシナイコスタジアムを総大理石に改築した。
140年頃に14歳の妻レギッラと結婚した。レギッラはローマ人の元老院家系の令嬢であり、上記の事業の多くもレギッラと共同で行われたものだった。レギッラとの間に6児をもうけたが、第4子のブラドゥアが元老院議員になったのを除いて全員早逝し、追悼のため墓碑や像を建てた。
150年代末頃にレギッラが没すると、ヘロデスが殺害したという容疑で、レギッラの弟の元老院議員ブラドゥアから告訴されたが、裁判で無罪を勝ち取った。真相や無罪の理由については現代でも諸説ある。160年頃、レギッラの追悼のため、アテナイに音楽堂(ヘロデス・アッティコス音楽堂)を建てた。
実子とは別に、男の養子兼弟子を複数持った。彼らが早逝した際も墓碑や像を建て、特に美少年のポリュデウケスが没した際は自失するほど悲嘆した。ヘロデスと彼らは、ギリシア的な同性愛・少年愛の関係にあったと推定される。弟子の一人メムノンは、黒い肌のエチオピア人だったともいう。
【弁論・思想】
ピロストラトスによって第二次ソフィストの筆頭に位置づけられ、「弁舌の王」「ギリシアの舌」とも称されたが、その弁論はほぼ全て散佚している。
弁論術や哲学を、半陰陽のソフィスト兼哲学者のファウォリヌス(パボリノス)に学んだ。ファウォリヌスが没した際は、ローマの邸宅・蔵書・インド人奴隷を遺贈された。
ピロストラトスによれば、即位直後のハドリアヌスの面前で弁論したが失敗した。
ゲッリウスによれば、あるときヘロデスのもとに「哲学者」を名乗る物乞いが訪れた。ヘロデスは、その物乞いが「長い髭とギリシア風の外套」という典型的な哲学者の装いだけで「哲学者」を名乗っていることを非難しながらも、気前よく大金を与えたという。このゲッリウスのエピソードが由来となり、ラテン語の成句「髭は哲学者をつくらない」(Barba non facit philosophum)ができた。
「140年頃(39歳頃)に14歳の妻レギッラと結婚した。」→ロリコンやん。
「実子とは別に、男の養子兼弟子を複数持った。彼らが早逝した際も墓碑や像を建て、特に美少年のポリュデウケスが没した際は自失するほど悲嘆した。ヘロデスと彼らは、ギリシア的な同性愛・少年愛の関係にあったと推定される。」→ショタコンやん。
「弟子の一人メムノンは、黒い肌のエチオピア人だったともいう。」→黒人フェチのショタコンやん。
「第二次ソフィストの筆頭に位置づけられ、「弁舌の王」「ギリシアの舌」とも称された」→喧嘩界でいうと、詠み人知らず的な?
>> 69
ごめんね。
その辺の喧嘩師を紹介できてないから控えてもらった方がわかりやすいかも。
あと本題っていうか本文?は週1とか月1とか毎日に1レスみたいに定期的に投稿してみたらどうかな?
(9)ルキアノス
ルキアノス(サモサタのルキアノス、ルーキアーノス、古希: Λουκιανὸς, Loukianos, 羅: Lucianus, 英語: Lucian of Samosata、120年ないし125年頃 - 180年以後)は、ローマ帝国期にギリシャ語で執筆したアッシリア人の風刺作家。『本当の話』『嘘好き』など多くの著作が伝わる。
ルキアノスはシリアのサモサタ(現在のトルコのアドゥヤマン県サムサット)で生まれ、アテナイで没した。父親の職業は不明だが、祖父と叔父が石工であり、ルキアノスを叔父の徒弟にしようとしていた。若き日は哲学、弁論、医学など様々な分野種々の流派の学問を聴講し勉学を積んだが、やがて弁論の虜になる(後年、弁論による興行的な活動にも従事している)。シリア属州生まれゆえの「夷狄訛り」を克服し、ギリシャ語と弁論術を習得して弁論家として一本立ちする。アテナイで弁論家及び弁護士として活躍もしていた他、一時アンティオキアで弁護士の仕事もしていたと伝えられている。イタリアや大西洋岸ガリアなどへ旅行し、彼の地にて誇示的な演説を披露し、成功を収めてさえいる。また、ガリアに一時的に居住していたともされる。
彼は80以上の作品の著者とみなされているが、それら全てを著わしたわけではないと考えられる。最も知られている著作としては『神々の対話』と『死者の対話』があげられる。 風刺作品に『ペレグリーノスの昇天』があるが、この作品では主人公のペレグリーノスがキリスト教徒たちの寛大さとだまされやすさにつけ込むという話が展開されている。これは非キリスト教徒から見たキリスト教をとらえた書物で現在残っている初期のものの一つである。
詩『嘘好き Philopseudes』に基づきゲーテがバラッド『魔法使いの弟子 Der Zauberlehrling』を書いた。そのフランス語訳に基づき、デュカスが交響的スケルツォ『魔法使いの弟子』を作曲した。
また、『本当の話』という作品では、月への旅行譚を書いており、しばしば最古のSFの一つとして言及される。有名な『ほらふき男爵の冒険』における、月旅行のエピソードや巨鯨に呑み込まれるエピソードは本作のプロットを借用したものである。
【『本当の話』あらすじ】
「私」と50人のギリシアの青年たちが、ヘラクレスの柱を超えて未知の海域の探検に乗り出す。彼らが80日間の航海の結果、最初に発見した島は「ヘーラクレースとディオニューソス到来の地」で、ぶどう酒の川があり酒粕の魚が泳いでいた。彼らは2人の仲間をこの地で失い、先へ進む。
つむじ風で船が飛ばされ、七日七晩の空中旅行の末、彼らは月に着陸する。その時、月世界(エンデュミオーンを王とする)は明けの明星の領土を巡って太陽(パエトーンが王)と戦争を始めるところであった。青年たちは月世界側に与して戦う。味方の乗用動物は頭が3つの大鷲や巨大な蚤。敵は巨大な蟻。武器には通常の剣に加えてアスパラガスの槍や投擲用辛子大根が使われた。戦いは月世界側が一時的に勝利を得るが、銀河から遅れてやって来たケンタウロス軍が戦況を一変させ、結局は太陽側に有利な講和条約が結ばれる。
月を後にした青年たちは明けの明星や、ヒアデス星団とプレアデス星団の間にある「灯明の国」に立ち寄った後、海上に戻る。三日目の朝、巨大な鯨が現れて船を呑み込む。鯨の体内には陸地があり、森が茂り、陸上生物も住んでいた。彼らは何十年もそこに暮らしていたキプロス島人の親子を助けて、蟹手族・鮃足族・鹹魚族といった半魚人種族たちを征伐する。
鯨から脱出した彼らは氷の海、牛乳の海を抜けて「神仙の島」に着き、ホメーロス、七賢人、ディオゲネス、ピュタゴラス等々の有名人と出会う。青年たちは航海を続け、「糸瓜の海賊」・「イルカに乗った海賊」の撃退、巨大なカワセミの巣の発見、「牛頭族の島」への寄港を行なう。「驢馬の脛」の島では女妖怪の餌食になりかけるが「私」の機転で難を逃れる。
物語の終盤で、青年たちは未知の大陸に到着するが船は岸に叩きつけられて壊れてしまう。大陸での冒険は次稿で語ることにする、との旨が述べられたところで物語は終わる。
『ONE PIECE』より面白そう。
研究終わったんか