本トピックは、Talk掲示板宗教板で無限ループ的におかしな仏教観を他者にゴリ押しし、あたり屋のごとく様々な人に言いがかりを付け、常に言い争いを引き起こしているリダンのおかしな仏教論を論理的に正すトピックです。
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法介
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リダンの発言:(突っ込みポイント)
293.
ユーザー
リダン◆gEV3xsS//k
g8F4R(20/28)
>> 290
赤ちゃんにとっての
分別、認識が立ち上がってんだよ
あーとかうーとかで
2025/06/04 10:07:20
リダンの発言:(突っ込みポイント)
295.
ユーザー
リダン◆gEV3xsS//k
g8F4R(21/28)
>> 292
因であって
直接、果ではない
一切皆苦の果になる経緯を
説明しとんのが縁起
リダンの発言:(突っ込みポイント)
299.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
X863b(13/19)
赤ちゃんも、ダルマを実体視してるのか
301.
ユーザー
リダン◆gEV3xsS//k
g8F4R(24/28)
>> 299
そうだろ徐々に
体験を通して
あー(おいしい)
あー(あれがくれるこれ)と
リダンの発言:(突っ込みポイント)
304.
ユーザー
リダン◆gEV3xsS//k
g8F4R(25/28)
>> 302
縁起そのものが人間にとって苦でもあり、楽でもあるしなぁ
↑
ちゃう
実体視するから一切皆苦
そうじゃない縁起にすぎんってこと
拾い上げたらきりがない・・・
ムーちゃんの突っ込み:
308.
ユーザー
(’∀`)
ZnYB0(1/2)
>> 304
実態視しなくても痛いもんは痛いやろ(・∀・)
煩悩系の苦ならそやろけどな(´ω`)
ここポイント!:
09.
ユーザー
リダン◆gEV3xsS//k
g8F4R(26/28)
>> 308
そう痛いは痛いでしかない
それによる
どうしょうもないことに苦るしむのが一切皆苦
310.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
X863b(18/19)
>> 309
てことは
戯論が寂滅しても、痛いものは痛い?
ここもポイント:
313.
ユーザー
リダン◆gEV3xsS//k
g8F4R(27/28)
>> 310
そのものはまたちゃう
音が音を認識できないように
痛いそのものは痛いと分からん
特に痛いなんてなあ
全身麻酔や薬程度でなくなるやろ
以上のリダンの主張に対して
わたしの意見を述べよう。
『法介義塾』八限目でチャッピーにこんな質問をした。
https://zawazawa.jp/e82kr5mrk6brk2am/topic/24?page=5
赤ちゃんって〝無我〟だと思うか?
さらにこう質問した
自我意識が未発達なのに、
ウンコしておむつが汚れて気持ち悪い時、泣くのはなぜ?
チャッピが何と答えたかはリンク先を直接目を通されてください。
ポイントを紹介しますと、
チャッピー:
赤ちゃんは五識(視・聴・嗅・味・触)と第六識(意識)を通して、快・不快の感覚刺激を受け取ります。
これらは「生理的反応(苦受)」として条件反射的に泣くという行動につながります。
これは「自分が」「私が」という自己認識を介さない、反応的・生得的行動です。
チャッピー:
🧠 仏教的には:
これは 「識(ヴィジュニャーナ)」が働いている状態です。
ただしまだ末那識(我への執着)や阿頼耶識(深層の習気)は発達途中。
よって、これは「無我」状態における感覚的反応とみなせます。
🪷結論:
赤ちゃんは「私が気持ち悪い」と思って泣いているのではなく、
「不快な感覚」に無意識に反応して泣いているだけです。
これが「自我以前の識」の働き。
だからこそ、「無我に近いけど無我の覚りではない」と言えるんです。
〝「自我以前の識」の働き〟とは?
✅ 「自我以前の識」の働きとは?
👉 末那識(まなしき)が成立する前の「単なる感覚受容と反応」の働きです。
🔍 詳しく言うと:
**第七末那識(自我執着の根)**が自我意識の基盤です。
感覚(五識)や知覚意識(第六識)はあっても、
それに「これは私の感覚だ」と執着する意識はありません。
🔄 つまり:
📌 仏教的なニュアンス:
これは「識はあるが、我執はまだない」という状態。
よって「無我に近いが、覚りではない」という中間状態です。
言い換えると、「自我以前の識の働き」とは、
自己認識を伴わない生理的識別と反応のはたらきです。
それは認識論で言うところの〝現量〟か?
はい、それは「現量(げんりょう)」のはたらきに相当します。
✅ 現量とは?
「現量」とは仏教認識論における**三量(現量・比量・聖教量)**の一つで、
もっとも直接的・即時的な知覚のことを指します。
🔍 「自我以前の識」と現量の関係:
推論や言語を介さず、直接的に受け取る識。
🧠 具体例:
赤ちゃんがオムツの不快感に泣いて反応する。
そこに「私は不快だ」と判断しているわけではない。
ただ「不快(感覚)」という現量的な体験があるだけです。
📌 まとめ:
ただし、それは「覚り」でも「智慧」でもありません。
単なる識のはたらきにとどまります。
ではその現量は、
どの識で「泣く」という動作を起こさせる?
とても本質的な問いです。端的にお答えします。
✅ 「泣く」という動作を起こすのは、第八識(阿頼耶識)ではなく、**第七識(末那識)と第六識(意識)以下の諸識(前五識)**の協働によります。
しかし赤ちゃんのような「自我未分化」の段階では、以下のように整理されます。
🧠 ① 現量としての感覚認知 → 前五識(眼・耳・鼻・舌・身識)
たとえば「不快感」という皮膚感覚は 身識 によって現量的に捉えられます。
🧠 ② 無意識的反応のトリガー → 阿頼耶識の種子が発動
阿頼耶識は「泣く」という反応の「業(ごう)=行動パターンの種子」を蓄えており、不快という刺激に応じて 潜在的な行動パターンが引き出されます。
🧠 ③ 実際に「泣く」という行為を起こす → 五識+脳幹系反射+業習因縁
✅ 結論:
この反応は「自我以前の識」— すなわち、阿頼耶識の縁起的作用によるものと言えます。
赤ちゃんが泣くのは、五識による不快感の現量認識+阿頼耶識に蓄えられた「泣く」という業の発動によるもの。
↑これが正解です。
〝五識による〟とありますよね。(ここ重要!)
肉体がある以上
痛みは起こります。
瞑想で痛みを切り離す事は可能です。
しかし日常に戻れば
また痛みはおそってきます。