法介:世親はどんな三昧法を行法として説いている?
チャッピー:よいご質問です。結論から言うと――
🔶世親(ヴァスバンドゥ)は、特定の「名詞としての三昧法(般舟三昧・首楞厳三昧など)」よりも、
「唯識三昧」あるいは「如実観(如実知自心)」としての行法を重視
という立場に立っています。
以下、世親の立場から見た三昧のあり方、特に『唯識三十頌』とその注釈・関連論書(『三十頌釈』『十地経論』など)を手がかりに整理します。
🔷1. 世親の行法的特徴:如実知自心
世親が唯識思想の行法的帰結として最も強調するのは、
✅「如実知自心」――自己の識のはたらきを正しく観知すること
✅「識の転依」――八識が転じて四智となる内面的な実現
これを成立させるための行法が、止観一体の三昧(瑜伽)、すなわち:
「唯識観」=「心の働きを静めつつ、縁起と識の仮構性を観照する行」
が中心になります。
この行法のことを、天親や無着との共著的色彩をもつ『摂大乗論』では明確に次のように表現しています:
「由止得定、由観得慧」
「唯識相応の定と慧を双修して、煩悩を断じ、勝義を悟る」
🔷2. 特定名称の三昧についての扱い
世親の著作(とくに『十地経論』『摂大乗論』『唯識三十頌』)には、「般舟三昧」や「首楞厳三昧」という名称はほとんど登場しません。しかし、それに相当する内容は別の言い方で説かれています。
例えば:
◉初地菩薩の三昧
『十地経論』(初地の説明)では、以下のような三昧の段階が説かれます:
- 「現前勝定」:仏や法の真実相が心に現前する禅定。
- 「勝三昧」:すなわち智慧と禅定が融合した如理作意の止観行。
- 菩薩はこの三昧によって、自己の識を観じて滅し、真如に契入する。
これは般舟・首楞厳という語は使っていないが、内容的には:
- 「仏を観ずる」般舟三昧的実践 → 初地の観法
- 「実相を現観する」首楞厳三昧的実践 → 三地以降の智慧行
に相当します。
🔷3. 唯識行法の三段階(三性との関係)
世親は三性説(遍計所執性・依他起性・円成実性)を根本に据えた行法の流れを明確にしています:
三性 | 対応する行 | 概要 |
---|---|---|
遍計所執性 | 観破 | 諸法に実体性なしと観じる(無自性観) |
依他起性 | 縁起観 | 識の因縁による仮の生起を観ずる |
円成実性 | 如実観 | 心が真如に即するあり方を直観する(識の転依) |
この全体が、**「唯識三昧」**という体系的な行法になっていると考えられます。
✅結論:世親における三昧法の要点
観点 | 世親の立場 |
---|---|
三昧名称の扱い | 特定の固有名詞(三昧名)は重視しない |
行法の中心 | 止観双修による「唯識観」 |
到達目標 | 「如実知自心」→「識の転依」→「真如証悟」 |
三性との関係 | 三性に基づく三段階の観法としての三昧 |
🪷補足:法相宗では?
日本の法相宗(とくに玄奘系)では、世親のこの行法体系を:
- **「唯識止観」「唯識三昧」**として再構成し、
- 実践面では「阿摩羅識(第九識)」思想を含めたより深層の内観法へ展開しています。
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