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(編集中~!)
そして最後、三番目の「不増不減」(増えることも減ることもない)は、やや理解の難しい教えです。ここで説かれているのは「法空」の理であり、龍樹は『中論』第二章「運動の考察」において、この問題を徹底的に解き明かしています。
小乗の立場では「我は空じられるが、法は実在する」という“法有”が主張されます。これに対し龍樹は、法そのものもまた空じるべき対象であると説き、運動を否定する逆説的な論理をもってその主張を鮮やかに論破しました。
すでに去ったものは、去ることがない。
まだ去らないものも、去ることがない。
すでに去ったこととまだ去らないことを離れて、
現に去りつつあるものも、また去ることがない。
一見すると当然のことを述べているようですが、実際には極めて深い洞察が込められています。現代風に言い換えると、例えば救急車のサイレンの音が近づいてくる時と遠ざかる時とでは「同じ音」でありながら音程が異なって聞こえます。音には変わらぬ特性(本質)があるのではなく、人の認識の中で生じるものだからです。
龍樹はこれを「運動」という現象に置き換えて論じます。すでに去ったものはそこに存在しないため「去る」という行為は成立しません。まだ去っていないものも同様に「去る」という行為は存在しません。そして「去りつつある」と見える姿も、よくよく観察すれば「去る」という行為そのものはどこにも存在していないのです。これは、ゼノンの「飛ぶ矢のパラドックス」と同じ逆説であり、運動そのものを否定する洞察なのです。
我々が当たり前と信じる法則や真理は、実は人間の概念が生み出したものであり、空の理を覚ってこそ本当の真実が顕れる——これが空の真理、空諦です。『般若心経』にある「色即是空 空即是色」という言葉は、そのことを端的に示しています。
<色即是空>
実体に即した此縁性縁起=人間の世界観(有無の仮観)—(実在論)
<空即是色>
実体を空じた相依性縁起=仏の世界観(縁起の空観)—(認識論)
龍樹は、お釈迦様が「我」を空じて弟子たちに無我を説いたことを踏まえ、さらにその空じられた「我」を因として起こる事象の法理を逆観で捉え、「無自性」すなわち事象にも変わらずにあり続ける本質(自性)はないという真理(無自性空)を見出しました。
考えてみてください。自分の息子に向かって「あなたは誰ですか」と問う認知症を患った祖母が、テーブルに置いてあったリンゴが床に転げ落ちたのを見た時、テーブルにあったという記憶が無い訳ですからそれは「落ちたリンゴ」ではなく「床に置かれているリンゴ」としてしか認識されません。つまり、私たちが信じている「引力の法則」すら実は人間が縁となって起きている現象(縁起)でしかないのです。
これはゼノンの「飛ぶ矢」の逆説にも通じます。ハイスピードカメラで撮影された矢は、一瞬一瞬では静止しています。それを連続的に再生して初めて「飛んでいる矢」として認識されるのです。運動も時間もまた、人間の記憶と認識作用が生み出す現象(縁起)にすぎません。
このように『般若心経』に説かれる「不生不滅 不垢不浄 不増不減」は、それぞれ「析空」「体空」「法空」を示しています。では「非空」はどこに説かれているのでしょうか。
答えは最後の真言にあります。
「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」
この部分はあえて訳されることなく、三つの真理を含む言葉としてそのまま示されます。意味を限定せず、言葉そのものが持つ力を保持するためです。そして「菩提」は仏の悟りを、「薩婆訶」は成就を意味します。ここに三身即一の「非空」が説かれているのです。