巻の第二より
法介
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次の『成唯識論』巻の第二の箇所を現代語にやくしてくれ。解説は必要ない。
故世尊説。慈氏當知。諸識所縁唯
T1585.31.0007a17: 識所現。依他起性如幻事等。如是外道餘
T1585.31.0007a18: 乘所執。離識我法皆非實有。故心心所。決
T1585.31.0007a19: 定不用外色等法。爲所縁縁。縁用必依實
T1585.31.0007a20: 有體故。現在彼聚心心所法。非此聚識親所
T1585.31.0007a21: 縁縁。如非所縁。他聚攝故。同聚心所亦非
T1585.31.0007a22: 親所縁。自體異故。如餘非所取。由此應知。
T1585.31.0007a23: 實無外境唯有内識似外境生。是故契經
T1585.31.0007a24: 伽他中説
T1585.31.0007a25: 1如愚所分別外境實皆無。習氣擾濁心。
T1585.31.0007a26: 故似彼而轉。有作是難。若無離識實我法
T1585_.31.0007a27: 者。假亦應無。
ゆえに世尊(釈尊)は次のように説かれた。
「慈氏(弥勒)よ、知るがよい。諸々の識が対象とするものは、ただ識によって現し出されたものであり、依他起性(縁によって生起する性質)であって、幻のようなものである」と。
このように、外道(仏教以外)や余乗(小乗仏教)が執着する、識を離れた「我」や「法」は、すべて実在ではない。したがって、心や心所(心の働き)は、決して外部の物質(外色)などを「所縁縁(認識の対象となる条件)」として用いることはない。認識の作用は、必ず実在する実体に基づかなければならないからである。
(他者の)現在、その集まりにある心や心所は、こちらの集まりの識にとって直接的な所縁縁ではない。それは(こちらの識の)対象ではないのと同様に、他者の側に属しているからである。また、同じ瞬間の(自己の)心所も、直接的な所縁縁ではない。(心王と心所は)それぞれの自体が異なるからであり、それは他の認識されない対象と同じようなものである。
これによって知るべきである。実在する外部の境(対象)などは無く、ただ内部の識が、外部の境に似て生じているだけなのである。ゆえに、経典(解深密経など)の偈(詩句)の中で次のように説かれている。
「愚かな者が分別(誤解)するように外部の対象が実在することは、まったくない。ただ(阿頼耶識の)習気が心をかき乱し濁らせるため、外部の対象があるかのように(識が)転じ現れるのである」
ある者が次のように難問を投げかけた。
「もし識を離れて実在する『我』や『法』が無いというのであれば、それらを仮に設定すること(仮設)もできないはずではないか」
次の『成唯識論』巻の第二の箇所を現代語にやくしてくれ。解説は必要ない。
謂假必依眞事似事共法而
T1585.31.0007a28: 立。如有眞火有似火人有猛赤法乃可
T1585.31.0007a29: 假説此人爲火。假説牛等應知亦然。我法
T1585.31.0007b01: 若無依何假説。無假説故。似亦不成。如何
T1585.31.0007b02: 説心似外境轉。彼難非理。離識我法前已
T1585.31.0007b03: 破故。依類依實假説火等。倶不成故。依類
T1585.31.0007b04: 假説理且不成。猛赤等徳非類有故。若無
T1585.31.0007b05: 共徳而假説彼應亦於水等假説火等名。
T1585.31.0007b06: 若謂猛等雖非類徳而不相離故可假説。
T1585.31.0007b07: 此亦不然。人類猛等現見亦有互相離故。
T1585.31.0007b08: 類既無徳又互相離。然有於人假説火等。
T1585.31.0007b09: 故知假説不依類成。依實假説理亦不成。
T1585.31.0007b10: 猛赤等徳非共有故。謂猛赤等在火在人。
T1585.31.0007b11: 其體各別。所依異故。無共假説有過同前。
T1585.31.0007b12: 若謂人火徳相似故可假説者。理亦不然。
T1585_.31.0007b13: 説火在人非在徳故。
「仮(仮称)」というものは、必ず「真事(真実のもの)」と「似事(それに似たもの)」、そして両者に共通する「共法(共通の性質)」があってはじめて成立すると言える。
例えば、真実の「火」があり、火に似た「人」がおり、両者に共通する「猛烈さ」や「赤さ」という性質(法)があってこそ、初めて仮にその人を「火(火のような人)」と呼ぶことができる。「牛」などと仮説する場合も同様であると知るべきである。
もし(識を離れた実在としての)「我」や「法」が無いのであれば、何を根拠に(我や法と)仮説するのか。仮説が成り立たないのであれば、「(外境に)似ている」ということも成立しない。それなのに、どうして「心が外境に似て転じ現れる」などと言えるのか。
(回答)
その難問は理にかなっていない。識を離れた「我」や「法」が実在しないことは、すでに説いた通りである。
また、(あなたが主張するように)「類(共通概念)」を根拠にするにせよ、「実(個別の実体)」を根拠にするにせよ、火などを仮説することはどちらも成立しないからである。
まず、「類」を根拠に仮説するという理屈は成立しない。猛烈さや赤さといった徳(性質)は、「人類(人間という概念)」そのものに備わっているわけではないからである。もし共通の徳がないのに仮説するというのであれば、水などに対しても「火」と仮説できてしまうことになる。
もし「猛烈さなどは『類』そのものの性質ではないとしても、人間という類と切り離せないものだから仮説できるのだ」と言うのなら、それも正しくない。人間という類と猛烈さなどは、現実には互いに離れて存在すること(猛烈でない人もいること)があるからである。このように、「類」には徳が備わっておらず、また徳と離れることもある。それなのに人に対して「火」と仮説することがあるのだから、仮説は「類」に基づいて成るものではないと知るべきである。
次に、「実(実体)」を根拠に仮説するという理屈も成立しない。猛烈さや赤さといった徳は、共通のものではないからである。つまり、猛烈さや赤さは火にあるものと人にあるものとでは、その体(実体)は別々であり、拠り所が異なっている。共通の徳が無いのに仮説するというのであれば、先ほどと同じ(水も火と呼べてしまうという)過失が生じる。
もし「人と火の徳が『似ている』から仮説できるのだ」と言うのなら、その理屈も正しくない。(世間一般で)「火」と仮説して呼んでいるのは「人」に対してであり、人にある「徳(性質)」に対して呼んでいるわけではないからである。
次の『成唯識論』巻の第二の箇所を現代語にやくしてくれ。解説は必要ない。
由此假説不依實
T1585.31.0007b14: 成。又假必依眞事立者。亦不應理。眞謂自
T1585.31.0007b15: 相。假智及詮倶非境故。謂假智詮不得自
T1585.31.0007b16: 相。唯於諸法共相而轉。亦非離此有別方
T1585.31.0007b17: 便施設自相爲假所依。然假智詮必依聲
T1585.31.0007b18: 起。聲不及處此便不轉。能詮所詮倶非自
T1585.31.0007b19: 相。故知假説不依眞事。由此但依似事而
T1585.31.0007b20: 轉。似謂増益非實有相。聲依増益似相而
T1585.31.0007b21: 轉。故不可説假必依眞。是故彼難不應正
T1585.31.0007b22: 理。然依識變對遣妄執眞實我法説假似
T1585.31.0007b23: 言。由此契經伽他中説
T1585.31.0007b24: 爲對遣愚夫 所執實我法
T1585.31.0007b25: 故於識所變 假説我法名
T1585.31.0007b26: 識所變相雖無量種。而能變識類2別唯三。
T1585.31.0007b27: 一謂異熟。即第八識多異熟性故。二謂思量。
T1585.31.0007b28: 即第七識恒審思量故。三謂了境。即前六識
T1585.31.0007b29: 了境相麁故。
これによって、仮説が「実(個別の実体)」に基づいて成立するのではないことがわかる。
また、「仮説は必ず真実のもの(真事)に基づいて立てられる」という主張も道理に合わない。「真」とは「自相(事物のありのままの独自の姿)」を指すが、仮の認識(仮智)や言葉(詮)は、ともに自相を対象としないからである。つまり、仮の認識や言葉は自相を捉えることができず、ただ諸法の「共相(概念化された共通の姿)」においてのみ働くのである。また、これ(共相)を離れて別に自相を仮説の拠り所とするような手段(方便)も存在しない。
そもそも、仮の認識と言葉は必ず音声(声)に基づいて起こるが、音声が及ばない(言語化できない)自相の領域では、これらは働くことができない。能詮(言葉)も所詮(言葉の意味内容)もともに自相ではない。したがって、仮説が真実のもの(真事)に基づかないことを知るべきである。
以上のことから、(仮説は)ただ「似事(似たもの)」に基づいて働くのである。「似」とは、増益(実在しないものを付け加えること)された実在しない相(姿)をいう。言葉は、この増益された「似た相」に基づいて働くのである。ゆえに、仮説が必ず真実のものに基づくと説くことはできない。したがって、先の難問は正しい道理ではない。
(結論として)識の変じたもの(識変)に基づき、妄執された真実の「我」や「法」を否定するために、「仮」や「似」という言葉を用いるのである。これによって、経典の偈の中で次のように説かれている。
「愚かな者が執着する実在の『我』や『法』を否定するために、識が変現したものに対して、仮に『我』や『法』という名を設けるのである」
識が変現した相には無数の種類があるが、それらを変化させる主体である「能変の識」は、大きく分けて三種類しかない。
一には「異熟(いじゅく)」、すなわち第八識(阿頼耶識)のことである。多くの異熟の性質を持つからである。
二には「思量(しりょう)」、すなわち第七識(末那識)のことである。常に深く考え量る性質を持つからである。
三には「了境(りょうきょう)」、すなわち前六識(眼・耳・鼻・舌・身・意)のことである。対象(境)を認識する姿が粗(顕著)だからである。
次の『成唯識論』巻の第二の箇所を現代語にやくしてくれ。解説は必要ない。
及言顯六合爲一種。此三皆
T1585.31.0007c01: 名能變識者。能變有二種。一因能變。謂第
T1585.31.0007c02: 八識中等流異熟。二因習氣。等流習氣由七
T1585.31.0007c03: 識中善惡無記熏令生長。異熟習氣由六識
T1585.31.0007c04: 中有漏善惡熏令生長。二果能變。謂前二種
T1585.31.0007c05: 習氣力故。有八識生現種種相。等流習氣
T1585.31.0007c06: 爲因縁故。八識體相差別而生。名等流果
T1585.31.0007c07: 果似因故。異熟習氣爲増上縁感第八識。
T1585.31.0007c08: 酬引業力恒相續故立異熟名。感前六識
T1585.31.0007c09: 酬滿業者從異熟起名異熟生。不名異
T1585.31.0007c10: 熟有間斷故。即前異熟及異熟生名異熟
T1585.31.0007c11: 果果異因故。此中且説我愛執藏持雜染
T1585.31.0007c12: 種能變果識名爲異熟。非謂一切。雖已略
T1585.31.0007c13: 説能變三名。而未廣3辯能變三相。且初能
T1585.31.0007c14: 變其相云何。頌曰
T1585.31.0007c15: 初阿頼4耶識 異熟一切種
T1585.31.0007c16: 3不可知執受 處了常與觸
T1585.31.0007c17: 作意受想思 相應唯捨受
T1585.31.0007c18: 4是無覆無記 觸等亦如是
T1585_.31.0007c19: 恒轉如5瀑流 阿羅漢位捨
(『三十頌』の)「及び(及)」という言葉は、前六識を合わせて一種類とすることを示している。これら三種(異熟・思量・了境)をすべて「能変識」と名づけるが、この「能変」には二種類ある。
一には「因能変」である。これは第八識の中にある、等流(とうる)と異熟(いじゅく)の二つの原因となる習気(しゅうき/種子)を指す。「等流習気」は、七つの識の中の善・悪・無記の行為によって燻習(くんじゅう)され生長する。「異熟習気」は、前六識の中の有漏(うろ)の善・悪の行為によって燻習され生長する。
二には「果能変」である。これは上述の二種類の習気の力によって、八つの識がそれぞれ種々の相(現行)として生じることを指す。「等流習気」を因縁とすることによって、八つの識の体相がそれぞれ個別に生じる。これを「等流果」と名づける。果が原因(因)と似ているからである。「異熟習気」を増上縁(ぞうじょうえん)として第八識を招き寄せる。これは引業(いんごう/総報を引く力)に報いるものであり、常に相続するために「異熟」という名を立てる。また、前六識を招き寄せて満業(まんごう/別報を満たす力)に報いるものは、異熟(第八識)から生じるため「異熟生」と名づける。これらは間断があるため(第八識のように)「異熟」とは名づけない。この「異熟」および「異熟生」を合わせて「異熟果」と名づける。果が原因(因)と性質を異にするからである。
ここでは、ひとまず「我愛」によって執蔵(しゅうぞう)され、雑染の種子を保持する能変の果識を指して「異熟」と名づけているのであり、すべて(の異熟果)を指しているわけではない。
すでに能変の三つの名称を略説したが、まだその三つの相(本質的特性)を詳しく論じていない。まず、最初の能変(第一能変)の相とはどのようなものか。頌(じゅ)に次のようにいう。
「初めの能変は阿頼耶識(あらやしき)であり、異熟識、一切種識とも呼ばれる。その執受(しゅうじゅ)と、拠り所となる処(世界)、および了別(認識作用)の内容は知りがたい。常に触・作意・受・想・思の五つの心所と相応する。受(感受作用)は唯だ『捨受』である。これは無覆無記(むふくむき)であり、触などの心所もまた同様である。常に瀑流(滝の流れ)のように変化しながら相続し、阿羅漢の位に達したときに、その名は捨てられる」
次の『成唯識論』巻の第二の箇所を現代語にやくしてくれ。解説は必要ない。
T1585.31.0007c20: 論曰。初能變識大小乘教名阿頼*耶。此識
T1585.31.0007c21: 具有能藏所藏執藏義故。謂與雜染互爲
T1585.31.0007c22: 縁故。有情執爲自内我故。此即顯示初能
T1585.31.0007c23: 變識所有自相。攝持因果爲自相故。此識
T1585.31.0007c24: 自相分位雖多。藏6識過重是故偏説。此是
T1585.31.0007c25: 能引諸界趣生善不善業。異熟7果故説名
T1585.31.0007c26: 異熟。離此命根衆同分等恒時相續勝異熟
T1585.31.0007c27: 果不可得故。此即顯示初能變識所有果
T1585.31.0007c28: 相。此識果相雖多位多種。異熟8寛不共故
T1585.31.0007c29: 偏説之。此能執持諸法種子令不失故名
T1585.31.0008a01: 一切種。離此餘法能遍執持諸法種子不
T1585.31.0008a02: 可得故。此即顯示初能變識所有因相。此
T1585_.31.0008a03: 識因相雖有多種持種不共是故偏説。
論に曰く。
最初の能変識(第一能変)は、大乗・小乗の教えにおいて「阿頼耶(あらや)」と名づけられる。この識には「能蔵(おさめる主体)」「所蔵(おさめられる場所)」「執蔵(執着の対象)」という三つの意味があるからである。つまり、雑染した諸法と互いに原因・結果(縁)となり、有情(生き方)がこれを執着して「自分自身の内なる我」とみなすからである。
これは第一能変識の「自相(独自の性質)」を示している。原因(種子)と結果(現行)を保持することを自相とするからである。この識の自相には多くの段階(分位)があるが、「蔵識(阿頼耶識)」としての過失が特に重いため、偏にそう呼ぶのである。
また、この識は諸々の世界(界)や輪廻のありよう(趣・生)を引き起こす善・不善の業の「異熟果(異なって熟した果報)」であるため、「異熟」と名づけられる。この識を離れては、命根(命の源)や衆同分(生物としての共通性)などのように、常に絶えず相続する優れた異熟果は他に得られないからである。
これは第一能変識の「果相(結果としての側面)」を示している。この識の果相には多くの段階や種類があるが、「異熟」という名称は意味が広く、他の識とは共通しない性質(不共)であるため、偏にそう呼ぶのである。
また、この識は諸々の法の種子(しゅうじ)を保持して失わせないため、「一切種(いっさいしゅ)」と名づけられる。この識を離れては、他のいかなる法も、あまねく諸法の種子を保持し続けることはできないからである。
これは第一能変識の「因相(原因としての側面)」を示している。この識の因相には多くの種類があるが、種子を保持することは他の法にはない独自の性質であるため、偏にそう呼ぶのである。
次の『成唯識論』巻の第二の箇所を現代語にやくしてくれ。解説は必要ない。
初
T1585.31.0008a04: 能變識體相雖多略説唯有如是三相
T1585.31.0008a05: 一切種相應更分別。此中何法名爲種子。謂
T1585.31.0008a06: 本識中親生自果功能差別。此與本識及所
T1585.31.0008a07: 生果不一不異。體用因果理應爾故。雖非
T1585.31.0008a08: 一異而是實有。假法如無非因縁故。此與
T1585.31.0008a09: 諸法既非一異。應如瓶等是假非實。若爾
T1585.31.0008a10: 眞如應是假有。許則便無眞勝義諦。然諸
T1585.31.0008a11: 種子唯依世俗説爲實有不同眞如。種子
T1585.31.0008a12: 雖依第八識體。而是此識相分非餘。見分
T1585.31.0008a13: 恒取此爲境故。
最初の能変識(第一能変)の体相は多岐にわたるが、略説すればただこれら三相(自相・果相・因相)がある。
「一切種」の相については、さらに分別して考察すべきである。ここではどのような法を「種子」と名づけるのか。それは、本識(阿頼耶識)の中にあり、直接(親に)自らの結果を生じさせる特別な能力(功能差別)のことである。
これは本識、および生じせしめる結果(果)と「同一(一)」ではなく、また「別体(異)」でもない。体(本体)と用(作用)、あるいは因(原因)と果(結果)の道理とは、本来そのようなものだからである。
同一でも別体でもないが、それは「実有(実在)」である。仮法(仮のもの)は無に等しく、因縁とはなり得ないからである。
(問い)
もしこれ(種子)が諸法と同一でも別体でもないというのなら、瓶などと同じように「仮」であって「実」ではないはずだ。
(答え)
もしそう言うなら、真如もまた「仮有」ということになってしまう。それを認めてしまえば、真実の勝義諦(究極の真理)は無くなってしまう。
ただし、諸々の種子はあくまで世俗諦(世俗的な真理)に基づいて「実有」と説かれるのであり、真如(勝義の実有)と同じではない。
種子は第八識の体(自体分)に依っているが、それはこの識の「相分(認識の対象となる側面)」であり、他ではない。見分(認識する主体としての側面)が、常にこれを対象(境)として捉えるからである。
次の『成唯識論』巻の第二の箇所を現代語にやくしてくれ。解説は必要ない。
諸有漏種與異熟識。體無
T1585.31.0008a14: 別故無記性攝。因果倶有善等性故亦名
T1585.31.0008a15: 善等。諸無漏種非異熟識性所攝故。因果倶
T1585.31.0008a16: 是善性攝故。唯名爲善。若爾何故決擇分説
T1585.31.0008a17: 二十二根。一切皆有異熟種子。皆異熟生。雖
T1585.31.0008a18: 名異熟而非無記。依異熟故名異熟種。
T1585.31.0008a19: 異性相依如眼等識。或無漏種由熏習力轉
T1585.31.0008a20: 變成熟立異熟名。非無記性所攝異熟。此
T1585.31.0008a21: 中有義一切種子皆本性有不從熏生。由
T1585.31.0008a22: 熏習力但可増長。如契經説一切有情無始
T1585.31.0008a23: 時來有種種界。如惡叉聚法爾而有。界即
T1585.31.0008a24: 種子差別名故。又契經説無始時來界。一切
T1585.31.0008a25: 法等依。界是因義。瑜伽亦説諸種子體無始
T1585.31.0008a26: 時來性雖本有。而由染淨新所熏發。諸
T1585.31.0008a27: 有情類無始時來若般涅槃法者一切種子皆
T1585.31.0008a28: 悉具足。不般涅槃法者便*闕三種菩提種
T1585.31.0008a29: 子。如是等文誠證非一。
諸々の有漏(うろ)の種子は、異熟識(第八識)と体(実体)において区別がないため、無記性(善でも悪でもない性質)に含まれる。しかし、因(種子)と果(現行)がともに善などの性質を持つため、(便宜上)善などとも呼ばれる。
一方、諸々の無漏(むろ)の種子は、異熟識の性質には含まれない。因と果がともに善の性質に含まれるため、ただ「善」とのみ呼ばれる。
(問い)
もしそうなら、なぜ『瑜伽師地論』の「決擇分」において、二十二根にはすべて異熟の種子があり、すべて異熟生であると説かれているのか。
(答え)
それらは異熟と呼ばれてはいても、無記性ではない。異熟識を拠り所としているために「異熟の種子」と呼ばれるのである。異なる性質のものが互いに依り合うことは、眼識などの(識と根の)関係と同じである。
あるいは、無漏の種子が熏習の力によって転変し成熟することを指して「異熟」の名を立てているのであって、無記性に含まれる(本来の)異熟ではない。
この種子の成り立ちについては、いくつかの説がある。
ある一説(護月などの説)によれば、すべての種子はすべて本性として(もともと)備わっているものであり、熏習によって生じるものではない。熏習の力によっては、ただ増長するだけである。
経典(『無尽意経』など)に「一切の有情には、無始の時より種々の『界(かい)』があり、それは悪叉聚(あくしゃじゅ/木の実の集まり)のように、法爾(ほうに。自然に)として存在する」と説かれている通りである。「界」とは種子の別名だからである。
また、別の経典(『阿毘達磨大乗経』)でも「無始の時よりの界は、一切の法の依り所である」と説かれており、「界」とは原因(因)という意味である。
『瑜伽師地論』もまた、「諸々の種子の体は、無始の時よりその性質がもともと備わっている(本有)が、染・浄の新たな行為によって熏発(くんぱつ)される」と説いている。
また、一切の有情において、無始の時より「般涅槃法(涅槃に至る性質)」を持つ者はすべての種子を具足しており、「不般涅槃法」の者は三種の菩提(声聞・独覚・仏)の種子を欠いている、とも説かれている。
このように、本有説を裏付ける誠実な証拠となる文章は一つではない。