法介教学

成唯識論 / 10

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法介 2026/04/26 (日) 20:43:09

論に曰く。
最初の能変識(第一能変)は、大乗・小乗の教えにおいて「阿頼耶(あらや)」と名づけられる。この識には「能蔵(おさめる主体)」「所蔵(おさめられる場所)」「執蔵(執着の対象)」という三つの意味があるからである。つまり、雑染した諸法と互いに原因・結果(縁)となり、有情(生き方)がこれを執着して「自分自身の内なる我」とみなすからである。
これは第一能変識の「自相(独自の性質)」を示している。原因(種子)と結果(現行)を保持することを自相とするからである。この識の自相には多くの段階(分位)があるが、「蔵識(阿頼耶識)」としての過失が特に重いため、偏にそう呼ぶのである。
また、この識は諸々の世界(界)や輪廻のありよう(趣・生)を引き起こす善・不善の業の「異熟果(異なって熟した果報)」であるため、「異熟」と名づけられる。この識を離れては、命根(命の源)や衆同分(生物としての共通性)などのように、常に絶えず相続する優れた異熟果は他に得られないからである。
これは第一能変識の「果相(結果としての側面)」を示している。この識の果相には多くの段階や種類があるが、「異熟」という名称は意味が広く、他の識とは共通しない性質(不共)であるため、偏にそう呼ぶのである。
また、この識は諸々の法の種子(しゅうじ)を保持して失わせないため、「一切種(いっさいしゅ)」と名づけられる。この識を離れては、他のいかなる法も、あまねく諸法の種子を保持し続けることはできないからである。
これは第一能変識の「因相(原因としての側面)」を示している。この識の因相には多くの種類があるが、種子を保持することは他の法にはない独自の性質であるため、偏にそう呼ぶのである。

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