- 成唯識論
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諸々の有漏(うろ)の種子は、異熟識(第八識)と体(実体)において区別がないため、無記性(善でも悪でもない性質)に含まれる。しかし、因(種子)と果(現行)がともに善などの性質を持つため、(便宜上)善などとも呼ばれる。
一方、諸々の無漏(むろ)の種子は、異熟識の性質には含まれない。因と果がともに善の性質に含まれるため、ただ「善」とのみ呼ばれる。
(問い)
もしそうなら、なぜ『瑜伽師地論』の「決擇分」において、二十二根にはすべて異熟の種子があり、すべて異熟生であると説かれているのか。
(答え)
それらは異熟と呼ばれてはいても、無記性ではない。異熟識を拠り所としているために「異熟の種子」と呼ばれるのである。異なる性質のものが互いに依り合うことは、眼識などの(識と根の)関係と同じである。
あるいは、無漏の種子が熏習の力によって転変し成熟することを指して「異熟」の名を立てているのであって、無記性に含まれる(本来の)異熟ではない。
この種子の成り立ちについては、いくつかの説がある。
ある一説(護月などの説)によれば、すべての種子はすべて本性として(もともと)備わっているものであり、熏習によって生じるものではない。熏習の力によっては、ただ増長するだけである。
経典(『無尽意経』など)に「一切の有情には、無始の時より種々の『界(かい)』があり、それは悪叉聚(あくしゃじゅ/木の実の集まり)のように、法爾(ほうに。自然に)として存在する」と説かれている通りである。「界」とは種子の別名だからである。
また、別の経典(『阿毘達磨大乗経』)でも「無始の時よりの界は、一切の法の依り所である」と説かれており、「界」とは原因(因)という意味である。
『瑜伽師地論』もまた、「諸々の種子の体は、無始の時よりその性質がもともと備わっている(本有)が、染・浄の新たな行為によって熏発(くんぱつ)される」と説いている。
また、一切の有情において、無始の時より「般涅槃法(涅槃に至る性質)」を持つ者はすべての種子を具足しており、「不般涅槃法」の者は三種の菩提(声聞・独覚・仏)の種子を欠いている、とも説かれている。
このように、本有説を裏付ける誠実な証拠となる文章は一つではない。