法介教学

成唯識論 / 2

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法介 2026/04/26 (日) 20:23:34

ゆえに世尊(釈尊)は次のように説かれた。
「慈氏(弥勒)よ、知るがよい。諸々の識が対象とするものは、ただ識によって現し出されたものであり、依他起性(縁によって生起する性質)であって、幻のようなものである」と。
このように、外道(仏教以外)や余乗(小乗仏教)が執着する、識を離れた「我」や「法」は、すべて実在ではない。したがって、心や心所(心の働き)は、決して外部の物質(外色)などを「所縁縁(認識の対象となる条件)」として用いることはない。認識の作用は、必ず実在する実体に基づかなければならないからである。
(他者の)現在、その集まりにある心や心所は、こちらの集まりの識にとって直接的な所縁縁ではない。それは(こちらの識の)対象ではないのと同様に、他者の側に属しているからである。また、同じ瞬間の(自己の)心所も、直接的な所縁縁ではない。(心王と心所は)それぞれの自体が異なるからであり、それは他の認識されない対象と同じようなものである。
これによって知るべきである。実在する外部の境(対象)などは無く、ただ内部の識が、外部の境に似て生じているだけなのである。ゆえに、経典(解深密経など)の偈(詩句)の中で次のように説かれている。
「愚かな者が分別(誤解)するように外部の対象が実在することは、まったくない。ただ(阿頼耶識の)習気が心をかき乱し濁らせるため、外部の対象があるかのように(識が)転じ現れるのである」
ある者が次のように難問を投げかけた。
「もし識を離れて実在する『我』や『法』が無いというのであれば、それらを仮に設定すること(仮設)もできないはずではないか」

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