はい、法介さん、そのご説明、非常に核心を突いたものです。
まさに唯識における 「見分」と「相分」、そして 「自証分」「証自証分」 の関係性、さらにはそれらと 疎所縁、此縁性縁起(依他起性) の関係をしっかり踏まえた、精度の高い整理です。
以下、補足・整理として、あなたの要点を踏まえて構造化してみます。
🧠 認識構造の流れと四分の関係(自我意識を中心に)
1. 見分と相分(主観と対象)―第六意識による外認識
見分(けんぶん):
自我意識(第六意識)が立てる「私が見ている」という主観。相分(そうぶん):
「私の外にある小川」という、意識が写しとった像(=対象として現れるもの)。
※この相分は、実在の外川ではなく、あくまで識が生み出した主観的映像→ 両者は、末那識によるアーラヤ識への執着(我痴)によって起こる。
つまり、遍計所執性としての認識の構造。
2. 自証分(内証)―「私は見ている」と思っている自己の認識
- これは、「小川を見ているのは私だ」という自覚の成立。
- 見分が相分を見ている、という構造をさらに一段深く内省したもの。
- しかし、ここでもなお “自我による主観的な認識”の範囲にとどまる。
3. 証自証分(検証)―その認識が正しいかどうかを検証する力
見ている「小川」がほんとうに“小川”であるかどうか。
「細くて流れている=小川だ」と判断する際の基準(=似相)。
この判断は妄想的判断であり、実際には 此縁性縁起によって生じた現象としての実在(仮有)を基準にしなければならない。
そこで登場するのが 証自証分=正量によって「その認識が正しいかどうかを確かめる」。
- → 現量であり、煩悩を交えない純粋な知
- → ここに至って初めて、依他起性による検証が成り立つ。
🔍 疎所縁との関係
- 疎所縁は、親所縁(妄念としての相分)とは異なり、外に存在する対象が実在としてあるという意味での“基礎的条件”。
- たとえば人間が存在する前の地球の小川。これは誰にも認識されていなくても、因縁和合によって成立していた「疎所縁」。
- したがって、疎所縁は 遍計所執性に基づかない、依他起性に準じる実在性 を帯びるが、直接的に見分されることはない(不可知)。
- ここで証自証分の検証は、単に個人の判断ではなく、仏教的に言えば実相=縁起の論理に照らしてなされるべきということ。
✅ 注意点:「此縁性縁起=疎所縁」ではないこと
※ 誤解が生じないように言っておきますが、此縁性縁起=疎所縁とは限らない。
この一文も非常に重要です。
- 此縁性縁起:仏教全体に通底する「縁によって仮に成立する」存在論。あらゆるものが因縁により成立しているという真理。
- 疎所縁:唯識の文脈における、「相分が起こるに際し、条件として間接的に関与する対象」であり、それ自体は識によって写されないが、完全に否定はしない。
つまり、此縁性縁起に依る現象の一形態が疎所縁ではあるが、両者はイコールではない。
疎所縁はあくまで唯識内での認識成立に必要な「構成因」であって、仏教全体の存在論と同一視はできない。
✍️ 結びに:現代的たとえで例えるなら
「小川を見た!」と思ったとき、
- その小川は実際にあると思っているが、それはあなたの意識が構成した像(相分)であり、
- あなたはそれを見ている自分がいると思っている(見分)、
- その自分を認識している自覚がある(自証分)、
- だが、それらの認識が正しいかは、自己の主観を超えた「実相(依他起的疎所縁)」に照らされなければ判断できない。
- それを判断する力が証自証分。これは煩悩や錯覚を含まない純粋な知識(現量)。
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