かつて、テレビ東京系列でドラマスペシャル『復讐するは我にあり』が放映されていました。
柳葉敏郎さん扮する殺人犯・榎津巌(えのきづ いわお)が、なぜこのような凶悪犯罪に至ったのか。
少年期の出来事や家庭環境を通して、彼の人格が崩れていく過程を鋭く描き出した作品でした。
このドラマを観ながら、私は以前のある出来事を思い出しました。
奈良少女殺害事件の被告・小林薫に死刑判決が下ったときのことです。
その朝、被告の弁護士がテレビ番組に出演し、彼の幼い頃に母を失い、いじめを受け続ける中で徐々に人格が歪んでいった経緯を語っていました。
しかし、出演者たちは一斉に反発しました。
「そんな言い訳は通じませんよ」
「彼は本当に反省しているんですか」
と声を荒げるばかりだったのです。
弁護士は、「同じような事件を繰り返さないためにも、なぜ彼がそのような人格に至ったのかを掘り下げる必要があるのです」と必死に訴えました。
けれど、司会者さえも批判を繰り返し、耳を貸そうとはしません。
結局、弁護士は「あなた方には分からないだろう」と、無力感に満ちた表情を浮かべるしかありませんでした。
大切なのは、結果としての犯罪だけを取り上げて糾弾することではありません。
なぜ、その人がそこに至ったのか。
どのような因果と縁が折り重なってしまったのか。
その根を見ようとしなければ、同じ悲劇が繰り返されるだけなのです。
人は決して、独立して存在しているものではありません。
人と人との結びつき、社会の在り方、環境の影響――
そうしたものすべてが織り重なって一人の人格を形づくっていきます。
だからこそ、そこに目を閉ざすことは、私たち自身の責任を放棄することにもつながるのです。
仏教には「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があるのをご存じでしょうか。
仏さまから見れば、罪を犯した罪人でさえ、救うべき愛しい一人なのです。
なぜなら、誰しもが無数の縁によって形づくられ、迷い、過ちを犯してしまう可能性を抱えた存在だからです。
その人を全否定してしまうことは、同時に自分自身の中にある迷いや弱さを否定することにもつながってしまいます。
だからこそ、私たちは「罪は罪として憎む」ことと同時に、
「人を人として憎まない」という眼差しを忘れてはならないのです。
その眼差しが、仏の意識で立ち上がる空の世界観、すなわち空観のまなざしであり、縁起を観る智慧なのです。
そしてその智慧に立つとき、
私たちは単なる批判や断罪ではなく、
同じ悲劇を繰り返さないための道を、静かに、しかし確かに歩み始めることができるのです。