ママ~デゥユーリィメンバー ディオーストローハー ユーギィブゥミー
Mama Do you remember the old straw hat you gave to me
アィ ロストァハット ロングアゴー フルーツゥ~ ディェホォギキャニォオ~ン
I lost the hat long ago flew to the foggy canyon yeh
ママ~ アアィワンダァー ファワッハップンツゥー ダッァトオーストローハット
Mama I wonder what happened to that old straw hat
フォーリングダウン ザァマウンティンサイド アロォマァリィーチ ライキュユゥアーハーァラト
Falling down the mountain side Out of my reach like your heart
セェァブゥンリィ~ ダァーウィルカァムアープ
Suddenly the wind came up
ステゥーリィング マァ~イハット フロム ミィーイーイー
stealing my hat from me yeh
スロゥリング ワァーリング ガァスト オブ ウィンド
Swirling whirling gusts of wind
ブロウィングィット ハイヤー アウェイ
blowing it higher away
ママ~ ダッオールドストローハット ワズディオンリーワン アァ~イリィリラァブゥドゥ
Mama that old straw hat was the only one I really loved
バウトゥウィローストイット ノーワンクゥブゥレィングイットバック
But we lost it no one could bring it back
ライクザライフ ユーゲィブミー
Like the life you gave me
Suddenly the wind came up
stealing my hat from me yeh
Swirling whirling gusts of wind
blowing it higher away
Mama that old straw hat was the only one I really loved
But we lost itno one could bring it back
Like the life you gave me
Like the life you gave me
『善悪無記』
産まれたばかりの赤ちゃんには
思考は働かない。
生きていく中で思考は築かれていく。
一つ一つの経験が積み重なり、
その人の世界が立ち上がっていく。
その世界は、
時に温かい記憶によって広がり、
時に痛みや不安によって歪む。
幼い頃は、親の愛情を一身に受け、
世界はやわらかく、光に満ちているように感じた。
しかし成長するにつれ、
〝自我〟が芽ばえ、自分だけの視点で世界を見はじめる。
そこで出会う言葉や出来事は、
時に心を励まし、時に鋭く傷つける。
「なぜ自分はこうなのか」
「どうしてわかってもらえないのか」
そんな問いを重ねるうちに、
世の中の厳しさや生きづらさに心はしょげ、
身も疲れ果ててしまう。
だが、その試練を耐え忍んだ者だけが見ることのできる世界がある。
痛みは、決して無意味なものではない。
刺さる言葉も、折れそうになる日々も、
それらはすべて心を深め、命を燃やす薪となって、
生き抜く力へと変わっていく。
「なんで自分はこうなんだ」
「どうして自分だけが…」
「なぜこんな目にあわなければならないのか」
その時は答えが見えず、
ただ苦しみの中でもがき続けるしかなかった。
しかし、時が過ぎ、〝正しい思考〟を得た自分は、
――あの試練にも、意味があったのだと気づく。
「このために、あの出来事があったのか」
そう思えたとき、心の中で散らばっていた破片が、
ひとつの道となってつながっていく。
自分のこころが変わることで、
世界はまるで姿を変える。
同じ風景も、同じ人の言葉も、
受けとめ方ひとつでまったく違って見えてくる。
他人を思い通りに変えようとしても、
思うようにはいかない。
「相手が悪い」のではなく、
自分が悪いのでもない。
物事には本来、善悪の判断はない。
人が自分たちの価値観で勝手に
悪だの善だのと決めているに過ぎない。
仏教で説く〝善悪無記〟とは、
物事を善や悪で縛らず、
そのままの姿として受け止めることを意味する。
困難(こんなん)や試練も、誰かの言葉も、
そのもの自体に善悪はなく、
ただ自分がどう受け取り、どう反応するかで
世界の見え方が変わるだけだ。
だから、他人を責めたり、世の中に不満を抱えたりする必要はない。
自分の心が変われば、
世界そのものも自然にやわらかく、穏やかに見えてくる。
善悪の基準を超えた世界では、
苦しみも喜びも、すべてが自身の成長の糧(かて)となり、
自分のこころの内に確かな光の道筋を照らしていく。
遠くで汽笛を聞きながら
ピアノ伴奏
https://youtu.be/dnAaqtDRBzQ?list=RDdnAaqtDRBzQ
仲内拓磨 - Nakauchi Takuma-
【歌詞】
https://www.uta-net.com/song/3232/
『分別』
人には、それぞれに癖があります。
怒りっぽい人、あわてんぼうな人、
慎重な人、鈍感な人――
書き出すときりが無い程に
人それぞれに独自の癖を備えています。
良い癖であれば問題ないのですが、
「悪しき癖」は、時に判断を狂わせ、
人生に思いがけない苦しみを招き入れてしまいます。
中でも、現代人が最も深く侵されている悪い癖があります。
それは「客観認識」という癖です。
物事を客観的に捉えるということーー
それ自体は科学や医学、哲学を支える大切な方法論です。
しかし、この「客観で見る」という事が、
人の心に奥深く根を下ろしてしまったとき、
そこに大きな落とし穴が生まれます。
日本に客観認識が広まったのは明治の時代の文明開化。
西洋から流れ込んだ「近代的なものの見方」は、
やがて教育や文化を通して社会全体に定着していきました。
確かに、客観的な視点は文明の発展に欠かせないものでした。
科学は現象の違いをとらえるところから始まり、
医学は臓器や症状を切り分けて整理することで病の正体を探ろうとし、
文学でさえも、個人の主観を言葉という共通の器に移すことで、他者へと届いていきます。
けれども、ここに大きな落とし穴があります。
「客観」とは、常に違いを分けてとらえることだからです。
姿や形の違い、数字の大小の違い、音や言葉の違い、
特性や能力の違い――。
文明はこうした「分別」を積み重ねることで発展してきました。
しかし同時に、その分別するこころは「差別」という不幸の種をも育ててきたのです。
教育が進み、知識が広まったこの現代社会で、
なぜいじめや偏見はなくならないのでしょうか。
その理由のひとつは、「客観的に相手を判断する」
という癖が、ますます強まってしまっているからです。
「あの人、気持ち悪い」「普通と違っている」――
私たちは無意識のうちに他者を振り分け、
差別へとつなげてしまうことがあります。
これこそが「客観認識という癖」の暴走なのです。
文明は私たちに豊かさと便利さを与えてくれました。
しかし同時に、人の心には「客観に偏った見方」が深く染みついてしまったのです。
本来は物事をとらえる方法のひとつにすぎなかった客観が、
いつしか人生そのものを支配するようになった。
ここに、現代人が抱える大きな問題があります。
確かに、客観的な視点は科学や医学の発展を支え、文明を大きく前進させました。
その結果、暮らしは楽になり、生活は豊かになりました。
電化製品や自動車、電車、パソコン、そしてスマホ――。
いまや、どれも現代を生きる上で欠かせないものとなっています。
けれども、その文明の先に「幸福」があるかといえば、
必ずしもそうではありません。
経済大国でありながら、
世界幸福度ランキングで53位という日本の現状が、
それを雄弁に物語っています。
では、人の幸福を握る鍵はどこにあるのでしょうか。
お金でしょうか、マイホームでしょうか、家族でしょうか、仕事でしょうか。
いいえ、どれも答えではありません。
人の幸福は「客観」ではなく「主観」の中にあるのです。
なぜなら人生とは、その人が生まれてから死ぬまでに、どのように「感じ取ったか」に尽きるからです。
人生とは、まさに主観の物語なのです。
物事を主観でとらえ、そこから展開してこそ、人は真の幸福へと辿り着けます。
そしてその「主観の大切さ」を説いたものこそが、仏教の教えです。
しかし残念ながら、現代教育の普及によって人々は「客観でしか認識できない癖」を身につけてしまいました。
そのため、本来は主観の世界で説かれている仏教の大事な教えすら、客観的な枠組みで理解しようとしてしまっているのです。
https://livedoor.blogimg.jp/butudou-tpm48sc7/imgs/6/0/609ed02f.jpg
https://youtu.be/psLqxRIZJ6Y?list=RDpsLqxRIZJ6Y ギター伴奏
【歌詞】
https://www.uta-net.com/song/4136/
ひとつ、例え話を聞いてください。
パン屋で代金を払わず、ひとつのパンを懐に入れて持ち帰った男がいました。
社会的に見れば、これは明らかな窃盗です。
人々は彼を「泥棒だ」「悪人だ」と罵るでしょう。
しかし彼が過ちを犯した裏には、
実はこんな事情がありました。
飢えに苦しむ幼い子どもを前にして、
父親はいてもたってもいられずに、つい盗みを犯してしまうんです。
子どもにとってその男は、命を救ってくれる優しい父親でした。
――この男を、あなたは善人だと思いますか? それとも悪人だと思いますか?
社会の目から見れば罪人。だけども子どもの目から見れば、
優しいかけがえのない父親。
同じ人物でも、見る人が変わればその姿は
まるで別人のように映し出されます。
ところが私たちは、しばしば「善か悪か」を即座に断定し、
その判断を声に出してしまいます。
そしてそれがいまのネット社会では瞬時に拡散されます。
掲示板やSNSで、誰かが匿名である人を
「気持ち悪い」とか「あいつは異常だ」と書き込んだとします。
その一言が連鎖して広がり、
やがて多くの人が同じレッテルを貼り始めます。
誹謗の声は増幅され、対象となった人物は心を追い詰められていきます。
耐えきれず、自ら命を絶つという痛ましい出来事が、実際に起きています。
重要なのは、最初の匿名の一言が「因」になり得るということです。
軽率な判断や中傷の言葉は、相手の人生を壊す力をも持ち得ます。
しかも、その行為は他者を傷つけるだけにとどまらず、
後になって真実を知り、「あのとき自分が書き込んでしまった」と気づいた人は、
深い後悔と罪悪感に苛(さいな)まれます。
誤った判断が因となり、巡り巡って自分自身をも苦しめるのです。
仏法が説く〝縁起〟とは、物事に変わらずにあり続ける不変的な存在はなく、
関わりあう縁によって仮に一時的ににそう見えているに過ぎないと説く教えです。
だからこそ、お釈迦さまは「安易に善悪を断定してはならない」と教えられているのです。
私たちの何気ない一言や行動が、他者の運命をも左右し、
やがては自らの心を苦しめる因となることをどうか忘れないでください。
目の前の人を、あなたはどう見るでしょうか。
ひと言を発する前に、
その言葉がどのような縁を生み、
誰をどう傷つけるかを、今一度深く考えてみましょう。
https://youtu.be/S6sVOYvTxPE?si=xpAGXsDhMy1pObRl
【歌詞】
魚高ミチルが歌う「世情」
人間の証明のテーマ
【歌詞】
https://www.uta-net.com/song/295178/
ママ~デゥユーリィメンバー ディオーストローハー ユーギィブゥミー
Mama Do you remember the old straw hat you gave to me
アィ ロストァハット ロングアゴー フルーツゥ~ ディェホォギキャニォオ~ン
I lost the hat long ago flew to the foggy canyon yeh
ママ~ アアィワンダァー ファワッハップンツゥー ダッァトオーストローハット
Mama I wonder what happened to that old straw hat
フォーリングダウン ザァマウンティンサイド アロォマァリィーチ ライキュユゥアーハーァラト
Falling down the mountain side Out of my reach like your heart
セェァブゥンリィ~ ダァーウィルカァムアープ
Suddenly the wind came up
ステゥーリィング マァ~イハット フロム ミィーイーイー
stealing my hat from me yeh
スロゥリング ワァーリング ガァスト オブ ウィンド
Swirling whirling gusts of wind
ブロウィングィット ハイヤー アウェイ
blowing it higher away
ママ~ ダッオールドストローハット ワズディオンリーワン アァ~イリィリラァブゥドゥ
Mama that old straw hat was the only one I really loved
バウトゥウィローストイット ノーワンクゥブゥレィングイットバック
But we lost it no one could bring it back
ライクザライフ ユーゲィブミー
Like the life you gave me
Suddenly the wind came up
stealing my hat from me yeh
Swirling whirling gusts of wind
blowing it higher away
Mama that old straw hat was the only one I really loved
But we lost itno one could bring it back
Like the life you gave me
Like the life you gave me
『世界』
わたしたちが生きているこの世界は、どのようにして〝世界〟として立ち上がっているのでしょうか。
それは「主観」と「客観」という、二つの〝観法〟によって成り立っています。
まず「客観」という観法で外界の姿や形を受け取り、
次にその情報をもとに「これはこうだ」と主観で断定する。
この二つの観法が働くことで、わたしたちの世界は形づくられていきます。
たとえば、目の前にコップがあるとしましょう。
あなたはその形や姿から「これはコップだ!」と疑うことなく手に取り、コーヒーを注いで美味しくいただきます。
――ところが。
もし私が「それ、実は尿瓶なんだけど…」と告げたらどうでしょう。
同じ器であり、同じコーヒーなのに。
それまで美味しく飲めていたものが、途端に飲めなくなってしまうのではないでしょうか。
このように、
主観と客観は、しばしば自分勝手な思い込みによって生じていることが少なくありません。
ただ姿や形が似ているというだけで、安易に「これはコップだ!」と決めつけてしまうようなものです。
仏教では、このように真理にもとづかない認識のあり方を「無明」と呼びます。
無明とは「真理に暗い」という意味です。
だからこそ仏教では、人の「主観と客観」から離れた、もうひとつの観法――「空観」へと意識を向けていくことが説かれています。
空観とは、仏教独自のものの見方で、
主観や客観といった無明にもとづく視点から離れ、
縁起によって対象を捉えるという観法になります。
それは、目に映る対象を見た瞬間に決めつけるのではなく、
ただ外界を客観的に測るのでもなく、
「そのモノがそのモノと成り得た因果と縁」を観じるものの見方です。
かつて、テレビ東京系列でドラマスペシャル『復讐するは我にあり』が放映されていました。
柳葉敏郎さん扮する殺人犯・榎津巌(えのきづ いわお)が、なぜこのような凶悪犯罪に至ったのか。
少年期の出来事や家庭環境を通して、彼の人格が崩れていく過程を鋭く描き出した作品でした。
このドラマを観ながら、私は以前のある出来事を思い出しました。
奈良少女殺害事件の被告・小林薫に死刑判決が下ったときのことです。
その朝、被告の弁護士がテレビ番組に出演し、彼の幼い頃に母を失い、いじめを受け続ける中で徐々に人格が歪んでいった経緯を語っていました。
しかし、出演者たちは一斉に反発しました。
「そんな言い訳は通じませんよ」
「彼は本当に反省しているんですか」
と声を荒げるばかりだったのです。
弁護士は、「同じような事件を繰り返さないためにも、なぜ彼がそのような人格に至ったのかを掘り下げる必要があるのです」と必死に訴えました。
けれど、司会者さえも批判を繰り返し、耳を貸そうとはしません。
結局、弁護士は「あなた方には分からないだろう」と、無力感に満ちた表情を浮かべるしかありませんでした。
大切なのは、結果としての犯罪だけを取り上げて糾弾することではありません。
なぜ、その人がそこに至ったのか。
どのような因果と縁が折り重なってしまったのか。
その根を見ようとしなければ、同じ悲劇が繰り返されるだけなのです。
人は決して、独立して存在しているものではありません。
人と人との結びつき、社会の在り方、環境の影響――
そうしたものすべてが織り重なって一人の人格を形づくっていきます。
だからこそ、そこに目を閉ざすことは、私たち自身の責任を放棄することにもつながるのです。
仏教には「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があるのをご存じでしょうか。
仏さまから見れば、罪を犯した罪人でさえ、救うべき愛しい一人なのです。
なぜなら、誰しもが無数の縁によって形づくられ、迷い、過ちを犯してしまう可能性を抱えた存在だからです。
その人を全否定してしまうことは、同時に自分自身の中にある迷いや弱さを否定することにもつながってしまいます。
だからこそ、私たちは「罪は罪として憎む」ことと同時に、
「人を人として憎まない」という眼差しを忘れてはならないのです。
その眼差しが、仏の意識で立ち上がる空の世界観、すなわち空観のまなざしであり、縁起を観る智慧なのです。
そしてその智慧に立つとき、
私たちは単なる批判や断罪ではなく、
同じ悲劇を繰り返さないための道を、静かに、しかし確かに歩み始めることができるのです。