箸墓古墳の増築の話は聞いたことあるけど、たしか現在では否定の見解になってるはず。
この辺の話って卑弥呼の墓=箸墓古墳っていう前提で調べるからどうしてもバイアスがかかりやすいんよね。
まあどっちにせよ、本体の発掘調査ができない状態だからなんとも言えない。
宮内庁の「天皇とその関係者の墓を守りたい」っていうのもわかるけど、国の歴史解明のためにもっと調査やらせてほしいよね。
たしかに卑弥呼だと言われてる割には伝説らしい伝説があんまり残ってないよね。
大物主神との関係が匂わされてるからその辺で見てるんだと思う。
ちなみに神功皇后も卑弥呼だと言われてる人物の1人だね。
台与は即位当初は私も弱かったと思う。
年齢がってよりも即位した状況をみてかな。
まず、卑弥呼の場合は「共立」だから、いろんな勢力が合わさって王に立てたんだと思う。
でも台与の場合は「共立」じゃない。
たぶんだけど、卑弥呼派が勝手に推戴した王だったんじゃないかな。
そういう状況からすると、当初の台与の権力は地方政権並に落ちてた可能性はある。
ただ「國中遂定」という表記、卑弥呼以上の献上品を見るに、武力統一したとしか思えないんよね。
特に、「國中遂定」やそれに似た描写は卑弥呼の即位時には書かれていなくて
「弟がいて国を治めるのを助けた」っていう二頭政治を匂わせる描写があるのみだし
卑弥呼の居住空間の厳重な防御体制を見るに、当時はかなり逼迫した状況だったと考えるのが妥当かなって。
もしかしたらその後に親魏倭王の称号を貰ってるいったん統一した可能性はあるけどね。
今ふと思ったんだけど卑弥呼の弟謎すぎない?
彼は王になる資格もある身分だと思うけど行動どころか名前すら出てこない。
卑弥呼の死後なんて何か行動しててもおかしくないのに何もない。
卑弥呼の次の王になったとかなら何か言及されるだろうからそれも違うと思うし。
13歳っていう具体的な年齢が出されてるのは気になるけど、この辺は数々の朝貢や親魏倭王をもらってることから魏との距離が近かったからじゃないかなと思う。
その一方で、卑弥呼のようにどういう性質を持っていたかとか弟のような存在が書かれていないのは、彼女に実権がなかった可能性もあるけど、だとすれば傀儡にした人物が史料に現れないのも気になる。
これ卑弥呼の弟が実権を握ってたら面白いよね。
方角の話をするなら、邪馬台国の首都の場所にもよるけど、もし狗奴国の圧力で首都を捨てたんだとすれば北に逃げない?
西遼は遼が金に攻められて逃れた結果だと思ってる。
金は東側にあるからね。
また、フン族が西に逃れたのは、鮮卑の根拠地が東北にあったことと遼東郡の方には後漢の領地があったからだと思う。
鮮卑はもともと東胡と呼ばれるように東に拠点があったわけで、とうぜん当時の匈奴に鮮卑と戦う力はなく、西に逃れるしかなかった。
たしかに宗教や占いの影響は、戦国時代になってもくじ引きで決めてたことや軍配師がいたと言われてるから当時はもっと強かっただろうけど、それを考えてもさすがに難しいと思う。
また、伊都国や魏の玄関口である帯方郡のことを考えても、そこから遠ざかる東に逃れる理由がない。
もし東に逃れる理由があるとすれば北の勢力の謀反くらいじゃないかな。
例えば末盧国、伊都国が同時に敵対したら東に逃れる理由が出てくる。
そもそも遠征とは状況が違うから、指揮が大幅に下がるどころか、そもそも指揮系統が機能してるかも怪しい。
遠征ですら遠くなればなるほど指揮が下がっていって危険だと言われるのに、その上で別の国を制して再興するのはちょっと無理が出てくる。
前方後円墳が円墳と方墳の合体なら、前方後方墳は何だったんだって話もあるね。
前方後方墳と前方後円墳はそれぞれ方墳と円墳の拡大で、その違いはもともとの出自によるものだったっていう説もある。
まあこっちだと今度は前方部の由来はなんなんだってなるけどね。
国譲りの話もそうだし、そもそも記紀には大和を制して天皇になったって言われてるからね。
九州勢力が畿内を攻めた説と畿内勢力が九州を攻めた説の両方で合点がいくようにすれば、どちらかが先に攻めて後にその報復で勝利を収めたっていうストーリーも可能ではある。
最終的に畿内に拠点を置いたってところがポイントだけどね。
ちなみに磐井の乱は九州勢力の最後の反乱だと言われてるね。
狗奴国の位置の「東」の原典は『後漢書』倭国伝の記述だね。
この書物の倭国の記述は基本的には既存の史料を引用したものなんだけど、なぜか狗奴国の位置を南じゃなくて東にしてる。
これを書いた范曄は南朝の宋の人で、政治家であり文学者でもあったから、単純に読み間違えて書いたとは思えないという点がある。
伊都国が奴国説は「王有り」って記述から考えられなくもないけど、それにしては「千余戸」で少なすぎる感じがするし、その次にしっかり奴国が出てくるからたぶん違う。
あるとすればこの奴国の二万余戸と合わせてひとつの国だった可能性かな。
また、奴国が大陸と交流を持ってた可能性は充分有り得るし、卑弥呼が朝貢できたのも奴国ありきだったかもしれない。
ただ、投馬国の五万余戸はたしかに気になるね。
天皇家の正統性の話をしたけど、個人的には台与と天皇家が血縁で繋がってたらロマンあるなって思う。
卑弥呼とは直接血はつながらないにしても、台与が卑弥呼の血縁である可能性はあるし、そうなると間接的に卑弥呼とも繋がるわけで……。
まあほぼほぼ有り得ないと思うけどね。
改行しすぎって投稿エラー出たから2行に分けたよ。
読みにくかったらごめん。