なぐも
諫議大夫 620c55222a
2025/08/10 (日) 04:34:45
>> 759
私の思い浮かぶのは、「他人の人生への共感」という感じかな。
ゲームが、人生かどうかはともかく自分で何らかのリスクのある選択をしてリターンを得るものなら、ストーリーは他人が選択をしてその結果を得ることを傍観する。人間は共感性を持つ生き物だから他人にも感情移入する。場合によっては読者や視聴者が「それを選んじゃいけない!」と分かっている選択をすることもあるが、それは自分の友人が間違った選択をしようとしているのに自分はそれを正すことのできない無力感に通じるものがある。
他人の人生に対して自分は無力。感情移入していたら、それがくやしい時もある。逆にハッピーエンドを迎えたら嬉しいだろう。登場人物に自分自身を投影したり、または友人のような感情を抱けばその人物を応援して、その人物と喜怒哀楽を共有する。
しかし問題は登場人物に共感できるかどうかだ。根本的に異質の思考をする人物がいたって共感できないし、そんな自分とも友人とも程遠い人物が不幸になってもあまり悲しくない。むしろ幸せになるほうが違和感がある。もしくはそんな人物の幸不幸に関心を持てない。
たとえ異世界が舞台だったり異能力を持っていたりしても、メンタリティーを共有し、共に人生を歩めるかどうか。そういうところじゃないかな、と思う。
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なるほど。共感か。
そう考えると、ゲームはおよそ主観的なのに対して、映画やマンガ俯瞰的で一見すると真逆でも、リスクを冒してリターンを得る喜びという点は共通するのかもしれない。
何がどうなるのかは完全に中のキャラクターたち次第で、そのキャラクターに感情移入する必要があるけど、それができればキャラクターの目標というリターンに対して、敵・味方の存在や置かれている環境に一定のリスクがあって、それをどう乗り越えるのかという駆け引きが面白いわけだ。