高市早苗さんについて調べてみた②
来歴
生い立ち
父:設備機械メーカーの東久(豊田自動織機グループ)勤務で営業に従事し、のち大阪営業所長を務めた。
母:奈良県警察に勤務していた。
小学校に入る前から、教育勅語を繰り返し教えられて育った。
両親は全文を暗記していた。
橿原市立畝傍南小学校卒業。
橿原市立畝傍中学校卒業。
奈良県立畝傍高等学校卒業。
大学入試では神戸大学・慶應義塾大学・早稲田大学に合格。
当初、「短大に行かないなら学費を出さない」「女の子だから一人暮らしはさせられない」という親への反骨心から東京の私立大学を第一志望としていたが、学費の面で断念。
入学金までは支払えていた。親の勧めに従い、神戸大学経営学部経営学科へ進学した。
大学時代は実家から往復6時間かけて通学し、学費は親からの援助無しでアルバイトで稼いだ(1980年代の学費は国立大学で年間18万円前後)。
専攻は経営数学。
大学時代は軽音楽部に所属し、ヘヴィメタルバンドでドラムを担当。
大学時代は政治に全く興味がなく、一般企業への就職活動を行っていた。たまたま大学内で松下政経塾の塾生募集パンフレットを読んだところ、研究費を受けながら最先端の勉強ができる点に魅力を感じ、入塾試験を受けた。最終面接で松下幸之助と直接会話して入塾を決意したが、当初は「経営の神様である松下幸之助」の下でビジネスを学ぶことが目的だった。
1984年3月、神戸大学を卒業。
同年4月、松下政経塾に入塾(第5期生)。
1985年、日本はバブル景気の絶頂だったが、松下幸之助より「1990年に入ると日本は長期不況に突入する」などの指導を受け、衝撃を受けた。
「経営の神様である松下がそのような未来を予測しているなら、自分は国の仕組みを作ったり将来のリスクを最小化するための仕事をしたい」と考え、国政挑戦を決意。
1987年、松下政経塾からアメリカ連邦議会にCongressional Fellowとして派遣され、米民主党下院議員のパトリシア・シュローダー(英語版)の個人事務所や委員会において、議員立法のために必要な調査や分析を行った。
1989年に日本に帰国し、松下政経塾を卒塾。
日本経済短期大学専任教員(国際経営論助手)に就任。
テレビキャスター
1989年3月、テレビ朝日のキャスターとなる。同局の『こだわりTV PRE★STAGE』のキャスターを蓮舫と共に担当。
1990年11月、フジテレビ系列の朝の情報番組「朝だ!どうなる」のキャスターとなる。
1992年5月19日、第16回参議院議員通常選挙・奈良県選挙区(改選数1)の公認申請を自由民主党県連に提出した。
同年6月9日、党県連(会長:奥野誠亮)は奈良県選挙区の公認候補を決めるため、奈良市内のホテルで拡大役員総会を開いた。
候補に名乗りを挙げたのは高市と、参議院議員の服部安司の三男の服部三男雄の2人。
有権者313人のうち出席した215人が投票し、投票は異例の無記名で行われた。前日までの不在者投票と合わせて開票した結果、服部が162票、高市が137票、無効が1票で服部に決まった。同月10日、県連は党本部に服部の公認を申請した。同月29日、高市は無所属で立候補すると表明し、保守分裂選挙が確定した。
同年7月26日、参院選投開票。無所属で立候補したが、服部に大差で敗れ落選。本人曰く、この選挙中に怪文書をばらまかれるなどの嫌がらせを受けたという。そのことに関する一次公的記録は不明。
衆議院議員に初当選
1998年、通商産業政務次官時
1993年、第40回衆議院議員総選挙に奈良県全県区(定数5)から無所属で出馬し、得票数トップで初当選。当選後、新党さきがけに公認申請するも断られる。選挙後の内閣総理大臣指名選挙では、自民党総裁の河野洋平に投じた(投票の結果、日本新党の細川護熙が首班指名)。
1994年、政策集団「リベラルズ」に参加。同年4月にリベラルズを母体に結党された自由党(柿澤自由党)の結党に参加。党首の柿澤弘治が同年4月に羽田内閣で外務大臣に就任したため、与党の一員となった。
同年7月、自由党は自民党を離党した海部俊樹を代表とした自由改革連合に参加したため、その結党メンバーとなる。
更に同年12月、新生党・公明党の一部・民社党・日本新党・自由改革連合など(主に統一会派「改革」を結成していた勢力)が結集した新進党の結党に参加した。
1996年10月の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制導入に伴い、奈良1区から新進党公認で出馬し、2選。
同年11月に新進党を離党し、同年12月に自由民主党(自民党)に入党。新進党を離党した理由としては、「総選挙前、新進党の税制調査会で徹底的に議論した上で『大規模な減税は不可能』という結論を出したにもかかわらず、新進党党首の小沢一郎が総選挙の公示日に突然、十八兆円の大規模減税策を公約に掲げたこと」を挙げた。
自民党入党後は清和政策研究会(三塚博派→森喜朗派)に所属(のち派閥離脱)。
1998年7月、小渕内閣で通商産業政務次官に就任。
2000年の第42回衆議院議員総選挙では比例近畿ブロック単独で出馬し、3選。
当選後の同年7月11日より、首相の森喜朗を支援する「勝手補佐官」を自称し、同じく自民党国会議員の下村博文、世耕弘成、山本一太と共に活動した。
2002年、第1次小泉改造内閣で経済産業副大臣に就任。また、自民党による一般向けの政治講座「きょうと青年政治大学校」の講師として「日本経済の再生」について演説した。