「帝政期の修辞学文献に見られるφιλοσοφία の用例には、狭義の「哲学」には収まりきらない意味の広がりが、少なからず見受けられるのも事実である。
ハリカルナッソスのディオニュシオスによる『古代弁論家・序説』は、その代表的な例といえよう。そこではアウグストゥスの治世における「政治的弁論」πολιτικοὶ λόγοι の復活について、以下のような解説が施されている。
「われわれに先行する時代にあっては、「古の哲学的弁論術」ἡ ἀρχαία καὶ φιλόσοφος ῥητορική は踏みにじられ、ひどい侮蔑を受けて滅びかけていた。マケドニアのアレクサンドロス大王の死後、それは徐々に生気を失い衰えはじめ、われわれの時代ともなると、もうほとんど完全に消滅するところまで来ていたのだ。その地位に収まっていたのは「何か別の弁論術」ἑτέρα τιςであり、その見世物的な厚かましさは堪えがたく、没趣味で、「哲学」φιλοσοφία ないしはその他「自由人にふさわしい教養」παίδευμα ἐλευθέριον に何ら与るところのない代物だった。」(ハリカルナッソスのディオニュシオス『古代弁論家・序説』)
これが著者ディオニュシオスの直前の時代までの状況だった。ところが、その要因が何であったかはともかく、自分たちの時代になって「古くて思慮ある弁論術」ἡ ἀρχαία καὶ σώφρων ῥητορική は正当な地位を回復し、一方の「新しくて無分別なほう」ἡ νέα καὶ ἀνόητος は、若干のアジア諸都市を例外として、ほとんどすたれてしまったという。ディオニュシオスはさらに、古典期の弁論家たちを扱う自らの論考が、「市民的な哲学」ἡ πολιτικὴ φιλοσοφία の研鑽に励む人々にとって有為にして不可欠なものだ、とも述べている。またその『イソクラテス論』においては、「真の哲学」ἡ ἀληθίνη φιλοσοφίαにいそしもうとする者、わけても実践において世を裨益すべくそれを志す者は、イソクラテスの示した道にこそ倣うべきだ、と促される。ディオニュシオスにおけるこうしたφιλοσοφία の用法が、狭義の「哲学」を念頭に置いたものではなく、イソクラテスの用例に倣ったものであること、そしてそこでの「哲学的」φιλόσοφος という形容詞は、むしろ「政治的」πολιτικός というのに限りなく近いことは、これまでにもすでに多くの論者によって指摘されてきた。」