H.O.P.E.

ネット喧嘩論考 / 69

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なぐも 2026/08/20 (木) 02:20:33

「何をしたいのか」ね。私自身はオースドックスに相手を論破したかったから。もともと議論を好んでいたけど、議論だって「正しさを求める」とか「妥協点を見出す」にとどまらず「自分の主張を貫くために相手を論破することを目的とする」ことだって多々ある。そういう「喧嘩的な議論」に対応する方法を探るために喧嘩を始めた。だから私の喧嘩スタイルは「議論的な喧嘩」で、「カラスは白い」ような自分で間違っていると分かっている主張をすることもなく、煽り要素も少なかった。ただ喧嘩は議論をしているような体裁をとって意図的に論理を飛躍させたり揚げ足を取ったりするから、それを学習して議論において相手の論理的飛躍や揚げ足取りへの対応力が身につくことを目指したわけ。結果、あんまり身につかなかったけど。私が喧嘩を始めた動機はそういうふうに「議論のやり方の幅を広げたかった」というのがある。私の議論のテーマの多くが政治的問題で、これって理想はともかく現実には論破が目的になることが多いじゃん。政治の場合、理屈だけでなく思想がからんでくる。場合によっては理屈すら、思想を貫くための方便だったりする。

そんな私が喧嘩をやってた時代に興味を引かれたのが、当時の日向の喧嘩だった。比較的最近の日向じゃなくて2010年代後半の日向のやり方。私は「勝つこと(論破)」を目的としていたのに、当時の日向は全然違うことをやっていた(と私には見えた)。だって勝負を優勢に進めていても突然「俺の負けでいいよ」と投げることがあったんだもん。私からすると、勝ってたのになんてもったいない、と思った。でも日向は自分が楽しむためにやってた(ように見えた)から、楽しくなくなれば負けてもいいから投げてたんだよね。

これも日向本人が読めば「違う!」と怒られるかもしれん。あくまで「私にはそう見えた」という話を語ると、日向の喧嘩はコテコテ理屈を積み重ねるんじゃなくて、煽りに重点があったと思う。ただし煽ればなんでもいいわけじゃなくて、煽りのセンスを追求していたように思う。だから私のような、堅実に理屈を積み重ねていくタイプは面白味がない。もちろん、「お前はゴミw」みたいなステレオタイプ的な煽りもくだらない。さらに、相手を怒らせることに成功しても必ずしも評価しない。当時の日向を見てると、大げさな表現を使えば「煽り方に創造性や芸術性を求めていた」とでも言うか。本人は「違う」と言うかもしれんけど私にはそう見えた。

日向ってもともと荒らし界隈の出身でしょ。その界隈の人がどうして荒らしをするのか私には理解しかねるけど、相手への攻撃を通じて自分が楽しむことが根底にあるんじゃないかと思う。それは世間的には迷惑行為でしかない。しかし相手を傷つけたり困らせたりするという迷惑行為をやめた荒らしが喧嘩界隈に入ってきたら「言い争いを通じて刹那的な楽しみを求める」ことになってもおかしくない。「刹那的な」というのは勝利のために苦しい場面を経ることや、それによって高評価を得ることを求めない、あくまでその場面のみの娯楽に徹するという意味で。

喧嘩に何を求めるのか、何をしたいのかは本当に多様で、ある人には喧嘩に見えても別の人には荒らしに見えたりいろいろあると思う。白鳥の「喧嘩師たるもの…」も、私は賛成しないけど、私よりもずっと喧嘩を知っている白鳥が言うことは一概に否定できないよね。「喧嘩師たるもの」という言葉で思い出したけど、私が喧嘩を始めて間もないころ、難藻内容に「お前には喧嘩師の矜持がない」と言われたことがあった。議論の延長線で喧嘩を始めて、議論に強くなるためのツールのように喧嘩を見ていた私は「喧嘩師の矜持」を語られたことがショックだった。その内容はもう忘れたけど、白鳥の「喧嘩師たるもの」と難藻内容の「喧嘩師の矜持」は違うもので、でもそれぞれに哲学がある。

議論から来た私、荒らしから来た日向、それに白鳥や難藻内容、それぞれ「何をしたいか」は全く違うものかもしれない。私がここにいるのは、やはり自分が過去に求めていたものがオビディに近いと思ったからかな。私は喧嘩のことを一言で「論破ゲーム」と表現する。ゲームである以上、対戦相手そのものを傷つけたり人格否定したりはしない。攻撃的発言は容認されても無法状態ではなくてそれなりの秩序が欲しい。まあ、すでに引退した私が言うのも僭越なんだけど。

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