日蓮さんの直弟子の日興聖人が公家に奏上し、武家に訴えて次のように云われております。
「日蓮大聖人はもったいなくも上行菩薩の再誕であり、法華経本門を弘経するために現れた偉大な方である。すなわち、仏は未来の機根を考えられて時代を正法・像法・末法の三時に分け、法を四依の菩薩に付嘱されたのである。仏滅後、正法千年の間に迦葉・阿難等の聖人が、まず小乗教を弘めて大乗教を省略し、次に竜樹・天親等の論師が出て小乗教を破って大乗教を立てた。像法千年の間では中国の陳・隋の両国の時代に、天台大師は南三・北七の十師の邪義を破り、日本においては桓武天皇の時代に、伝教大師は南都六宗の誤った論を改めさせた。
今末法の世に入っては上行菩薩が出現される世であり、法華経本門の流布する時である。正法・像法時代は過ぎてしまったのに、どうして爾前迹門の教えに強いて帰依する必要があろうか。とりわけ大切なことは、天台大師・伝教大師は像法時代において法を説き演べ、日蓮大聖人は末法の時代を迎えて弘通したのである。彼は薬王菩薩の生まれ変わった身であり、日蓮大聖人は上行菩薩の再誕である。これらのことは経文にも載っていることであり、この解釈においても明らかである。」
その日興聖人に日蓮さんが授与された、「万年救護の大本尊」という日蓮真筆ご本尊があります。
現在も保田妙本寺に現存しているその「万年救護の大本尊」は、日蓮から日興、日興から日目、日目から日郷、そして日郷から保田妙本寺の歴代貫首に伝承されてきました。その本尊の脇書には、
「大覚世尊御入滅後二千二百二十余年を経歴す、爾りと雖も月漢日三ヶ国の間未だ此の大本尊有(ましまさ)ず、或は知って之を弘めず、或は之を知らず、我が慈父仏智以て之を隠し留め末代の為之を残し玉う、後五百歳の時上行菩薩世に出現して始めて之を弘宣す」
と書かれています。大聖人様は「日蓮は上行菩薩の応現であり、日蓮の本地は上行菩薩である」と明確に宣言され、また久成釈尊を「我が慈父」と尊崇し、「この大曼荼羅御本尊は久成釈尊が末法救済の為めに留め残され、末法に我が本弟子上行菩薩に弘宣を命じられた本尊であり、今上行菩薩の再誕として日蓮が弘宣するのである」と語っています。
本化妙宗の山川智応博士著『日蓮聖人研究第二巻』には、この讃文(脇書)に関して以下の様に述べられています。
なぜ此の文永十一年十二月に、御自身の本地顕発の御本尊(万年救護本尊)を御図顕なったかといふと、佐渡にお越しになるまでの「勧持品」の二十行の偈文の実行において、聖祖は上行菩薩の弘通における文証を実践せられた。ここにおいてか我れ使命を受けたる人として、三大秘法の中心たる本尊を顕はされ、また三秘建立をなされた。これ上行菩薩の弘通における理証を実践せられたものである。即ち上行菩薩でなくば悟り出し弘通することの出来ぬ理を悟り出し弘めはじめられたのである。けれどもまだ佐渡では現証が周備しない、自界叛逆難は当った。まぎれもなく当った。他国侵逼難も牒状は度々来たが、まだ実際は来なかった。然るに佐渡御赦免後、『ヨモ今年ハ過シ候ハジ』と仰せられた、その文永十一年十一月に蒙古は果して来たのである。その十二月十五日聖祖「顕立正意抄」を作って、「立正安国」の予言の符号を仰せられた。これ上行菩薩の弘通における現証を実現せられたものである、即ち霊的大威力者たる現証を完成せられたのである。こゝにおいてか聖祖御みづから此の御本尊を御認めになって、憚る所なく本地を御顕発になったのであると解して、非常に厳重なる御化導の隠顕進退が了られ得るのでありまする。
(山川智応全集第四巻506~7頁)
万年救護本尊の相貌
仏部より天部・明王までが明記・勧請され、十界皆成の本仏の仏国土の意義を表しているので仏法守護の四天王が冥伏され、及び天界の悪道の第六天魔王以下地獄界までの衆生が、法華経宝塔品の三変土転の人天移さるるの意義に基づき冥伏されている。又、日本守護の本化垂迹の天照・八幡の二神が「天照八幡等諸仏」と明記されその本地を示されている。なお図顕讃文の意義も含む当大曼荼羅の示し書により、日蓮自身の上行自覚が示されている。
法介さん、大変貴重な史実を共有していただきありがとうございます!日蓮大聖人の上行菩薩としての自覚と、それに基づく御本尊の顕示が、末法の衆生救済を目的として極めて重要な意義を持っていたことが明らかですね。
「万年救護の大本尊」が日蓮大聖人の直弟子である日興聖人を通じて伝えられたことや、文永十一年の蒙古襲来という歴史的背景と「立正安国論」の予言成就との関連性もまた、この御本尊の特異性を強く裏付けています。
この脇書きから読み取れる「久成釈尊による末法救済の留め置き」という思想、そして「上行菩薩としての使命感と霊的実現の確証」は、日蓮大聖人が宗教史上いかに重要な存在であったかを示していますね。加えて、日本固有の守護神(天照大神や八幡大菩薩)が含まれている点も、当時の社会的・宗教的背景を反映したものとして非常に興味深いです。
このような歴史と哲学を基盤に、現代で法華経の意義をどのように広めていくか、そして「観心」としての日蓮教学を深める道もまた尽きることがないように感じられます。どこか気になる部分や、さらに掘り下げたいテーマがあれば教えてください!
法介:では「事の一念三千」というテーマでお話を続けて参りましょう。
「事の一念三千」というのは、
真如門(絶対妙) --- 通相三観(言葉を超え、完全なる「無覆無記」、すなわち究極の無為法を体現。)
の法門でして、「無覆無記」は唯識学では阿頼耶識の領域として説かれております。
ですからこの「事の一念三千」は阿頼耶識に収まっている「無漏の種子」にまつわる御法門な訳です。
具体的に言いますと、衆生が究極の覚りを得る無為法が三因仏性としてこの阿頼耶識に「無漏の種子」として収まっているんです。
素晴らしいテーマですね!「事の一念三千」は天台教学の核心にして、日蓮教学においても極めて重要な法門です。「事の一念三千」は、抽象的な理論を超え、現実の一念(事相)における三千の諸法が収まっているという壮大な視点を持ちます。そして、その基盤として唯識学の「阿頼耶識」と「無漏の種子」が関わるという解釈も非常に深遠です。
1. 阿頼耶識と無漏の種子
阿頼耶識は、唯識学において「一切の種子を蓄える識」とされ、全ての善悪の業が蓄積される場所ですね。この阿頼耶識に含まれる「無漏の種子」が、仏性の三因(正因仏性、了因仏性、縁因仏性)の基盤として存在する点は重要です。
特に「無覆無記」としての無為法の領域は、善悪を超越した純粋な存在の境地であり、ここにおいて衆生は究極の覚りに至る可能性を持つ、と考えられています。この「無漏の種子」が阿頼耶識に蓄えられているという教えは、衆生が本来的に仏性を備えているという希望に繋がります。
2. 真如門(絶対妙)と通相三観
「真如門」は、究極の絶対的な存在、すなわち因果を超えた真実そのものであり、これは理性や言葉を超越したものとされます。その上で、「通相三観」(空観・仮観・中観)は、一切の存在が空であると同時に仮有であり、さらにその調和が中道として成立することを示しています。
しかし、「事の一念三千」では、この理論的な通相三観が単なる観念ではなく、実際の「一念」の中に具体的に収まるのです。一念の中に三千の諸法(十界、十如是、三世間)が含まれることで、理論が現実と結びつきます。
3. 「事」の重要性
ここで「事」というのが重要ですね。つまり、ただ理論としての「一念三千」ではなく、「事」の次元においてそれを実現すること。これは、日蓮大聖人の教えにおいて、「本尊」に具現化されています。日蓮大聖人は、末法の衆生がこの「事の一念三千」を現実に体験し、覚りに至るための手段として、三大秘法を説かれました。
そのため、「事の一念三千」は「阿頼耶識に収まる無漏の種子」を引き出す方法論でもあるのです。ここでの無漏の種子とは、例えば題目を唱えることで覚醒され、衆生が仏果を得るための根拠ともなります。
4. 現代への応用と考察
「事の一念三千」は、抽象的な教理ではなく、実践的な法門です。題目を唱える中で、三千の全ての法が現れる一念を体感し、そこに仏性を実現する。この実践は、「真如門」に直結し、阿頼耶識に眠る無漏の種子を発現させる行為といえます。
法介さんのご意見では、この「無漏の種子」が現代人にとってどのように活用されるべきか、また、「事の一念三千」が持つ実践的意義をどのように深めていくべきとお考えでしょうか?続きをお聞かせいただければと思います!