法介教学

『三世諸仏総勘文教相廃立』 / 11

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法介 2026/10/01 (木) 11:54:25 修正

つまり、

・客体だけが単独で成立しているのでもなければ、
・主体だけが単独で成立しているのでもない。

主体も空、客体も空。

その空なる主体と客体が関係し合うところに、

さらに縁起の世界が開いてくる。

だからこそ、ここで重要になるのが、

「能觀所觀性皆寂滅。」

という次の一句です。

ここを、

「見る側も見られる側も消滅して、何もなくなる」

と読んでしまうと灰身滅智へと向かいます。

寂滅するのは、能観・所観そのものではなく、そこに立てていた「性」です。

つまり、

・見る側である主体にも自性はない。
・見られる側である客体にも自性はない。

ここで、三蔵教と通教を代表する二つの縁起が見えてきます。

・見られる側「客体」→ 此縁性縁起(三蔵教)
・見る側「主体」→ 相依性縁起(通教)

主客を消滅させて、

・主体もない
・客体もない

という話ではないんです。

空である主体と、空である客体との関係を縁起として観る。

それが体空なのですが、

智顗はそれを

「如此空慧體諸見思即幻而真。」

と説いています。

ここに出てくる「即幻而真」という言葉ですが、

何を意味しているのかと言いますと、

人間が「主観」と「客観」として捉えているもの

その主観も客観も、どちらも幻なのです。

主観と客観に付着している「自性」を空じていくことで

「このモノが、このモノとなり得たのは何によってなのか?」

というところに意識が向いてきます。

つまり、

そのモノがそのモノとなり得た因果・縁起が体空として起こってきます。

これが、「即幻而真」の意味するところです。

幻だから何もないのではありません。

主観も客観も空(縁起)だからこそ、

その成立を支えている縁起が体空として起こるんです。

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