ダルマ太郎さん
2024/4/23 21:35
> 止観の修習によって三明のような能力を開発するというのは仏教の修行論の柱ですよ。
現実にそういう超能力者に会ったことはあるのですか? 私は、経文を重視しますが、経典に書いてあることは、方便・比喩・象徴・因縁が多いので、文章通りには受け止めません。Sさんは、すでに三明を開発済みなのですか?
> どうもダルマ太郎さんは座学に偏りすぎて、頭だけで理解できる範囲で仏教を理解されようとしているのではないでしょうか。
私は、自分が学んだ行を実践しています。座学に偏っているとは思えないし、頭だけで教えを理解しようとも思っていません。戒定慧・八正道・六波羅蜜は重視しています。会ったこともないのに、私のことを決めつけるような発言をするのはいかがなものでしょう?
> もし論理の追求だけで仏教が理解できるなら、なんのために三学が説かれたのか自問されてみるべきではないでしょうか。
決めつけて、こだわり、執着するのは、智慧を得ることの妨げになりますよ。
> 大獅子吼経というのは同名経典が二つありまして、わたしが言及しているのは中部所蔵のほうです。
獅子吼大経のことのようですね。分かりました。
> 私やあなたが死ぬことと、ブッダの入滅との根本的な差異はどこにあるのかといえば、それは再有(punabhava)があるかないかです。これを否定するならなんのための仏教なのでしょうか。
経典では、釈尊は解脱者なのですから、再生はしないでしょう。
2024/4/23 21:34
> 少なくとも初期経典の中で、身分制度がクローズアップされて問題とされているような記述は読んだことがありません。
出家したら、身分を捨てて、平等になるのでしょう。カースト制度を問題視していたから、そういうことにしたのではないでしょうか。
> シュードラやアウトカーストの人が輪廻による身分制度に苦しみ、それをブッダに訴えるという説話などありませんし、ブッダがそうした問題について言及していることもないのです。
Sさんは、初期経典をすべて読まれたのですか? 読んでいない経典に書いてあるかもしれませんよ。
2024/4/23 21:33
> 問題は、ダルマ太郎さんの論理が正しいなら、初期経典の多くの記述と矛盾するのですが、そのことに一見仏教に詳しそうなダルマ太郎さんが全く気づいていないということと、その点を指摘されても、脆弱な根拠しかないのに、自身の説を再考することがないのは何故かということです。
論理を展開したわけではなく、単なる意見・感想です。そんなに考えて書いたわけではありません。Sさんが、私の意見が初期経典の多くの記述と矛盾するととらえているように、私は、Sさんの意見は、大乗経典の多くの記述と矛盾していると思っています。初期仏教と大乗仏教は、同じ仏教でありながら、違う宗教のように違いますから、意見が違うのは当然のことです。Sさんは、自分の道を行けばいいし、私は私の道を行きます。
> それは見取(見解への執着)ではないのでしょうか? そうでないなら、その考えを一度手放して、初期経典を読んで見るなりの努力は何故されないのでしょうか?
初期仏教だけが正しいという考えを一度手放して、大乗仏教経典をきちんと学ぶという努力は、なぜされないのでしょうか?
> 大乗仏教は初期経典を否定したのではなく、それを受け継ぐことを自負していた人たちによって始められたのですよ。
そうですよね。だから、伝統的な経典の方が勝れているというのが初期仏教の信者であり、初期経典を発展させて作ったので、大乗経典の方が勝れているというのが大乗の信者です。人それぞれの考え方がありますから、他者を自分たちの道に勧誘するような行為は慎んだほうがいいと思います。
2024/4/23 21:31
> ブッダ以前に業報輪廻説がインド社会に浸透しており、身分制度と結びついて人々を苦しめていた
私は、そのように学んできました。一冊だけではなく、複数の本でそのように書いてありましたよ。経典にはない事実もあるんじゃないでしょうか?
> これは私の解釈ではなく、多くの経典に書いてあることであり、仏教の根本的な教義ですから、是非ご自分でお読みになって確認してください。
私は、現在読んでいる途中の本が幾冊もあるので、初期仏教の経典を読むひまはありません。Sさんは、大乗よりも初期仏教の経典の方が勝れていると思っていませんか? 龍樹や世親の論書を読まれているようですが、全巻を読んだのですか? 大智度論は、全百巻の大作です。読むのに時間がかかります。第一、Sさんは、大智度論を持っているのですか?
> そして、ダルマ太郎さんの論旨は、この仏教の伝統的なブッダ観を真っ向から否定しています。
否定しているつもりはありません。
> ですので、その立論の根拠を伺ったわけですが、どうも断片的な情報を元にした推測の域を出ないようなので、論理として脆弱、もっといえば成立していないように思われます。
私が感じたことは、Sさんのいう根拠とは、初期仏教経典、それもパーリ語経典に説かれているかどうかなんでしょう? 経典主義者のように思えます。パーリ語経典に基づいていなければ、ダメみたいなイメージがします。「経典にはこのように書いている」と主張するだけでなく、その箇所の引用をしていただいた方がいいです。箇条書きされても、経典のことを知らないのでピンときません。
Sさん
質問者2024/4/23 9:22
>それらは言葉であって、真理ではありません。
あなたは非有非無を誤解されていると思います。ダルマ太郎という名前は当然に仮名であり、その実体はありません。しかし、ダルマ太郎と仮に呼ばれている現象的個体(bhava)は縁起によって変転しながら存在しています。そうでないなら、私は誰とお話しているのですか?
そしてダルマ太郎という現象的個体は私と話したことによってわずかながらでもその未来を変えるでしょう。それが業報ということです。そのように無我なる現象的個体に連続性を与えているのが業であり、輪廻です。輪廻は概念・幻なのではなく、現在のダルマ太郎さんがそうであるように、縁起によって変転する現象として存在しています。それを仮設というのです。
「新たに発心して仏道に入った者は、空という存在の見方、空という教えに執着し、生死(輪廻)の業の因縁に関して疑いを持つようになるようだ。 『もし一切のものが究極的に空であり、来るのでなく、去るのでなく、出るのでなく、入るのでもないという有り方をしているならば、一体何が死んで生まれるのか。今、眼で見えるものでさえ、実体的に有るものではない。いわんや死後の他世は見ることもできないのに、有るということがあろうか』と。 こうした様々な誤った疑い、真理に反する心を断つために、仏は様々な因縁によって、広く、死が有り、生が有るということを説かれた。 (中略) このように人の死や生は、来去する主体は無いといえども、煩悩が尽きないがゆえに、身体、心において相続し、さらに身体と心を生じさせる。身体と心を作る業そのものは後世に続なくても、その因縁は存続して後世において果報(業の結果)を受ける。」
質問者2024/4/23 9:21
>不明というのは、釈尊は、輪廻が事実として有るとみたか、無いとみたかです。
悪魔の存在というのは仏教の教学体系において根本のものではありません。しかし、輪廻というのは仏教全ての前提です。もしも仏教が輪廻からの解脱を説いていないなら、死ねば苦から解放されるということになりますよね? では誰も仏教を実践する必要などなくなりませんか? 私やあなたが死ぬことと、ブッダの入滅との根本的な差異はどこにあるのかといえば、それは再有(punabhava)があるかないかです。これを否定するならなんのための仏教なのでしょうか。
>龍樹の話はどうなったのですか?
龍樹の話に入る以前に、ダルマ太郎さんの事実認識に歪みが見えたので、その点を伺ったわけです。そしてその歪みは一向に解消されたように見えず、ダルマ太郎さん自身は歪みに気づいてさえいないようです。
質問者2024/4/23 9:17
>生まれによって身分が決まるということは、業報輪廻説と融合
身分制度は必ずしも理論的根拠を必要としません。近代以前の社会ならどこにでも身分制度があり、それは血縁に基づいているだけです。武士の家に生まれれば武士であるように、バラモンの家に生まれればバラモンとされていただけです。
勿論こうした身分制度が人々を苦しめていたという現実もあると思いますが、少なくとも初期経典の中で、身分制度がクローズアップされて問題とされているような記述は読んだことがありません。シュードラやアウトカーストの人が輪廻による身分制度に苦しみ、それをブッダに訴えるという説話などありませんし、ブッダがそうした問題について言及していることもないのです。
考えれば当然のことで業報は身分に限らず人々共通の問題だからです。バラモンだからといって業の報いを避けることは出来ませんから、身分制度など本質的な問題ではないのです。
>本当にこのような超能力を釈尊が持っていたと思われますか?
止観の修習によって三明のような能力を開発するというのは仏教の修行論の柱ですよ。それは初期経典だけではなく成唯識論のような唯識の論書でも、現観荘厳論のような中観派系の論書でも説かれていることです。また、自分で禅定に入れるようになれば誰もがそうした能力の存在を知ることができます。
どうもダルマ太郎さんは座学に偏りすぎて、頭だけで理解できる範囲で仏教を理解されようとしているのではないでしょうか。もし論理の追求だけで仏教が理解できるなら、なんのために三学が説かれたのか自問されてみるべきではないでしょうか。
>その経典にサーリプッタ尊者は出ていますか?
大獅子吼経というのは同名経典が二つありまして、わたしが言及しているのは中部所蔵のほうです。
質問者2024/4/23 9:11
わたしがカウシータキの成立年代を初めとする事実認識について確認したのは、ダルマ太郎さんの論旨が、「ブッダ以前に業報輪廻説がインド社会に浸透しており、身分制度と結びついて人々を苦しめていた」ということを前提としているように見えるからです。
しかし、パーリや阿含のような初期経典で明確に伝えられているのは次のことです。
%%{fg:blue}1. ブッダは止観の実践によって自ら輪廻を如実知見した
これは私の解釈ではなく、多くの経典に書いてあることであり、仏教の根本的な教義ですから、是非ご自分でお読みになって確認してください。
そして、ダルマ太郎さんの論旨は、この仏教の伝統的なブッダ観を真っ向から否定しています。ですので、その立論の根拠を伺ったわけですが、どうも断片的な情報を元にした推測の域を出ないようなので、論理として脆弱、もっといえば成立していないように思われます。
問題は、ダルマ太郎さんの論理が正しいなら、初期経典の多くの記述と矛盾するのですが、そのことに一見仏教に詳しそうなダルマ太郎さんが全く気づいていないということと、その点を指摘されても、脆弱な根拠しかないのに、自身の説を再考することがないのは何故かということです。
それは見取(見解への執着)ではないのでしょうか? そうでないなら、その考えを一度手放して、初期経典を読んで見るなりの努力は何故されないのでしょうか?
大乗仏教は初期経典を否定したのではなく、それを受け継ぐことを自負していた人たちによって始められたのですよ。
2024/4/23 7:48
> ダルマ太郎さんは要するに昔ながらの輪廻方便説を主張されていると思うのです。
方便とは、ウパーヤ upāya の訳です。「(真理に)近づける方法」という意味なので、すべての教えは方便です。輪廻だけが方便ではなく、業も、解脱も方便です。それらは言葉であって、真理ではありません。
以上です。
2024/4/23 7:46
> 輪廻によってカーストが決まるという説は説かれていません。
生まれによって身分が決まるということは、業報輪廻説と融合していますよね。
> 三明とは自らの過去世を見る宿住随念智、衆生の輪廻を見通す天眼智、そして輪廻から解脱を悟る漏尽智の三つの智慧です。
三明とは、超能力のようですね。本当にこのような超能力を釈尊が持っていたと思われますか? 私には、何らかの比喩表現のように思えます。Sさんの場合、経典に書いていれば、神々や魔物・悪魔の存在も信じるのでしょうか?
> ブッダは輪廻を如実に知見していたというのが経典の伝える教えです。ですからそれは不明でもなんでもないのでは?
不明というのは、釈尊は、輪廻が事実として有るとみたか、無いとみたかです。Sさんの意見では、「経典に悪魔が登場するのだから、悪魔は実在する」というのと同じではありませんか?
> これは解釈とか思想の問題ではなく、事実についてのことなので、明確にお答えいただける事かと思いますので。
Sさんのおっしゃる事実とは、経典に書いてあるか否か、なのですか? それも初期仏教経典に限るのでしょう? 私は、大乗仏教徒ですから、初期仏教の経典については知りません。かと言って、大乗の経典を引用しても、悉く否定するのではありませんか? よって、期待されるような明確な答えは持っていません。それよりも、龍樹の話はどうなったのですか? この質問は、そのことが本題でしょう?
2024/4/23 7:45
> ブッダの生没年さえ不明なのに、カウシータキウパニシャッドが紀元前7世紀頃で、ブッダより前の成立だと断言できる根拠はなんですか?
釈尊の生誕の年が諸説あることは知っています。私は、中村元先生の説を取り入れています。紀元前463年~紀元前383年という説です。法華経に後五百年という言葉があります。これは、釈尊が亡くなって五百年という意味だという説が有力ですので、法華経が編纂された1~2世紀から五百年前ということで、だいたい中村先生の説と一致するからです。釈尊が紀元前4世紀頃だとしたら、カウシータキ・ウパニシャッドの方が古いと言えると思います。あくまでも仮説ですが。
> 輪廻がウパニシャッド以前から庶民に知られていたという根拠はなんでしょうか?
カウシータキ・ウパニシャッドでは、チトラ王がアールニ仙親子に輪廻について説いています。クシャトリアが、バラモンに説いているということは、その頃のバラモンには知られていなかった教えなのでしょう。また、王が知っているということは、庶民階級にも知られていたのではないでしょうか。
> 釈尊の時代は、業報輪廻の思想が定着しており
このことは、幾つかの本で読みました。たとえば、梶山雄一先生の『菩薩ということ』に書いてありました。私は、初期経典よりも、大乗仏教を学んできたので、『大獅子吼経』を読んでいません。少し調べましたが、その経典にサーリプッタ尊者は出ていますか?
> そのように前提とされていることが根拠不明、或いは間違いなら、ダルマ太郎さんの論理にはあまり説得力がなくなってしまうからです。
確かに客観的な根拠が欠けていれば、論理的とはいえません。論理的でなければ、説得力もなくなってしまいます。私も根拠のない意見の場合は、相手に根拠を尋ねますので、思いは分かります。お尋ねの内容について、すべての根拠は示せないかも知れません。なぜなら、記憶にあっても、どの経典だったのか、何の本だったのかを忘れていることが多いからです。
> カウシータキウパニシャッドが紀元前7世紀頃の成立という根拠はなんでしょうか?
古ウパニシャッドは、紀元前八世紀頃から編纂されたという本を読んだことがあり、カウシータキウパニシャッドは、最古のものではないけれど、古いものだと書いていました。よって、七世紀頃という見解を取り入れました。どの本なのかは忘れました。
2024/4/23 7:43
お早うございます。
> まず事実関係について、根拠のよくわからないこと、完全な事実誤認と言えることを自明の前提がごとくおっしゃってるのが気になります。
歴史的なことなのに、そのことが事実かどうかは判らないのではないでしょうか? 特にインドの場合、歴史に関する資料がほとんどないといいます。説には、定説・仮説・異説がありますが、歴史は現在定説とされていることでも、何らかの証拠が見つかればひっくりかえります。歴史的な事実は、はっきりとは分からないのだと思いますが・・・
事実誤認だと決めつけることの根拠は何でしょうか? 釈尊が生まれたのは、二十世紀になってからである、などと書けば事実誤認だと断定ができるのでしょうが、二千年以上も前のことで、事実だとか、事実誤認だとかを量れるのでしょうか? 私は、経典や書物や論文を読んで、定説に近いものを選んで書いています。自分勝手な思い付きではありません。
質問者2024/4/23 0:28
大獅子吼経や業分別経にある通り、ブッダは智慧第一と呼ばれたサーリプッタ尊者含め、人々が輪廻について全く知らないという前提で業と輪廻の解説を行っています。輪廻が社会通念なら、とても奇妙なことと言わざるを得ません。また。輪廻が社会通念なら、輪廻を見通す三明を得たからブッダになったという教義も全く意味不明です。誰もが知っている常識を知ったからブッダになったということでしょうか??
つまり輪廻方便説は経典の伝承とまったく矛盾しているし、確かな根拠もないのです。だとすると方便説は崩壊しますよね、という意味で事実認識について伺っています。
質問者2024/4/22 23:59
まず、こうした事実関係について、私の疑問にお答え願えればと思います。 これは解釈とか思想の問題ではなく、事実についてのことなので、明確にお答えいただける事かと思いますので。
補足しますと、私は意地悪く揚げ足取りをしたいわけではないのです。 ただ、ダルマ太郎さんは要するに昔ながらの輪廻方便説を主張されていると思うのです。 輪廻方便説というのはブッダ以前からインド社会には業報輪廻説が浸透しており、ブッダは輪廻など信じていなかったが、人々を道徳的に教化するために輪廻説に迎合してこれを利用したという説です。
こうした説を説く人は仏教学者に多いのですが、そもそもの前提である「インド社会には業報輪廻説が浸透していた」というのが私にはまったく説得力が感じられないのです。 何故なら、経典の記述と矛盾するからです。
Sさん : : 質問者2024/4/22 23:58 : >釈尊が業報輪廻をどのようにとらえていたのかは分かりません。肯定していたのか、否定していたのかは不明です。 : ブッダがブッダと呼ばれるようになったのは、三明と呼ばれる智慧を得たからであり、三明とは自らの過去世を見る宿住随念智、衆生の輪廻を見通す天眼智、そして輪廻から解脱を悟る漏尽智の三つの智慧です。 これは三明ヴァッチャ経という経典で明言されていますので、ブッダは輪廻を如実に知見していたというのが経典の伝える教えです。 ですからそれは不明でもなんでもないのでは? : これに限らず、初期仏教経典には輪廻について詳しく説く教えは山のように出てきますので、それを読めばブッダが業報輪廻をどのように捉えていたかはよく分かります。一言で言えば、それが有ることは肯定し、しかしその価値は否定していました。 そうでなければ輪廻からの解脱を説くはずがありません。 :
Sさん : : 質問者2024/4/22 23:55 : >釈尊の時代は、業報輪廻の思想が定着しており : これも根拠がありません。 例えば、ブッダは中部の大獅子吼経において、サーリプッタ尊者を相手に輪廻によって赴く五道について詳細に説明を行っています。 ブッダより昔から庶民にまで知られていたことなら、なぜそのように詳細な解説を行わなければならないのでしょうか? : : >インドには、カースト制度があり、カースト制度と業報輪廻が結び付いて、人々を苦しめていました。 : カーストの理論的な背景として輪廻が用いられるようになったのがはっきりと確認できるのは、BC2世紀からAD2世紀頃に成立したマヌ法典によってです。 それ以前のヴェーダやウパニシャッドには輪廻によってカーストが決まるという説は説かれていません。ちなみにカウシータキが説く輪廻説は、天・人・動物の三種に輪廻するというもので、カーストについてなど一言も触れられていませんよ。 :
質問者2024/4/22 23:53
非常に長文のお答えなのでどこから返信していいものか迷いますが。
まず事実関係について、根拠のよくわからないこと、完全な事実誤認と言えることを自明の前提がごとくおっしゃってるのが気になります。 そのように前提とされていることが根拠不明、或いは間違いなら、ダルマ太郎さんの論理にはあまり説得力がなくなってしまうからです。
>業報輪廻は、紀元前7世紀頃のカウシータキー・ウパニシャッドで説かれています。
カウシータキウパニシャッドが紀元前7世紀頃の成立という根拠はなんでしょうか? ブッダの生没年さえ不明なのに、カウシータキウパニシャッドが紀元前7世紀頃で、ブッダより前の成立だと断言できる根拠はなんですか?
>それ以前から庶民には知られていたのでしょうが
輪廻がウパニシャッド以前から庶民に知られていたという根拠はなんでしょうか?
2024/4/22 22:58
輪廻は空です。実体は有りません。しかし、概念として有ります。そのことを知らない人々は、概念上の輪廻を、事実として有るとみて、恐れ、悲しみ、絶望し、苦しみます。釈尊は、そのことを覚っておられたので、無我・無常を説いて、無執着へと導き、輪廻が幻であることを気づかせようとしたのでしょう。
大乗仏教では、業報輪廻にかわって「廻向」を説きました。廻向とは、振り向けることです。自分の善業の功徳を自分の成仏に振り向けたり、他者の救済・成仏に振り向けることです。業報を否定し、廻向を説くことによって、業報輪廻という概念を廻向に書き換えようとしたのでしょう。なので、大乗仏教の経典には、「輪廻は無い」と言って、明らかに輪廻を否定することもあります。
長文、失礼しました。
2024/4/22 22:57
プラジュニャプティ prajñapti とは、「仮の設定」という意味です。仮設・仮説・仮名などと訳されますが、現代語に訳すと「概念」です。実体がないので、ただ付けらた名称によって存在するものです。
事象は因縁に依るので実体は有りません。これを私たちは空と言います。しかし、実体は無くても、名前として、概念としては有ります。この有るでもなく、無いのでもないことを中道と言います。
さて、龍樹は、中論の中で、「縁起の法を空と説き、これを仮名となし、またこれを中道の義とする」と論じています。鳩摩羅什は、
衆因縁生法 我説即是無 亦爲是假名 亦是中道義
yaḥ pratītyasamutpādaḥ śūnyatāṃ tāṃ pracakṣmahe| sā prajñaptirupādāya pratipatsaiva madhyamā||18||
多くの因縁によって生起する事象を空だと説きます また これは名称によってのみ仮に有り また これを中道の義だといいます
: 答 2) : 大智度論の最初の讃仏偈 : 経) 智度大道佛從來 智度大海佛窮盡 智度相義佛無礙 稽首智度無等佛 有無二見滅無餘 諸法實相佛所説 常住不壞淨煩惱 稽首佛所尊重法 聖衆大海行福田 學無學人以莊嚴 後有愛種永已盡 我所既滅根亦除 已捨世間諸事業 種種功徳所住處 一切衆中最爲上 稽首眞淨大徳僧 一心恭敬三寶已 及諸救世彌勒等 智慧第一舍利弗 無諍空行須菩提 我今如力欲演説 大智彼岸實相義 願諸大徳聖智人 一心善順聽我説 : 訳) 般若波羅蜜多の大道は 仏だけが よく来られました 般若波羅蜜多の大海は 仏だけが 極めつくされました 般若波羅蜜多の特徴は 仏だけが とらわれがありません 般若波羅蜜多を成就された 比類なき仏に 敬意を表します 有無の二つの思想を滅して余すことがなく 諸法実相は 仏の所説です ・・・略・・・ : : これは、龍樹が大智度論を論じるに先だって、釈尊を讃嘆している偈です。この中に、「有無二見滅無餘」という文がありますので、これに注目したいと思います。見とは思想のことです。仏は、有無という二つの思想を滅し尽くした、といいますから、仏教において、有無を否定することは、基本的な立場だということが分かります。 : 有見とは、「すべてのものには実体が有ると考え、実体に執着する思想」です。無見とは、「一切は無であると考え、そのことに執着する思想」です。仏教では、縁起を説いて、有無二見を否定しました。「すべてのものは因縁によって仮に有るので実体は無い」ということから、仮に有るので無を否定し、実体が無いので有を否定しました。非有非無の中道であり、これを空ともいいます。 : 有見は常見とも呼ばれ、ものの実在に固執する見解です。無見は断見とも呼ばれ、虚無にこだわる見方です。インドの宗教の多くは、アートマン(自我)は実在し、常住すると考えています。死んでもアートマンは常にあると観るので、常見といいます。業報輪廻は、この常見が土台にあります。アートマンが有ることを前提にしています。アートマンが業報を積み、アートマンが輪廻し、アートマンが解脱をすると考えます。よって、アートマンを否定して、無我を説いた仏教は、常見を否定していることが分かります。 : 一方、断見とは、死ねば断滅して、再び生まれ変わることはなく、業報・輪廻・解脱など無いとする思想です。仏教は、この思想だという誤解を持つ人が多いのですが、仏教は、断見を否定します。釈尊は、因果の法を説き、因縁にはそれに相応しく果報があると説いたのですから、今世の因縁は、来世に果報として受け取ると教えています。これを相続といいます。特徴を受け継いでいくから相続です。アートマンが有るから輪廻するのではなく、特徴を受け継いで輪廻するのです。このことから、釈尊や龍樹の説く輪廻は、世間一般的に言われている輪廻とは異なることが分かります。アートマンが輪廻するとはいわないのです。 : : 龍樹は、中論の最初でも、帰敬序という讃仏偈を読んでいます。 : 経) 不生亦不滅 不常亦不斷 不一亦不異 不來亦不出 能説是因縁 善滅諸戲論 我稽首禮佛 諸説中第一 : 「不常亦不斷」とありますので、常見と断見を滅した仏を讃えていることが分かります。このように、非有非無の中道、非常非断の中道は、釈尊と龍樹の思想の根底にあることが分かります。 : :
: 答) : ダルマ太郎さん 2024/4/22 22:56 : こんばんは。 龍樹の『大智度論釋往生品第四之上 卷三十八』を読んでみました。Sさんが引用されているところは、質問者の質問に対し、龍樹が答えているところです。質問は、『摩訶般若波羅蜜経』の往生品第四の経文に関してです。その経文を参考のために引用します。 : : 経) 舍利弗。汝所問菩薩摩訶薩。與般若波羅蜜相應。從此間終當生何處者。舍利弗。此菩薩摩訶薩。從一佛國至一佛國。常値諸佛終不離諸佛。舍利弗。有菩薩摩訶薩不以方便入初禪乃至第四禪。亦行六波羅蜜。是菩薩摩訶薩得禪故生長壽天。隨彼壽終來生是間。得人身値遇諸佛。是菩薩諸根不利。舍利弗。有菩薩摩訶薩入初禪乃至第四禪。亦行般若波羅蜜。不以方便故捨諸禪生欲界。是菩薩諸根亦鈍。舍利弗。有菩薩摩訶薩。入初禪乃至第四禪。入慈心乃至捨。入虚空處乃至非有想非無想處。修四念處乃至八聖道分。行佛十力乃至大慈大悲。是菩薩用方便力不隨禪生。不隨無量心生。不隨四無色定生。在所有佛處於中生。常不離般若波羅蜜行。如是菩薩賢劫中當得阿耨多羅三藐三菩提。 : 訳) 舎利弗よ。あなたが問うたのは、菩薩摩訶薩が般若波羅蜜と相応すれば、この間を終われば、どこに生まれるのか、ということですね。舎利弗よ。この菩薩摩訶薩は、一仏国から、一仏国に至り、常に諸仏に会い、ついに仏から離れることはありません。舎利弗よ。ある菩薩摩訶薩が、方便によらずに、初禅に入り、ないし第四禅に入り、または六波羅蜜を行じれば、この菩薩摩訶薩は、禅を得ることによって、長寿の天に生まれます。彼の寿命が終われば、この間に生まれ、人身を得て、諸仏に出会います。しかし、この菩薩の諸根は利ではありません。舎利弗よ。ある菩薩摩訶薩が、初禅に入り、ないし第四禅に入り、また般若波羅蜜を行じていても、方便によらなかったため、諸々の禅を捨て、欲界に生まれます。この菩薩の諸根もまた鈍いです。舎利弗よ。ある菩薩摩訶薩が、初禅に入り、ないし第四禅に入り、慈心に入り、ないし捨心に入り、虚空処に入り、ないし非有想非無想処に入り、四念処を修め、ないし八正道を修め、仏の十力、ないし大慈大悲を行うけれど、この菩薩が方便力を用いるがために、諸禅、無量心、四無色定に随って、生じることはなく、諸仏のところに生じて、常に般若波羅蜜の行から離れることがありません。この菩薩は、現在において、まさに無上の覚りを得るのです。 : : この経の内容について、対論者から質問があります。 : 経) 舎利弗は、今、前世と後世を問えるに、仏は何を以っての故にか、前世中の三種を答えて、後世中に広く分別したもう。 : 経典では、上記の内容の前に前世と現世のことが答えられていて、「他方の仏国」「兜率天」「人中」の三種について説いています。来世については詳しく広く説いているので、その違いを問うています。龍樹の答えの三番目が、質問者さんが訳しているところです。 : 空を学び始めた者は、空を空と観ず、空の相をみて、空に執着します。「実体の欠如」の意味を深く理解しようとはせず、空を無だと誤解して、すべてを否定してしまいます。無来、無去、無出、無入という言葉によって、単純に輪廻を否定してしまいます。しかし、仏教では輪廻が無いとは断言していません。非有非無の中道を説いていますから、常見も断見も否定しています。無に執着している者には、生まれること、死ぬことを教えます。 : : > 初期仏教では輪廻が説かれたが、大乗仏教では輪廻は説かれていない : 初期仏教でも、大乗仏教でも、業報輪廻については説かれています。十二因縁・四諦・八正道は、輪廻から解脱することがテーマです。業報輪廻は、紀元前7世紀頃のカウシータキー・ウパニシャッドで説かれています。それ以前から庶民には知られていたのでしょうが、このウパニシャッドでバラモンたちにも知られるようになりました。よって、輪廻説は、アーリヤ人の思想だったのではなく、インドの土着民族の思想だったのでしょう。 : 釈尊の時代は、業報輪廻の思想が定着しており、修行者たちは、輪廻からの解脱を目指しました。業報輪廻とは、善悪の行為によって善悪の業報を積み、その結果、死後、天上界・人間界・動物界・地獄界に趣くことです。悪業を繰り返せば、どんどん悪い世界に堕ちていきます。そして、長い間、苦の世界を輪廻します。輪廻から解脱するためには、善業を積むしかありません。 : インドには、カースト制度があり、カースト制度と業報輪廻が結び付いて、人々を苦しめていました。カースト制度とは、バラモン(司祭)・クシャトリヤ(王族)・ヴァイシャ(平民)・シュードラ(奴隷)という身分制度のことです。親の身分を子も引き継ぎ、身分は一生変わりません。奴隷の子は奴隷であり、死ぬまで奴隷です。努力精進しても、今世では身分は変わりません。しかも、今の自分の環境は、前世での自分の行為の結果なので、誰にも文句は言えません。業報輪廻は、自己責任の思想です。来世に期待し、今は我慢して善業をコツコツと積むしかありません。 : 釈尊は、人々の苦を抜き、楽を与えることを目的にして活動しました。その時、大きな課題として、業報輪廻とどのように取り組むかがありました。人々は、業報輪廻説を信じ切っており、苦の原因になっています。十二因縁に「生」が入るのは、この世界に生まれるということは、前世での善業が足りていなかったということが分かるからです。繰り返す輪廻から解脱できないことへの絶望は、苦そのものでしょう。仏教の根本義である十二因縁・四諦・八正道は、苦(輪廻)から解脱する道を説いています。 : しかし、釈尊が業報輪廻をどのようにとらえていたのかは分かりません。肯定していたのか、否定していたのかは不明です。しかし、実際に苦しんでいる人々にとって、輪廻の有無は問題ではなく、必要なのは、治療のための薬です。悪業をつくらず、善業を積むことによって、心を浄化すれば、輪廻から解脱できることを教え、具体的には、八正道という修行方法を示しました。 : :
: 方便品を先にします : : Rの法華三部経の解釈は、いよいよ法華経に入りました。法華経は、人々の固定概念を徹底的に崩していく痛快な内容です。私も色々と、目からうろこが落ちる体験をしました。衝撃的なことも書いてあります。 : 序品を進めていたのですが、方便品を先に解釈したくなりました。序品も同時進行で書いていこうとは思っています。 : よろしくお願いします。 : : 方便品を先にします : :
: 開三顕一(かいさんけんいち) : : 声聞(しょうもん)とは : 太郎論:声聞とは、シュラーヴァカ śrāvaka の意訳です。「声を聞く者」のことで、初期仏教では、釈尊の声を聞く者という意味であり、仏弟子という意味でした。つまり、出家と在家、男性と女性という区別はなく、仏弟子であれば、みんなが等しく声聞と呼ばれていました。大乗仏教になると、声聞とは、出家者のことをいうようになり、自分だけの解脱(げだつ)を求める者として大乗仏教徒から攻撃されました。 : : 辟支仏(びゃくしぶつ)とは : 辟支仏とは、プラティエーカ・ブッダ pratyeka-buddha の音写です。「独りで覚った者」という意味で、独覚・縁覚などとも訳されます。縁覚とは、縁起を覚った者という意味です。日本では、縁覚という表現が好まれているようですので、私も縁覚と表すことにします。出家者は、家を捨て、家族を捨て、財産・土地・身分を捨てて、仏教教団に入り、僧伽(さんが)の中で修行します。ある程度修行が進むと僧伽からも離れて、山奥に入り、独りで修行する者がいました。それが縁覚です。仙人のようなイメージです。縁覚は、覚りを得ても他者に教えを布施しませんでしたので、声聞と同じく自分だけの解脱を求める者として、大乗仏教徒から攻撃されました。 : : 三乗 : 声聞・縁覚は、個人の救われしか求めないので、大乗仏教徒から「劣った乗り物」という意味で、ヒナヤーナ Hīnayāna と呼ばれました。中国では、「小乗」と訳しています。大乗仏教徒は、自分たちのことを菩薩と呼び、大乗だといいました。大乗とは、マハーヤーナ Mahāyāna の訳で、「大いなる乗り物」の意味です。 : 声聞・縁覚を二乗ともいいます。釈尊は、誰もが仏に成れると説いていたのに、二乗の仏教徒たちは、自分たちが成仏できるはずがないとして、阿羅漢(あらかん)の位・辟支仏の位を目指しました。辟支仏は、覚ってはいても、最高の覚りを得たわけではありません。成仏という目的を捨てているので、大乗仏教徒は、二乗は成仏不可だといいました。大乗仏教徒は、自らを菩薩と呼び、成仏を目指す者だと宣言しています。仏道のプロが、新興仏教の大乗に馬鹿にされたため、二乗の仏教徒は、大乗を伝統のない、でっちあげの仏教だといって攻撃しています。こうして、声聞・縁覚と菩薩は対立していました。 : 法華経では、この声聞・縁覚・菩薩を三乗だと呼んでいます。そして、三乗とは方便であって、仏は一仏乗を説くのだとおっしゃっています。一仏乗の修行者のことも菩薩というのでややこしいのですが、三乗の菩薩が二乗を差別したのに対し、一仏乗は差別をしません。 : : 開三顕一(かいさんけんいち) : 方便品では、三乗は一仏乗に導くための方便だと説いています。聞解を好む者には声聞乗を説き、思惟を好む者には縁覚乗を説き、修習を好む者には菩薩乗を説いてきたけれど、それらの教えは、ただ一仏乗へと導くための方便だというのです。これを天台宗は、開三顕一といっています。開とは「開除」、顕とは「顕示」のことです。とらわれの心を開除し、真実を顕示するので開顕といいます。開三顕一とは、三乗への執着を開除し、一仏乗を顕示することです。 : 法華経では、その当時の修行者のタイプから声聞・縁覚・菩薩という区別をしていますが、これは、「無量の方便を説いて妙法に導く」ということの譬喩です。よって、現代においては、宗派や教団に当てはめるのがいいと思います。日蓮系・禅系・浄土系の宗派があるけれど、それは方便であって、すべての教えは仏道だということです。 : : 開三顕一 : :
: 三昧 : : 太郎論:法華経の説法は、方便品から始まります。序品では無量義処三昧に入っているために言葉は発していません。三昧とは、サマーディ samādhi の音写であり、「まとめる」、「心を整える」、「意図的な熟考」、「完全な吸収」などの意味があります。瞑想によって深い精神集中に入った状態のことです。無量義処三昧というのは、無量義の教えについて熟考することです。法華経には、たくさんの三昧が出てきますが、ほとんどは、そのことを熟考する意味です。 : : 無問自説(むもんじせつ) : : 太郎論:通常、仏教の経典では、誰かの質問に応じて釈尊が答えるという形式をとります。しかし、方便品では、誰からの質問もないのに、釈尊が舎利弗(しゃりほつ)に対して説法を始めました。これを無問自説といいます。質問に答えるのであれば、質問者の機根に合わせて説法をする必要がありますが、無問自説ならば、対機説法にする必要がありませんので、少々レベルの高い教えも説くことができます。 : : 舎利弗(しゃりほつ)への説法 : 太郎論:釈尊は、説法の相手に舎利弗を選ばれました。舎利弗は、仏教教団では「智慧第一(ちえだいいち)」だと言われています。その天才舎利弗に対して教えを説かれるのですから、これから説かれる教えは、かなりレベルの高い智的なものだと予想できます。舎利弗とは、シャーリプトラ Śāriputra の音写です。舎利弗の母親は、美しい眼を持っていたことから「シャーリ」と呼ばれていました。シャーリとは、鳥のサギのことです。サギの眼はギョロっとしているイメージですが、インドでは、美しいという感じなのでしょう。または、あだ名ではなく、本名だともいわれています。プトラは、「子」です。つまり、舎利弗とは、「シャーリの子」という意味です。玄奘(げんしょう)は、「舎利子(しゃりし)」と訳しています。 : : 仏の智慧(ちえ) : 太郎論:智慧とは、プラジュニャー prajñā の訳です。般若(はんにゃ)とも音写されます。真理(法)を観察する能力のことです。最高の真理(妙法)を得ることで、智慧を完成することができます。いわゆる般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)です。仏は、智慧を完成されて、妙法に目覚められていますので、仏の智慧とは、般若波羅蜜です。般若波羅蜜を得たことによって、無上の覚りである阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成就されています。つまり、成仏されています。法華経以前に説かれた般若波羅蜜経では、智慧の完成がテーマでしたが、法華経では、般若波羅蜜の対象である妙法がテーマになります。 : 太郎論:釈尊が、菩提樹の下で何を覚られたのかは分かりません。仮説としては、最高の真理である妙法と人々を妙法に導く方便の二つだといわれています。妙法は、言葉では表せません。なので、覚りを開かれた釈尊は、教化することを躊躇(ちゅうちょ)します。しかし、深く思惟(しゆい)し、方便力によって教化することを決められました。この方便とは何なのかが方便品のテーマであり、法華経全体のテーマでもあります。真理と方便、智慧と慈悲というキーワードが、法華経を学ぶときに重要です。 : 太郎論:諸仏の智慧は甚深無量であり、その智慧の門は難解難入だと、釈尊はいわれます。覚りの境地は、非常に奥が深く、量ることができません。覚りの入口でさえも、それに入ることは難解であり、難入だと説かれます。その甚深無量・難解難入の智慧について、またその対象の妙法について、妙法へと導く方便について、これから法華経では説法が為されるわけです。 : : 三昧 : :
: 法華三部経 : : 無量義経 : : R論:釈尊は、いままでの四十余年間、こういう目的で、このように法を説いてきた、じつはまだ真実をすっかりうち明けていないのだ。しかし、今まで説いてきた教えもすべて真実であり、すべて大切なものである、なぜなら、すべての教えはただ一つの真理から出ているからである。 : 太郎論:日本の法華経信者の多くは、無量義経の「四十余年未顕真実(しじゅうよねんみけんしんじつ)」という言葉を切り取って、無量義経以前の教えでは、真実は説かれていないと主張し、法華経の方便品第二の「正直捨方便(しょうじきしゃほうべん) 但説無上道(たんぜつむじょうどう)」(正直に方便を捨てて 但無上道を説く)を切り取って、法華経においては方便を捨てて無上の道を説くのだ、と主張します。 : 太郎論:「真実」は仏教用語では、「絶対の真理」「仮ではないこと」「究極のもの」「真如」を意味します。古代インドでは、真理は言葉では表せないといわれました。それは客体ではありませんから、客観的表現では表せません。言葉は人が作ったものなので、究極的な真理を言葉で表すことはできません。そのことを知っていれば、仏教経典にある教えはすべて真理ではなく、真理へと導く方便なのだと分かります。もちろん、法華経も言葉によって説かれていますから、方便です。 : : 序分・正宗分・流通分 : R論:〈序分(じゅぶん)〉とは、そのお経は、いつ、どこで、どんな人びとを相手として、なぜお説きになったのかという大要などが書かれてある部分。正宗分の糸口。
〈正宗分(しょうしゅうぶん)〉とは、そのお経の本論。中心となる意味をもった部分。
〈流通分(るずうぶん)〉とは、正宗分に説いてあることをよく理解し、信じ、身に行えば、どんな功徳があるかということを説き、だからこれを大切にして、あまねく世に広めよ、そういう努力をする者にはこんな加護があるのだよ、ということを説かれた部分。 : : 法華経 迹門(しゃくもん)と本門(ほんもん) 迹仏(しゃくぶつ)と本仏(ほんぶつ) : R論:迹門の教えは迹仏の教え。迹仏とは、実際にこの世にお生まれになった釈迦牟尼世尊のことです。ですから、迹門の教えは一口にいって、宇宙の万物万象はこのようになっている、人間とはこのようなものだ、だから人間はこう生きねばならぬ、人間どうしの関係はこうあらねばならぬ、ということを教えられたものです。いいかえれば、智慧の教えです。 : R論:本門では、「本来仏というのは、宇宙のありとあらゆるものを生かしている宇宙の大真理〈大生命〉である」ということを明らかにされます。したがって本門の教えは、自分は宇宙の大真理である〈本仏〉に生かされているのだ。という大事実にめざめよ、というもので、智慧を一歩超えた素晴らしい魂の感動、本仏の〈大慈悲〉を生き生きと感じる教えです。〈慈悲〉の教えです。 : 太郎論:法華経には、「真理と現象」のことが説かれています。真理によって現象は起こり、住し、異変し、滅します。現象は真理によって起こります。また、真理は目に見えませんから、真理を覚るには現象を観察する必要があります。現象は真理によって起こりますから、現象を通して真理を観ることができる、という理屈です。ただし、そのことを理解するのは難しいので、法華経前半では、「言葉によって真理を知る」、ということが説かれています。真理へと導くものを方便といいますので、前半では、言葉を方便だとして説いています。後半では、「現象を通して真理を知る」、ということが説かれています。 : : 仏説観普賢菩薩行法経(ぶっせつかんふげんぼさつぎょうほうぎょう) : R論:わたしどもが法華経の精神を身に行うための具体的な方法として、(釈尊は)懺悔(さんげ)するということを教えられてあるのです。 : R論:修行次第で自分も仏になれるのだとわかっても、日常生活では悩みや苦しみ、いろいろな欲や悪念が次から次へと湧いてきます。それで、せっかく自分も仏になれるという勇気もくじけがちになります。つい迷いの黒雲に押し流されそうになるのです。その黒雲を払いのけるのが懺悔であり、その懺悔の方法を教えられたのが《観普賢経》なのであります。 : : 懴悔(さんげ)とは : R論:第一に、「誤りを自覚する」 第二に、「それを改めることを心に誓う」 第三に、「正しい道に向かう努力をする」 : : 法華三部経 : :
: 略して開三顕一(かいさんけんいち)を顕す : 言に寄せて権実二智を讃嘆する : 諸仏の二智を讃嘆する : : 経:爾(そ)の時に世尊、三昧(さんまい)より安詳として起って、舎利弗に告げたまわく。諸仏の智慧(ちえ)は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり。一切の声聞(しょうもん)・辟支仏(びゃくしぶつ)の知ること能(あた)わざる所なり。所以(ゆえ)は何ん、仏曾(かつ)て百千万億無数の諸仏に親近(しんごん)し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進(ゆうみょうしょうじん)して、名称(みょうしょう)普く聞えたまえり。甚深未曾有(じんじんみぞう)の法を成就(じょうじゅ)して、宜(よろ)しきに随って説きたもう所意趣解り難し。 : R訳:その時、無量義処三昧(むりょうぎしょざんまい)という三昧(さんまい)に入っておられた釈尊は、三昧を終え、静かに目を開かれました。そして厳かに立ち上がられ、誰からの質問も待たずに自ら口をお開きになり、舎利弗(しゃりほつ)に向かって語り始められたのでした。仏の『智慧(ちえ)』は大変奥深く、『真理』はあまりにも深淵であるために、ふつうの人々には真理の内容を理解するのは困難です。しかも、声聞(しょうもん)や縁覚(えんがく)の境地にいる全ての者も、真理の意味を正しく理解することができません。仏はこれまでに無数の仏から教えを受け、数々の修行と努力を尽くしてきました。しかも様々な困難や、湧(わ)き起る全ての煩悩にも打ち勝ち、ひたすら仏の境地に向かって精進(しょうじん)してきました。そしてついに、深淵な『真理』を悟ることができ、あらゆる人々から仰(あお)ぎ見られる身となったのです。 : 太郎訳:その時に世尊は、瞑想から眼を覚まされると、尊者シャーリプトラに告げました。諸仏の得た智慧は、非常に深く、その智慧を得ることは、非常に難しく、智慧の門にはなかなか入れません。一切の声聞の弟子たちや縁覚の弟子たちでは理解しがたい内容です。人々が得ることの難しい智慧を、諸仏が得ることができたのは、仏は、過去に無数の諸仏を敬い、無数の諸仏の元で修行に修行を重ね、努力精進をしたからです。その結果、多くの人々に知られるようになり、尊敬されるようになりました。非常に深く得ることの難しい真理を覚って成仏した諸仏は、人々の機根に応じて教えを説かれましたが、その教えの内容の奥の奥の真意は人々には、なかなか理解できないものでした。 : : 権実二智とは : 太郎論:権実二智とは、権智と実智、方便と智慧のことです。法華経では、諸仏の二智を讃嘆し、どのようにして人々を覚りへと導くのか、その智慧と方便の具体的な実践を明かしています。 : : 諸仏の二智を讃嘆する : :
: 迹門(しゃくもん)と本門(ほんもん) 迹仏(しゃくぶつ)と本仏(ほんぶつ) : : R論:〈迹門の教え〉は〈迹仏〉の教え。〈迹仏〉とは、実際にこの世にお生まれになった釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)のことです。ですから〈迹門の教え〉は一口にいって、宇宙の万物万象はこのようになっている、人間とはこのようなものだ、だから人間はこう生きねばならぬ、人間どうしの関係はこうあらねばならぬということを教えられたものです。いいかえれば、〈智慧(ちえ)〉の教えです。 : R論:〈本門〉では、本来仏というのは、宇宙のありとあらゆるものを生かしている宇宙の大真理〈大生命〉であるということを明らかにされます。したがって〈本門の教え〉は、自分は宇宙の大真理である〈本仏〉に生かされているのだ。という大事実にめざめよ。というもので、〈智慧〉を一歩超えた素晴らしい魂の感動、本仏の〈大慈悲〉を生き生きと感じる教えです。〈慈悲〉の教えです。 : : 太郎論:迹仏としての釈尊は、「宇宙の万物万象はこのようになっている」「人間とはこのようなものだ」ということを説いているのでしょうか? おそらくは、縁起のこと、菩薩道のことなのでしょうが、そのことは法華経以前から説かれていますから、法華経で初めて説かれたわけではありません。智慧とは、真理を観察する能力のことなので、現象を通して妙法を覚るためにあります。現象を把握する能力とは違うと思います。 : 太郎論:本仏とは、真理を体とする法身仏のことでしょう。真理によって現象が起こりますので、Rの会では、「あらゆるものを生かしている」と表現しているのでしょうね。しかし、大生命という言い方は、何だか神のように思えます。真理を法身仏だと譬えているのに、それをさらに大生命だと譬える必要があるのかが分かりません。実体を観るようになりそうに思えます。 : : 迹門と本門 迹仏と本仏 : :
: 方便品の要点 : : R論:この《方便品第二》は、《如来寿量品第十六》とともに、《法華経》の中心と言われています。なぜでしょうか。 : 【第一の要点】は、釈尊は「人間は誰でも仏になれるのだ」という大宣言をなさったことです。すなわち〈一切の人間は一人のこらず仏性をそなえている〉ということを教えられたのです。そして〈仏の目的は、すべての人びとに、自分自身がそなえている仏性を自覚させることにほかならない〉ことをはじめて明かされたのです。 : 【第二の要点】は、これまで様々な方法で人々を導いてきた教えは、すべて真実だったのです。教えを聞く人びとの機根の程度にふさわしい教えを説いて~ その人と環境と時代にふさわしい正しい手段をとることを〈方便〉というのですが~ 方便のようにみえても、それは真実の道なのです。「方便が方便だった」と明らかにされたとき、はじめてそれがとりもなおさず「真実の道」だということがハッキリしてくるわけです。その〈方便すなわち真実〉ということを言葉を尽くしてお説きになります。 : : 太郎論:「人間は誰でも仏になれるのだ」という説は、理解できますが、「一切の人間は一人のこらず仏性をそなえている」という説は違和感があります。仏性というものを私たちが持っているという意味に取られるかも知れません。そうなると、まるで仏性という実体が有るという感じになり、仏性に執着する結果になってしまうでしょう。実際にRの会の人と話すと、私たちは、仏性という仏と同じ心を持っている、と言います。釈尊は、無我を説き、無常を説いて、一切の執着から離れさせようとしたのですから、仏性を実体として観ることは仏教に反します。仏性とは、「成仏の可能性」という意味でとらえたほうがいいのではないでしょうか。「人間は誰でも仏になれるのだ」という説の方が執着をつくりません。 : 「その人と環境と時代にふさわしい正しい手段をとることを方便というのです」というのは、方便の意味が違うように思えます。方便とは、真理へと導く方法です。最高の真理(妙法)は言葉では表せませんが、言葉でしか導くことができないので、方便を用いたのです。 : : 方便品の要点 : :
: 正問 : : 経:爾の時に大荘厳菩薩(だいしょうごんぼさつ)、復仏に白して言さく、世尊、世尊の説法不可思議なり。衆生の根性亦不可思議なり。法門解脱亦不可思議なり。我等、仏の所説の諸法に於て復疑難なけれども、而も諸の衆生迷惑の心を生ぜんが故に、重ねて世尊に諮(と)いたてまつる。如来の得道より已来(このかた)四十余年、常に衆生の為に諸法の四相の義・苦の義・空の義・無常・無我・無大・無小・無生・無滅・一相・無相・法性・法相・本来空寂・不来・不去・不出・不没を演説したもう。若し聞くことある者は、或は煖法(なんぽう)・頂法(ちょうほう)・世第一法(せだいいっぽう)・須陀洹果(しゅだおんか)・斯陀含果(しだごんか)・阿那含果(あなごんか)・阿羅漢果(あらかんが)・辟支仏道(びゃくしぶつどう)を得、菩提心(ぼだいしん)を発し、第一地・第二地・第三地に登り、第十地に至りき。往日(むかし)説きたもう所の諸法の義と今説きたもう所と、何等の異ることあれば、而も甚深無上大乗無量義経のみ、菩薩修行せば必ず疾く無上菩提を成ずることを得んと言う、是の事云何。唯願わくば世尊、一切を慈哀して広く衆生の為に而も之を分別(ふんべつ)し、普く現在及び未来世に法を聞くことあらん者をして、余の疑網無からしめたまえ。 : R訳:すると大荘厳菩薩は、再び釈尊に向かって申し上げました。「世尊よ。世尊の教えは大変奥深いものです。しかし衆生にとっては、その奥深い教えを正しく理解することは容易ではありません。私ども菩薩はこの教えに疑問や難しさを感じませんが、しかし衆生にとっては、疑問、難しさ、迷いを覚えることもあるでしょう。どうかそういう人たちのために、重ねてお尋ねいたします」 : 大荘厳菩薩は質問を続けます。 「世尊は成道されてから40数年経ちました。そして『生・住・異・滅』の教えや、全てのものごとは『空』であるということ、また常に変化するという『無常』の教え、孤立して存在するものはないという『無我』の教え、そして、すべての存在の本質は、大きいとか小さいなどの差別や区別はなく、本来、『平等で調和』しているということをお教えくださいました。その結果、教えを伺った者たちは、『心暖まる境地』から、『仏法がこの世の教えの中で第一であると認識する境地』、『煩悩にとらわれなくなる境地』、『菩提心を起す境地』、『大雲(だいうん)が大空をおおうように、この世あらゆる人々を平等におおい、救う境地』等々、その人の信仰の境地も高まってまいりました」 : 「しかし、世尊は何故、以前に説いた教えと、今、説く教えに違いがあり、『無量義の教えさえ実践すれば、必ず、直ぐに無上の悟りが得られる』とおっしゃるのでしょうか?(昔の教えではダメなのでしょうか?) どうか私どもを可哀相だとお考えくださり、現世のみならず未来の人々のために、疑問が少しでも残ることがないようにその真意をお教えください」 : 太郎訳:その時に大荘厳菩薩は、また仏に言いました。「世尊。世尊の説法は不可思議です。思いはかることができず、言語でも表現できません。人々の根性もまた不可思議です。迷いから離れることもまた不可思議です。私たちは、仏さまの説かれた様々な教えにおいて疑問はありませんが、諸々の衆生が迷惑の心を起こすかもしれませんので、重ねて世尊に質問いたします。如来の得道より四十余年、常に人々のために諸法の四相(生住異滅)についての教え・苦についての教え・空についての教え・無常についての教え・無我についての教え・無大と無小という無分別の教え・無生無滅についての教え・一相無相についての教え・法性法相についての教え・本来空寂についての教え・不来不去不出不没についての教えを説かれました。これらの教えを聞いた者は、さまざまな声聞の果報を受け、縁覚の果報を受け、菩提心を起こし、菩薩の第十地に至ります。これまでに説かれた教えと今説かれた教えと、どこがどのように違うのでしょうか? どこが異なるから、甚深無上大乗無量義経だけが、菩薩が修行すれば必ず速やかに無上菩提を成ずることを得ると説かれるのでしょうか? このことが分かりません。ただ願わくば世尊、一切を慈しみ、哀れと思われて、広く人々のためにこのことを分かりやすく、普く現在と未来の世において教えを聞くであろう人々の余の疑網を除いてください」 : : 正問 : :
: 呉音(ごおん) : : 太郎論:漢訳の仏教経典は、多くの場合、呉音で読みます。呉音は漢音以前から中国で使われており、日本にも呉音が最初に入ってきました。江戸時代までは、呉音の方が普及していたのですが、明治になって漢音が多く使われるようになりました。結果的に日本人が使う漢字は、音読み(漢音・呉音)、訓読みというように複雑化しています。 : 経典を読むとき、普段とは違う読み方をしますので違和感があります。フリガナがついていないと読めません。たとえば、品は、漢音では「ひん」と読みますが、呉音では「ほん」です。日は、「じつ」「にち」、礼は、「れい」「らい」、力は、「りょく」「りき」というような感じです。 : ネットに上がっている漢訳経典には、フリガナがついていないことが多いので読めません。経典の読みに慣れるためには、フリガナ付の経典を購入することをお薦めします。 : : 呉音 : :
: 菩薩とは : : 太郎論:菩薩とは、ボーディ・サットヴァ bodhi-sattva の音写です。「覚り+人」という合成語です。初期仏教では、覚りを得る前の修行中の釈尊のことをいいました。「覚ることが決まっている人」という意味です。他には、釈尊の次に成仏するといわれる弥勒も菩薩と呼ばれました。大乗仏教になると、「覚りを求める人」という意味で使われるようになりました。大乗は、みんなで成仏を目指すので、大乗仏教徒たちは自らを菩薩と呼びました。大乗の菩薩なので、菩薩摩訶薩ともいいます。摩訶薩とは、マハー・サットヴァ mahā-sattva の音写です。意味は、「大いなる人」です。般若経典は、菩薩摩訶薩たちによって編纂されました。その中で、空の実践者としての菩薩摩訶薩が強調されています。しかし、声聞や縁覚は成仏できないといって差別したために、法華経の編纂者からは、三乗の菩薩だといわれています。一切衆生の成仏を願う一乗の菩薩とは区別されています。法華経では、菩薩とは、「一切衆生の覚りを求める人」であり、「自他を覚りに導く人」です。 : 大乗仏教は、紀元前後に起こりましたので、釈尊の時代にはありません。よって、無量義経や法華経の会に菩薩が参加することはありません。実在の人物だとされる弥勒菩薩が参加しているかも知れませんが、八万人もの菩薩が集うことはありません。それらの菩薩とは、法身の菩薩だといわれます。法身菩薩とは、真理・教えを体とする菩薩のことです。真理を覚った菩薩のことですから、仏に近い存在です。しかし、実在しているわけではなく、教義の象徴として登場します。たとえば、慈悲の象徴としての弥勒菩薩、智慧の象徴としての文殊菩薩、実践の象徴としての普賢菩薩というような感じです。経典で弥勒菩薩が登場したら慈悲についての教えが説かれ、文殊菩薩が登場したら智慧についての教えが説かれ、普賢菩薩が登場したら実践について説かれます。 : 無量義経・法華経は、菩薩への教えです。経典の中でも教菩薩法という言葉が頻繁に出てきます。無量義経では、大荘厳菩薩への説法という形式ですので、菩薩への教えだと分かりやすいのですが、法華経の前半は、声聞たちを対象にしています。会に参加している声聞たちを教化し、菩提心(覚りを求める心)を起して、未来に成仏することを予言し、全員を菩薩にしています。法師品第十以前は声聞への教えのように思えます。法師品からは、薬王菩薩・大楽説菩薩・文殊菩薩・弥勒菩薩などが説法の対象になっていますので、菩薩への教えだというのは明らかですが、法師品以前を菩薩への教えだと言えるのでしょうか? : 法華経は、菩薩を対象にした実践指導です。声聞をどのようにして教化し、菩提心を起させ、菩薩としての自覚を持たせ、広宣流布を誓願させるかを、釈尊が実際に行い、菩薩たちに見せて、指導をしているわけです。このことから、教菩薩法といいます。釈尊は、声聞と菩薩を同時に教化しているのです。 : : 菩薩とは : :
: 菩薩の敎化方法 : 経:微渧(みたい)先ず堕ちて以て欲塵を淹(ひた)し、涅槃(ねはん)の門を開き解脱(げだつ)の風を扇いで世の悩熱を除き法の清涼(しょうりょう)を致す。次に甚深(じんじん)の十二因縁(じゅうにいんねん)を降らして、用て無明(むみょう)・老・病・死等の猛盛熾然(みょうじょうしねん)なる苦聚(くじゅ)の日光に灑(そそ)ぎ、爾(しこう)して乃ち洪(おおい)に無上の大乗を注いで、衆生の諸有の善根を潤漬(にんし)し、善の種子を布いて功徳(くどく)の田(でん)に遍じ、普(あまね)く一切をして菩提の萌を発さしむ。智慧の日月方便の時節、大乗の事業を扶蔬増長(ふそぞうちょう)して、衆をして疾(と)く阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成じ、常住の快楽(けらく)、微妙真実(みみょうしんじつ)に、無量の大悲、苦の衆生を救わしむ。 : : R訳:あたかも乾いた土に一滴の「しずく」が落ちると、そこには砂ぼこりが立たなくなるように、まず些細な教えから入って行き、数多い欲の中でわずか塵ほどのものを鎮めていきます。そして、悟りへ門を開き、解脱へと誘って行きます。それはまるで涼しい風をそよがせて熱を取り除いて冷めさせるように、人々を苦悩の熱から救って行くのでした。次に深遠な「十二因縁」の教えを説いて無明の状態から解き放ちます。それはまるで照りつける灼熱の太陽に苦しむ人が、雨を得て蘇生の喜び得るようであり、そのうえで無上の教えである「大乗の教え」を説いて、人が本来具える「善の根」に潤いを与えます。さらに善行を呼び起こす「善の種」を蒔いて、ついにはあらゆる人びとに仏の悟りの「芽生え」を起させるのであります。菩薩たちの智慧は、太陽や月のようにすべてを明らかに照らし出し、しかも人々を導く手立ては、手段も時節も的確です。大乗の救いを進めて、その成果をどんどん上げて行き、すべての人を仏の悟りへと真っ直ぐに導きます。菩薩はいつも智慧を具えていますので、限りない大悲の心を注ぐことができ、それによって苦しみ悩む無数の衆生を救っていくのです。 : : 自利 : 経:是れ諸の衆生の真善知識(しんぜんちしき)、是れ諸の衆生の大良福田(だいろうふくでん)、是れ諸の衆生の請(しょう)せざるの師、是れ諸の衆生の安穏(あんのん)の楽処(らくしょ)・救処(くしょ)・護処(ごしょ)・大依止処(だいえししょ)なり。処処に衆生の為に大良導師・大導師と作る。能く衆生の盲(めし)いたるが為には而も眼目を作し、聾(りょう)・劓(ぎ)・唖(あ)の者には耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)を作し、諸根毀欠(しょこんきけつ)せるをば能(よ)く具足(ぐそく)せしめ、顛狂荒乱(てんのうこうらん)なるには大正念(だいしょうねん)を作さしむ。船師・大船師なり、群生(ぐんじょう)を運載(うんさい)し、生死(しょうじ)の河を渡して涅槃の岸に置く。医王・大医王なり、病相を分別(ふんべつ)し薬性(やくしょう)を暁了(ぎょうりょう)して、病に随って薬を授け、衆をして薬を服せしむ。調御(じょうご)・大調御なり、諸の放逸(ほういつ)の行なし。猶(なお)、象馬師(ぞうめし)の能く調うるに調わざることなく、師子の勇猛(ゆうみょう)なる、威(い)、衆獣(しゅじゅう)を伏して沮壊(そえ)すべきこと難(かた)きがごとし。菩薩の諸波羅蜜(しょはらみつ)に遊戯(ゆけ)し、如来の地に於て堅固にして動ぜず、願力(がんりき)に安住して広く仏国を浄め、久しからずして阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成ずることを得べし。是の諸の菩薩摩訶薩皆斯(かく)の如き不思議の徳あり。 : : R訳:菩薩は、まさに人々にとって「善き友」であり、幸せを育てる「良い田畑」であり、招かないでもわざわざやって来てくれる「有難い先生」であります。私たちにとっては「心の安らぎ」を与えてくれる存在、人生の「大きな支え」となる存在、私を「守ってくれる」存在、「依り所」となる存在です。菩薩は私たちを正しく導く師であり、目、耳、言葉の不自由な人にとっての目、耳、口となる方です。心が乱れ、荒み切っている時は、心を安定させ、正気を取り戻させてくれます。まるで優秀な船長ようで、人生途上で襲いかかる様々な「変化・異変」の荒波を乗り越えさせてくれ、安穏な境地へと誘ってくれます。病に応じて的確に薬を与える名医だとも言え、どんな猛獣をも従わせる優れた調教師のようです。菩薩は、仏の悟りに至るためのあらゆる修行・菩薩行を自由自在に行なえ、一切衆生救済を願う仏の力を信じていますので、「大安心」の心境で法を説くことができます。これらの菩薩は近い将来、仏の悟りに達する方々であり、以上のような大徳を具えています。 : : 菩薩の敎化方法 : :
: 宗教の本義とは : : 英語のリリジョン religion の訳語として、宗教という言葉が当てられました。宗教とは、もともと仏教用語で、「重要な教え」という意味です。華厳経(けごんぎょう)などに出てくる言葉です。キリスト教と仏教とでは、思想が違うし、儀礼・儀式、習慣が違いますから、宗教という言葉でくくることはできないのですが、キリスト教的な宗教の概念が広く伝わってしまい、仏教に大きな影響を与えています。 : 広辞苑によれば、「宗教とは、神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なものに関する信仰・行事」だと定義されています。この定義は、キリスト教的であって、仏教には当てはまりません。少なくとも、釈尊の仏教とは異なります。インドでは、思想を三つのタイプに分けてとらえました。信仰タイプ・儀礼儀式タイプ・覚りを目指すタイプです。信仰タイプはヒンドゥー教、儀礼儀式タイプはバラモン教、覚りを目指すタイプは仏教です。仏教は、神への信仰はせず、儀礼儀式をしません。覚りを目指して道を進みます。キリスト教は、神への信仰のタイプでしょうから、仏教とはタイプが違います。 : 現在の日本の仏教をみると、如来・菩薩・明王・神への信仰をするし、葬式などの儀式を中心にしているので、本来の仏教とは大きく異なります。しかも、覚りを目指すという大事な目的を失っていますので、果たして仏教と呼べるのかも疑問です。仏教の道は、戒(かい)・定(じょう)・慧(え)という三学、八正道、六波羅蜜などが有名ですが、その最も基本となる持戒を日本仏教は捨てています。在家であれば、五戒を持ちますが、五戒とは何かを記憶している人は少ないでしょう。殺生(せっしょう)や窃盗はしなくても、邪淫(じゃいん)・嘘・飲酒は平気でしているように思えます。新興宗教であっても、仏教系ならば、五戒は守る必要がありますが、忘年会などの宴会でお酒を楽しみ、会員同士で不倫をしている人もいます。戒律の無い宗教ってどうなのでしょう? : 宗教の本義を明らかにしたいのなら、まずは戒を守ることから始めるのがいいと思います。持戒によって心を浄めれば禅定(ぜんじょう)に入りやすくなるし、禅定に入ることで智慧(ちえ)を求めやすくなり、智慧を得れば成仏に近づきます。仏教の本義は、智慧を完成させ、成仏することなのですから、まずは、持戒からでしょう。 : 大乗仏教の修行者である菩薩は、菩薩戒を受持します。それは、三聚浄戒(さんじゅじょうかい)と呼ばれるもので、止悪・修善・利他という三つの戒です。つまり、悪をとどめ、善を修め、人々のために尽くすというものです。止悪とは、すべての戒を守ることですから、菩薩戒を受持する者が五戒を破ることはありえません。 : : 宗教の本義とは : :
: 南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう) : : ○ 「ああ、ありがたい妙法蓮華経! わたくしはこのお経の真実の教えに全生命をお任せします!」 ○ 尊いのは、あくまでも法華経の教えなのです。そして、その教えを実践することなのです。 ○ 〈南無妙法蓮華経〉と唱えるのは、その受持と実践との信念をいよいよ心に固く植え付けるためにするのです。 : : 妙法蓮華経とは、鳩摩羅什(くまらじゅう)の訳した法華経のタイトルですから、南無妙法蓮華経というのは、法華経という経典への帰依だと受け取る方が多いようです。そのような解釈が間違いだとは言いませんが、帰依の対象は経典ではなく、「真理と現象」であることを知らなければなりません。妙法とは、「正しい真理」。蓮華とは、「蓮の花」のことです。蓮の花は現象であり、妙法は真理です。よって、妙法蓮華とは、「真理と現象」「現象を通して真理を観る」ということです。南無妙法蓮華経とは、「真理と現象に依る教え」に帰依するのです。このことは、法華経前半では書かれていませんが、如来寿量品第十六にて明らかになります。 : : 南無妙法蓮華経は、日蓮が使い始めたのではなく、天台宗ですでに唱えられていました。「朝題目。夕念仏」というように、朝には、「南無妙法蓮華経」を唱え、夕には、「南無阿弥陀仏」を唱えていたのでしょう。インドでも題目は唱えられていたようです。もちろん、サンスクリット語でです。 : ナマス・サッダルマ・プンダリーカ・スートラ Namas Saddharma-puṇḍarīka-sūtra : :
: もともとインドで唱えられていたのかは不明です。日本の題目をサンスクリット語にして唱えているだけなのかも知れません。 : : 南無妙法蓮華経 : :
「新釈法華三部経」発刊に向けての願い、主眼 : 教えを日常生活にいかに実践すべきかを主眼に置いた 法華三部経の真精神を学ぶため …義に依って語に依らざれ : 宗教の本義を明らかにしたい あらゆる宗教に含まれているはずの共通の真理 人類すべてが進めるような「融和と協調」の場をつくらなければならない 〈宗教の本義〉をきわめ、その実践を最大の目的としてまとめた : これは、庭野開祖の主眼なのでしょう。法華三部経の真精神を学び、教えを日常生活にいかに実践するかを重視されたようです。また、宗教の本義を明らかにし、世界の宗教の共通の真理を明らかにして、「融和と協調」の場をつくることを目的にされたようです。宗教者として、立派な考えだと思います。しかし、法華経がはたして日常生活で実践可能な行なのかが疑問だし、宗教協力に法華経が役立つのかも疑問です。その辺のところをこの勉強会を通して学んでいきたいと思っています。 : : 義に依って語に依らざれ : この経文は、「法四依」といい、涅槃経にあります。「仏の所説の如き、是の諸の比丘、当に四法に依るべし。何等かを四となす。法に依って人に依らざれ、義に依って語に依らざれ、智に依って識に依らざれ、了義経に依って不了義経に依らざれ」。 : 法に依って人に依らざれ(依法不依人) …真理(法性)に依拠して、人間の見解に依拠しない : 義に依って語に依らざれ(依義不依語) …意味に依拠して、言葉に依拠しない : 智に依って識に依らざれ(依智不依識) …智慧に依拠して、知識に依拠しない : 了義経に依って不了義経に依らざれ(依了義經不依不了義經) …仏の教えが完全に説かれた経典に依拠して、意味のはっきりしない教説に依拠しない : どれも重要なことですが、逆の人が多いのも事実です。真理を無視して人の解釈に依る人、意味を知ろうとせず言葉に依る人、智慧を求めず知識に依る人、真実が完全に説かれた教えを学ぼうとせず不完全な経典に依る人など。仏教を学ぶ人は、法四依を念頭に置いておく必要があります。特に市販の解釈本に依り、経典を読まないのは誤った理解に通じますので注意が必要です。 : : 「新釈法華三部経」発刊に向けての願い、主眼 : :
十二因縁 3 : ⑦受(じゅ)
ヴェーダナー vedanā 感受 外部との接触によって起こる感情のこと。快・不快・中立の三つがあります。 : : ⑧愛(あい) : トリシュナー tṛṣṇā 渇愛 渇望 欲望 トリシュナーとは、渇き・欲望・願いのことです。感受することで、快・不快・中立という感情を起し、快であれば近づいて手に入れようとし、不快であれば離れようとし、中立であれば無視します。近づくのも、離れるのも、欲望に変わりありません。キリスト教の愛とは意味が違います。もともと仏教用語だった愛を聖書を訳すときに使ったため、混乱が起こりました。 : : ⑨取(しゅ) : ウパーダーナ upādāna 執着 しがみつく ウパーダーナの原意は「燃料」です。火に燃料を与えれば燃え続けるように、欲望に執着すると欲求は高まっていきます。欲しいものが手に入らないのなら、あきらめるのがいいのですが、何とかしようと執着することがあります。ストーカーになったり、盗んだり、騙したり、暴力を振るったり、悪行に走ることになってしまいます。嫌なことから離れたいのに、離れられない時も同じです。そのことに執着すると、ろくなことにはなりません。生物は、食物を見つけて、それを手に入れることによって生きています。よって、欲求・執着は必要なことです。しかし、必要以上に欲しがり、執着すれば、悪い結果を招くことになります。 : : ⑩有(う) : バーヴァ bhava 生存 存在 バーヴァとは、生存のことです。欲望・執着を繰り返すことで、我執を強めていき、迷いの存在に成ります。 : : ⑪生(しょう) : ジャーティ jāti 生まれること 出自 ジャーティとは、誕生のことです。生きることだと解釈する人もいますが、ジャーティにはそのような意味はありません。生まれなければ、苦しむこともなくなります。特にインドには、カースト制度があり、出自によって一生の苦楽が決定するようなものですから、生まれること自体を苦だととらえる傾向があります。カースト制度を知らない私たちには、分からない世界です。 : : ⑫老死(ろうし) : ジャーラーマラーナ jarā-maraṇa 老いと死 ジャーラーが老化、マラーナが死の意味です。⑪の生と合わせて「生老病死」を意味します。なぜか病については触れていません。 : : 十二因縁 3 : :
十二因縁 2 : ①無明(むみょう) : アヴィドャー avidyā 無知 真理を知らないこと ヴィドャー vidyā-は、知識、学問、学術、教義、呪力です。否定を意味するa-という接頭辞がつきますので、avidyāとは、知識が無い・学問が無い・学術が無い・教義が無い・呪力が無いということになります。仏教では、「真理を知らないこと」という解釈がされます。 : : ②行(ぎょう) : サンスカーラ saṃskāra 意志 行為 サンスカーラは、「一緒になったもの」「纏めるもの」という意味です。これには、二つの意味があります。一つは、「因縁によって作られたもの」で、有為法(ういほう)のことです。諸行無常の場合は、この意味です。もう一つは、「行為」です。行為には、身口意がありますが、ここでの行は、「意志」のことをいいます。五蘊(ごうん)の行は、この意味です。無我や無常などの真理を知らない意志は、誤った方向に趣いてしまうことでしょう。 : : ③識(しき)
ビジュニャーナ vijñāna 識別作用 分別(ふんべつ) ビジュニャーナとは、分けて認識することです。私たち人類は、世界をバラバラに分け、その一つ一つに名前をつけ、意味づけをしています。このような認識方法を分別といいます。日常使う分別(ぶんべつ)という言葉は、世事に関して、常識的な慎重な考慮・判断をすることの意味で使われており、善い印象ですが、仏教では、本来一つのものを分けるので、真理を探究する認識とはされていません。分別を否定する無分別が勧められます。無我という真理を知らなければ、自分という存在が有るというように意志を持ちます。それが高じれば我執となり、自他を分け、自分を可愛がります。まるで、自分の皮膚が境界線であるかのように、皮膚の外側は他だと認識し、比較し、区別し、差別し、対立を起します。 : : ④名色(みょうしき) : ナーマルーパ nāma-rūpa 名称と姿 心と体 ナーマは「名称」、ルーパは「物質的現象」です。しかし、仏教では、心と体の意味で使っています。五蘊(ごうん)と同義です。自他を分別し、次に心と体を分別します。 : : ⑤六入(ろくにゅう) : シャダーヤタナ ṣaḍāyatana 六つの感覚器官 眼耳鼻舌身意の六つの感覚器官のことです。自他を分別し、心と体を分別し、次に感覚器官を分別します。このことで、外界と内界との区別は明確になります。 : : ⑥触(そく) : スパルシャ sparśa 接触 外界の対象、感覚器官、識別作用によって、接触が起こります。 : : 十二因縁 2 : :
ダルマ太郎さん
2024/4/23 21:35
> 止観の修習によって三明のような能力を開発するというのは仏教の修行論の柱ですよ。
現実にそういう超能力者に会ったことはあるのですか? 私は、経文を重視しますが、経典に書いてあることは、方便・比喩・象徴・因縁が多いので、文章通りには受け止めません。Sさんは、すでに三明を開発済みなのですか?
> どうもダルマ太郎さんは座学に偏りすぎて、頭だけで理解できる範囲で仏教を理解されようとしているのではないでしょうか。
私は、自分が学んだ行を実践しています。座学に偏っているとは思えないし、頭だけで教えを理解しようとも思っていません。戒定慧・八正道・六波羅蜜は重視しています。会ったこともないのに、私のことを決めつけるような発言をするのはいかがなものでしょう?
> もし論理の追求だけで仏教が理解できるなら、なんのために三学が説かれたのか自問されてみるべきではないでしょうか。
決めつけて、こだわり、執着するのは、智慧を得ることの妨げになりますよ。
> 大獅子吼経というのは同名経典が二つありまして、わたしが言及しているのは中部所蔵のほうです。
獅子吼大経のことのようですね。分かりました。
> 私やあなたが死ぬことと、ブッダの入滅との根本的な差異はどこにあるのかといえば、それは再有(punabhava)があるかないかです。これを否定するならなんのための仏教なのでしょうか。
経典では、釈尊は解脱者なのですから、再生はしないでしょう。
ダルマ太郎さん
2024/4/23 21:34
> 少なくとも初期経典の中で、身分制度がクローズアップされて問題とされているような記述は読んだことがありません。
出家したら、身分を捨てて、平等になるのでしょう。カースト制度を問題視していたから、そういうことにしたのではないでしょうか。
> シュードラやアウトカーストの人が輪廻による身分制度に苦しみ、それをブッダに訴えるという説話などありませんし、ブッダがそうした問題について言及していることもないのです。
Sさんは、初期経典をすべて読まれたのですか? 読んでいない経典に書いてあるかもしれませんよ。
ダルマ太郎さん
2024/4/23 21:33
> 問題は、ダルマ太郎さんの論理が正しいなら、初期経典の多くの記述と矛盾するのですが、そのことに一見仏教に詳しそうなダルマ太郎さんが全く気づいていないということと、その点を指摘されても、脆弱な根拠しかないのに、自身の説を再考することがないのは何故かということです。
論理を展開したわけではなく、単なる意見・感想です。そんなに考えて書いたわけではありません。Sさんが、私の意見が初期経典の多くの記述と矛盾するととらえているように、私は、Sさんの意見は、大乗経典の多くの記述と矛盾していると思っています。初期仏教と大乗仏教は、同じ仏教でありながら、違う宗教のように違いますから、意見が違うのは当然のことです。Sさんは、自分の道を行けばいいし、私は私の道を行きます。
> それは見取(見解への執着)ではないのでしょうか? そうでないなら、その考えを一度手放して、初期経典を読んで見るなりの努力は何故されないのでしょうか?
初期仏教だけが正しいという考えを一度手放して、大乗仏教経典をきちんと学ぶという努力は、なぜされないのでしょうか?
> 大乗仏教は初期経典を否定したのではなく、それを受け継ぐことを自負していた人たちによって始められたのですよ。
そうですよね。だから、伝統的な経典の方が勝れているというのが初期仏教の信者であり、初期経典を発展させて作ったので、大乗経典の方が勝れているというのが大乗の信者です。人それぞれの考え方がありますから、他者を自分たちの道に勧誘するような行為は慎んだほうがいいと思います。
ダルマ太郎さん
2024/4/23 21:31
> ブッダ以前に業報輪廻説がインド社会に浸透しており、身分制度と結びついて人々を苦しめていた
私は、そのように学んできました。一冊だけではなく、複数の本でそのように書いてありましたよ。経典にはない事実もあるんじゃないでしょうか?
> これは私の解釈ではなく、多くの経典に書いてあることであり、仏教の根本的な教義ですから、是非ご自分でお読みになって確認してください。
私は、現在読んでいる途中の本が幾冊もあるので、初期仏教の経典を読むひまはありません。Sさんは、大乗よりも初期仏教の経典の方が勝れていると思っていませんか? 龍樹や世親の論書を読まれているようですが、全巻を読んだのですか? 大智度論は、全百巻の大作です。読むのに時間がかかります。第一、Sさんは、大智度論を持っているのですか?
> そして、ダルマ太郎さんの論旨は、この仏教の伝統的なブッダ観を真っ向から否定しています。
否定しているつもりはありません。
> ですので、その立論の根拠を伺ったわけですが、どうも断片的な情報を元にした推測の域を出ないようなので、論理として脆弱、もっといえば成立していないように思われます。
私が感じたことは、Sさんのいう根拠とは、初期仏教経典、それもパーリ語経典に説かれているかどうかなんでしょう? 経典主義者のように思えます。パーリ語経典に基づいていなければ、ダメみたいなイメージがします。「経典にはこのように書いている」と主張するだけでなく、その箇所の引用をしていただいた方がいいです。箇条書きされても、経典のことを知らないのでピンときません。
Sさん
質問者2024/4/23 9:22
>それらは言葉であって、真理ではありません。
あなたは非有非無を誤解されていると思います。ダルマ太郎という名前は当然に仮名であり、その実体はありません。しかし、ダルマ太郎と仮に呼ばれている現象的個体(bhava)は縁起によって変転しながら存在しています。そうでないなら、私は誰とお話しているのですか?
そしてダルマ太郎という現象的個体は私と話したことによってわずかながらでもその未来を変えるでしょう。それが業報ということです。そのように無我なる現象的個体に連続性を与えているのが業であり、輪廻です。輪廻は概念・幻なのではなく、現在のダルマ太郎さんがそうであるように、縁起によって変転する現象として存在しています。それを仮設というのです。
「新たに発心して仏道に入った者は、空という存在の見方、空という教えに執着し、生死(輪廻)の業の因縁に関して疑いを持つようになるようだ。
『もし一切のものが究極的に空であり、来るのでなく、去るのでなく、出るのでなく、入るのでもないという有り方をしているならば、一体何が死んで生まれるのか。今、眼で見えるものでさえ、実体的に有るものではない。いわんや死後の他世は見ることもできないのに、有るということがあろうか』と。
こうした様々な誤った疑い、真理に反する心を断つために、仏は様々な因縁によって、広く、死が有り、生が有るということを説かれた。
(中略)
このように人の死や生は、来去する主体は無いといえども、煩悩が尽きないがゆえに、身体、心において相続し、さらに身体と心を生じさせる。身体と心を作る業そのものは後世に続なくても、その因縁は存続して後世において果報(業の結果)を受ける。」
Sさん
質問者2024/4/23 9:21
>不明というのは、釈尊は、輪廻が事実として有るとみたか、無いとみたかです。
悪魔の存在というのは仏教の教学体系において根本のものではありません。しかし、輪廻というのは仏教全ての前提です。もしも仏教が輪廻からの解脱を説いていないなら、死ねば苦から解放されるということになりますよね? では誰も仏教を実践する必要などなくなりませんか? 私やあなたが死ぬことと、ブッダの入滅との根本的な差異はどこにあるのかといえば、それは再有(punabhava)があるかないかです。これを否定するならなんのための仏教なのでしょうか。
>龍樹の話はどうなったのですか?
龍樹の話に入る以前に、ダルマ太郎さんの事実認識に歪みが見えたので、その点を伺ったわけです。そしてその歪みは一向に解消されたように見えず、ダルマ太郎さん自身は歪みに気づいてさえいないようです。
Sさん
質問者2024/4/23 9:17
>生まれによって身分が決まるということは、業報輪廻説と融合
身分制度は必ずしも理論的根拠を必要としません。近代以前の社会ならどこにでも身分制度があり、それは血縁に基づいているだけです。武士の家に生まれれば武士であるように、バラモンの家に生まれればバラモンとされていただけです。
勿論こうした身分制度が人々を苦しめていたという現実もあると思いますが、少なくとも初期経典の中で、身分制度がクローズアップされて問題とされているような記述は読んだことがありません。シュードラやアウトカーストの人が輪廻による身分制度に苦しみ、それをブッダに訴えるという説話などありませんし、ブッダがそうした問題について言及していることもないのです。
考えれば当然のことで業報は身分に限らず人々共通の問題だからです。バラモンだからといって業の報いを避けることは出来ませんから、身分制度など本質的な問題ではないのです。
>本当にこのような超能力を釈尊が持っていたと思われますか?
止観の修習によって三明のような能力を開発するというのは仏教の修行論の柱ですよ。それは初期経典だけではなく成唯識論のような唯識の論書でも、現観荘厳論のような中観派系の論書でも説かれていることです。また、自分で禅定に入れるようになれば誰もがそうした能力の存在を知ることができます。
どうもダルマ太郎さんは座学に偏りすぎて、頭だけで理解できる範囲で仏教を理解されようとしているのではないでしょうか。もし論理の追求だけで仏教が理解できるなら、なんのために三学が説かれたのか自問されてみるべきではないでしょうか。
>その経典にサーリプッタ尊者は出ていますか?
大獅子吼経というのは同名経典が二つありまして、わたしが言及しているのは中部所蔵のほうです。
Sさん
質問者2024/4/23 9:11
わたしがカウシータキの成立年代を初めとする事実認識について確認したのは、ダルマ太郎さんの論旨が、「ブッダ以前に業報輪廻説がインド社会に浸透しており、身分制度と結びついて人々を苦しめていた」ということを前提としているように見えるからです。
しかし、パーリや阿含のような初期経典で明確に伝えられているのは次のことです。
%%{fg:blue}1. ブッダは止観の実践によって自ら輪廻を如実知見した
これは私の解釈ではなく、多くの経典に書いてあることであり、仏教の根本的な教義ですから、是非ご自分でお読みになって確認してください。
そして、ダルマ太郎さんの論旨は、この仏教の伝統的なブッダ観を真っ向から否定しています。ですので、その立論の根拠を伺ったわけですが、どうも断片的な情報を元にした推測の域を出ないようなので、論理として脆弱、もっといえば成立していないように思われます。
問題は、ダルマ太郎さんの論理が正しいなら、初期経典の多くの記述と矛盾するのですが、そのことに一見仏教に詳しそうなダルマ太郎さんが全く気づいていないということと、その点を指摘されても、脆弱な根拠しかないのに、自身の説を再考することがないのは何故かということです。
それは見取(見解への執着)ではないのでしょうか?
そうでないなら、その考えを一度手放して、初期経典を読んで見るなりの努力は何故されないのでしょうか?
大乗仏教は初期経典を否定したのではなく、それを受け継ぐことを自負していた人たちによって始められたのですよ。
ダルマ太郎さん
2024/4/23 7:48
> ダルマ太郎さんは要するに昔ながらの輪廻方便説を主張されていると思うのです。
方便とは、ウパーヤ upāya の訳です。「(真理に)近づける方法」という意味なので、すべての教えは方便です。輪廻だけが方便ではなく、業も、解脱も方便です。それらは言葉であって、真理ではありません。
以上です。
ダルマ太郎さん
2024/4/23 7:46
> 輪廻によってカーストが決まるという説は説かれていません。
生まれによって身分が決まるということは、業報輪廻説と融合していますよね。
> 三明とは自らの過去世を見る宿住随念智、衆生の輪廻を見通す天眼智、そして輪廻から解脱を悟る漏尽智の三つの智慧です。
三明とは、超能力のようですね。本当にこのような超能力を釈尊が持っていたと思われますか? 私には、何らかの比喩表現のように思えます。Sさんの場合、経典に書いていれば、神々や魔物・悪魔の存在も信じるのでしょうか?
> ブッダは輪廻を如実に知見していたというのが経典の伝える教えです。ですからそれは不明でもなんでもないのでは?
不明というのは、釈尊は、輪廻が事実として有るとみたか、無いとみたかです。Sさんの意見では、「経典に悪魔が登場するのだから、悪魔は実在する」というのと同じではありませんか?
> これは解釈とか思想の問題ではなく、事実についてのことなので、明確にお答えいただける事かと思いますので。
Sさんのおっしゃる事実とは、経典に書いてあるか否か、なのですか? それも初期仏教経典に限るのでしょう? 私は、大乗仏教徒ですから、初期仏教の経典については知りません。かと言って、大乗の経典を引用しても、悉く否定するのではありませんか? よって、期待されるような明確な答えは持っていません。それよりも、龍樹の話はどうなったのですか? この質問は、そのことが本題でしょう?
ダルマ太郎さん
2024/4/23 7:45
> ブッダの生没年さえ不明なのに、カウシータキウパニシャッドが紀元前7世紀頃で、ブッダより前の成立だと断言できる根拠はなんですか?
釈尊の生誕の年が諸説あることは知っています。私は、中村元先生の説を取り入れています。紀元前463年~紀元前383年という説です。法華経に後五百年という言葉があります。これは、釈尊が亡くなって五百年という意味だという説が有力ですので、法華経が編纂された1~2世紀から五百年前ということで、だいたい中村先生の説と一致するからです。釈尊が紀元前4世紀頃だとしたら、カウシータキ・ウパニシャッドの方が古いと言えると思います。あくまでも仮説ですが。
> 輪廻がウパニシャッド以前から庶民に知られていたという根拠はなんでしょうか?
カウシータキ・ウパニシャッドでは、チトラ王がアールニ仙親子に輪廻について説いています。クシャトリアが、バラモンに説いているということは、その頃のバラモンには知られていなかった教えなのでしょう。また、王が知っているということは、庶民階級にも知られていたのではないでしょうか。
> 釈尊の時代は、業報輪廻の思想が定着しており
このことは、幾つかの本で読みました。たとえば、梶山雄一先生の『菩薩ということ』に書いてありました。私は、初期経典よりも、大乗仏教を学んできたので、『大獅子吼経』を読んでいません。少し調べましたが、その経典にサーリプッタ尊者は出ていますか?
ダルマ太郎さん
2024/4/23 7:45
> そのように前提とされていることが根拠不明、或いは間違いなら、ダルマ太郎さんの論理にはあまり説得力がなくなってしまうからです。
確かに客観的な根拠が欠けていれば、論理的とはいえません。論理的でなければ、説得力もなくなってしまいます。私も根拠のない意見の場合は、相手に根拠を尋ねますので、思いは分かります。お尋ねの内容について、すべての根拠は示せないかも知れません。なぜなら、記憶にあっても、どの経典だったのか、何の本だったのかを忘れていることが多いからです。
> カウシータキウパニシャッドが紀元前7世紀頃の成立という根拠はなんでしょうか?
古ウパニシャッドは、紀元前八世紀頃から編纂されたという本を読んだことがあり、カウシータキウパニシャッドは、最古のものではないけれど、古いものだと書いていました。よって、七世紀頃という見解を取り入れました。どの本なのかは忘れました。
ダルマ太郎さん
2024/4/23 7:43
お早うございます。
> まず事実関係について、根拠のよくわからないこと、完全な事実誤認と言えることを自明の前提がごとくおっしゃってるのが気になります。
歴史的なことなのに、そのことが事実かどうかは判らないのではないでしょうか? 特にインドの場合、歴史に関する資料がほとんどないといいます。説には、定説・仮説・異説がありますが、歴史は現在定説とされていることでも、何らかの証拠が見つかればひっくりかえります。歴史的な事実は、はっきりとは分からないのだと思いますが・・・
事実誤認だと決めつけることの根拠は何でしょうか? 釈尊が生まれたのは、二十世紀になってからである、などと書けば事実誤認だと断定ができるのでしょうが、二千年以上も前のことで、事実だとか、事実誤認だとかを量れるのでしょうか? 私は、経典や書物や論文を読んで、定説に近いものを選んで書いています。自分勝手な思い付きではありません。
Sさん
質問者2024/4/23 0:28
大獅子吼経や業分別経にある通り、ブッダは智慧第一と呼ばれたサーリプッタ尊者含め、人々が輪廻について全く知らないという前提で業と輪廻の解説を行っています。輪廻が社会通念なら、とても奇妙なことと言わざるを得ません。また。輪廻が社会通念なら、輪廻を見通す三明を得たからブッダになったという教義も全く意味不明です。誰もが知っている常識を知ったからブッダになったということでしょうか??
つまり輪廻方便説は経典の伝承とまったく矛盾しているし、確かな根拠もないのです。だとすると方便説は崩壊しますよね、という意味で事実認識について伺っています。
Sさん
質問者2024/4/22 23:59
まず、こうした事実関係について、私の疑問にお答え願えればと思います。
これは解釈とか思想の問題ではなく、事実についてのことなので、明確にお答えいただける事かと思いますので。
補足しますと、私は意地悪く揚げ足取りをしたいわけではないのです。
ただ、ダルマ太郎さんは要するに昔ながらの輪廻方便説を主張されていると思うのです。
輪廻方便説というのはブッダ以前からインド社会には業報輪廻説が浸透しており、ブッダは輪廻など信じていなかったが、人々を道徳的に教化するために輪廻説に迎合してこれを利用したという説です。
こうした説を説く人は仏教学者に多いのですが、そもそもの前提である「インド社会には業報輪廻説が浸透していた」というのが私にはまったく説得力が感じられないのです。
何故なら、経典の記述と矛盾するからです。
Sさん
:
:
質問者2024/4/22 23:58
:
>釈尊が業報輪廻をどのようにとらえていたのかは分かりません。肯定していたのか、否定していたのかは不明です。
:
ブッダがブッダと呼ばれるようになったのは、三明と呼ばれる智慧を得たからであり、三明とは自らの過去世を見る宿住随念智、衆生の輪廻を見通す天眼智、そして輪廻から解脱を悟る漏尽智の三つの智慧です。
これは三明ヴァッチャ経という経典で明言されていますので、ブッダは輪廻を如実に知見していたというのが経典の伝える教えです。
ですからそれは不明でもなんでもないのでは?
:
これに限らず、初期仏教経典には輪廻について詳しく説く教えは山のように出てきますので、それを読めばブッダが業報輪廻をどのように捉えていたかはよく分かります。一言で言えば、それが有ることは肯定し、しかしその価値は否定していました。
そうでなければ輪廻からの解脱を説くはずがありません。
:
Sさん
:
:
質問者2024/4/22 23:58
:
>釈尊が業報輪廻をどのようにとらえていたのかは分かりません。肯定していたのか、否定していたのかは不明です。
:
ブッダがブッダと呼ばれるようになったのは、三明と呼ばれる智慧を得たからであり、三明とは自らの過去世を見る宿住随念智、衆生の輪廻を見通す天眼智、そして輪廻から解脱を悟る漏尽智の三つの智慧です。
これは三明ヴァッチャ経という経典で明言されていますので、ブッダは輪廻を如実に知見していたというのが経典の伝える教えです。
ですからそれは不明でもなんでもないのでは?
:
これに限らず、初期仏教経典には輪廻について詳しく説く教えは山のように出てきますので、それを読めばブッダが業報輪廻をどのように捉えていたかはよく分かります。一言で言えば、それが有ることは肯定し、しかしその価値は否定していました。
そうでなければ輪廻からの解脱を説くはずがありません。
:
Sさん
:
:
質問者2024/4/22 23:55
:
>釈尊の時代は、業報輪廻の思想が定着しており
:
これも根拠がありません。
例えば、ブッダは中部の大獅子吼経において、サーリプッタ尊者を相手に輪廻によって赴く五道について詳細に説明を行っています。
ブッダより昔から庶民にまで知られていたことなら、なぜそのように詳細な解説を行わなければならないのでしょうか?
:
:
>インドには、カースト制度があり、カースト制度と業報輪廻が結び付いて、人々を苦しめていました。
:
カーストの理論的な背景として輪廻が用いられるようになったのがはっきりと確認できるのは、BC2世紀からAD2世紀頃に成立したマヌ法典によってです。
それ以前のヴェーダやウパニシャッドには輪廻によってカーストが決まるという説は説かれていません。ちなみにカウシータキが説く輪廻説は、天・人・動物の三種に輪廻するというもので、カーストについてなど一言も触れられていませんよ。
:
Sさん
質問者2024/4/22 23:53
非常に長文のお答えなのでどこから返信していいものか迷いますが。
まず事実関係について、根拠のよくわからないこと、完全な事実誤認と言えることを自明の前提がごとくおっしゃってるのが気になります。
そのように前提とされていることが根拠不明、或いは間違いなら、ダルマ太郎さんの論理にはあまり説得力がなくなってしまうからです。
>業報輪廻は、紀元前7世紀頃のカウシータキー・ウパニシャッドで説かれています。
カウシータキウパニシャッドが紀元前7世紀頃の成立という根拠はなんでしょうか?
ブッダの生没年さえ不明なのに、カウシータキウパニシャッドが紀元前7世紀頃で、ブッダより前の成立だと断言できる根拠はなんですか?
>それ以前から庶民には知られていたのでしょうが
輪廻がウパニシャッド以前から庶民に知られていたという根拠はなんでしょうか?
ダルマ太郎さん
2024/4/22 22:58
輪廻は空です。実体は有りません。しかし、概念として有ります。そのことを知らない人々は、概念上の輪廻を、事実として有るとみて、恐れ、悲しみ、絶望し、苦しみます。釈尊は、そのことを覚っておられたので、無我・無常を説いて、無執着へと導き、輪廻が幻であることを気づかせようとしたのでしょう。
大乗仏教では、業報輪廻にかわって「廻向」を説きました。廻向とは、振り向けることです。自分の善業の功徳を自分の成仏に振り向けたり、他者の救済・成仏に振り向けることです。業報を否定し、廻向を説くことによって、業報輪廻という概念を廻向に書き換えようとしたのでしょう。なので、大乗仏教の経典には、「輪廻は無い」と言って、明らかに輪廻を否定することもあります。
長文、失礼しました。
ダルマ太郎さん
2024/4/22 22:57
プラジュニャプティ prajñapti とは、「仮の設定」という意味です。仮設・仮説・仮名などと訳されますが、現代語に訳すと「概念」です。実体がないので、ただ付けらた名称によって存在するものです。
事象は因縁に依るので実体は有りません。これを私たちは空と言います。しかし、実体は無くても、名前として、概念としては有ります。この有るでもなく、無いのでもないことを中道と言います。
ダルマ太郎さん
2024/4/22 22:57
さて、龍樹は、中論の中で、「縁起の法を空と説き、これを仮名となし、またこれを中道の義とする」と論じています。鳩摩羅什は、
衆因縁生法 我説即是無
亦爲是假名 亦是中道義
yaḥ pratītyasamutpādaḥ śūnyatāṃ tāṃ pracakṣmahe|
sā prajñaptirupādāya pratipatsaiva madhyamā||18||
多くの因縁によって生起する事象を空だと説きます
また これは名称によってのみ仮に有り
また これを中道の義だといいます
:
答 2)
:
大智度論の最初の讃仏偈
:
経)
智度大道佛從來 智度大海佛窮盡
智度相義佛無礙 稽首智度無等佛
有無二見滅無餘 諸法實相佛所説
常住不壞淨煩惱 稽首佛所尊重法
聖衆大海行福田 學無學人以莊嚴
後有愛種永已盡 我所既滅根亦除
已捨世間諸事業 種種功徳所住處
一切衆中最爲上 稽首眞淨大徳僧
一心恭敬三寶已 及諸救世彌勒等
智慧第一舍利弗 無諍空行須菩提
我今如力欲演説 大智彼岸實相義
願諸大徳聖智人 一心善順聽我説
:
訳)
般若波羅蜜多の大道は 仏だけが よく来られました
般若波羅蜜多の大海は 仏だけが 極めつくされました
般若波羅蜜多の特徴は 仏だけが とらわれがありません
般若波羅蜜多を成就された 比類なき仏に 敬意を表します
有無の二つの思想を滅して余すことがなく
諸法実相は 仏の所説です
・・・略・・・
:
:
これは、龍樹が大智度論を論じるに先だって、釈尊を讃嘆している偈です。この中に、「有無二見滅無餘」という文がありますので、これに注目したいと思います。見とは思想のことです。仏は、有無という二つの思想を滅し尽くした、といいますから、仏教において、有無を否定することは、基本的な立場だということが分かります。
:
有見とは、「すべてのものには実体が有ると考え、実体に執着する思想」です。無見とは、「一切は無であると考え、そのことに執着する思想」です。仏教では、縁起を説いて、有無二見を否定しました。「すべてのものは因縁によって仮に有るので実体は無い」ということから、仮に有るので無を否定し、実体が無いので有を否定しました。非有非無の中道であり、これを空ともいいます。
:
有見は常見とも呼ばれ、ものの実在に固執する見解です。無見は断見とも呼ばれ、虚無にこだわる見方です。インドの宗教の多くは、アートマン(自我)は実在し、常住すると考えています。死んでもアートマンは常にあると観るので、常見といいます。業報輪廻は、この常見が土台にあります。アートマンが有ることを前提にしています。アートマンが業報を積み、アートマンが輪廻し、アートマンが解脱をすると考えます。よって、アートマンを否定して、無我を説いた仏教は、常見を否定していることが分かります。
:
一方、断見とは、死ねば断滅して、再び生まれ変わることはなく、業報・輪廻・解脱など無いとする思想です。仏教は、この思想だという誤解を持つ人が多いのですが、仏教は、断見を否定します。釈尊は、因果の法を説き、因縁にはそれに相応しく果報があると説いたのですから、今世の因縁は、来世に果報として受け取ると教えています。これを相続といいます。特徴を受け継いでいくから相続です。アートマンが有るから輪廻するのではなく、特徴を受け継いで輪廻するのです。このことから、釈尊や龍樹の説く輪廻は、世間一般的に言われている輪廻とは異なることが分かります。アートマンが輪廻するとはいわないのです。
:
:
龍樹は、中論の最初でも、帰敬序という讃仏偈を読んでいます。
:
経)
不生亦不滅 不常亦不斷
不一亦不異 不來亦不出
能説是因縁 善滅諸戲論
我稽首禮佛 諸説中第一
:
「不常亦不斷」とありますので、常見と断見を滅した仏を讃えていることが分かります。このように、非有非無の中道、非常非断の中道は、釈尊と龍樹の思想の根底にあることが分かります。
:
:
:
答)
:
ダルマ太郎さん
2024/4/22 22:56
:
こんばんは。
龍樹の『大智度論釋往生品第四之上 卷三十八』を読んでみました。Sさんが引用されているところは、質問者の質問に対し、龍樹が答えているところです。質問は、『摩訶般若波羅蜜経』の往生品第四の経文に関してです。その経文を参考のために引用します。
:
:
経)
舍利弗。汝所問菩薩摩訶薩。與般若波羅蜜相應。從此間終當生何處者。舍利弗。此菩薩摩訶薩。從一佛國至一佛國。常値諸佛終不離諸佛。舍利弗。有菩薩摩訶薩不以方便入初禪乃至第四禪。亦行六波羅蜜。是菩薩摩訶薩得禪故生長壽天。隨彼壽終來生是間。得人身値遇諸佛。是菩薩諸根不利。舍利弗。有菩薩摩訶薩入初禪乃至第四禪。亦行般若波羅蜜。不以方便故捨諸禪生欲界。是菩薩諸根亦鈍。舍利弗。有菩薩摩訶薩。入初禪乃至第四禪。入慈心乃至捨。入虚空處乃至非有想非無想處。修四念處乃至八聖道分。行佛十力乃至大慈大悲。是菩薩用方便力不隨禪生。不隨無量心生。不隨四無色定生。在所有佛處於中生。常不離般若波羅蜜行。如是菩薩賢劫中當得阿耨多羅三藐三菩提。
:
訳)
舎利弗よ。あなたが問うたのは、菩薩摩訶薩が般若波羅蜜と相応すれば、この間を終われば、どこに生まれるのか、ということですね。舎利弗よ。この菩薩摩訶薩は、一仏国から、一仏国に至り、常に諸仏に会い、ついに仏から離れることはありません。舎利弗よ。ある菩薩摩訶薩が、方便によらずに、初禅に入り、ないし第四禅に入り、または六波羅蜜を行じれば、この菩薩摩訶薩は、禅を得ることによって、長寿の天に生まれます。彼の寿命が終われば、この間に生まれ、人身を得て、諸仏に出会います。しかし、この菩薩の諸根は利ではありません。舎利弗よ。ある菩薩摩訶薩が、初禅に入り、ないし第四禅に入り、また般若波羅蜜を行じていても、方便によらなかったため、諸々の禅を捨て、欲界に生まれます。この菩薩の諸根もまた鈍いです。舎利弗よ。ある菩薩摩訶薩が、初禅に入り、ないし第四禅に入り、慈心に入り、ないし捨心に入り、虚空処に入り、ないし非有想非無想処に入り、四念処を修め、ないし八正道を修め、仏の十力、ないし大慈大悲を行うけれど、この菩薩が方便力を用いるがために、諸禅、無量心、四無色定に随って、生じることはなく、諸仏のところに生じて、常に般若波羅蜜の行から離れることがありません。この菩薩は、現在において、まさに無上の覚りを得るのです。
:
:
この経の内容について、対論者から質問があります。
:
経)
舎利弗は、今、前世と後世を問えるに、仏は何を以っての故にか、前世中の三種を答えて、後世中に広く分別したもう。
:
経典では、上記の内容の前に前世と現世のことが答えられていて、「他方の仏国」「兜率天」「人中」の三種について説いています。来世については詳しく広く説いているので、その違いを問うています。龍樹の答えの三番目が、質問者さんが訳しているところです。
:
空を学び始めた者は、空を空と観ず、空の相をみて、空に執着します。「実体の欠如」の意味を深く理解しようとはせず、空を無だと誤解して、すべてを否定してしまいます。無来、無去、無出、無入という言葉によって、単純に輪廻を否定してしまいます。しかし、仏教では輪廻が無いとは断言していません。非有非無の中道を説いていますから、常見も断見も否定しています。無に執着している者には、生まれること、死ぬことを教えます。
:
:
> 初期仏教では輪廻が説かれたが、大乗仏教では輪廻は説かれていない
:
初期仏教でも、大乗仏教でも、業報輪廻については説かれています。十二因縁・四諦・八正道は、輪廻から解脱することがテーマです。業報輪廻は、紀元前7世紀頃のカウシータキー・ウパニシャッドで説かれています。それ以前から庶民には知られていたのでしょうが、このウパニシャッドでバラモンたちにも知られるようになりました。よって、輪廻説は、アーリヤ人の思想だったのではなく、インドの土着民族の思想だったのでしょう。
:
釈尊の時代は、業報輪廻の思想が定着しており、修行者たちは、輪廻からの解脱を目指しました。業報輪廻とは、善悪の行為によって善悪の業報を積み、その結果、死後、天上界・人間界・動物界・地獄界に趣くことです。悪業を繰り返せば、どんどん悪い世界に堕ちていきます。そして、長い間、苦の世界を輪廻します。輪廻から解脱するためには、善業を積むしかありません。
:
インドには、カースト制度があり、カースト制度と業報輪廻が結び付いて、人々を苦しめていました。カースト制度とは、バラモン(司祭)・クシャトリヤ(王族)・ヴァイシャ(平民)・シュードラ(奴隷)という身分制度のことです。親の身分を子も引き継ぎ、身分は一生変わりません。奴隷の子は奴隷であり、死ぬまで奴隷です。努力精進しても、今世では身分は変わりません。しかも、今の自分の環境は、前世での自分の行為の結果なので、誰にも文句は言えません。業報輪廻は、自己責任の思想です。来世に期待し、今は我慢して善業をコツコツと積むしかありません。
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釈尊は、人々の苦を抜き、楽を与えることを目的にして活動しました。その時、大きな課題として、業報輪廻とどのように取り組むかがありました。人々は、業報輪廻説を信じ切っており、苦の原因になっています。十二因縁に「生」が入るのは、この世界に生まれるということは、前世での善業が足りていなかったということが分かるからです。繰り返す輪廻から解脱できないことへの絶望は、苦そのものでしょう。仏教の根本義である十二因縁・四諦・八正道は、苦(輪廻)から解脱する道を説いています。
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しかし、釈尊が業報輪廻をどのようにとらえていたのかは分かりません。肯定していたのか、否定していたのかは不明です。しかし、実際に苦しんでいる人々にとって、輪廻の有無は問題ではなく、必要なのは、治療のための薬です。悪業をつくらず、善業を積むことによって、心を浄化すれば、輪廻から解脱できることを教え、具体的には、八正道という修行方法を示しました。
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方便品を先にします
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Rの法華三部経の解釈は、いよいよ法華経に入りました。法華経は、人々の固定概念を徹底的に崩していく痛快な内容です。私も色々と、目からうろこが落ちる体験をしました。衝撃的なことも書いてあります。
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序品を進めていたのですが、方便品を先に解釈したくなりました。序品も同時進行で書いていこうとは思っています。
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よろしくお願いします。
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方便品を先にします
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開三顕一
声聞 とは解脱 を求める者として大乗仏教徒から攻撃されました。
辟支仏 とは僧伽 の中で修行します。ある程度修行が進むと僧伽からも離れて、山奥に入り、独りで修行する者がいました。それが縁覚です。仙人のようなイメージです。縁覚は、覚りを得ても他者に教えを布施しませんでしたので、声聞と同じく自分だけの解脱を求める者として、大乗仏教徒から攻撃されました。阿羅漢 の位・辟支仏の位を目指しました。辟支仏は、覚ってはいても、最高の覚りを得たわけではありません。成仏という目的を捨てているので、大乗仏教徒は、二乗は成仏不可だといいました。大乗仏教徒は、自らを菩薩と呼び、成仏を目指す者だと宣言しています。仏道のプロが、新興仏教の大乗に馬鹿にされたため、二乗の仏教徒は、大乗を伝統のない、でっちあげの仏教だといって攻撃しています。こうして、声聞・縁覚と菩薩は対立していました。
開三顕一
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太郎論:声聞とは、シュラーヴァカ śrāvaka の意訳です。「声を聞く者」のことで、初期仏教では、釈尊の声を聞く者という意味であり、仏弟子という意味でした。つまり、出家と在家、男性と女性という区別はなく、仏弟子であれば、みんなが等しく声聞と呼ばれていました。大乗仏教になると、声聞とは、出家者のことをいうようになり、自分だけの
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辟支仏とは、プラティエーカ・ブッダ pratyeka-buddha の音写です。「独りで覚った者」という意味で、独覚・縁覚などとも訳されます。縁覚とは、縁起を覚った者という意味です。日本では、縁覚という表現が好まれているようですので、私も縁覚と表すことにします。出家者は、家を捨て、家族を捨て、財産・土地・身分を捨てて、仏教教団に入り、
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三乗
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声聞・縁覚は、個人の救われしか求めないので、大乗仏教徒から「劣った乗り物」という意味で、ヒナヤーナ Hīnayāna と呼ばれました。中国では、「小乗」と訳しています。大乗仏教徒は、自分たちのことを菩薩と呼び、大乗だといいました。大乗とは、マハーヤーナ Mahāyāna の訳で、「大いなる乗り物」の意味です。
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声聞・縁覚を二乗ともいいます。釈尊は、誰もが仏に成れると説いていたのに、二乗の仏教徒たちは、自分たちが成仏できるはずがないとして、
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法華経では、この声聞・縁覚・菩薩を三乗だと呼んでいます。そして、三乗とは方便であって、仏は一仏乗を説くのだとおっしゃっています。一仏乗の修行者のことも菩薩というのでややこしいのですが、三乗の菩薩が二乗を差別したのに対し、一仏乗は差別をしません。
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方便品では、三乗は一仏乗に導くための方便だと説いています。聞解を好む者には声聞乗を説き、思惟を好む者には縁覚乗を説き、修習を好む者には菩薩乗を説いてきたけれど、それらの教えは、ただ一仏乗へと導くための方便だというのです。これを天台宗は、開三顕一といっています。開とは「開除」、顕とは「顕示」のことです。とらわれの心を開除し、真実を顕示するので開顕といいます。開三顕一とは、三乗への執着を開除し、一仏乗を顕示することです。
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法華経では、その当時の修行者のタイプから声聞・縁覚・菩薩という区別をしていますが、これは、「無量の方便を説いて妙法に導く」ということの譬喩です。よって、現代においては、宗派や教団に当てはめるのがいいと思います。日蓮系・禅系・浄土系の宗派があるけれど、それは方便であって、すべての教えは仏道だということです。
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開三顕一
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無問自説 舎利弗 に対して説法を始めました。これを無問自説といいます。質問に答えるのであれば、質問者の機根に合わせて説法をする必要がありますが、無問自説ならば、対機説法にする必要がありませんので、少々レベルの高い教えも説くことができます。
舎利弗 への説法智慧第一 」だと言われています。その天才舎利弗に対して教えを説かれるのですから、これから説かれる教えは、かなりレベルの高い智的なものだと予想できます。舎利弗とは、シャーリプトラ Śāriputra の音写です。舎利弗の母親は、美しい眼を持っていたことから「シャーリ」と呼ばれていました。シャーリとは、鳥のサギのことです。サギの眼はギョロっとしているイメージですが、インドでは、美しいという感じなのでしょう。または、あだ名ではなく、本名だともいわれています。プトラは、「子」です。つまり、舎利弗とは、「シャーリの子」という意味です。玄奘 は、「舎利子 」と訳しています。智慧 般若 とも音写されます。真理(法)を観察する能力のことです。最高の真理(妙法)を得ることで、智慧を完成することができます。いわゆる般若波羅蜜 です。仏は、智慧を完成されて、妙法に目覚められていますので、仏の智慧とは、般若波羅蜜です。般若波羅蜜を得たことによって、無上の覚りである阿耨多羅三藐三菩提 を成就されています。つまり、成仏されています。法華経以前に説かれた般若波羅蜜経では、智慧の完成がテーマでしたが、法華経では、般若波羅蜜の対象である妙法がテーマになります。躊躇 します。しかし、深く思惟 し、方便力によって教化することを決められました。この方便とは何なのかが方便品のテーマであり、法華経全体のテーマでもあります。真理と方便、智慧と慈悲というキーワードが、法華経を学ぶときに重要です。
三昧
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太郎論:法華経の説法は、方便品から始まります。序品では無量義処三昧に入っているために言葉は発していません。三昧とは、サマーディ samādhi の音写であり、「まとめる」、「心を整える」、「意図的な熟考」、「完全な吸収」などの意味があります。瞑想によって深い精神集中に入った状態のことです。無量義処三昧というのは、無量義の教えについて熟考することです。法華経には、たくさんの三昧が出てきますが、ほとんどは、そのことを熟考する意味です。
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太郎論:通常、仏教の経典では、誰かの質問に応じて釈尊が答えるという形式をとります。しかし、方便品では、誰からの質問もないのに、釈尊が
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太郎論:釈尊は、説法の相手に舎利弗を選ばれました。舎利弗は、仏教教団では「
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仏の
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太郎論:智慧とは、プラジュニャー prajñā の訳です。
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太郎論:釈尊が、菩提樹の下で何を覚られたのかは分かりません。仮説としては、最高の真理である妙法と人々を妙法に導く方便の二つだといわれています。妙法は、言葉では表せません。なので、覚りを開かれた釈尊は、教化することを
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太郎論:諸仏の智慧は甚深無量であり、その智慧の門は難解難入だと、釈尊はいわれます。覚りの境地は、非常に奥が深く、量ることができません。覚りの入口でさえも、それに入ることは難解であり、難入だと説かれます。その甚深無量・難解難入の智慧について、またその対象の妙法について、妙法へと導く方便について、これから法華経では説法が為されるわけです。
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三昧
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:四十余年未顕真実 」という言葉を切り取って、無量義経以前の教えでは、真実は説かれていないと主張し、法華経の方便品第二の「正直捨方便 但説無上道 」(正直に方便を捨てて 但無上道を説く)を切り取って、法華経においては方便を捨てて無上の道を説くのだ、と主張します。序分 〉とは、そのお経は、いつ、どこで、どんな人びとを相手として、なぜお説きになったのかという大要などが書かれてある部分。正宗分の糸口。
法華三部経
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無量義経
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R論:釈尊は、いままでの四十余年間、こういう目的で、このように法を説いてきた、じつはまだ真実をすっかりうち明けていないのだ。しかし、今まで説いてきた教えもすべて真実であり、すべて大切なものである、なぜなら、すべての教えはただ一つの真理から出ているからである。
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太郎論:日本の法華経信者の多くは、無量義経の「
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太郎論:「真実」は仏教用語では、「絶対の真理」「仮ではないこと」「究極のもの」「真如」を意味します。古代インドでは、真理は言葉では表せないといわれました。それは客体ではありませんから、客観的表現では表せません。言葉は人が作ったものなので、究極的な真理を言葉で表すことはできません。そのことを知っていれば、仏教経典にある教えはすべて真理ではなく、真理へと導く方便なのだと分かります。もちろん、法華経も言葉によって説かれていますから、方便です。
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序分・正宗分・流通分
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R論:〈
〈正宗分 〉とは、そのお経の本論。中心となる意味をもった部分。
〈流通分 〉とは、正宗分に説いてあることをよく理解し、信じ、身に行えば、どんな功徳があるかということを説き、だからこれを大切にして、あまねく世に広めよ、そういう努力をする者にはこんな加護があるのだよ、ということを説かれた部分。 迹門 と本門 迹仏 と本仏
仏説観普賢菩薩行法経 懺悔 するということを教えられてあるのです。
懴悔 とは
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法華経
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R論:迹門の教えは迹仏の教え。迹仏とは、実際にこの世にお生まれになった釈迦牟尼世尊のことです。ですから、迹門の教えは一口にいって、宇宙の万物万象はこのようになっている、人間とはこのようなものだ、だから人間はこう生きねばならぬ、人間どうしの関係はこうあらねばならぬ、ということを教えられたものです。いいかえれば、智慧の教えです。
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R論:本門では、「本来仏というのは、宇宙のありとあらゆるものを生かしている宇宙の大真理〈大生命〉である」ということを明らかにされます。したがって本門の教えは、自分は宇宙の大真理である〈本仏〉に生かされているのだ。という大事実にめざめよ、というもので、智慧を一歩超えた素晴らしい魂の感動、本仏の〈大慈悲〉を生き生きと感じる教えです。〈慈悲〉の教えです。
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太郎論:法華経には、「真理と現象」のことが説かれています。真理によって現象は起こり、住し、異変し、滅します。現象は真理によって起こります。また、真理は目に見えませんから、真理を覚るには現象を観察する必要があります。現象は真理によって起こりますから、現象を通して真理を観ることができる、という理屈です。ただし、そのことを理解するのは難しいので、法華経前半では、「言葉によって真理を知る」、ということが説かれています。真理へと導くものを方便といいますので、前半では、言葉を方便だとして説いています。後半では、「現象を通して真理を知る」、ということが説かれています。
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R論:わたしどもが法華経の精神を身に行うための具体的な方法として、(釈尊は)
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R論:修行次第で自分も仏になれるのだとわかっても、日常生活では悩みや苦しみ、いろいろな欲や悪念が次から次へと湧いてきます。それで、せっかく自分も仏になれるという勇気もくじけがちになります。つい迷いの黒雲に押し流されそうになるのです。その黒雲を払いのけるのが懺悔であり、その懺悔の方法を教えられたのが《観普賢経》なのであります。
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R論:第一に、「誤りを自覚する」
第二に、「それを改めることを心に誓う」
第三に、「正しい道に向かう努力をする」
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法華三部経
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:開三顕一 を顕す爾 の時に世尊、三昧 より安詳として起って、舎利弗に告げたまわく。諸仏の智慧 は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり。一切の声聞 ・辟支仏 の知ること能 わざる所なり。所以 は何ん、仏曾 て百千万億無数の諸仏に親近 し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進 して、名称 普く聞えたまえり。甚深未曾有 の法を成就 して、宜 しきに随って説きたもう所意趣解り難し。無量義処三昧 という三昧 に入っておられた釈尊は、三昧を終え、静かに目を開かれました。そして厳かに立ち上がられ、誰からの質問も待たずに自ら口をお開きになり、舎利弗 に向かって語り始められたのでした。仏の『智慧 』は大変奥深く、『真理』はあまりにも深淵であるために、ふつうの人々には真理の内容を理解するのは困難です。しかも、声聞 や縁覚 の境地にいる全ての者も、真理の意味を正しく理解することができません。仏はこれまでに無数の仏から教えを受け、数々の修行と努力を尽くしてきました。しかも様々な困難や、湧 き起る全ての煩悩にも打ち勝ち、ひたすら仏の境地に向かって精進 してきました。そしてついに、深淵な『真理』を悟ることができ、あらゆる人々から仰 ぎ見られる身となったのです。
略して
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言に寄せて権実二智を讃嘆する
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諸仏の二智を讃嘆する
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経:
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R訳:その時、
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太郎訳:その時に世尊は、瞑想から眼を覚まされると、尊者シャーリプトラに告げました。諸仏の得た智慧は、非常に深く、その智慧を得ることは、非常に難しく、智慧の門にはなかなか入れません。一切の声聞の弟子たちや縁覚の弟子たちでは理解しがたい内容です。人々が得ることの難しい智慧を、諸仏が得ることができたのは、仏は、過去に無数の諸仏を敬い、無数の諸仏の元で修行に修行を重ね、努力精進をしたからです。その結果、多くの人々に知られるようになり、尊敬されるようになりました。非常に深く得ることの難しい真理を覚って成仏した諸仏は、人々の機根に応じて教えを説かれましたが、その教えの内容の奥の奥の真意は人々には、なかなか理解できないものでした。
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権実二智とは
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太郎論:権実二智とは、権智と実智、方便と智慧のことです。法華経では、諸仏の二智を讃嘆し、どのようにして人々を覚りへと導くのか、その智慧と方便の具体的な実践を明かしています。
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諸仏の二智を讃嘆する
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迹門 と本門 迹仏 と本仏 釈迦牟尼世尊 のことです。ですから〈迹門の教え〉は一口にいって、宇宙の万物万象はこのようになっている、人間とはこのようなものだ、だから人間はこう生きねばならぬ、人間どうしの関係はこうあらねばならぬということを教えられたものです。いいかえれば、〈智慧 〉の教えです。
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R論:〈迹門の教え〉は〈迹仏〉の教え。〈迹仏〉とは、実際にこの世にお生まれになった
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R論:〈本門〉では、本来仏というのは、宇宙のありとあらゆるものを生かしている宇宙の大真理〈大生命〉であるということを明らかにされます。したがって〈本門の教え〉は、自分は宇宙の大真理である〈本仏〉に生かされているのだ。という大事実にめざめよ。というもので、〈智慧〉を一歩超えた素晴らしい魂の感動、本仏の〈大慈悲〉を生き生きと感じる教えです。〈慈悲〉の教えです。
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太郎論:迹仏としての釈尊は、「宇宙の万物万象はこのようになっている」「人間とはこのようなものだ」ということを説いているのでしょうか? おそらくは、縁起のこと、菩薩道のことなのでしょうが、そのことは法華経以前から説かれていますから、法華経で初めて説かれたわけではありません。智慧とは、真理を観察する能力のことなので、現象を通して妙法を覚るためにあります。現象を把握する能力とは違うと思います。
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太郎論:本仏とは、真理を体とする法身仏のことでしょう。真理によって現象が起こりますので、Rの会では、「あらゆるものを生かしている」と表現しているのでしょうね。しかし、大生命という言い方は、何だか神のように思えます。真理を法身仏だと譬えているのに、それをさらに大生命だと譬える必要があるのかが分かりません。実体を観るようになりそうに思えます。
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迹門と本門 迹仏と本仏
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方便品の要点
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R論:この《方便品第二》は、《如来寿量品第十六》とともに、《法華経》の中心と言われています。なぜでしょうか。
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【第一の要点】は、釈尊は「人間は誰でも仏になれるのだ」という大宣言をなさったことです。すなわち〈一切の人間は一人のこらず仏性をそなえている〉ということを教えられたのです。そして〈仏の目的は、すべての人びとに、自分自身がそなえている仏性を自覚させることにほかならない〉ことをはじめて明かされたのです。
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【第二の要点】は、これまで様々な方法で人々を導いてきた教えは、すべて真実だったのです。教えを聞く人びとの機根の程度にふさわしい教えを説いて~ その人と環境と時代にふさわしい正しい手段をとることを〈方便〉というのですが~ 方便のようにみえても、それは真実の道なのです。「方便が方便だった」と明らかにされたとき、はじめてそれがとりもなおさず「真実の道」だということがハッキリしてくるわけです。その〈方便すなわち真実〉ということを言葉を尽くしてお説きになります。
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太郎論:「人間は誰でも仏になれるのだ」という説は、理解できますが、「一切の人間は一人のこらず仏性をそなえている」という説は違和感があります。仏性というものを私たちが持っているという意味に取られるかも知れません。そうなると、まるで仏性という実体が有るという感じになり、仏性に執着する結果になってしまうでしょう。実際にRの会の人と話すと、私たちは、仏性という仏と同じ心を持っている、と言います。釈尊は、無我を説き、無常を説いて、一切の執着から離れさせようとしたのですから、仏性を実体として観ることは仏教に反します。仏性とは、「成仏の可能性」という意味でとらえたほうがいいのではないでしょうか。「人間は誰でも仏になれるのだ」という説の方が執着をつくりません。
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「その人と環境と時代にふさわしい正しい手段をとることを方便というのです」というのは、方便の意味が違うように思えます。方便とは、真理へと導く方法です。最高の真理(妙法)は言葉では表せませんが、言葉でしか導くことができないので、方便を用いたのです。
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方便品の要点
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:大荘厳菩薩 、復仏に白して言さく、世尊、世尊の説法不可思議なり。衆生の根性亦不可思議なり。法門解脱亦不可思議なり。我等、仏の所説の諸法に於て復疑難なけれども、而も諸の衆生迷惑の心を生ぜんが故に、重ねて世尊に諮 いたてまつる。如来の得道より已来 四十余年、常に衆生の為に諸法の四相の義・苦の義・空の義・無常・無我・無大・無小・無生・無滅・一相・無相・法性・法相・本来空寂・不来・不去・不出・不没を演説したもう。若し聞くことある者は、或は煖法 ・頂法 ・世第一法 ・須陀洹果 ・斯陀含果 ・阿那含果 ・阿羅漢果 ・辟支仏道 を得、菩提心 を発し、第一地・第二地・第三地に登り、第十地に至りき。往日 説きたもう所の諸法の義と今説きたもう所と、何等の異ることあれば、而も甚深無上大乗無量義経のみ、菩薩修行せば必ず疾く無上菩提を成ずることを得んと言う、是の事云何。唯願わくば世尊、一切を慈哀して広く衆生の為に而も之を分別 し、普く現在及び未来世に法を聞くことあらん者をして、余の疑網無からしめたまえ。大雲 が大空をおおうように、この世あらゆる人々を平等におおい、救う境地』等々、その人の信仰の境地も高まってまいりました」
正問
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経:爾の時に
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R訳:すると大荘厳菩薩は、再び釈尊に向かって申し上げました。「世尊よ。世尊の教えは大変奥深いものです。しかし衆生にとっては、その奥深い教えを正しく理解することは容易ではありません。私ども菩薩はこの教えに疑問や難しさを感じませんが、しかし衆生にとっては、疑問、難しさ、迷いを覚えることもあるでしょう。どうかそういう人たちのために、重ねてお尋ねいたします」
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大荘厳菩薩は質問を続けます。
「世尊は成道されてから40数年経ちました。そして『生・住・異・滅』の教えや、全てのものごとは『空』であるということ、また常に変化するという『無常』の教え、孤立して存在するものはないという『無我』の教え、そして、すべての存在の本質は、大きいとか小さいなどの差別や区別はなく、本来、『平等で調和』しているということをお教えくださいました。その結果、教えを伺った者たちは、『心暖まる境地』から、『仏法がこの世の教えの中で第一であると認識する境地』、『煩悩にとらわれなくなる境地』、『菩提心を起す境地』、『
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「しかし、世尊は何故、以前に説いた教えと、今、説く教えに違いがあり、『無量義の教えさえ実践すれば、必ず、直ぐに無上の悟りが得られる』とおっしゃるのでしょうか?(昔の教えではダメなのでしょうか?) どうか私どもを可哀相だとお考えくださり、現世のみならず未来の人々のために、疑問が少しでも残ることがないようにその真意をお教えください」
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太郎訳:その時に大荘厳菩薩は、また仏に言いました。「世尊。世尊の説法は不可思議です。思いはかることができず、言語でも表現できません。人々の根性もまた不可思議です。迷いから離れることもまた不可思議です。私たちは、仏さまの説かれた様々な教えにおいて疑問はありませんが、諸々の衆生が迷惑の心を起こすかもしれませんので、重ねて世尊に質問いたします。如来の得道より四十余年、常に人々のために諸法の四相(生住異滅)についての教え・苦についての教え・空についての教え・無常についての教え・無我についての教え・無大と無小という無分別の教え・無生無滅についての教え・一相無相についての教え・法性法相についての教え・本来空寂についての教え・不来不去不出不没についての教えを説かれました。これらの教えを聞いた者は、さまざまな声聞の果報を受け、縁覚の果報を受け、菩提心を起こし、菩薩の第十地に至ります。これまでに説かれた教えと今説かれた教えと、どこがどのように違うのでしょうか? どこが異なるから、甚深無上大乗無量義経だけが、菩薩が修行すれば必ず速やかに無上菩提を成ずることを得ると説かれるのでしょうか? このことが分かりません。ただ願わくば世尊、一切を慈しみ、哀れと思われて、広く人々のためにこのことを分かりやすく、普く現在と未来の世において教えを聞くであろう人々の余の疑網を除いてください」
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正問
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呉音
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太郎論:漢訳の仏教経典は、多くの場合、呉音で読みます。呉音は漢音以前から中国で使われており、日本にも呉音が最初に入ってきました。江戸時代までは、呉音の方が普及していたのですが、明治になって漢音が多く使われるようになりました。結果的に日本人が使う漢字は、音読み(漢音・呉音)、訓読みというように複雑化しています。
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経典を読むとき、普段とは違う読み方をしますので違和感があります。フリガナがついていないと読めません。たとえば、品は、漢音では「ひん」と読みますが、呉音では「ほん」です。日は、「じつ」「にち」、礼は、「れい」「らい」、力は、「りょく」「りき」というような感じです。
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ネットに上がっている漢訳経典には、フリガナがついていないことが多いので読めません。経典の読みに慣れるためには、フリガナ付の経典を購入することをお薦めします。
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呉音
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菩薩とは
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太郎論:菩薩とは、ボーディ・サットヴァ bodhi-sattva の音写です。「覚り+人」という合成語です。初期仏教では、覚りを得る前の修行中の釈尊のことをいいました。「覚ることが決まっている人」という意味です。他には、釈尊の次に成仏するといわれる弥勒も菩薩と呼ばれました。大乗仏教になると、「覚りを求める人」という意味で使われるようになりました。大乗は、みんなで成仏を目指すので、大乗仏教徒たちは自らを菩薩と呼びました。大乗の菩薩なので、菩薩摩訶薩ともいいます。摩訶薩とは、マハー・サットヴァ mahā-sattva の音写です。意味は、「大いなる人」です。般若経典は、菩薩摩訶薩たちによって編纂されました。その中で、空の実践者としての菩薩摩訶薩が強調されています。しかし、声聞や縁覚は成仏できないといって差別したために、法華経の編纂者からは、三乗の菩薩だといわれています。一切衆生の成仏を願う一乗の菩薩とは区別されています。法華経では、菩薩とは、「一切衆生の覚りを求める人」であり、「自他を覚りに導く人」です。
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大乗仏教は、紀元前後に起こりましたので、釈尊の時代にはありません。よって、無量義経や法華経の会に菩薩が参加することはありません。実在の人物だとされる弥勒菩薩が参加しているかも知れませんが、八万人もの菩薩が集うことはありません。それらの菩薩とは、法身の菩薩だといわれます。法身菩薩とは、真理・教えを体とする菩薩のことです。真理を覚った菩薩のことですから、仏に近い存在です。しかし、実在しているわけではなく、教義の象徴として登場します。たとえば、慈悲の象徴としての弥勒菩薩、智慧の象徴としての文殊菩薩、実践の象徴としての普賢菩薩というような感じです。経典で弥勒菩薩が登場したら慈悲についての教えが説かれ、文殊菩薩が登場したら智慧についての教えが説かれ、普賢菩薩が登場したら実践について説かれます。
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無量義経・法華経は、菩薩への教えです。経典の中でも教菩薩法という言葉が頻繁に出てきます。無量義経では、大荘厳菩薩への説法という形式ですので、菩薩への教えだと分かりやすいのですが、法華経の前半は、声聞たちを対象にしています。会に参加している声聞たちを教化し、菩提心(覚りを求める心)を起して、未来に成仏することを予言し、全員を菩薩にしています。法師品第十以前は声聞への教えのように思えます。法師品からは、薬王菩薩・大楽説菩薩・文殊菩薩・弥勒菩薩などが説法の対象になっていますので、菩薩への教えだというのは明らかですが、法師品以前を菩薩への教えだと言えるのでしょうか?
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法華経は、菩薩を対象にした実践指導です。声聞をどのようにして教化し、菩提心を起させ、菩薩としての自覚を持たせ、広宣流布を誓願させるかを、釈尊が実際に行い、菩薩たちに見せて、指導をしているわけです。このことから、教菩薩法といいます。釈尊は、声聞と菩薩を同時に教化しているのです。
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菩薩とは
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:微渧 先ず堕ちて以て欲塵を淹 し、涅槃 の門を開き解脱 の風を扇いで世の悩熱を除き法の清涼 を致す。次に甚深 の十二因縁 を降らして、用て無明 ・老・病・死等の猛盛熾然 なる苦聚 の日光に灑 ぎ、爾 して乃ち洪 に無上の大乗を注いで、衆生の諸有の善根を潤漬 し、善の種子を布いて功徳 の田 に遍じ、普 く一切をして菩提の萌を発さしむ。智慧の日月方便の時節、大乗の事業を扶蔬増長 して、衆をして疾 く阿耨多羅三藐三菩提 を成じ、常住の快楽 、微妙真実 に、無量の大悲、苦の衆生を救わしむ。真善知識 、是れ諸の衆生の大良福田 、是れ諸の衆生の請 せざるの師、是れ諸の衆生の安穏 の楽処 ・救処 ・護処 ・大依止処 なり。処処に衆生の為に大良導師・大導師と作る。能く衆生の盲 いたるが為には而も眼目を作し、聾 ・劓 ・唖 の者には耳 ・鼻 ・舌 を作し、諸根毀欠 せるをば能 く具足 せしめ、顛狂荒乱 なるには大正念 を作さしむ。船師・大船師なり、群生 を運載 し、生死 の河を渡して涅槃の岸に置く。医王・大医王なり、病相を分別 し薬性 を暁了 して、病に随って薬を授け、衆をして薬を服せしむ。調御 ・大調御なり、諸の放逸 の行なし。猶 、象馬師 の能く調うるに調わざることなく、師子の勇猛 なる、威 、衆獣 を伏して沮壊 すべきこと難 きがごとし。菩薩の諸波羅蜜 に遊戯 し、如来の地に於て堅固にして動ぜず、願力 に安住して広く仏国を浄め、久しからずして阿耨多羅三藐三菩提 を成ずることを得べし。是の諸の菩薩摩訶薩皆斯 の如き不思議の徳あり。
菩薩の敎化方法
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経:
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R訳:あたかも乾いた土に一滴の「しずく」が落ちると、そこには砂ぼこりが立たなくなるように、まず些細な教えから入って行き、数多い欲の中でわずか塵ほどのものを鎮めていきます。そして、悟りへ門を開き、解脱へと誘って行きます。それはまるで涼しい風をそよがせて熱を取り除いて冷めさせるように、人々を苦悩の熱から救って行くのでした。次に深遠な「十二因縁」の教えを説いて無明の状態から解き放ちます。それはまるで照りつける灼熱の太陽に苦しむ人が、雨を得て蘇生の喜び得るようであり、そのうえで無上の教えである「大乗の教え」を説いて、人が本来具える「善の根」に潤いを与えます。さらに善行を呼び起こす「善の種」を蒔いて、ついにはあらゆる人びとに仏の悟りの「芽生え」を起させるのであります。菩薩たちの智慧は、太陽や月のようにすべてを明らかに照らし出し、しかも人々を導く手立ては、手段も時節も的確です。大乗の救いを進めて、その成果をどんどん上げて行き、すべての人を仏の悟りへと真っ直ぐに導きます。菩薩はいつも智慧を具えていますので、限りない大悲の心を注ぐことができ、それによって苦しみ悩む無数の衆生を救っていくのです。
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自利
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経:是れ諸の衆生の
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R訳:菩薩は、まさに人々にとって「善き友」であり、幸せを育てる「良い田畑」であり、招かないでもわざわざやって来てくれる「有難い先生」であります。私たちにとっては「心の安らぎ」を与えてくれる存在、人生の「大きな支え」となる存在、私を「守ってくれる」存在、「依り所」となる存在です。菩薩は私たちを正しく導く師であり、目、耳、言葉の不自由な人にとっての目、耳、口となる方です。心が乱れ、荒み切っている時は、心を安定させ、正気を取り戻させてくれます。まるで優秀な船長ようで、人生途上で襲いかかる様々な「変化・異変」の荒波を乗り越えさせてくれ、安穏な境地へと誘ってくれます。病に応じて的確に薬を与える名医だとも言え、どんな猛獣をも従わせる優れた調教師のようです。菩薩は、仏の悟りに至るためのあらゆる修行・菩薩行を自由自在に行なえ、一切衆生救済を願う仏の力を信じていますので、「大安心」の心境で法を説くことができます。これらの菩薩は近い将来、仏の悟りに達する方々であり、以上のような大徳を具えています。
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菩薩の敎化方法
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:華厳経 などに出てくる言葉です。キリスト教と仏教とでは、思想が違うし、儀礼・儀式、習慣が違いますから、宗教という言葉でくくることはできないのですが、キリスト教的な宗教の概念が広く伝わってしまい、仏教に大きな影響を与えています。戒 ・定 ・慧 という三学、八正道、六波羅蜜などが有名ですが、その最も基本となる持戒を日本仏教は捨てています。在家であれば、五戒を持ちますが、五戒とは何かを記憶している人は少ないでしょう。殺生 や窃盗はしなくても、邪淫 ・嘘・飲酒は平気でしているように思えます。新興宗教であっても、仏教系ならば、五戒は守る必要がありますが、忘年会などの宴会でお酒を楽しみ、会員同士で不倫をしている人もいます。戒律の無い宗教ってどうなのでしょう?禅定 に入りやすくなるし、禅定に入ることで智慧 を求めやすくなり、智慧を得れば成仏に近づきます。仏教の本義は、智慧を完成させ、成仏することなのですから、まずは、持戒からでしょう。三聚浄戒 と呼ばれるもので、止悪・修善・利他という三つの戒です。つまり、悪をとどめ、善を修め、人々のために尽くすというものです。止悪とは、すべての戒を守ることですから、菩薩戒を受持する者が五戒を破ることはありえません。
宗教の本義とは
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英語のリリジョン religion の訳語として、宗教という言葉が当てられました。宗教とは、もともと仏教用語で、「重要な教え」という意味です。
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広辞苑によれば、「宗教とは、神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なものに関する信仰・行事」だと定義されています。この定義は、キリスト教的であって、仏教には当てはまりません。少なくとも、釈尊の仏教とは異なります。インドでは、思想を三つのタイプに分けてとらえました。信仰タイプ・儀礼儀式タイプ・覚りを目指すタイプです。信仰タイプはヒンドゥー教、儀礼儀式タイプはバラモン教、覚りを目指すタイプは仏教です。仏教は、神への信仰はせず、儀礼儀式をしません。覚りを目指して道を進みます。キリスト教は、神への信仰のタイプでしょうから、仏教とはタイプが違います。
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現在の日本の仏教をみると、如来・菩薩・明王・神への信仰をするし、葬式などの儀式を中心にしているので、本来の仏教とは大きく異なります。しかも、覚りを目指すという大事な目的を失っていますので、果たして仏教と呼べるのかも疑問です。仏教の道は、
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宗教の本義を明らかにしたいのなら、まずは戒を守ることから始めるのがいいと思います。持戒によって心を浄めれば
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大乗仏教の修行者である菩薩は、菩薩戒を受持します。それは、
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宗教の本義とは
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南無妙法蓮華経 鳩摩羅什 の訳した法華経のタイトルですから、南無妙法蓮華経というのは、法華経という経典への帰依だと受け取る方が多いようです。そのような解釈が間違いだとは言いませんが、帰依の対象は経典ではなく、「真理と現象」であることを知らなければなりません。妙法とは、「正しい真理」。蓮華とは、「蓮の花」のことです。蓮の花は現象であり、妙法は真理です。よって、妙法蓮華とは、「真理と現象」「現象を通して真理を観る」ということです。南無妙法蓮華経とは、「真理と現象に依る教え」に帰依するのです。このことは、法華経前半では書かれていませんが、如来寿量品第十六にて明らかになります。
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○ 「ああ、ありがたい妙法蓮華経! わたくしはこのお経の真実の教えに全生命をお任せします!」
○ 尊いのは、あくまでも法華経の教えなのです。そして、その教えを実践することなのです。
○ 〈南無妙法蓮華経〉と唱えるのは、その受持と実践との信念をいよいよ心に固く植え付けるためにするのです。
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妙法蓮華経とは、
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南無妙法蓮華経は、日蓮が使い始めたのではなく、天台宗ですでに唱えられていました。「朝題目。夕念仏」というように、朝には、「南無妙法蓮華経」を唱え、夕には、「南無阿弥陀仏」を唱えていたのでしょう。インドでも題目は唱えられていたようです。もちろん、サンスクリット語でです。
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ナマス・サッダルマ・プンダリーカ・スートラ
Namas Saddharma-puṇḍarīka-sūtra
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もともとインドで唱えられていたのかは不明です。日本の題目をサンスクリット語にして唱えているだけなのかも知れません。
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南無妙法蓮華経
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「新釈法華三部経」発刊に向けての願い、主眼
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教えを日常生活にいかに実践すべきかを主眼に置いた
法華三部経の真精神を学ぶため
…義に依って語に依らざれ
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宗教の本義を明らかにしたい
あらゆる宗教に含まれているはずの共通の真理
人類すべてが進めるような「融和と協調」の場をつくらなければならない
〈宗教の本義〉をきわめ、その実践を最大の目的としてまとめた
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これは、庭野開祖の主眼なのでしょう。法華三部経の真精神を学び、教えを日常生活にいかに実践するかを重視されたようです。また、宗教の本義を明らかにし、世界の宗教の共通の真理を明らかにして、「融和と協調」の場をつくることを目的にされたようです。宗教者として、立派な考えだと思います。しかし、法華経がはたして日常生活で実践可能な行なのかが疑問だし、宗教協力に法華経が役立つのかも疑問です。その辺のところをこの勉強会を通して学んでいきたいと思っています。
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義に依って語に依らざれ
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この経文は、「法四依」といい、涅槃経にあります。「仏の所説の如き、是の諸の比丘、当に四法に依るべし。何等かを四となす。法に依って人に依らざれ、義に依って語に依らざれ、智に依って識に依らざれ、了義経に依って不了義経に依らざれ」。
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法に依って人に依らざれ(依法不依人)
…真理(法性)に依拠して、人間の見解に依拠しない
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義に依って語に依らざれ(依義不依語)
…意味に依拠して、言葉に依拠しない
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智に依って識に依らざれ(依智不依識)
…智慧に依拠して、知識に依拠しない
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了義経に依って不了義経に依らざれ(依了義經不依不了義經)
…仏の教えが完全に説かれた経典に依拠して、意味のはっきりしない教説に依拠しない
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どれも重要なことですが、逆の人が多いのも事実です。真理を無視して人の解釈に依る人、意味を知ろうとせず言葉に依る人、智慧を求めず知識に依る人、真実が完全に説かれた教えを学ぼうとせず不完全な経典に依る人など。仏教を学ぶ人は、法四依を念頭に置いておく必要があります。特に市販の解釈本に依り、経典を読まないのは誤った理解に通じますので注意が必要です。
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「新釈法華三部経」発刊に向けての願い、主眼
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十二因縁 3受
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⑦
ヴェーダナー vedanā愛 取 有 生 老死
感受
外部との接触によって起こる感情のこと。快・不快・中立の三つがあります。
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⑧
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トリシュナー tṛṣṇā
渇愛 渇望 欲望
トリシュナーとは、渇き・欲望・願いのことです。感受することで、快・不快・中立という感情を起し、快であれば近づいて手に入れようとし、不快であれば離れようとし、中立であれば無視します。近づくのも、離れるのも、欲望に変わりありません。キリスト教の愛とは意味が違います。もともと仏教用語だった愛を聖書を訳すときに使ったため、混乱が起こりました。
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⑨
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ウパーダーナ upādāna
執着 しがみつく
ウパーダーナの原意は「燃料」です。火に燃料を与えれば燃え続けるように、欲望に執着すると欲求は高まっていきます。欲しいものが手に入らないのなら、あきらめるのがいいのですが、何とかしようと執着することがあります。ストーカーになったり、盗んだり、騙したり、暴力を振るったり、悪行に走ることになってしまいます。嫌なことから離れたいのに、離れられない時も同じです。そのことに執着すると、ろくなことにはなりません。生物は、食物を見つけて、それを手に入れることによって生きています。よって、欲求・執着は必要なことです。しかし、必要以上に欲しがり、執着すれば、悪い結果を招くことになります。
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⑩
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バーヴァ bhava
生存 存在
バーヴァとは、生存のことです。欲望・執着を繰り返すことで、我執を強めていき、迷いの存在に成ります。
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⑪
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ジャーティ jāti
生まれること 出自
ジャーティとは、誕生のことです。生きることだと解釈する人もいますが、ジャーティにはそのような意味はありません。生まれなければ、苦しむこともなくなります。特にインドには、カースト制度があり、出自によって一生の苦楽が決定するようなものですから、生まれること自体を苦だととらえる傾向があります。カースト制度を知らない私たちには、分からない世界です。
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⑫
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ジャーラーマラーナ jarā-maraṇa
老いと死
ジャーラーが老化、マラーナが死の意味です。⑪の生と合わせて「生老病死」を意味します。なぜか病については触れていません。
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十二因縁 3
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十二因縁 2無明 行 有為法 のことです。諸行無常の場合は、この意味です。もう一つは、「行為」です。行為には、身口意がありますが、ここでの行は、「意志」のことをいいます。五蘊 の行は、この意味です。無我や無常などの真理を知らない意志は、誤った方向に趣いてしまうことでしょう。識
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①
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アヴィドャー avidyā
無知 真理を知らないこと
ヴィドャー vidyā-は、知識、学問、学術、教義、呪力です。否定を意味するa-という接頭辞がつきますので、avidyāとは、知識が無い・学問が無い・学術が無い・教義が無い・呪力が無いということになります。仏教では、「真理を知らないこと」という解釈がされます。
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②
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サンスカーラ saṃskāra
意志 行為
サンスカーラは、「一緒になったもの」「纏めるもの」という意味です。これには、二つの意味があります。一つは、「因縁によって作られたもの」で、
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③
ビジュニャーナ vijñāna分別 分別 という言葉は、世事に関して、常識的な慎重な考慮・判断をすることの意味で使われており、善い印象ですが、仏教では、本来一つのものを分けるので、真理を探究する認識とはされていません。分別を否定する無分別が勧められます。無我という真理を知らなければ、自分という存在が有るというように意志を持ちます。それが高じれば我執となり、自他を分け、自分を可愛がります。まるで、自分の皮膚が境界線であるかのように、皮膚の外側は他だと認識し、比較し、区別し、差別し、対立を起します。名色 五蘊 と同義です。自他を分別し、次に心と体を分別します。六入 触
識別作用
ビジュニャーナとは、分けて認識することです。私たち人類は、世界をバラバラに分け、その一つ一つに名前をつけ、意味づけをしています。このような認識方法を分別といいます。日常使う
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④
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ナーマルーパ nāma-rūpa
名称と姿 心と体
ナーマは「名称」、ルーパは「物質的現象」です。しかし、仏教では、心と体の意味で使っています。
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⑤
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シャダーヤタナ ṣaḍāyatana
六つの感覚器官
眼耳鼻舌身意の六つの感覚器官のことです。自他を分別し、心と体を分別し、次に感覚器官を分別します。このことで、外界と内界との区別は明確になります。
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⑥
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スパルシャ sparśa
接触
外界の対象、感覚器官、識別作用によって、接触が起こります。
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十二因縁 2
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