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ダルマ太郎 2024/06/21 (金) 16:21:25

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大乗二十頌論
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龍樹菩薩造
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1.ことばで言い表せない真理を慈悲をもって説き示され、その威光は思いも及ばず、その心は執着を離れている仏陀を礼拝し奉る。

2.真実の立場でいえば、諸仏と生きとし生けるものとは、実体として生起したのでもなく、また消滅したのでもないのだから、あたかも虚空のように、その本質は同一である。

3.また移り変わるものは、かの世においても、この世にあっても、実体として生じたものではなく、条件によって生じたものである。それらは、まさしく空であり、全知者のみが、よく知りうるところである。

4.すべての存在は、その本性上、影像に等しく、清浄であり、寂静なるものであり、不二であり、真実と同じである、といわれる。

5.しかるに、愚かな人々は、我が無いのに我が有ると考えて、苦楽やあらゆる煩悩が真実からして、有るとみる。

6.そこで彼らには、六趣の輪廻と、天界における最高の楽しみ、地獄における大きな苦しみ、老・病などの苦しみが生じるであろう。

7.彼らは、虚妄の考えを起して、地獄において煮られて苦を受け、他ならぬ自らの過失のために焼かれる。あたかも竹が火によって焼かれるように。

8.あたかも幻のような人々は、もろもろの対象を楽しむ。彼らは、縁起を本性とする幻のごとき世界を歩みゆく。

9.たとえば、絵師が非常に恐ろしい夜叉の姿を自ら描いて、怖れおののくように、いまだ覚らない者は輪廻においても同じである。

10.たとえば、ある愚かな人が、ぬかるみを自らつくって、そこに落ち込むように、人々は超えがたい邪な考えのぬかるみの中に沈んでいる。

11.存在が無いことを存在が有るとみて、彼らは苦の感受を受ける。また、虚妄なる対象が彼らを疑惑の毒によって苦しめる。

12.そこで、これらの人々が庇護を失っているのを見て、慈愛堅固な心を持ち、利他に努める諸仏は、彼らを覚りへと誘う。

13.彼らも同じく資糧を積むならば、無上の智慧を得て、邪な考えの網を脱し、世界の友である覚者となるだろう。

14.真実の意味を知る人々は、世界が生じたものではなく、生起したものでないから、空であり、初め・中ごろ・終わりはないと正しく見る。

15.そこで、彼らは輪廻も涅槃もそれ自体としては存在せず、無垢であり、変異することなく、初め・中ごろ・終わりにわたって清浄である、と看取する。

16.すでに目覚めた者は、夢の中で見た対象を見ることはない。迷妄のまどろみから覚めた者は、輪廻を見ることはけっしてない。

17.魔術師が幻を現出して、のちにそれを消し去るとき、いかなるものも存在しない。それがまさしく事象の真実の本性である。

18.この世のすべては、ただ心のみであって、あたかも幻の表象のように存在している。そこから善や不善の業が生じ、それから善や不善の苦が生じる。

19.世の人々は、世界を妄想しているが、世界は生起していないように、彼ら自らも生起しているのではない。なぜなら、この生起とは妄想であり、外界の対象は存在していないから。

20.迷妄の闇に覆われて、愚かな人たちは、実体が無いものに対して、恒常であるとか、固有の実体が有るとか、楽であるとかいう思いを起こし、この輪廻の海の中をさまよう。

結頌.大乗の船に乗ること無くして、いったい誰が、妄想の水に満ちた輪廻の広大な海の彼岸に渡ることができようか。
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大乗二十頌論
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7
ダルマ太郎 2024/06/21 (金) 16:15:57 修正

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大乗二十頌論について
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龍樹作の論書に『大乗二十頌論』というのがあります。内容は、輪廻について論じています。凡夫は、真理を知らないために輪廻を妄想し、自分が作り出した輪廻によって苦しんでいるので、その妄想を解けば、輪廻から解脱できるというものです。つまり、輪廻は概念であり、事実としては無いということでしょう。輪廻肯定派にとっては、信じがたい内容でしょうね。
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大乗二十頌論について
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17
ダルマ太郎 2024/06/08 (土) 01:57:40 修正

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如来 広く説く分-1
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1. 能問を讚歎す
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経:ここに仏、大荘厳菩薩に告げたまわく。善哉善哉、大善男子。よく如来に 是の如き甚深無上大乗微妙の義を問えり。

訳:そこで仏は、大荘厳菩薩に告げました。素晴らしい、素晴らしいことです。大善男子よ。よく私に、この様に非常に奥深くこの上のない大乗の無量義の教えについて質問をしてくれました。
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2. 利益の不虚を明かす
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経:まさに知るべし。汝よく利益(りやく)する所多く、人・天を安楽し、苦の衆生を抜く。真の大慈悲なり、真実にして虚しからず。

訳:あなたは、この質問によって、多くの功徳を得ることが出来るでしょう。この答えを得れば、多くの人々や神々は安らぎの境地に入り、人々を苦から救うことができます。あなたの質問は、真の大慈悲のあらわれです。本物であって、偽りではありません。
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3. 自他の疾かに成ずることを明かす
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経:この因縁を以って、必ず 疾く無上菩提を成ずることを得ん。また、一切の今世、来世の諸有の衆生をして、無上菩提を成ずることを得せしめん。

訳:この因縁によって、必ず速やかに無上の覚りを得ることが出来るでしょう。また、今世と来世の人々は、無上の覚りを得ることが出来るでしょう。
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如来 広く説く分-1
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16
ダルマ太郎 2024/06/08 (土) 00:45:53

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用語の意味-3
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須陀洹果(しゅだおんか)
スローターパンナ・パラ srotāpanna
聖者の道に到達したこと。

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斯陀含果(しだごんか)
サクリダーガーミン・パラ sakṛdāgāmin-phala
聖者の第二段階目に到達したこと。

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阿那含果(あなごんか)
アナーガーミン・パラ anāgāmin-phala
聖者の第三段階目に到達したこと。

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阿羅漢果(あらかんが)
アルハット・パラ arhat-phala
聖者の最終段階に到達したこと。

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辟支仏道(じゃくしぶつどう)
独覚の覚り。

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発菩提心(はつぼだいしん)
ボディ・チッタ・ウトパーダ bodhi-citta-utpāda
覚りを目指す心を起すこと。

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第一地~第十地
菩薩修行の階位である52位の中、第41~50位まで。上から法雲・善想・不動・遠行・現前・難勝・焔光・発光・離垢・歓喜の10位。仏智を生成し、よく住持して動かず、あらゆる衆生を荷負し教下利益することが、大地が万物を載せ、これを潤益することに似ているから「地」と名づく。

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用語の意味-3
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15
ダルマ太郎 2024/06/08 (土) 00:39:08

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用語の意味-2
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法性(ほっしょう)
ダルマター dharmatā
物事の真の性質、現実。エッセンス。諸法実相。

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法相(ほっそう)
一切の存在の特徴。万象のありさま。

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本来空寂(ほんらいくうじゃく)
真諦へと導く俗諦。一切の事象は根本的に空であり、涅槃であるということ。つまり、万物には実体は無く、安楽の境地である。

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不来・不去(ふらいふこ)
真諦へと導く俗諦。来るものはなく、去るものはない。

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不出・不没
真諦へと導く俗諦。出るものはなく、没するものはない。

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忍法
現象における忍耐の位。

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頂法
堕落した行為に逆戻りするか、先に進んで見道に入るかのどちらかになる位。

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世第一法
世俗の中で最も高い位。

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用語の意味-2
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14
ダルマ太郎 2024/06/08 (土) 00:30:15 修正

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用語の意味-1
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不可思議(ふかしぎ)
アチントヤ acintya
計り知れない、神秘的な。仏の智慧や神通力というのは、それを思い測ったり言葉で言い表したりすることはできない、ということ。

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四相(しそう)
生住異滅。生=生起。住=維持。生起した状態を保つ。異=その状態が変異する。滅=消滅。一切の事象は、瞬瞬に変化するということ。無常。

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()
ドゥフカ duḥkha
憂悲苦悩。心身を悩ませること。不快。不自由。自分の思い通りにならないこと。対義語は楽。

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(くう)
シューニャ śūnya(形)シューニャター śūnyatā(名)
無自性。自性とは、スヴァバーヴァ svabhāva のことで、物それ自体の独自の本性、もの・ことが常に同一性と固有性とを保ち続け、それ自身で存在するという本体、もしくは独立し孤立している実体のこと。根本的な性質、存在の本質を表す。西洋哲学の実体に相応する概念である。大乗仏教では、自性を否定して空が説かれた。

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無常(むじょう)
アニトヤ anitya
常住の否定。因縁によって作られたものは、常住ではないということ。

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無我(むが)
アナートマン anātman
アートマンの否定。アートマンとは、ヴェーダの根本思想で、個の原理、個の主体、個の実体のこと。仏教では、アートマンを否定して無我を説いた。

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無大・無小
真諦へと導く俗諦。真諦とは、真の真理・真実・正法・妙法のことで、絶対の真理なので言葉では表せない。俗諦とは、世俗の言葉によって表した真理。真諦は言葉によって説くことができないため、仏陀は、俗諦によって真諦へと導いた。真諦においては、一切の概念が無いので、時間や空間という概念も無い。空間的概念が無いので、大きいとか、小さいという見方はできない。

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無生・無滅
真諦へと導く俗諦。時間的概念が無いので、生じる・滅するという見方はできない。

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一相・無相
真諦へと導く俗諦。すべては一つの特徴であり、すべてには特徴は無い。

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用語の意味-1
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13
ダルマ太郎 2024/06/06 (木) 22:05:56

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大衆、重ねて徴かに問う分
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三徳の不可思議を歎ず
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経:その時に大荘厳菩薩、また仏に白して言さく。世尊。世尊の説法不可思議なり。衆生の根性 また不可思議なり。法門解脱 また不可思議なり。

訳:その時に大荘厳菩薩が、また仏に申し上げました。世尊。世尊の説法は、非常に深遠で思議できません。人々の根性欲も、また深遠で思議できません。教えも修行方法も、また深遠で思議できません。
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発問の所由を明かす

経:我等、仏の諸説の諸法に於いて、また 疑難なけれども、しかも諸の衆生迷惑の心を生ぜんが故に、重ねて、世尊に()いたてまつる。

訳:私たちは、世尊の説かれる様々な教えにおいて、疑問や困難はございませんが、人々は、迷いとまどうこともあろうかと存じます。そのような迷いやとまどいが起こらないように、重ねて世尊にお伺いいたします。
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正問を挙ぐ
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経:如来の得道より以来 四十余年、常に衆生の為に 諸法の四相の義、苦の義、空の義、無常、無我、無大、無小、無生、無滅、一相、無相、法性、法相、本来空寂、不来、不去、不出、不没を演説したもう。もし聞くことある者は、或は、忍法、頂法、世第一法、須陀洹果(しゅだおんか)斯陀含果(しだごんか)阿那含果(あなごんか)阿羅漢果(あらかんが)辟支仏道(じゃくしぶつどう)を得、菩提心を発し、第一地、第二地、第三地に登り、第十地に至りき。むかし説きたもう所の諸法の義と、今説きたもう所と、何等の異なることあれば、しかも、甚深無上大乗無量義経のみ、菩薩修行せば 必ず ()く無上菩提を成ずることを得んと言う。この事如何。ただ願わくは世尊、一切を慈哀して広く衆生の為にしかもこれを分別(ふんべつ)し、普く現在 及び未来世に法を聞くことあらん者をして、余の疑網無からしめたまえ。

訳:世尊は、悟りを得てから、四十余年の間、常に人々のために様々な教えを説かれてきました。それは、一切の現象が、生じ、とどまり、変化し、滅するという「四相の義」、一切が苦であるとする「苦の義」、事物・現象は、縁起に依って仮に生滅するために、そのものには実体はないとする「空の義」、縁起に依って生滅するものは必ず変化するという「無常の義」、自分という概念、自分のものという概念を否定する「無我の義」、大・小にこだわらず「無大・無小」と観ること、生・滅にとらわれず「無生・無滅」と観ること、真理は一つであるという「一相」、有無の相を超越した「無相」、一切のものごとの真理としての性である「法性」、真理としての相である「法相」、本来は空であり寂であるとする「本来空寂」、「不来・不去」、「不出・不没」という涅槃の境地を演説されてきました。

もし、この教えを聞くことができた者は、最初は心温まるものを感じる程度から徐々に高まり、その教えの尊さに気づき、煩悩を捨てることによって迷いの世界から脱することができると学び、実践して、ついには阿羅漢果という声聞の最高の境地を得る事ができました。または、縁覚の者は辟支仏道を得、悟りを目指す心を起こし、第一地、第二地、第三地に登り、第十地の境地に至りました。

さて、これまでに説かれた教えと、今説かれた教えと、どの様な違いがあるのでしょう? しかも、この大乗の無量義の教えのみ、菩薩が修学すれば、必ずまっすぐに最高の悟りを成すと言われるのには、どの様な理由があるからでしょう? ただ、願わくは世尊、一切の人々を哀れと思われて、広く人々のために詳しく分けてお説き頂き、広く、現在、未来に教えを聞くすべての人々が、少しの疑いを持つことのないように、お教えくださいますようお願い申し上げます。
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大衆、重ねて徴かに問う分
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12
ダルマ太郎 2024/06/06 (木) 17:00:04 修正

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2.結歎
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経:善男子。菩薩 もし、よく是の如く一切の法門 無量義を修せん者、必ず疾く阿耨多羅三貎三菩提を成ずることを得ん。善男子。是の如き 甚深無上大乗無量義経は、文理真正に尊にして過上なし。三世の諸仏の共に守護したもう所なり。衆魔群道、得入することあることなく、一切の邪見生死に壊敗せられず。この故に善男子、菩薩摩訶薩 もし疾く無上菩提を成ぜんと欲せば、まさに是の如き甚深、無上大乗、無量義経を修学すべし。

訳:善男子。菩薩が、この様に一切の法門の源である無量義の教えをよく修めたならば、必ず、速やかに最高の覚りを得ることができます。善男子。この様に非常に奥深い大乗の無量義の教えは、道理がきちんとしており、この上もなく尊い教えです。過去、現在、未来の諸仏が共に守護する教えです。修行を妨げる様々なものたちや仏教以外の様々な教えが入る余地はなく、一切の邪見やまわりの変化に振り回されて崩れるという事はありません。このために善男子よ。菩薩が速やかに最高の覚りを得ようと願うならば、非常に奥深くこの上のない大乗の無量義の教えを修学してください。
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結歎
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11
ダルマ太郎 2024/06/06 (木) 16:40:25

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無量義は一法より生ず
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経:無量義とは一法より生ず。その一法とは即ち無相也。是の如き無相は、相なく、相ならず、相ならずして、相なきを名づけて実相とす。
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論:仏教の経典は、山ほどあります。キリスト教の聖書やイスラム教のコーランに比べると膨大です。なぜ、そのように多くの経典があるのでしょう? それは、人々の根性欲が無量なので、説法は無量であり、説法が無量だから教義もまた無量です。つまり、対機説法だから多くの教義があるわけです。よって、多くの経典がつくられました。人々を救おうとするから、そのような結果になったのでしょう。

教義は無量でも、無量の教義は一つの真理より生じるといいます。一つの真理をもとにして、無量の教えを展開するのです。その一つの真理とは無相です。この無相とは、相が無く、相にはならず、相にならずして、相がないことを実相といいます。相とは、ラクシャナー lakṣaṇā の訳で、意味は、特徴・形です。この場合は、特徴の意味ですので、無相とは「特徴が無い」ということです。一つの真理とは、特徴が無いということです。

特徴とは、他と比べることによって成り立ちます。大きいというのは、それよりも小さいものがなければ成り立たず、長いというのは、それよりも短いものがなければ成り立ちません。そのもの自体では、大きいとか小さいとか、長いとか短いという特徴をみることはできません。つまり、因縁によって特徴はあります。
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経:菩薩摩訶薩。是の如き真実の相に安住しおわって、発する所の慈悲、明諦にして虚しからず。衆生の所に於いて、真によく苦を抜く。苦 既に抜きおわって、また為に法を説いて、諸の衆生をして快楽けらくを受けしむ。

論:一切の事象には特徴がありません。特徴が無いので、執着の対象はありません。よって、菩薩は、無執着によって教えを説くのです。とらわれが無いので自由自在に教えを説くことができます。相手が男だとか女だとか、大人だとか子供だとか、金持ちだとか貧乏だとかを観ることが無く、ただ真理を知らないために迷い、悩み、苦しんでいることを観て、真理を学習できるように関わります。そのような関わりの中で生じる慈悲は本物です。人々の苦を抜き、人々を安楽へと導きます。
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論:無量義の行をまとめると、まず菩薩は、真理においても現象においても、空であり涅槃であると学ぶことが大事です。あらゆるものには実体は無く、因縁によって現象を作りませんので、大きいとか小さいという特徴はありません。生じる・滅する、とどまる・動く、進む・退くという特徴もありません。一切の特徴はないので執着の対象はありません。二つに分けてみるのではなく、すべては一つであることを観察することが必要です。

しかし、人々は、分けて認識しますから、自分の感情に従って人やものと関り、区別や差別を作ります。一つ一つの特徴をみて、欲しいものには近づこうとし、欲しくないものとは離れようとします。欲しくても手に入らないことは多いし、欲しくなくても離れられないことは多々ありますから、そのことで苦が生じます。真理を知らなければ、分別することは続きますので苦はずっと続きます。

そういう人々を救うために、さらに事象の観察をすれば、事象は真理によって生じ、維持し、変異し、滅することが分かります。瞬瞬に変化しています。個の変化は、真理によって有るのです。悪も善も同じです。教えを受けて理解する能力(根)、性格、欲求も変化しています。当然ながら、機根・性格・欲求も瞬瞬に生住異滅しています。よって、根性欲は無量であり、人それぞれで根性欲は異なりますから無数無量です。相手に合わせて説法をしようとすれば、説法は無量であり、説法が無量なので教義もまた無量です。しかし、無量の教義は一つの真理から生じています。その真理は無相です。つまり、特徴が無いことです。特徴が無いので、説法者は一切に執着することなく相手と関わります。そのような関わりの中で生じる慈悲は本物です。人々の苦を抜き、人々を安楽へと導きます。
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無量義は一法より生ず
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10
ダルマ太郎 2024/06/04 (火) 23:07:15

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③一法門の義を答える
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経:無量義とは一法より生ず。その一法とは即ち無相也。是の如き無相は、相なく、相ならず、相ならずして、相なきを名づけて実相とす。菩薩摩訶薩。是の如き真実の相に安住しおわって、発する所の慈悲、明諦にして虚しからず。衆生の所に於いて、真によく苦を抜く。苦 既に抜きおわって、また為に法を説いて、諸の衆生をして快楽(けらく)を受けしむ。
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訳:無量の教えの内容は、一つの真理から生じます。その一つの真理とは、無相ですから言葉にすることはできません。無相とは、分別を離れた無分別の境地です。無相ですから相をみることはできず、よって相をとらえることはできず、相をとらえることができないから、相がないと観ることを、名付けて実相といいます。菩薩摩訶薩よ。この様な真実の相を覚り、その覚りが完全に自分のものになったことによって生じる慈悲は、明らかに本物です。この世界で、よく人々の苦を抜き去ります。苦を抜きおわったならば、また、人々のために教えを説いて、多くの人々に、人生の真の喜びを受けさせます。
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③一法門の義を答える
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9
ダルマ太郎 2024/06/04 (火) 11:33:49 >> 6

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六道輪廻について
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六趣輪廻ともいいます。真理を知らない人々は、悪業を積んで、死後、迷いの世界を輪廻するといいます。輪廻はバラモン教の時代に浸透した思想ですが、六道輪廻は仏教からです。六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天のことで、苦しみの度合いが最も重いのが地獄であり、最も軽いのが天上界です。地獄・餓鬼・畜生は、三悪道といわれます。

地獄とは、罪人の牢獄だといわれます。地中深くに八つの熱地獄と八つの寒地獄があり、生前の罪によって堕ちる地獄が異なります。獄卒として鬼がおり、罪人を様々なやりかたで苦しめます。針山、釜、炎、溶けた金属、煮え湯などで痛めつけられますから罪人はすぐに死んでしまいます。死んでもすぐに生まれ変わり、何度も何度も地獄で苦しみます。しかし、キリスト教の地獄と違って、いつかは地獄から他の境地に生まれ変わることができます。つまり、永遠に地獄にいるわけではありません。

餓鬼とは、飢餓に苦しむ鬼です。インドで鬼というのは、日本でいう幽霊のようなものです。喉が渇き、お腹がへっても、水や食料を口に入れると燃えてしまうので飢えた状態がずっと続きます。餓鬼は、地獄の近くにある餓鬼界や人間界、天上界に住むと言います。

畜生とは、動物のことです。人間界と同じ場所に住み、人間が認識することができます。本能のままに生きていますから、食べたいときには他の動物を殺してでも食べ、交尾をしたいときは、相手が親兄弟でもします。弱肉強食なので、いつも死が間近にあります。智慧のない状態です。

修羅とは、阿修羅のことで、もとは天上界に居た神です。争いを好み、帝釈天と戦って負け、海中に落とされました。修羅界とは、争いの世界です。

人間とは、私たち人類のことです。人間界に住んでいます。六道の中では、天上界の次に苦しみの少ない世界です。心が散乱で落ち着かず、まわりの変化に惑わされます。影響を受けやすいので倫理・道徳を学べば善を行いますが、誘惑によって悪をする傾向があります。善い縁があれば、成仏への道を進みます。

天とは、天上界のことであり、そこに住む神々のことです。バラモン教では、天上界は輪廻から解脱してから趣くところだといわれていましたが、仏教では迷いの世界だといわれています。神であっても、寿命があるために、死ぬ前には苦しむからです。死後は、六道を輪廻しますからゴールではありません。
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六道輪廻について
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ダルマ太郎 2024/06/04 (火) 11:31:09 修正

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②一法門の行を答える-3
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経:菩薩摩訶薩。是の如く諦かに観じて、憐愍(れんみん)の心を生じ、大慈悲を発して(まさ)救抜(くばつ)せんと欲し、またまた深く一切の諸法に入れ。

論:凡夫は、真理を知らないために分別をし、我に執着し、悪事を重ねて苦の世界を輪廻します。そのことを観じたならば、憐みの心を生じ、大慈悲の心を起して、救済することを欲し、再び深くすべての事象を観察するようにと説いています。苦しんでいる人々を救うためには、憐みの心、大慈悲の心が必要だということでしょう。慈悲とは、自分と相手を分けずに、相手を自分として関わることです。そして、事物・現象を深く観察することが勧められています。
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経:法の相 是の如くして 是の如き法を生ず。法の相 是の如くして 是の如き法を住す。法の相 是の如くして 是の如き法を異す。法の相 是の如くして 是の如き法を滅す。

論:如とは、真理のことですので、真理のままに事象は生じ、維持し、変異し、滅します。真理によって事象は生じ、維持し、変異し、滅します。現象は真理によってあるということです。
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経:法の相 是の如くして よく悪法を生ず。法の相 是の如くして よく善法を生ず。住、異、滅もまたまた是の如し。

論:悪が生じるのも、善が生じるのも同じです。悪意は、真理によって生じ、維持し、変異し、滅します。善意も真理によって生じ、維持し、変異し、滅します。住、異、滅も同じです。
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経:菩薩 是の如く四相の始末を観察して、悉く遍く知りおわって、次にまた諦かに一切の諸法は念念に住せず、新新に生滅すと観じ、また即時に 生、住、異、滅すと観ぜよ。

論:菩薩は、生住異滅という現象の変化を観察して、悉く遍く知り終わったなら、さらに深く観察します。そして、一切の現象は、瞬瞬にとどまることなく、新新に生滅することを観じて、即時に変化していることを観察します。たとえば、ロウソクの火は、瞬間的に生じ、維持し、変異し、生滅します。維持すると言ってもほんの一瞬です。たくさんの火が生じては滅することによって火は燃え続けています。
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経:是の如く観じおわって、衆生の諸の根性欲に入る。性欲無量なるが故に説法無量なり、説法無量なるが故に義もまた無量なり。

論:根性欲とは、機根・性質・欲求のことです。機根とは、教えを受けて理解する能力のことです。この機根・性質・欲求もまた瞬間的に生じ、維持し、変異し、生滅します。まわりの変化によって、どんどん変わりますから根性欲は無量です。しかも、たくさんの人々を救済するためには、人それぞれの根性欲に合わせますので無量です。このように衆生と関われば、根性欲は無量なので、説法は無量であり、説法が無量なので、教義もまた無量です。
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一法門の行を答える-3
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7
ダルマ太郎 2024/06/03 (月) 21:37:28

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②一法門の行を答える-2
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経:菩薩摩訶薩。是の如く諦かに観じて、憐愍(れんみん)の心を生じ、大慈悲を発して(まさ)救抜(くばつ)せんと欲し、またまた深く一切の諸法に入れ。法の相 是の如くして 是の如き法を生ず。法の相 是の如くして 是の如き法を住す。法の相 是の如くして 是の如き法を異す。法の相 是の如くして 是の如き法を滅す。法の相 是の如くして よく悪法を生ず。法の相 是の如くして よく善法を生ず。住、異、滅もまたまた是の如し。菩薩 是の如く四相の始末を観察して、悉く遍く知りおわって、次にまた諦かに一切の諸法は念念に住せず、新新に生滅すと観じ、また即時に 生、住、異、滅すと観ぜよ。是の如く観じおわって、衆生の諸の根性欲に入る。性欲無量なるが故に説法無量なり、説法無量なるが故に義もまた無量なり。
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訳:菩薩よ。この様に、真理を観る智慧がないために、迷いの世界を輪廻する人々を哀れだと思ったならば、大慈悲心を起こして救い抜くことを願い、願ったならば、もう一度深く一切の事物・現象を観察して下さい。事物・現象は、このような場合には、このような事物・現象となって生じます。事物・現象は、このような場合には、このような事物・現象となってとどまります。事物・現象は、このような場合には、このような事物・現象となって変化します。事物・現象は、このような場合には、このような事物・現象となって滅します。事物・現象は、このような場合には、悪い事物・現象となって生じます。事物・現象は、このような場合には、善い事物・現象となって生じます。とどまることも、変化も、滅するのも、同じです。

菩薩よ。以上の様に、生じること、とどまること、変化すること、滅することの原因と結果を観察して、よく理解できたならば、次に、明らかに一切の現象は、瞬間瞬間に変化し、瞬間瞬間に生滅することを観察し、また同時に、生じ、とどまり、変化し、滅すると観察してください。この様に観察したならば、人々の様々な根性欲(機根、性質、欲望)の観察に入ります。根性欲は、人それぞれで異なりますから、根性欲は無量です。根性欲が無量であれば、その一人一人に応じて法を説く必要がありますので、説法もまた無量です。説法が無量ですから、その内容もまた無量です。
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②一法門の行を答える-2
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6
ダルマ太郎 2024/06/03 (月) 19:09:35 修正

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②一法門の行を答える-2
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経:菩薩、無量義を修学(しゅがく)することを得んと欲せば、まさに一切諸法は、(おのず)から本・来・今、性相空寂にして、無大・無小、無生・無滅、非住・非動、不進・不退、なお虚空の如く 二法あることなしと観察すべし。
:
論:菩薩が無量義の教えを学ぼうとするのなら、すべての事象は、過去においても、未来においても、現在においても、真理・事象は空であり、涅槃であると知る必要があります。自然にそのようになっています。よって、事象には大小はなく、生じるとか滅するということもなく、とどまるとか動くということはなく、進むとか退くということもありません。虚空のように一法です。

龍樹の中論には、「不生・不滅。不常・不断。不一・不異。不来・不出」が説かれ、般若心経では、「不生不滅。不垢不浄。不増不減」が説かれています。ものごとの両辺を否定することによって、一切を否定する表現です。真諦(真実)へと導くために説かれる場合、このような否定形がよく使われます。真諦は、言葉では表現できないので、このように否定することによって導きます。つまり、ここでは真諦について述べています。
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経:しかるに諸の衆生、虚妄に、これは此、これは彼、これは得、これは失と横計して、不善の念を起し 衆の悪業を造って六趣に輪廻し、諸の苦毒を受けて、無量億劫自ら出ずること能わず。
:
論:人々は真理について無知なので、誤って世間を見ます。ものごとを分けて考え、損得で判断します。悪意をもって、悪事を行い、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六道を輪廻し、様々な苦を受けて長い間自力で出ようとはしません。

ここには、真理を知らない者が苦しむことが説かれています。十二因縁にあるように、無明(真理を知らないこと)の者は、誤った意志によって分けて認識するため、自他を分け、個々を分けます。その結果、自分を可愛がって我執が強くなり、ものを区別するために差別します。自分が得することを優先するために、欲が強くなり、執着が強くなって、煩悩が増大します。そのために、悪事を行って、迷いの世界を輪廻し苦しみ続けるのです。
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一法門の行を答える-2
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5
ダルマ太郎 2024/06/03 (月) 14:17:09 修正

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性相空寂(しょうそうくうじゃく)
:
性相とは、真理と事象のことです。性とは、不変平等絶対真実の本体や道理のことで、相とは、変化差別相対の現象的なすがたのことです。中国でいう「理事」と同じような意味です。真理と事象とは離れているのではなく、真理は事象によって観ることができ、事象は真理によって仮に存在します。「性」とは性質、「相」とはその性質が表に現れた(すがた)のことだという解釈もありますが、性相空寂という場合は、真理と事象のことです。
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:
空とは、シューニャ śūnya の訳です。「欠如」「空虚」「膨れ上がった」という意味です。たとえば、空瓶というと中に入るべきものが入っていないことであり、空席というのは人が座っていない状態です。このように日本語にも空の概念はあります。大乗仏教で空において否定されるのは自性です。自性とは、スヴァバーヴァ svabhāva の訳で、素質・本性・固有のあり方・本来のあり方という意味です。水が水であるための、火が火であるための本性のことです。大乗仏教では、そんな自性を否定して空を説きました。一般的には、自性という言葉はあまり使われず、実体ということが多いようです。空とは、「実体の欠如」のことです。

空である根拠は、事象が因縁によって有るからです。因と縁との和合によって生じるのですから、個々には実体は有りません。水が氷にもなれば、水蒸気にもなるのは、水に水としての固定した実体が無いからです。もし水という実体が有れば、いつまでも水として有り続けるので、氷にもならないし、蒸気にもなりません。種が発芽し、成長して花を咲かせ、実を作るのも、種に種としての実体が無いからです。実体が無いから、発芽し、花を咲かせ、実をつけます。水が氷にもなり蒸気にもなるのは、温度との関係です。水と温度との因縁によって変化しています。種も水や温度・養分との関係で変化しています。そういうように因縁を結べるのは、個々に実体がないからです。大乗仏教では、一切法空、諸法空、五蘊皆空と言って、すべての事象には実体が無いと説いています。すべてなので、それには例外はありません。因縁によってあるものは、すべて空です。
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寂とは、ニルヴァーナ nirvāṇa の訳です。煩悩の火を消した安らかな境地のことです。涅槃とも訳されます。涅槃とは、一切の因縁を結ばない境地なので、因縁によって作られるものではありません。

空とは、実体がないことであり、寂とは因縁がない状態のことです。因縁がないので変化はありません。実体がなく、因縁を結びませんので、大小という特徴は認識されず、生じるとか滅するという変化もありません。とどまることもなく、動くこともなく、進むことも、退くこともありません。「猫が歩いている」と言っても、猫という実体がないのであれば、歩くという行為はありません。一切は無量無辺の虚空のように差別・区別はなく無際であり、一切は一つであると観察することが勧められています。

空の理を深く観察することによって、一切には差別・区別は無く、無分別だと知ることができます。無分別を覚ることが智慧であり、智慧を完成させることが覚りです。最高の覚りを得ることができれば、成仏にいたります。よって、空を覚ることは、仏教において最重要な行です。
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:
性相は空寂であると説いています。真理においても、現象においても、空であり、涅槃の状態だというのです。一般的には、現象世界は迷いの世界であり、苦に満ちた状態だといいますから、涅槃とは逆です。龍樹菩薩は、世間と涅槃は同一であると論じています。
:
:
中論観涅槃品第二十五より
:
涅槃与世間 無有少分別
世間与涅槃 亦無少分別

:
涅槃は世間と少分の別も有ること無く
世間は涅槃と亦た少分の別も無し

:
na saṃsārasya nirvāṇāt kiṃcid asti viśeṣaṇam |
na nirvāṇasya saṃsārāt kiṃcid asti viśeṣaṇam ||19||

:
輪廻には涅槃との区別は全くありません
涅槃は輪廻と少しの区別もありません

:
:
訳経僧の鳩摩羅什は、輪廻を世間と訳しています。原文では、サンサーラ saṃsāra ですので輪廻です。輪廻する世界を世間と言いますので、鳩摩羅什はそのように訳したのでしょう。一般人にとっては、輪廻する世間と涅槃の境地は同じとはいえませんが、出世間法においては同じだというのでしょう。つまり、出世間的真理です。または、第一義諦・勝義諦・真諦ともいいます。真理には二種があります。俗諦と真諦です。俗諦とは、世俗の真理であり、世俗の言葉で表せる真理です。真諦とは、絶対なる真理であり、言葉では表せない真理です。無量義経・法華経では、俗諦と真諦は重視されています。
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:
性相空寂
:
:

4
ダルマ太郎 2024/06/02 (日) 21:30:22 修正

:
第六 如来 広く説く分
:
1.三疑を答える
:
①一法門の名を答える
:
経:仏の言わく。善男子、この一の法門をば名づけて無量義と為す。
:
訳:仏は答えました。善男子、この一つの法門とは、名を無量義といいます。
:
:
②一法門の行を答える-1
:
経:菩薩、無量義を修学(しゅがく)することを得んと欲せば、まさに一切諸法は、(おのずか)ら本・来・今、性相空寂にして、無大・無小、無生・無滅、非住・非動、不進・不退、なお虚空の如く 二法あることなしと観察すべし。しかるに諸の衆生、虚妄に、これは此、これは彼、これは得、これは失と横計して、不善の念を起し 衆の悪業を造って六趣に輪廻し、諸の苦毒を受けて、無量億劫自ら出ずること能わず。
:
訳:菩薩が無量義を修学しようとするならば、一切の現象は、過去・現在・未来において、真理・現象ともに空であり寂であると、知ることが必要です。空とは、そのものに実体がないことをいい、寂とは、因縁のない境地です。よって、大きいとか小さいということはなく、生じるとか滅するということはなく、とどまるとか動くということはなく、進むとか退くということはありません。固定した観方や一方に偏った観方を否定します。虚空のように、すべてが一つであり、二つに分かれたものではないと観察してください。しかし、人々は真理に反して、これは迷いである、これは悟りである、これは得である、これは失であると、決めつけてこだわり、自分勝手に解釈をして、そのために善くない思いを起こし、多くの悪い業を造って、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という迷いの世界を輪廻し、数々の苦を受けて、非常に長い期間、苦の世界から出ることができません。
:
:
三疑を答える
:
:

3
ダルマ太郎 2024/06/02 (日) 18:40:46 修正

:
第五 重ねて三疑を問う分
:
経:世尊。この法門とは、()を何等となづくる。その義云何(いかん)。菩薩 云何が修行せん。
:
訳:世尊。その法門は何という名称でしょうか? その教義はどの様なものですか? 菩薩は、どの様に修行すればよろしいでしょうか?
:
論:大荘厳菩薩は、重ねて質問しました。それは、一法門の名称と教義と修行方法です。釈尊が教えを説くときには、その教えの名称・教義・修行方法を説きます。大荘厳菩薩はそのことを熟知していますから、質問したのでしょう。
:
:
重ねて三疑を問う分
:
:

2
ダルマ太郎 2024/06/02 (日) 17:18:25 修正

:
第三 菩薩 正に問う分
:
①所行の法門を問う
:
経:ここに大荘厳菩薩、八万の菩薩と、即ち共に声を同じうして仏に白して言さく。世尊。菩薩摩訶薩 、()阿耨多羅三貎三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成ずることを得んと欲せば、応当に何等の法門を修行すべき。
:
訳:そこで、大荘厳菩薩と多くの菩薩たちは、声を合わせて仏に申し上げました。世尊。菩薩が速やかに無上の覚りを得ようとするならば、どの様な教えを修行すればよろしいでしょうか? 
:
:
②疾成の法を問う
:
経:何等の法門か よく菩薩摩訶薩をして疾く阿耨多羅三貎三菩提を成ぜしむるや。
:
**どの様な教えが、菩薩をして、まっすぐに無上の覚りを得させるでしょうか?
:
:
第四 如来 略して答える分
:
経:仏、大荘厳菩薩 及び八万の菩薩に告げて言わく。善男子、一の法門あり。よく菩薩をして 疾く阿耨多羅三貎三菩提を成ずることを得せしむ。もし菩薩あって この法門を学せば、則ち よく阿耨多羅三貎三菩提を得ん。
:
訳:仏は、大荘厳菩薩と多くの菩薩たちに答えました。善男子よ。ここに、一つの法門があります。菩薩が速やかに無上の覚りを得られる法門です。もし、菩薩が、この法門を学べば、無上の覚りを得ることができます。
:
:
論:大荘厳菩薩の質問は、「菩薩が速やかに無上の覚りを得る方法について」です。ここで重要なのは、「速やかに」ということです。これまでは、菩薩が無上の覚りを得るためには非常に長い時間がかかると言われていました。これを歴劫修行といいます。しかし、説法品で説かれるのは、速やかに無上の覚りを得る方法です。このことは、菩薩たちにとって最も欲しい情報でしょう。もちろん、私たちにとっても興味関心のある内容です。
:
:
菩薩 正に問う分
:
:

1
ダルマ太郎 2024/06/02 (日) 11:34:58 修正

:
第一 大衆正に問う分
:
経:その時に大荘厳菩薩摩訶薩、八万の菩薩摩訶薩と、この偈を説いて仏を讃めたてまつることおわって 倶に仏に白して言さく。世尊。我等八万の菩薩の衆、今、如来の法の中に於て、諮問(しもん)する所あらんと欲す。不審(いぶかし)、世尊愍聴(みんちょう)を垂れたまいなんや否や。
:
訳:その時に大荘厳菩薩は、多くの菩薩たちと共にこの詩 (徳行品の讚歎偈) を説いて、仏を称嘆し終ると、共に仏に申し上げました。世尊。私たち八万の菩薩は、今、世尊の教えの中において、ぜひ質問したい事がございます。はっきりせず、分かりにくい内容なのですが、お教え頂けますでしょうか?
:
:
第二 如来 許しを垂る分
:
経:仏、大荘厳菩薩 及び八万の菩薩に告げたまわく。善哉善哉、善男子。善くこれ時なることを知れり、汝が所問を(ほしいまま)にせよ。如来久しからずして当に般涅槃すべし。涅槃の後も、普く一切をして、また余の疑無からしめん。何の所問をか欲する、便ち之を説くべし。
:
訳:仏は、大荘厳菩薩と八万の菩薩たちに告げました。素晴らしいことです。善男子よ。よくぞ、今、この時に質問をされました。あなたの聞きたい事をぜひ訊いてください。私は間もなく、この世を去ろうとしています。私が亡くなった後に、人々が、教えに対し不信感を抱かない様にしておきたいと思います。どの様な質問ですか? 何でも答えしましょう。
:
:
大衆正に問う分
:
:

34
ダルマ太郎 2024/06/02 (日) 10:29:09 修正

:
(4)果徳
:
経)
 この故に今自在の力を得て 
 法に於いて自在にして法王と為りたまえり
 我 また(ことごと)くともに稽首して 
 よく諸の勤め難きを勤めたまえるに
 帰依したてまつる

:
:
訳)
 この様な理由から
 今、自在の力を得て
 教えにおいて自在にして
 法の王となられました。
 私たちは、また、ことごとく
 皆ともに頭を深く下げ
 よく諸々の勤め難くを勤められた
 そのご努力に心から帰依いたします

:
:
果徳
:
:

33
ダルマ太郎 2024/06/02 (日) 10:21:37 修正

:
(3)仏徳歎
:
1)因行
:
①総じて因行を歎ず
:
経)
 世尊 往昔の無量劫に 勤苦に衆の徳行を修習して
 我人天龍神王の為にし 普く一切の諸の衆生に及ぼしたまえり

:
訳)
 世尊は はるかなる昔より 非常に苦労をされ
 数々の徳行を修められました
 ご自分のためだけではなく 人や天の神々
 様々な魔神たちのためにされ その功徳は広く人々に及ぼしました

:
:
②別して六度を歎ず
:
経)
 よく一切の諸の捨て難き 財宝妻子及び国城を捨てて
 法の内外に於いて悋む所なく 頭目髄脳悉く人に施せり 
 諸仏の清浄の禁を奉持して 乃至命を失えども毀傷したまわず
 もし 人刀杖をもって来って害を加え 悪口罵辱すれども終に瞋りたまわず
 劫を歴て身を挫けども惓惰したまわず 昼夜に心を摂めて常に禅にあり
 遍く一切の衆の道法を学して 智慧深く衆生の根に入りたまえり

:
訳)
 とても捨てがたい様々な 財宝 妻子国城を捨てて
 それらの物質的な物 外面的なものだけではなく
 内面的な執着も 惜しむことなく捨て去りました
 その頭脳によって悟られたこと 目で正しくとらえられた世界は
 すべて他者に施され 諸仏によって唱えられた
 清浄なる戒律を大切に保たれて
 命にかけても破られる事はありませんでした
 もし人が刀や杖を持って現われて
 振りまわし危害を加えようとしても
 悪口を言い激しく罵っても
 一度たりとも お怒りになることはありませんでした
 非常に長い年月 修行を続けられても怠けることはなく
 昼も夜も心を穏やかにして乱れる事がなく
 この世の一切の修行の道 教えを学んでおり
 智慧が深く人々の機根を見通されています

:
:
仏徳歎
:
:

32
ダルマ太郎 2024/06/02 (日) 09:35:47

:
用語の意味-2
:
無漏(むろ)
アナースラヴァ anāsrava
煩悩の無い状態。

:
無為(むい)
アサンスクリタ asaṃskṛta
因縁によって作られたものではないこと。涅槃のこと。作られたものではないので常住であり、変化が無い。無生無滅。因縁によって作られたものは有為という。

:
縁覚(えんがく)
プラティエーカ・ブッダ pratyeka-buddha
師につかず、独力で覚りを得る聖者のこと。僧伽から離れ、人里からも離れて、独りで修行するため、独覚ともいう。

:
無生無滅(むしょうむめつ)
涅槃の境地は、因縁によらないので変化が無い。変化がないので、生まれることが無く、また、滅することも無い。

:
菩薩(ぼさつ)
ボーディ・サットヴァ bodhi-sattva
覚りを求める修行者のこと。大乗の修行者のこと。

:
陀羅尼(だらに)
ダーラニー dhāraṇī
陀羅尼は音写で、意訳は総持、能持、能遮等。記憶して保つこと。暗記して繰り返しとなえる事で雑念を払い、無念無想の境地に至る事を目的とした。よって、呪文形式である。

:
無礙(むげ)
障害が無いこと。邪魔するものが無いこと。

:
遊戯(ゆけ)
心にまかせて自由自在に振る舞うこと。

:
自由(じゆう)
スヴァ・タントラ sva-tantra
自己確立。自立。束縛されない状態。解放。覚りの状態の同義語。

:
法輪(ほうりん)
ダルマ・チャクラ dharma-cakra
仏教の教義のこと。

:
帰命(きみょう)
ナモー namo
音写は南無。敬意、尊敬、崇敬をあらわす。

:
:
用語の意味-2
:
:

31
ダルマ太郎 2024/06/02 (日) 09:27:54

:
用語の意味-1
:
帰依(きえ)
サラナガマナ śaraṇagamana
「拠り所にする」という意味。サラナは「避難所」、ガマナは「行く」。

:
梵音(ぼんのん)
仏陀の妙なる音声のこと。

:
八音(はっとん)
如来の説法の音声に備わる八種のすぐれた特徴。極好音・柔輭(にゅうなん)音・和適(わちゃく)音・尊慧(そんえ)音・不女音・不誤音・深遠(じんのん)音・不竭(ふかつ)音。八種梵音声(はっしゅぼんのんじょう)

:
四諦(したい)
チャトゥル・アーリヤ・サティヤ catur-ārya-satya
四聖諦。四つの聖なる真理。苦諦・集諦(じったい)・滅諦・道諦。苦集滅道(くじゅうめつどう)。苦諦とは、迷いの世界であるこの世は、一切が苦であるという真理。集諦とは、苦の原因は、煩悩だという真理。滅諦とは、煩悩を滅すれば苦を滅することが出来るという真理。道諦とは、煩悩を滅するには八正道という修行方法が有効だという真理。

:
六度
六波羅蜜のこと。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若。菩薩の修行方法。

:
十二縁
十二因縁のこと。苦の原因と苦を滅する方法。

:
生死(しょうじ)
輪廻(サンサーラ saṃsāra)のこと。漢訳では、輪廻と訳さず、生死と訳すことが多い。迷いという意味でも使われる。

:
須陀洹(しゅだおん)
スローターパンナ srotāpanna
須陀洹は音写で、意訳は預流よる。「流れに入った者」のこと。覚りという流れに入ったということ。三結を断つことによって得られる境地。三結とは、三つの煩悩のことで、有身見・疑・戒禁取である。有身見とは、五蘊(身体と心)を自己だと思うこと、疑とは、教義への疑い、戒禁取とは、誤った戒律への執着のこと。あと最高でも七回、人間界・天上界を輪廻すれば覚りに達することができ、輪廻から解脱できる。

:
斯陀含(しだごん)
サクリダーガーミン sakṛdāgāmin
斯陀含は音写で、意訳は一来いちらい。一度天上界に転生した後に人間界に生まれて、輪廻から解脱できる。預流の段階で既に三結が断たれており、さらに貪・瞋・癡の三毒が薄くなった境地。

:
阿那含(あなごん)
アナーガーミン anāgāmin
阿那含は音写で、意訳は不還ふげん。この位に達すると、もう人間界に還ることはなく、梵天界に生まれ変わった後、死後は阿羅漢になる。五欲への執着(愛欲)、怒り(瞋恚)を断った境地。

:
阿羅漢(あらかん)
アルハット arhat
阿羅漢は音写で、意訳は応供おうぐ。供養を受けるのに相応しい者のこと。この境地に達すると輪廻から解脱して、涅槃に入ることができる。もともとは、如来の別称だったが、声聞の聖者の最高位となった。この場合の阿羅漢は、如来の境地ではない。つまり、無上の覚りを得た状態ではない。

:
:
用語の意味-1
:
:

30
ダルマ太郎 2024/06/01 (土) 16:02:32 修正

:
③所説の法輪 訳
:
訳)
 心から礼をなし 素晴らしいお姿に帰依いたします
 心から礼をなし 非常に深いお智慧に帰依いたします
 仏さまのお声は雷が鳴り響くように 多くの人々に広まります
 そのお声による教えは誰もが好きになれる声であり
 柔らかく違和感がなく智慧があり
 納得ができ正しく奥深く尽きることがなく
 他と比べることもない程に優れ 清浄で非常に奥深い趣があります
 四諦 六波羅蜜 十二因縁など
 人々の心と行いに応じて教えを説かれます
 もし この教えを聞くことができれば
 心から執着が除かれて 多くの変化への
 とらわれから 離れられています
 仏さまの教えを聞くことがあれば 声聞の弟子たちは
 まずは 思想の迷いを捨てて 須陀洹の位に入り
 次には (とん)(じん)()
 三毒を薄くして 斯陀含の位に進み
 次には 色欲・貪欲・財欲などの欲を捨てて 阿那含の位になり
 最後には 煩悩を捨てて 解脱の境地である
 阿羅漢の果を得ることができました
 または 煩悩なく 執着のない 縁覚の境地に入り
 または 無分別の菩薩の果を得ることができました
 あるいは 多くの善をすすめ悪をとどめる言葉や
 障害を乗り越えて、自由自在に
 すすんで説法をする大いなる説得力を得て
 非常に奥深く 極めて優れた詩を説き
 修行を自由自在に行って法の清らかな水路で洗い清め
 または 身を躍らせて空を飛びまわる様な神の足を現じ
 水中・火中に出入りしても身体は自由です
 如来の教えは以上の様に清浄無辺にして
 人々の考えの域をはるかに超えています
 私たちは また共に深く頭を下げ時に応じて説法をされる
 その教えに帰依いたします
 深く頭を下げ清きお声に帰依いたします
 深く頭を下げ 十二因縁・四諦の法門・六波羅蜜の
 教えに帰依いたします

:
:
所説の法輪
:
:

29
ダルマ太郎 2024/06/01 (土) 14:49:32 修正

:
②能説の教主
:
経)
 稽首して妙種相に帰依したてまつる 
 稽首して難思議に帰依したてまつる

訳)
 心から礼をなし 素晴らしいお姿に帰依いたします
 心から礼をなし 非常に深いお智慧に帰依いたします

:
:
③所説の法輪
:
経)
 梵音雷震のごとく響き八種あり 
 微妙清浄にして甚だ深遠なり
 四諦・六度・十二縁 
 衆生の心業に随順して転じたもう 
 もし 聞くことあるは(こころ)開けて 
 無量生死の衆結断せざることなし
 聞くことあるは 或は
 須陀洹(しゅだおん)斯陀(しだ)阿那(あな)阿羅漢(あらかん) 
 無漏無為(むろむい)の縁覚処 
 無生無滅(むしょうむめつ)の菩薩地を得
 或は 無量の陀羅尼(だらに) 
 無礙(むげ)楽説(ぎょうせつ)大弁才を得て 
 甚深微妙の偈を演説し 
 遊戯(ゆけ)して法の清渠(しょうこ)澡浴(そうよく)し 
 或は躍り飛騰(ひとう)して神足を現じ 
 水火に出没して 身自由なり
 如来の法輪相 是の如し 
 清浄無辺にして思議し難し
 我等咸く また共に稽首して 
 法輪転じたもうに
 時を以ってするに帰命したてまつる 
 稽首して梵音声(ぼんおんじょう)に帰依したてまつる 
 稽首して縁・諦・度に帰依したてまつる

:
:
所説の教主
:
:

28
ダルマ太郎 2024/06/01 (土) 13:36:12 修正

:
(2)帰敬歎
:
①能敬所敬の無著
:
経)
 今我等八万の衆
 倶に皆稽首して咸く
 善く思相心意識を滅したまえる
 象馬調御無著の聖に帰命したてまつる

:
訳)
 今 私たち八万の衆は
 ともに皆 深く敬意を表しています
 あらゆる思想や執着心 意識を滅せられ
 象や馬をうまく調教するように
 人々の心を善に導かれる
 執着のない聖なるお方に帰依いたします

:
:
②能説の教主
:
経)
 稽首して法色身
 戒・定・慧・解・知見聚に帰依したてまつる

:
訳)
 心から礼をなし
 法身としても 色身としても
 戒律・禅定・智慧・解脱
 解脱知見を成しとげられたことに
 帰依いたします

:
:
能敬所敬の無著
:
:

27
ダルマ太郎 2024/06/01 (土) 13:31:22 修正

:
⑥有相の諸相好を遣って諸相好を示現する
:
経)
 而も実には相非相の色なし 一切の有相眼の対絶せり
 無相の相にして有相の身なり 衆生身相の相も亦然なり

:
訳)
 このように特徴のある姿をされていますが
 実際には 相があるとかないということを
 超越された方であり
 すべての相は 見たままではありません
 真実としては 相はありませんが
 人々のために 相を持って現れられました
 人々の相も またその通りです

:
:
⑦相の用
:
経)
 能く衆生をして歓喜し礼して
 心を投じ敬を表して慇懃なることを成ぜしむ
 是れ自高我慢の除こるに因って
 是の如き妙色の躯を成就したまえり

:
訳)
 人々は そのような仏さまの相をみて
 喜び 礼拝をなして
 心から帰依をし 敬意を表して
 真心を込めるようになります
 仏は 驕り高ぶりを捨てることによって
 このような素晴らしい相を得られました

:
:
有相の諸相好をのこって諸相好を示現する
:
:

26
ダルマ太郎 2024/06/01 (土) 11:39:04 修正

:
⑤三十二相に約して内証身を歎ず 訳
:
訳)
 姿かたちとして 示されるのは
 身の丈 一丈六尺(4.8m)
 身体中より 紫金の光を発し
 姿勢正しく まわりを照らされ
 際立った存在です
 眉間の白い毛は月のように旋り
 うなじからは太陽のような光が四方に放射し
 頭髪は渦を巻き紺青色で
 頭頂は高く盛り上がっておられます
 眼は清らかでまるで鏡のようであり
 まぶたは上下にまじろぎます
 眉は紺色でスラリとのび
 口と頬は よく整っています
 唇と舌は赤く丹華のようで
 歯は雪のように白く
 四十本が揃っています
 額は広く 鼻は長く 面門は開いており
 胸には卍があり
 獅子のように胸を張っています
 手足は柔らかく車のような紋があり
 腋と手のひらには細い線があって
 内外に握ることができます
 手は長く指は細く真っ直ぐで
 皮膚のきめは細かく
 毛は右に渦巻いています
 くるぶしと膝は美しく現われていて
 性器は馬のように隠れており
 筋は細く鎖骨はしっかりとしています
 足は まるで鹿のように伸びています
 前も後も美しく清浄であって垢がありません
 濁った水に入っても汚れず
 塵も身体に付きません
 このように仏は三十二相があり
 細かく見れば八十種の
 よき相をお持ちです

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:
三十二相に約して内証身を歎ず 訳
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25
ダルマ太郎 2024/06/01 (土) 11:32:15 修正

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⑤三十二相に約して内証身を歎ず
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経)
 示して丈六紫金の(ひかり)を為し 
 方整照曜(ほうしょうしょうよう)として甚だ明徹(みょうてつ)なり
 毫相(ごうそう)月のごとく旋り
 (うなじ)に日の光あり 
 旋髪紺青(せんぱつこんじょう)にして
 (いただ)きに肉髻(にくけ)あり
 淨眼明鏡(じょうげんみょうきょう)のごとく上下に(まじろ)ぎ 
 眉しょう紺舒(こんじょ)にして
 (ただ)しき口頬(くきょう)なり
 唇舌(しんぜつ) 赤好(しゃっこう)にして
 丹華(たんげ)(ごと)く 
 白歯(びゃくし)の四十なる()珂雪(かせつ)のごとし
 額広く鼻(なが)く面門開け 
 胸に万字を表して師子の(むね)なり
 手足柔輭(にゅうなん)にして千輻(せんぷく)を具え 
 腋掌合縵(やくしょうごうまん)あって内外に握れり
 臂修肘長(ひしゅちょうちょう)にして指直く細し 
 皮膚細輭(さいなん)にして毛右に(めぐ)れり
 踝膝露現(かしつろげん)
 陰馬蔵(おんめぞう)にして 
 細筋鎖骨(さいこんさこつ) 鹿膊脹(ろくせんちょう)なり
 表裏映徹(ひょうりようてつ)し 浄くして垢なし 
 濁水(じょくすい)も染むるなく塵を受けず
 是の如き等の相三十二あり 
 八十種好(はちじっしゅごう)見るべきに似たり

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:
⑤三十二相に約して内証身を歎ず
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24
ダルマ太郎 2024/06/01 (土) 01:06:37 修正

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用語の意味-2
:
六神通(ろくじんずう)
シャド・アビジュニャー şađ-abhijñā
仏教において仏・菩薩などが持っているとされる六種の超人的な能力。六種の神通力。六通ともよばれ、止観の瞑想修行において、止行(禅定)による三昧の次に、観行(ヴィパッサナー)に移行した際に得られる、自在な境地を表現したものである。

神足通(じんそくつう)
自由自在に自分の思う場所に思う姿で行き来でき、思いどおりに外界のものを変えることのできる力。飛行や水面歩行、壁歩き、すり抜け等をし得る力。

天耳通(てんにつう)
世界すべての声や音を聞き取り、聞き分けることができる力。

他心通(たしんつう)
他人の心の中をすべて読み取る力。

宿命通(しゅくみょうつう)
自他の過去の出来事や生活、前世をすべて知る力。

天眼通(てんげんつう)
一切の衆生の業による生死を遍知する智慧。一切の衆生の輪廻転生を見る力。

漏尽通(ろじんつう)
煩悩が尽きて、今生を最後に二度と迷いの世界に生まれないことを知る智慧。生まれ変わることはなくなったと知る力。

:
三十七道品(さんじゅうしちどうほん)
菩提(覚り)に至るための三十七の修行法。四念処、四正勤、四神足、五根、五力、七覚支、八正道。

:
慈悲(じひ)
慈は、マイトリー maitrī の訳。ミトラ mitra からつくられた抽象名詞。マイトリーは、友情・親切・慈善の意味。ミトラは、友人・友情の意味。与楽。
悲は、カルナー karuṇā の訳。「人々の苦を抜きたい」という心。抜苦。

:
十力
仏や菩薩が持つ10種の力のこと。

:
四無畏(しむい)
仏・菩薩が説法する際に抱く、畏 (おそ) れることのない4種の自信。 仏では、一切智無畏・漏永尽無畏・説障道無畏・説尽苦道無畏、菩薩では、能持無畏・知根無畏・決疑無畏・答報無畏。

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用語の意味-2
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23
ダルマ太郎 2024/06/01 (土) 00:12:24

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用語の意味-1
:
三学・五分法身
戒・禅定・智慧を修めることを「三学」という。仏道修行者が修めるべき基本的な修行項目のこと。また、三学に解脱・解脱知見を合わせて「五分法身」という。五分法身とは、法身の大士が具えている五種の功徳性のこと。解脱身のこと。

:
(かい)
シーラ śīla
自分自身をコントロールする内面的な道徳規範を戒といい、戒を守ることを持戒という。

:
禅定(ぜんじょう)
ディヤーナ dhyāna
特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させること。

:
智慧(ちえ)
プラジュニャー prajñā
諸法実相を観察することによって、体得できる実践的精神作用を慧といい、煩悩を完全に断つ主因となる精神作用を智という。

:
解脱(げだつ)
ヴィモークシャ vimokṣa
煩悩に縛られていることから解放され、迷いの苦を脱すること。

:
解脱知見(げだつちけん)
ヴィムクティ・ジュニャーナ・ダルシャナ vimukti-jñāna-darśana
解脱していることを自分自身で認識していること。

:
三昧(さんまい)
サマーディ samādhi
心を一つの対象に集中して動揺しない状態。

:
:
用語の意味
:
:

22
ダルマ太郎 2024/05/31 (金) 17:11:54 修正

:
④修徳の三身
:
経)
 戒・定・慧・解・知見より生じ
 三昧・六通・道品より発し
 慈悲・十力・無畏(むい)より起り
 衆生善業の因縁より出でたり

:
:
訳)
 持戒・禅定・智慧・解脱・解脱知見
 この徳を修められて
 仏さまは 生じられました
 三昧・六神通力・三十七道品
 これらの修行から
 仏さまは 発せられました
 慈悲・十力・四無畏
 これらのはたらきによって
 仏さまは 起きられました
 人々の善の行為の
 因縁により出現されました

:
:
④修徳の三身
:
:

21
ダルマ太郎 2024/05/31 (金) 10:04:02

:
法身仏
:
徳行品では、仏を讃嘆するとき、まず法身仏としての仏を讃えています。法華経の時代は、法身仏と応身仏という二身仏が説かれていました。法身仏とは、真理(法)を体とする仏のことです。応身仏とは、人々に応じて現れる仏のことです。化身仏ともいいます。肉体を持って生まれた釈尊のことですが、事物・現象のことでもあります。つまり、法身仏と応身仏とは、真理と現象のことです。現象は真理によってあり、真理は現象によってありますから、その二つはコインの裏表のように一体です。真理が事象として現れたものが応身です。

法華経では、法身仏と応身仏のことが説かれており、無量義経においても法身仏と応身仏のことが説かれていますので、法身仏について学ぶことは必要です。避けて通れば法華経・無量義経から離れてしまいます。法華経の後、唯識の時代に、仏の三身が説かれるようになりました。法身仏と応身仏に報身仏が加えられたのです。報身仏とは、修行の果報として成仏した仏のことです。法華経には、報身仏のことは説かれていませんが、中国・日本では法華経を三身仏として読む傾向が強いようです。

さて、経文にある「其の身は有に非ず亦無に非ず~」とはどういう意味なのでしょうか? 「その身は有るのではなく、無いのではない」というのは、非有非無の中道のことです。凡夫は、物事を有る、無いで判断しますが、真理においては、有るのではなく、無いのではありません。因縁によって生起し、滅しますから、個々の存在は、仮に存在し、仮に滅しています。あらゆる存在には実体はありません。これを「空」(シューニャ śūnya)といいます。大乗仏教の重要な教義です。

個の存在は空ですので、個そのものには特徴はありません。特徴とは、他と比べることによって認識されるのですから、個自体だけでは特徴は見出すことはできません。特徴とは、サンスクリットのラクシャナ lakṣaṇa の訳であり、中国語では、「相」と訳されました。特徴・形・しるし・記号などの意味があります。特徴が無いことを「無相」(アラクシャナ alakṣaṇa)といい、空と並んで大乗仏教では重視されます。

「因に非ず縁に非ず自他に非ず」という文以降は、無相について述べられています。凡夫は、言葉によって、そのものの特徴を知ろうとしますが、そもそも、真理においては特徴はありません。無相です。

真理は、固定してとらえることができませんので、真理を表すときは否定形を使います。肯定をすれば、何らかの概念にこだわる結果になりますので、無我・無常・無相・無作のように否定して表します。空とは、「無自性」のことですので、これも否定形です。ただし、これらの表現がそのまま真理のことをいうのではなく、真理へと導く方便であると知っておく必要があります。
:
:
法身仏
:
:

20
ダルマ太郎 2024/05/31 (金) 00:35:46 修正

:
③内証身(内密の身)
:
経)
 その身は 有に非ず また無に非ず 
 因に非ず 縁に非ず 自他に非ず 
 方に非ず 円に非ず 短長に非ず 
 出に非ず 没に非ず 生滅に非ず 
 造に非ず 起に非ず 為作に非ず 
 坐に非ず 臥に非ず 行住に非ず 
 動に非ず 転に非ず 閑静に非ず 
 進に非ず 退に非ず 安危に非ず 
 是に非ず 非に非ず 得失に非ず 
 彼に非ず 此に非ず 去来に非ず 
 青に非ず 黄に非ず 赤白に非ず 
 紅に非ず 紫種種の色に非ず

:
:
訳)
 その身体は
 有ではなく 無ではなく 因ではなく 縁ではなく
 自ではなく 他ではありません 四角ではなく 円ではなく
 短くも 長くもなく 出ではなく 没ではなく
 生まれるのでも 死ぬのでもありません
 造られたのではなく 起こったのではなく
 為すのでもなく 作るのでもありません
 坐っているのではなく 寝ているのではなく
 行くのでも 止まるのでもありません
 動くのではなく 転がるのではなく
 動きが止まっているのではなく
 進むのではなく 退くのではなく
 安全でも 危険でもありません
 肯定ではなく 否定ではなく
 得でも 損でもありません
 あちら側はなく こちら側はなく
 去るのではなく 来るのでもなく
 青ではなく 黄ではなく 赤でもなく 白でもなく
 紅ではなく 紫やその他の色でもありません

:
:
③内証身(内密の身)
:
:

19
ダルマ太郎 2024/05/30 (木) 23:08:41 修正

:
2.讚歎偈
:
(1)仏身歎-1
:
①真応二身
:
経)
 大いなる(かな) 大悟大聖主 
 垢なく 染なく 所著なし
 天・人・象・馬の調御師 
 道風徳香一切に薫じ

:
訳)
 大いなるかな! 
 最上の覚りを開かれた 大いなる聖主
 煩悩なく 迷いなく 執着なく
 天 人 動物たちの善き指導者となり
 行いは風 徳は香りとなって
 あらゆるものの心へと染み入り

:
:
②報身
:
経)
 智(しず)かに情(しず)かに
 慮凝静(りょぎょうじょう)なり 
 意滅し 識亡して 心また寂なり 
 永く夢妄の思想念を断じて 
 また諸大陰入界なし

:
訳)
 智慧定まり 心定まり 
 思慮もまた定まり
 意識滅し 心もまた滅し
 永く 夢 妄想が起こることなく
 また すべての因縁もありません

:
:
仏身歎-1
:
:

18
ダルマ太郎 2024/05/30 (木) 10:18:23 >> 11

:
菩薩による教化
:
ここには、菩薩の教化の仕方が書かれています。まず、菩薩は人々の根性欲を知って、それに合わせて教えを説きます。根性欲とは、機根・性質・欲望の略で、機根とは、教えを理解し実践する能力のことです。対機説法の「機」とは、機根のことをいいます。しっかりと記憶している教えを何の妨げも作らず、巧みに話して聞かせます。諸仏に倣って、教えを説くのです。

まず、ほこりだらけの場所に水滴を垂らして、塵をおさえるように、小さな教えから入って、欲望を抑え、涅槃への門を開き、解脱へと導く縁となりました。そうして、苦悩を除き、教えを学ぶことの喜びを与えました。次に十二因縁の法門を説き、苦の原因が無明(無智)であり、無智による意志によって、苦悩することを伝え、照り付ける太陽の熱から救う夕立のような恵みを与えました。

このように初期仏教の教えを説いた後は、大乗の教えを説いて善の心を芽生えさせ、実践させ、功徳を感じさせました。そうして人々に菩提心を起さしめました。菩提心は、成仏を求める心のことで、菩薩にとっては必要不可欠です。

菩薩の智慧は、人々の煩悩を滅す縁となり、方便として、よく人々を導きます。そのことで、人々の仏道修行を援助し、人々が素早く無上の覚りを得られるようにし、慈悲の心で苦悩する民衆を救済できるように関わりました。

このように、人々を成仏へと導くためには、低い教えから徐々に高い教えを説くようにします。教団の中には、法華経以前の教えは必要ない、と言うところもありますが、学校教育がそうであるように、相手のことを思えば順々に高い教えを説くようにしたほうがいいでしょう。
:
:
菩薩による教化
:
:

17
ダルマ太郎 2024/05/29 (水) 17:08:48 修正

:
第二 別序
:
1.三業供養
:
経:その時に大荘厳(だいしょうごん)菩薩摩訶薩、遍く衆の坐して各定意なるを観じおわって、衆中の八万の菩薩摩訶薩と倶に、座よりしかも起って仏所に来詣(らいけい)し、頭面に足を礼しめぐること百千匝して、天華、天香を焼散し、天衣(てんね)天瓔珞(てんようらく)、天無価宝珠、上空の中より旋転して来下し、四面に雲のごとく集って、しかも仏にたてまつる。天厨、天鉢器に天百味充満盈溢(よういつ)せる。色を見、香を()ぐに自然に飽足す。天幢(てんどう)天旛(てんばん)天軒蓋(てんこんがい)、天妙楽具処処に安置し、天の伎楽を作して 仏を娯楽せしめたてまつり、即ちすすんで 胡跪(こき)し合掌し、一心に共に声を同じうして、()を説いて讃めて言さく。
:
訳:その時に、大荘厳菩薩は、会に参加しているすべての人々を見渡して、誰もが静かに坐り、心を定めているのを知ると、参列している八万の菩薩と共に立ち上がり、仏の近くへと進み、仏のみ足に額をつけて深く礼を捧げ、仏のまわりを何度も巡りながら、美しい花を散らし、芳しいお香をたきました。天上界からは、天の衣、首飾り、貴重な宝石が、ゆっくりと回転しながら、あたり一面に降りてきました。それらの天上界の宝物が、次第に雲のように集まってきたのを、まとめると、仏へと奉りました。また、天の調理場では、天の鉢や器に様々なご馳走を盛り付けました。その色彩を見、芳しき香りを嗅ぐだけで、満足できるような御膳も仏へと奉りました。また、天の幟や旗、天蓋、天の家具を仏のまわりに飾り、天の伎楽を演奏して奉りました。そうした後に、仏の前へと進み、膝を地につけて礼拝し、合掌して、心を一つにして声を合わせ、詩を説き、仏の徳を讃えました。
:
:
用語の意味
:
瓔珞(ようらく)
菩薩の装飾品。首飾りや胸飾り。

:
(どう)
旗・吹き流し。

:
(ばん)
高く掲げて装飾にする旗。

:
軒蓋(けんがい)
:
()
ガーター gāthā
仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの。

:
:
三業供養
:
:

16
ダルマ太郎 2024/05/29 (水) 10:04:37 修正

:
2)声聞衆の名を列ね数を唱え徳を歎ず
:
経:其の比丘の名を、大智舎利弗(だいちしゃりほつ)神通目揵連(じんつうもくけんれん)慧命須菩提(えみょうしゅぼだい)摩訶迦旃延(まかかせんねん)弥多羅尼子富楼那(みたらにしふるな)阿若憍陳如(あにゃきょうぢんにょ)等・天眼阿那律(てんげんあなりつ)持律優婆離(じりつうばり)侍者阿難(じしゃあなん)仏子羅雲(ぶっしらうん)優波難佗(うばなんだ)離波多(りはた)劫賓那(こうひんな)薄拘羅(はくら)阿周陀(あしゅうだ)莎伽陀(しゃかだ)頭陀大迦葉(ずだだいかしょう)優楼頻螺迦葉(うるびんらかしょう)伽耶迦葉(がやかしょう)那提迦葉(なだいかしょう)という。是の如き等の比丘万二千人あり。皆阿羅漢にして、諸の結漏(けつろ)を尽くして復縛著(ばくぢゃく)なく、真正解脱なり。
:
訳:この出家者の名を、大智舎利弗(だいちしゃりほつ)神通目揵連(じんつうもくけんれん)慧命須菩提(えみょうしゅぼだい)摩訶迦旃延(まかかせんねん)弥多羅尼子富楼那(みたらにしふるな)阿若憍陳如(あにゃきょうぢんにょ)等・天眼阿那律(てんげんあなりつ)持律優婆離(じりつうばり)侍者阿難(じしゃあなん)仏子羅雲(ぶっしらうん)優波難佗(うばなんだ)離波多(りはた)劫賓那(こうひんな)薄拘羅(はくら)阿周陀(あしゅうだ)莎伽陀(しゃかだ)頭陀大迦葉(ずだだいかしょう)優楼頻螺迦葉(うるびんらかしょう)伽耶迦葉(がやかしょう)那提迦葉(なだいかしょう)といいます。このような人たちが一万二千人いました。皆、聖者の位であり、様々な心の結びや煩悩を滅し、また執着がなく、真に迷いから脱した者たちです。
:
:
用語の意味
:
比丘(びく)
ビクシュ bhikṣu
出家して具足戒を受けた男性修行者のこと。

:
阿羅漢(あらかん)
アルハット arhat
仏教において最高の悟りを得た、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと。この境地に達すると迷いの輪廻から脱して涅槃に至ることができるという。もともとは、如来の別称だったが、部派仏教時代に声聞の聖者のことを指すようになった。

:
結漏(けつろ)
煩悩による束縛と輪廻。

:
縛著(ばくぢゃく)
ヤントリタ yantrita
束縛。

:
解脱(げだつ)
ヴィモークシャ vimokṣa
煩悩に縛られていることから解放され、迷いの苦を脱すること。

:
:
声聞衆の名を列ね数を唱え徳を歎ず
:
:

15
ダルマ太郎 2024/05/29 (水) 01:39:00 修正

:
(c)自利-2
:
経:菩薩の諸波羅蜜に遊戯(ゆけ)し、如来の地に於いて堅固にして動ぜず。願力に安住して、広く仏国を浄め、久しからずして 阿耨多羅三貎三菩提を成ずることを得べし。この諸の菩薩摩訶薩皆、皆かくの如き不思議の徳あり。
:
訳:この菩薩たちは、覚りへの道を自由自在に行い、菩提心は定まっていて、動じることがありません。菩薩は、誓願の力にとどまって、広くこの世界を浄めます。間もなく、無上の覚りを得るでしょう。この菩薩摩訶薩たちは、皆、このような人知の及ばないほどの徳を持っているのです。
:
:
用語の意味
:
菩薩(ぼさつ)
ボーディ・サットヴァ bodhi-sattva
大乗仏教の修行者のことで、自他の覚り(菩提)を求める。

:
波羅蜜(はらみつ)
パーラミター pāramitā
仏になるために菩薩が行う修行のこと。六波羅蜜と十波羅蜜がある。六波羅蜜とは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧のこと。十波羅蜜は、六波羅蜜に方便・願・力・智を加えたもの。

:
遊戯(ゆけ)
ヴィクリーディタ vikrīḍita
菩薩の束縛されない自由な活動に対する肯定的な言及。仏陀の境地に到達し、それを楽しむこと。

:
(がん)
プラニダーナ praṇidāna
願望・誓い・修行の目的を定めること。

:
阿耨多羅三貎三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)
アヌッタラ・サミヤク・サンボーディ
anuttara-samyak-saṃbodhi
無上の正しい覚り。

:
不思議(ふしぎ)
アチンチヤ acintya
非概念的。不可解。熟考や概念化を超えたもの。言語表現を超えたもの。思考や言葉を超えたもの。

:
:
自利
:
:

14
ダルマ太郎 2024/05/29 (水) 00:56:07 修正

:
(c)自利
:
経:これ諸の衆生の真善知識、これ諸の衆生の大良福田、これ諸の衆生の請せざるの師、これ諸の衆生の安穏の楽処・救処・護処・大依止処なり。処処に衆生の為に、大良導師・大導師と作る。よく衆生の盲いたるが為には、しかも眼目を作し、(りょう)()()の者には、耳・鼻・舌を作し、諸根毀欠(きけつ)せるをば、よく具足せしめ、顛狂荒乱(てんのうこうらん)なるには大正念を作さしむ。船師・大船師なり、群生を運載し、生死の河を度して涅槃の岸に置く。医王・大医王なり、病相を分別し薬性を暁了(ぎょうりょう)して、病に随って薬を授け、衆をして薬を服せしむ。調御・大調御なり、諸の放逸(ほういつ)の行なし。なお、象馬師のよく調うるに調わざることなく、師子の勇猛なる威、衆獣を伏して沮壊(そえ)すべきこと難きがごとし。
:
訳:この菩薩は、人々の真の善き友です。善の心を育てる素晴らしい田畑であり、困った時に招いていなくても現れる師であり、人々に安らぎを与える人、救う人、護る人、心のよりどころとなる人です。どこにあっても、人々のために、立派なリーダーとなります。もし、人が真理を見る眼を塞いでいたならば、眼を開かせる縁となり、真理を聞かない者、嗅がない者、味わわない者には、真理を体験できるように縁となって、ありのままを感じられるように関わり、心が狂って荒れ乱れている者には、心を落ち着かせ正気に戻るように関わります。この菩薩たちは、まるで船長のようです。人々を船に乗せ、迷いの岸から、安らぎの岸へと送ります。また、優れた医者のようです。あらゆる病状を知っており、多くの薬の効果にも通じており、患者に適した薬が何かを見極め、病気に応じた薬を授け、人々はその薬を服します。また、腕のいい調教師のようです。行いに乱れがありません。どのように荒れた象であっても、馬であっても、調教する術を持っています。それは、勇ましい獅子が威厳をもって、どのような獣であっても従わせるようなものです。
:
:
自利
:
: