明けまして おめでとう ございます。
本年もよろしくお願いいたします。
元旦
: 仏教の始まり : 太郎論:約2500年前のインドで、仏教は起こりました。釈迦族の王子だったガウタマ・シッダールタ Gautama Śiddhārtha が菩提樹の下で最高の真理を覚って、目覚めた者(ブッダ buddha)となり、鹿野園において五比丘に説法をし、彼らを教化したことによって始まりました。初め釈尊は、新しい宗教を立ち上げたという自覚はなく、バラモン教の一派として道を説いていました。
太郎論:釈尊の死後、釈尊の説かれた教えを絶やしてはいけないとして、五百人の大比丘たちが集い、王舎城(おうしゃじょう)で第一回目の結集(けつじゅう)を行いました。結集とは、サンギーティ saṃgīti の中国語訳です。「共に唱えること」であり、教えと戒律について一同が唱え異議なく共通理解しました。教えについては、釈尊の侍者だった阿難が責任者となり、戒律については優波離(うばり)が責任者になりました。総責任者は、摩訶迦葉が努めました。これによって、釈尊の教えは大きく乱れることがなく、ある程度正しく伝えられたといいます。釈尊が五比丘に対して法を説いてから、釈尊滅後の100年までを初期仏教(原始仏教・根本仏教)といいます。
太郎論:仏滅後約100年して、第二回目の結集が開かれました。その時、戒律の解釈の違いによって、仏教教団は二つに分裂しました。保守派の上座部(じょうざぶ)と革新派の大衆部(たいしゅぶ)です。これを根本分裂といいます。根本分裂の後、次々と部派が起こりましたので、この頃の仏教のことを部派仏教といいます。部派の中で最も勢力があったのが上座部の説一切有部です。 : : 仏教の始まり : :
仏の三身説は、世親著、菩提流支訳の『十地経論』にある「一切佛者有三種佛。一應身佛。二報身佛。三法身佛」という文を根拠にしています。訓読すれば、「一切の仏に三種の仏あり。一に応身仏、二に報身仏、三に法身仏なり」です。世親は、中期大乗仏教の論師ですので、法華経が成立した後に活躍した方です。よって法華経を理解するために仏の三身説は参考にはできません。
法華経には、法身仏のことが説かれていますから、応身仏と法身仏によって理解するのがいいでしょう。天台・日蓮系では、法華経を仏の三身説によって解釈しますので、法華経を直に読む人とはズレがあります。
仏には、三身があるといいます。法身仏・報身仏・応身仏です。法身仏は、真理を体とする仏であり、報身仏は、仏に成るための行を行じた報いとしての仏であり、応身仏は、人々を救うために相手に応じて姿を現す応化身の仏です。
四諦 : 四諦とは、苦諦(くたい)、集諦(じったい)、滅諦(めったい)、道諦(どうたい)の4つからなり、これらの頭文字をとって苦集滅道(くじゅうめつどう)ともいわれます。集諦と苦諦は、煩悩によって苦が生じるという因果であり、道諦と滅諦は、八正道によって安楽な境地になるという因果です。 : : 苦諦…苦という結果についての真実 集諦…苦の原因についての真実 滅諦…楽という結果についての真実 道諦…楽の原因についての真実 : : 四諦 : :
四諦(したい)とは、サンスクリットのチャトゥル・アーリヤ・サティヤ catur-ārya-satya の中国語訳です。チャトゥルが、「4」。アーリヤが、「聖なる・優れた」。サティヤが、「真実・真理」という意味です。なので、「4つの聖なる真理」(四聖諦)と訳すのがいいでしょう。
諦は、日本では、「諦める」といい、「断念する」という意味で使われますが、四諦の場合は、諦めるという意味はありません。
: 仏教の目的と方法 : 太郎論:仏教の目的は、仏に成ることです。釈尊が菩提樹の下で成就されたように、智慧を完成し、真実に目覚めて、成仏するのが目的です。仏(仏陀)とは、ブッダ buddha の中国語訳であり、「目覚めた人」という意味です。何に目覚めるのかというと最高の真理である妙法です。妙法は、真諦・第一義諦・勝義諦・真実ともいいます。
太郎論:真理には二種があります。俗諦と真諦です。俗諦とは、世俗の言葉で語られる真理であり、真諦とは、絶対の真理ですから、言葉では顕すことができません。一般的には、真理というと俗諦のことを指しますが、仏教では真諦を覚ることを目的にしています。縁起・無我・無常・苦・涅槃・空・無相・無作・実相などを真理というのは俗諦の方です。釈尊は、言葉では伝えることのできない真諦を人々に伝えるために方便を用いました。方便とは、「近づける」という意味ですが、仏教の場合は、「真理に近づける方法」という意味で使われます。譬喩や象徴的表現、体験談を話すことです。言葉では伝えられない真理を言葉を巧みに使って導いたのです。つまり、真諦へと導くために、俗諦を用いました。この方便こそが仏教の教化の方法です。仏は、方便で導いていますが、それを聞く側が、それを方便だと理解していなければ意味がありません。方便を方便だと受け止めていることが大事です。
太郎論:智慧とは、真理を観察する能力のことです。智慧を完成させることによって、真諦を覚ることができます。しかし、人々の智慧はうまく機能していません。煩悩に覆われて、智慧の眼が閉じているのです。よって、仏道に入った者は、まず煩悩を滅する行をする必要があります。それが持戒です。戒を守ることによって、心を浄めるのです。心を浄めると禅定に入りやすくなりますから、心を一つに集中して禅定に入り、そうすることで智慧の働きを活発にします。この戒定慧が重要な行です。 : : 仏教の目的と方法 : :
縁起とは、プラティーティヤ・サムトパーダ pratītya-samutpāda の中国語訳です。直訳すると「縁って起こる」「縁って生じる」です。よく因縁生起の略だといわれていますが、そうではありません。また、ある教団では、「縁起とは因縁果報」と教えているところがありますが、それも違います。それを鵜呑みにすると仏教が理解できなくなってしまいます。果報とは、業報思想なので、縁起とは異なります。
声聞とは、サンスクリットのシュラーヴァカ śrāvakaの中国語訳です。語根の√śruは、「聞く」ですので、シュラーヴァカは、「聞く者」という意味です。初期は、釈尊の声を聞く者、すなわち弟子のことであり、出家も在家も含めて仏弟子は全員、声聞といいました。部派仏教の時代には、声聞とは、出家した者のことをいうようになりました。
28. 如来蔵(仏性)
27. 唯識
26. 中観
25. 廻向
24. 六波羅蜜
23. 菩薩
22. 菩提(覚り)
21. 無願
20. 無作
19. 無相
18. 空
17. 三十七道品
16. 解脱
15. 輪廻
14. 業報
13. 涅槃
12. 苦
11. 無我
10. 無常
9. 八正道
8. 四諦
7. 十二因縁 1 : 初期仏教において、十二因縁は、非常に重視される教えです。しかし、まともに説ける説法者は、ほとんどいません。十二の支分でさえも、把握していないので、ある教育の場では、説法の途中で説法者が泣き出してしまうこともありました。数百人の受講者がいたのに、十二因縁に関しては穴があいてしまいました。説法者は、泣けばいいというものではなく、受講者の為に徹夜してでも理解しようという意気込みが必要だと思います。 : 若い頃は、何回か講習会に参加し、十二因縁についての講義を受けました。説法者の多くは、自信がなく、緊張して話すので、言いたいことがまるで伝わってきません。この会は、十二因縁は不得意なんだなと思いました。教育に対しての意欲が感じられず、教育が不足している会は先が短いので、この会も長くは無いなと思いました。 : しかたなく、独学で勉強しました。ところが、市販の仏教書の十二因縁は、単に十二支分の説明があるだけで、深い教えがありませんでした。そこで、サンスクリット語のそれぞれの意味を調べて、考えてみました。漢字だとどうもピンとこなかったからです。まずは、十二の支分を一つづつ解釈していきます。その後に全体的な内容を解釈いたします。 : : 十二因縁 : ①無明 むみょう〉アヴィドャー avidyā 無知 ②行 ぎょう〉サンスカーラ saṃskāra 意志 ③識 しき〉ビジュニャーナ vijñāna 識別作用 ④名色 みょうしき〉ナーマルーパ nāmarūpa 心と体 ⑤六入 ろくにゅう〉シャダーヤタナ ṣaḍāyatana 眼耳鼻舌身意の6感官 ⑥触 そく〉スパルシャ sparśa 接触 ⑦受 じゅ〉ヴェーダナー vedanā 感受 ⑧愛 あい〉トリシュナー tṛṣṇā 渇愛 ⑨取 しゅ〉ウパーダーナ upādāna 執着 ⑩有 う〉 バーヴァ bhava 生存 ⑪生 しょう〉ジャーティ jāti 生まれること ⑫老死 ろうし〉 ジャーラーマラーナ jarā-maraṇa 老いと死 : : 十二因縁 1 : :
6. 縁起
5. 五戒
4. 三帰依
3. 縁覚
2. 声聞
1. 仏陀
インドの仏教は、初期仏教・部派仏教・大乗仏教・密教に分かれます。
経典をスラスラと読み、意味を理解できる人はわずかでしょう。漢字ばかりの真読はふりがながついていないと読むことも困難です。漢字と仮名まじりの文語文に書きなおした訓読の場合は、真読よりは分かりやすいものの、単語・熟語が漢字だし、サンスクリットの音写も多いので、仏教用語辞典がなければ歯が立ちません。
経典は、方便・譬喩・因縁・言辞を駆使して説かれていますので、経典を読めたとしても真意を掴むには知識と智慧が必要です。よって、経典を理解するためには、論書や釈書の助けが必要です。論書は、インドの高僧によって解説された書であり、釈書は、中国や日本の高僧によって解釈された書です。
法華経の場合、論書は、世親作の『妙法蓮華経優婆提舎』(法華論)しかありません。法華経全巻を論じているのではなく、序品と方便品の二品だけを解説しています。内容は、かなり難しいです。釈書は、天台大師智顗の『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』、聖徳太子の『法華義疏』、日蓮の『御書』があります。しかし、天台大師智顗の解釈は中国仏教であり、日蓮の解釈は日本仏教なので、インド思想の法華経とは異なりますから注意が必要です。あくまでも参考として読むのであればいいのですが、法華経そのものを読まずにそれらの釈書に頼るのは本末転倒です。天台宗や日蓮系の宗派・教団であればそれでもいいのでしょうが、法華経を知りたければ法華経そのものを読むのがいいです。
残念ながら、インドの法華経を的確に解釈したものがありませんので、自分自身で紐解いていくしかありません・・・
明けまして
おめでとう
ございます。
本年もよろしくお願いいたします。
元旦
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仏教の始まり
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太郎論:約2500年前のインドで、仏教は起こりました。釈迦族の王子だったガウタマ・シッダールタ Gautama Śiddhārtha が菩提樹の下で最高の真理を覚って、目覚めた者(ブッダ buddha)となり、鹿野園において五比丘に説法をし、彼らを教化したことによって始まりました。初め釈尊は、新しい宗教を立ち上げたという自覚はなく、バラモン教の一派として道を説いていました。
太郎論:釈尊の死後、釈尊の説かれた教えを絶やしてはいけないとして、五百人の大比丘たちが集い、王舎城 で第一回目の結集 を行いました。結集とは、サンギーティ saṃgīti の中国語訳です。「共に唱えること」であり、教えと戒律について一同が唱え異議なく共通理解しました。教えについては、釈尊の侍者だった阿難が責任者となり、戒律については優波離 が責任者になりました。総責任者は、摩訶迦葉が努めました。これによって、釈尊の教えは大きく乱れることがなく、ある程度正しく伝えられたといいます。釈尊が五比丘に対して法を説いてから、釈尊滅後の100年までを初期仏教(原始仏教・根本仏教)といいます。
太郎論:仏滅後約100年して、第二回目の結集が開かれました。その時、戒律の解釈の違いによって、仏教教団は二つに分裂しました。保守派の上座部 と革新派の大衆部 です。これを根本分裂といいます。根本分裂の後、次々と部派が起こりましたので、この頃の仏教のことを部派仏教といいます。部派の中で最も勢力があったのが上座部の説一切有部です。
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仏教の始まり
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仏の三身説
仏の三身説は、世親著、菩提流支訳の『十地経論』にある「一切佛者有三種佛。一應身佛。二報身佛。三法身佛」という文を根拠にしています。訓読すれば、「一切の仏に三種の仏あり。一に応身仏、二に報身仏、三に法身仏なり」です。世親は、中期大乗仏教の論師ですので、法華経が成立した後に活躍した方です。よって法華経を理解するために仏の三身説は参考にはできません。
法華経には、法身仏のことが説かれていますから、応身仏と法身仏によって理解するのがいいでしょう。天台・日蓮系では、法華経を仏の三身説によって解釈しますので、法華経を直に読む人とはズレがあります。
法身仏・報身仏・応身仏
仏には、三身があるといいます。法身仏・報身仏・応身仏です。法身仏は、真理を体とする仏であり、報身仏は、仏に成るための行を行じた報いとしての仏であり、応身仏は、人々を救うために相手に応じて姿を現す応化身の仏です。
四諦苦諦 、集諦 、滅諦 、道諦 の4つからなり、これらの頭文字をとって苦集滅道 ともいわれます。集諦と苦諦は、煩悩によって苦が生じるという因果であり、道諦と滅諦は、八正道によって安楽な境地になるという因果です。
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四諦とは、
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苦諦…苦という結果についての真実
集諦…苦の原因についての真実
滅諦…楽という結果についての真実
道諦…楽の原因についての真実
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四諦
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四諦(したい)とは、サンスクリットのチャトゥル・アーリヤ・サティヤ catur-ārya-satya の中国語訳です。チャトゥルが、「4」。アーリヤが、「聖なる・優れた」。サティヤが、「真実・真理」という意味です。なので、「4つの聖なる真理」(四聖諦)と訳すのがいいでしょう。
諦は、日本では、「諦める」といい、「断念する」という意味で使われますが、四諦の場合は、諦めるという意味はありません。
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仏教の目的と方法
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太郎論:仏教の目的は、仏に成ることです。釈尊が菩提樹の下で成就されたように、智慧を完成し、真実に目覚めて、成仏するのが目的です。仏(仏陀)とは、ブッダ buddha の中国語訳であり、「目覚めた人」という意味です。何に目覚めるのかというと最高の真理である妙法です。妙法は、真諦・第一義諦・勝義諦・真実ともいいます。
太郎論:真理には二種があります。俗諦と真諦です。俗諦とは、世俗の言葉で語られる真理であり、真諦とは、絶対の真理ですから、言葉では顕すことができません。一般的には、真理というと俗諦のことを指しますが、仏教では真諦を覚ることを目的にしています。縁起・無我・無常・苦・涅槃・空・無相・無作・実相などを真理というのは俗諦の方です。釈尊は、言葉では伝えることのできない真諦を人々に伝えるために方便を用いました。方便とは、「近づける」という意味ですが、仏教の場合は、「真理に近づける方法」という意味で使われます。譬喩や象徴的表現、体験談を話すことです。言葉では伝えられない真理を言葉を巧みに使って導いたのです。つまり、真諦へと導くために、俗諦を用いました。この方便こそが仏教の教化の方法です。仏は、方便で導いていますが、それを聞く側が、それを方便だと理解していなければ意味がありません。方便を方便だと受け止めていることが大事です。
太郎論:智慧とは、真理を観察する能力のことです。智慧を完成させることによって、真諦を覚ることができます。しかし、人々の智慧はうまく機能していません。煩悩に覆われて、智慧の眼が閉じているのです。よって、仏道に入った者は、まず煩悩を滅する行をする必要があります。それが持戒です。戒を守ることによって、心を浄めるのです。心を浄めると禅定に入りやすくなりますから、心を一つに集中して禅定に入り、そうすることで智慧の働きを活発にします。この戒定慧が重要な行です。
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仏教の目的と方法
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縁起とは、プラティーティヤ・サムトパーダ pratītya-samutpāda の中国語訳です。直訳すると「縁って起こる」「縁って生じる」です。よく因縁生起の略だといわれていますが、そうではありません。また、ある教団では、「縁起とは因縁果報」と教えているところがありますが、それも違います。それを鵜呑みにすると仏教が理解できなくなってしまいます。果報とは、業報思想なので、縁起とは異なります。
声聞とは、サンスクリットのシュラーヴァカ śrāvakaの中国語訳です。語根の√śruは、「聞く」ですので、シュラーヴァカは、「聞く者」という意味です。初期は、釈尊の声を聞く者、すなわち弟子のことであり、出家も在家も含めて仏弟子は全員、声聞といいました。部派仏教の時代には、声聞とは、出家した者のことをいうようになりました。
28. 如来蔵(仏性)
27. 唯識
26. 中観
25. 廻向
24. 六波羅蜜
23. 菩薩
22. 菩提(覚り)
21. 無願
20. 無作
19. 無相
18. 空
17. 三十七道品
16. 解脱
15. 輪廻
14. 業報
13. 涅槃
12. 苦
11. 無我
10. 無常
9. 八正道
8. 四諦
7. 十二因縁 1
:
初期仏教において、十二因縁は、非常に重視される教えです。しかし、まともに説ける説法者は、ほとんどいません。十二の支分でさえも、把握していないので、ある教育の場では、説法の途中で説法者が泣き出してしまうこともありました。数百人の受講者がいたのに、十二因縁に関しては穴があいてしまいました。説法者は、泣けばいいというものではなく、受講者の為に徹夜してでも理解しようという意気込みが必要だと思います。
:
若い頃は、何回か講習会に参加し、十二因縁についての講義を受けました。説法者の多くは、自信がなく、緊張して話すので、言いたいことがまるで伝わってきません。この会は、十二因縁は不得意なんだなと思いました。教育に対しての意欲が感じられず、教育が不足している会は先が短いので、この会も長くは無いなと思いました。
:
しかたなく、独学で勉強しました。ところが、市販の仏教書の十二因縁は、単に十二支分の説明があるだけで、深い教えがありませんでした。そこで、サンスクリット語のそれぞれの意味を調べて、考えてみました。漢字だとどうもピンとこなかったからです。まずは、十二の支分を一つづつ解釈していきます。その後に全体的な内容を解釈いたします。
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十二因縁
:
①無明 むみょう〉アヴィドャー avidyā 無知
②行 ぎょう〉サンスカーラ saṃskāra 意志
③識 しき〉ビジュニャーナ vijñāna 識別作用
④名色 みょうしき〉ナーマルーパ nāmarūpa 心と体
⑤六入 ろくにゅう〉シャダーヤタナ ṣaḍāyatana 眼耳鼻舌身意の6感官
⑥触 そく〉スパルシャ sparśa 接触
⑦受 じゅ〉ヴェーダナー vedanā 感受
⑧愛 あい〉トリシュナー tṛṣṇā 渇愛
⑨取 しゅ〉ウパーダーナ upādāna 執着
⑩有 う〉 バーヴァ bhava 生存
⑪生 しょう〉ジャーティ jāti 生まれること
⑫老死 ろうし〉 ジャーラーマラーナ jarā-maraṇa 老いと死
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十二因縁 1
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6. 縁起
5. 五戒
4. 三帰依
3. 縁覚
2. 声聞
1. 仏陀
仏教の根本的な教え
インドの仏教の歴史
インドの仏教は、初期仏教・部派仏教・大乗仏教・密教に分かれます。
経典をスラスラと読み、意味を理解できる人はわずかでしょう。漢字ばかりの真読はふりがながついていないと読むことも困難です。漢字と仮名まじりの文語文に書きなおした訓読の場合は、真読よりは分かりやすいものの、単語・熟語が漢字だし、サンスクリットの音写も多いので、仏教用語辞典がなければ歯が立ちません。
経典は、方便・譬喩・因縁・言辞を駆使して説かれていますので、経典を読めたとしても真意を掴むには知識と智慧が必要です。よって、経典を理解するためには、論書や釈書の助けが必要です。論書は、インドの高僧によって解説された書であり、釈書は、中国や日本の高僧によって解釈された書です。
法華経の場合、論書は、世親作の『妙法蓮華経優婆提舎』(法華論)しかありません。法華経全巻を論じているのではなく、序品と方便品の二品だけを解説しています。内容は、かなり難しいです。釈書は、天台大師智顗の『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』、聖徳太子の『法華義疏』、日蓮の『御書』があります。しかし、天台大師智顗の解釈は中国仏教であり、日蓮の解釈は日本仏教なので、インド思想の法華経とは異なりますから注意が必要です。あくまでも参考として読むのであればいいのですが、法華経そのものを読まずにそれらの釈書に頼るのは本末転倒です。天台宗や日蓮系の宗派・教団であればそれでもいいのでしょうが、法華経を知りたければ法華経そのものを読むのがいいです。
残念ながら、インドの法華経を的確に解釈したものがありませんので、自分自身で紐解いていくしかありません・・・