流通を讃嘆する
爾の時に仏讃めて言わく、善哉善哉諸の善男子、汝等今者真に是れ仏子なり。弘き大慈大悲をもって深く能く苦を抜き厄を救う者なり。一切衆生の良福田なり。広く一切の為に大良導師と作れり。一切衆生の大依止処なり。一切衆生の大施主なり。常に法利を以て広く一切に施せと。
それをお聞きになった仏さまは心から喜ばれ、「よろしい。大変結構です。お前たちは今こそ、ほんとうに『仏の子』です。そなた達こそ、大きな『慈悲の心』をもって、人々の苦しみを救い、一切の人々の幸福を生み出す力となり、素晴らしい導師であり、心の支え、依り所となる人です。どうかこの教えの利益を、常に広く人々に与えてあげて下さい」
経を聞いて受持する
爾の時に大会皆大に歓喜して、仏の為に礼を作し、受持して去りにき。
この仏さまのお言葉を受けて、一同は『大歓喜』し、仏さまに礼拝をして、そして教えをしっかりと胸に刻んで受持し、法会の席を立って行きました。
滅後弘経の仏勅を敬い受く
是の時に大荘厳菩薩摩訶薩、八万の菩薩摩訶薩と即ち座より起って仏所に来詣して、頭面に足を礼し遶ること百千匝して、即ち前んで胡跪し倶共に声を同じゅうして仏に白して言さく、世尊、我等快く世尊の慈愍を蒙りぬ。我等が為に是の甚深微妙無上大乗無量義経を説きたもう。敬んで仏勅を受けて、如来の滅後に於て当に広く是の経典を流布せしめ、普く一切をして受持し読誦し書写し供養せしむべし、唯願わくは憂慮を垂れたもうことなかれ。我等当に願力を以て、普く一切衆生をして此の経を見聞し読誦し書写し供養することを得、是の経の威神の福を得せしむべし。
すると大荘厳菩薩と八万の菩薩たちは一斉に立ち上がり、世尊の御前に進み出て、み足に額をつけて礼拝し、『帰依』の誠を捧げて申し上げました。 「世尊よ。私共に大きなお慈悲をおかけくださったことを、心から感謝申し上げます。私たちは、『法を弘めよ。それこそが大慈大悲』という仏さまのお言いつけを謹んでお受けし、仏さまがお亡くなられた後も、しっかりとこの教えを弘め、あまねく人々がこの教えを信じ、読誦・書写・供養できるように法を弘めます」 と決意を申し上げました。
菩薩たちに付属する
爾の時に仏、大荘厳菩薩摩訶薩及び八万の菩薩摩訶薩に告げて言わく、汝等当に此の経に於て深く敬心を起し法の如く修行し、広く一切を化して勤心に流布すべし。常に当に慇懃に昼夜守護して、諸の衆生をして各法利を獲せしむべし。汝等真に是れ大慈大悲なり。以て神通の願力を立てて、是の経を守護して疑滞せしむることなかれ。汝、当時に於て必ず広く閻浮提に行ぜしめ、一切衆生をして見聞し読誦し書写し供養することを得せしめよ。是れを以ての故に、亦疾く汝等をして速かに阿耨多羅三藐三菩提を得せしめん。
その時、世尊は、大荘厳菩薩をはじめとする多くの菩薩たちにお告げになりました。 「そなたたちは、この教えを深く信じ、敬い、心を尽くして一切の人々を教化しなければなりません。その行いこそが『真の大慈大悲』なのです。この教えを弘めることで、みなさんは『五種法師の行』をつとめられるようになり、真っ直ぐに仏の悟りを得ることができるようになるのです」
此土の供養
是の語を作し已りし、爾の時に三千大千世界六種に震動し、上空の中より復種種の天華・天優鉢羅華・鉢曇摩華・拘物頭華・分陀利華を雨らし、又無数種種の天香・天衣・天瓔珞・天無価の宝を雨らして、上空の中より旋転して来下し、仏及び諸の菩薩・声聞・大衆に供養す。天厨・天鉢器に天百味充満盈溢せる、色を見香を聞くに自然に飽足す。天幢・天幡・天軒蓋・天妙楽具処処に安置し、天の妓楽を作して仏を歌歎す。
以上、讃嘆と感謝の言葉を大荘厳菩薩たちが申し述べると、世界中が感動のあまり打ち震い、空からたくさんの美しい花びらが舞い降り、芳しい香りと様々な宝物が仏および教えを聴聞している菩薩をはじめとする多くの人々に降り注がれました。
他土東方の供養
又復六種に東方恒河沙等の諸仏の世界を震動す。亦天華・天香・天衣・天瓔珞・天無価の宝を雨らし、天厨・天鉢器・天百味、色を見香を聞くに自然に飽足す。天幢・天幡・天軒蓋・天妙楽具処処に安置し、天の妓楽を作して彼の仏及び諸の菩薩・声聞・大衆を歌歎す。南西北方四維上下も亦復是の如し。
すると東方の世界のみならず、あらゆる十方世界・宇宙全体にある無数の仏の世界でも、同様の現象が起こり、仏と菩薩と大衆が供養されるのでありました。
菩薩の領解
時に大荘厳菩薩摩訶薩及び八万の菩薩摩訶薩、声を同じゅうして仏に白して言さく、世尊、仏の所説の如き甚深微妙無上大乗無量義経は、文理真正に、尊にして過上なし。三世の諸仏の共に守護したもう所、衆魔群道、得入することあることなく、一切の邪見生死に壊敗せられず。是の故に此の経は乃ち是の如き十の功徳不思議の力います。
その時、大荘厳菩薩及び八万の菩薩たちが、口をそろえて世尊に申し上げました。「世尊よ。世尊がお説きになった、深淵な教えである『無量義経』は、この上な尊く、真実そのものです。ですから、この教えの通り修行している限り、三世(過去・現在・未来)の諸仏が守護してくださり、どのような邪魔ものにも妨害されることはなく、間違った考えや、人生の様々な『変化』に遭遇しても動揺し、挫け、打ち負かされることはありません。この教えに十の不可思議な功徳があることも、よく解らせていただきました」。
重ねて時会の得益を讃える
大に無量の一切衆生を饒益し、一切の諸の菩薩摩訶薩をして各無量義三昧を得、或は百千陀羅尼門を得せしめ、或は菩薩の諸地・諸忍を得、或は縁覚・羅漢の四道果の証を得せしめたもう。世尊慈愍して快く我等が為に是の如き法を説いて、我をして大に法利を獲せしめたもう。甚だ為れ奇特に未曾有也。世尊の慈恩実に報ずべきこと難し。
「この教えはあらゆる人々に余すところなく利益を与え、素晴らしい境地に至らしめるものです。尊いみ教えをいただき、こんな有難い経験をしたことはこれまでにございません。尊く素晴らしい教えをお説きくださった世尊の深いお慈悲に、私どもはどのようにしてお報いしてよいかわからないくらい、深く感謝申し上げます。誠に世尊は、広大無辺な慈恩のお方であられます」
十功徳力を結す
善男子、是の如き無上大乗無量義経は、極めて大威神の力ましまして、尊にして過上なし。能く諸の凡夫をして皆聖果を成じ、永く生死を離れて皆自在なることを得せしめたもう。是の故に是の経を無量義と名く。能く一切衆生をして、凡夫地に於て、諸の菩薩の無量の道牙を生起せしめ、功徳の樹をして欝茂扶蔬増長せしめたもう。是の故に此の経を不可思議の功徳力と号く。
「このように、この教えは極めて大きな力を持ち、この上なく尊い教えであります。そしてどんな人でも素晴らしい信仰の境地へ至らしめ、人生のあらゆる変化にも揺るがされず、何ごとにもとらわれない『自由自在』の心に導くものです。それゆえ『無量義』と名づけられたのです。そして全ての人が菩薩行を実践するように導くことができ、それによって功徳の樹木が生い茂るように伸び、広がって行きます。これがこの教えの不可思議な功徳力であります」
第十の功徳 登地不思議力
善男子、第十に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子・善女人、若しは仏の在世若しは滅度の後に、若し是の経を得て大歓喜を発し、希有の心を生じ、既に自ら受持し読誦し書写し供養し説の如く修行し、復能く広く在家出家の人を勧めて、受持し読誦し書写し供養し解説し、法の如く修行せしめん。既に余人をして是の経を修行せしむる力の故に、得道・得果せんこと、皆是の善男子・善女人の慈心をもって勤ろに化する力に由るが故に、是の善男子・善女人は即ち是の身に於て便ち無量の諸の陀羅尼門を逮得せん。凡夫地に於て、自然に初めの時に能く無数阿僧祇の弘誓大願を発し、深く能く一切衆生を救わんことを発し、大悲を成就し、広く能く衆の苦を抜き、厚く善根を集めて一切を饒益せん。而して法の沢を演べて洪に枯涸に潤おし、能く法の薬を以て諸の衆生に施し、一切を安楽し、漸見超登して法雲地に住せん。恩沢普く潤し慈被すること外なく、苦の衆生を摂して道跡に入らしめん。是の故に此の人は、久しからずして阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得ん。善男子、是れを是の経の第十の功徳不思議の力と名く。
【第十の功徳】凡夫の身であっても、菩薩の「最高の境地」に達する・・・
「『第十の功徳』は、自ら『五種法師の行』を行うばかりでなく、他の人々に『五種法師の行』を行わせるようになり、その功徳によって自らが仏の悟りを得るようになります。そしてまだ凡夫の身でありながら、一切の人々を救う誓いを立て、人々の苦を抜き去り、一切の利益を与えることができるようになります。それはあたかも、渇ききった人々の心を水で潤すように、また、薬によって人々の心の病を治すように、教えによって人々を救い出すようになります。つまりその人は、菩薩の最高の境地である一切の人々を救う『法雲地・ほううんぢ(「菩薩の十地」の第十地)』の境地に達することができるのです。この人は、全ての人々を慈しみの心で包み込み、人生苦に喘ぐ人々を、仏の足跡(仏の道)に導き、その功徳によって、さほど長い年月をかけずに仏の悟りを得ることができます」
第九の功徳 抜済不思議力
善男子、第九に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子・善女人、若しは仏の在世若しは滅度の後に、是の経を得ることあって歓喜踊躍し、未曾有なることを得て、受持し読誦し書写し供養し、広く衆人の為に是の経の義を分別し解説せん者は、即ち宿業の余罪重障一時に滅尽することを得、便ち清浄なることを得て、大弁を逮得し、次第に諸の波羅蜜を荘厳し、諸の三昧・首楞厳三昧を獲、大総持門に入り、勤精進力を得て速かに上地に越ゆることを得、善く分身散体して十方の国土に遍じ、一切二十五有の極苦の衆生を抜済して悉く解脱せしめん。是の故に是の経に此の如きの力います。善男子、是れを是の経の第九の功徳不思議の力と名く。
【第九の功徳】「宿業余罪」を滅し、自分の分身が誕生して人々の苦を救う・・・
「『第九の功徳』は、この教えに触れて心が躍動し、大きな感動を覚えて『五種法師の行』を行うようになります。そして、人々に法を説き、教えの内容をかみくだいて解説してあげたならば、その人は、長い長い過去世から積み重ねて来た『悪業』(宿業)を、一瞬にして滅し (宿業余罪滅尽)、速やかに清らかな身となります。しかもどんな人に対しても仏の道に導くことの出来る教化力を身につけ、仏と菩薩だけが達することのできる『首楞厳三昧(しゅりょうごんざんまい)』という境地を得ることができます。そして悪をとどめ、善を保つ力を具えます。そして常に精進して菩薩の境界に登り詰め、ここに居ながらにして、あらゆるところに自分の分身を派遣できるようになります。つまり、自分の精神を受け継ぐ人々を、さまざまなところに誕生させ、あらゆる人を教化し、すべての人の苦を救うようになります」
第八の功徳 得忍不思議力
色付き文字善男子、第八に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子・善女人、若しは仏の在世若しは滅度の後に、人あって能く是の経典を得たらん者は、敬信すること仏身を視たてまつるが如く等しくして異ることなからしめ、是の経を愛楽し、受持し読誦し書写し頂戴し、法の如く奉行し、戒・忍を堅固にし、兼ねて檀度を行じ、深く慈悲を発して、此の無上大乗無量義経を以て、広く人の為に説かん。若し人先より来、都べて罪福あることを信ぜざる者には、是の経を以て之を示して、種種の方便を設け強て化して信ぜしめん。経の威力を以ての故に、其の人の信心を発し炊然として回することを得ん。信心既に発して勇猛精進するが故に、能く是の経の威徳勢力を得て、得道・得果せん。是の故に善男子・善女人、化を蒙る功徳を以ての故に、男子・女人即ち是の身に於て無生法忍を得、上地に至ることを得て、諸の菩薩と以て眷属と為りて、速かに能く衆生を成就し、仏国土を浄め、久しからずして無上菩提を成ずることを得ん。善男子、是れを是の経の第八の功徳不思議の力と名く。
【第八の功徳】 経典の力(経力)を得て、たちまちにして人々を幸せにする・・・
「『第八の功徳』は、その人は『経典』を仏の身と同じように敬うようになります。教えを心から愛し、『五種法師』や『六波羅蜜』の徳行を行うようになり、無量義の教えを多くの人々に説くようになるでしょう。そして経典の力によって、教えを信じきれない者に、信仰心を引き起こさせ、経典の力で、その人の心を、たちまちにして仏道へと振り向けさせます。そして娑婆世界に生きる凡夫の身でありながらも、どんな現象の変化にも動揺しない安穏の境地を得ます。そればかりか多くの菩薩の仲間入りを果たし、多くの人々の人格を完成させ、この世の中を清らかにして行きます。そして、さほど長い年月をかけずして、最高の仏の境地に達することができるでしょう」
第七の功徳 賞封不思議力
善男子、第七に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子・善女人、仏の在世若しは滅度の後に於て、是の経を聞くことを得て、歓喜し信楽し希有の心を生じ、受持し読誦し書写し解説し説の如く修行し、菩提心を発し、諸の善根を起し、大悲の意を興して、一切の苦悩の衆生を度せんと欲せば、未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜自然に在前し、即ち是の身に於て無生法忍を得、生死・煩悩一時に断壊して菩薩の第七の地に昇らん。
譬えば健やかなる人の王の為に怨を除くに、怨既に滅し已りなば王大に歓喜して、賞賜するに半国の封悉く以て之を与えんが如く、持経の善男子・善女人も亦復是の如し。諸の行人に於て最も為れ勇健なり。六度の法宝求めざるに自ら至ることを得たり。生死の怨敵自然に散壊し、無生忍の半仏国の宝を証し、封の賞あって安楽ならん。善男子、是れを是の経の第七の功徳不思議の力と名く。
【第七の功徳】 日々の行動が自然と『六波羅蜜』の通りになり、人生苦から解放・・・
「『第七の功徳』は、その人が仏の教えを聞いて喜びを覚え、さらに仏の教えを強く求める心を起こしたならば、『五種法師の行』を修することができ、その結果、最高の悟りを求める決意を立てるようになります。そして様々な善行を行うようになり、そればかりか人の不幸を取り除き、苦しみ悩む全ての人を救う願いを持つようになります。その人は未だ六波羅蜜を完全に修めていなくても、自然と『六波羅蜜』を完成したようになります。そして、娑婆世界に生きる凡夫の身でありながらも、目の前の現象に引きずられて苦しむことはなくなり、煩悩を断つことが出来るようになります。さらに菩薩の高い境地を得ることができ、それによって多くの人々と『自他一体』になる境地を得ます。譬えば、全ての敵をことごとく打ち払った最高の勇士に対して、国王は大いに喜び、国土の半分の領地を褒美として与えるのと同じで、教えの実践者は自然と『六波羅蜜』を身につけることができ、しかも成仏するための半分の功徳にあたる『無生法忍・むしょうぼうにん』という境地を自得するようになります。そして結果的に、悟りを得ることになり、安楽に過ごすことができるようになります」
第六の功徳 治等不思議力
善男子、第六に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子・善女人、若しは仏の在世若しは滅度の後に、是の経典を受持し読誦せん者は、煩悩を具せりと雖も、而も衆生の為に法を説いて、煩悩生死を遠離し一切の苦を断ずることを得せしめん。衆生聞き已って修行して得法・得果・得道すること、仏如来と等しくして差別なけん。譬えば王子復稚小なりと雖も、若し王の巡遊し及び疾病するに、是の王子に委せて国事を領理せしむ。王子是の時大王の命に依って、法の如く群僚百官を教令し正化を宣流するに、国土の人民各其の要に随って、大王の治するが如く等しくして異ることあることなきが如く、持経の善男子・善女人も亦復是の如し。若しは仏の在世若しは滅度の後、是の善男子未だ初不動地に住することを得ずと雖も、仏の是の如く教法を用説したもうに依って而も之を敷演せんに、衆生聞き已って一心に修行せば、煩悩を断除し、得法・得果・乃至得道せん。善男子、是れを是の経の第六の功徳不思議の力と名く。
【第六の功徳】人生苦を断ち切れ、尊い境地に至ってなくても人を幸せに導ける・・・
「『第六の功徳』は、その人が煩悩を持つ身であっても、その人が衆生のために法を説くと、多くの人々を、煩悩による苦や変化に動揺する『凡夫の境地』から離れさせ、『人生苦』を断ち切ることが出来るようになります。そしてその人自身も仏と同じ悟りの境地に達することができます。それはあたかも、王子が幼い時、大王が不在または病弱であっても、王子が大王の言いつけの通りに政(まつりごと)を行えば、国全体が自然と治まっていくのと同じです。その人が菩薩の境地に至っていなくても、その人が説いた教えを実践していくと、世の多くの人々は煩悩を除き去り、菩薩の道を得ることができるようになります」。
第五の功徳 龍子不思議力
善男子、第五に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子・善女人、若しは仏の在世若しは滅度の後に、其れ是の如き甚深無上大乗無量義経を受持し読誦し書写することあらん。是の人復具縛煩悩にして、未だ諸の凡夫の事を遠離すること能わずと雖も、而も能く大菩薩の道を示現し、一日を演べて以て百劫と為し、百劫を亦能く促めて一日と為して、彼の衆生をして歓喜し信伏せしめん。善男子、是の善男子・善女人、譬えば龍子始めて生れて七日に、即ち能く雲を興し亦能く雨を降らすが如し。善男子、是れを是の経の第五の功徳不思議の力と名く。
【第五の功徳】 大菩薩と同じ行動ができ、一日の精進が何万年分の精進と同じになる・・・
「『第五の功徳』は、まだ『煩悩』が残り、凡夫の境界にいても、大菩薩と同じ尊い結果現象を現わすことが出来、 一日の精進が何万年分の修行に値するようになります。また何万年分の修行の成果が、その人の一日の精進で悟りを得ることが出来るようになります。ですからその人が説く法を聞くと、多くの人々は『仏法を聞く喜び』をすぐさま得られるようになります。たとえその人が凡夫の身であっても、変わりはありません。それは生後7日目の龍の子であっても、ちゃんと雲を起こし、雨を降らせることができるのと同じであります」
第四の功徳 王子不思議力
善男子、第四に是の経の不可思議の功徳力とは、若し衆生あって是の経を聞くことを得て、若しは一転、若しは一偈乃至一句もせば、勇健の想を得て、未だ自ら度せずと雖も而も能く他を度せん。諸の菩薩と以て眷属と為り、諸仏如来、常に是の人に向って而も法を演説したまわん。是の人聞き已って悉く能く受持し、随順して逆らわじ。転た復人の為に宜しきに随って広く説かん。
善男子、是の人は譬えば国王と夫人と、新たに王子を生ぜん。若しは一日若しは二日若しは七日に至り、若しは一月若しは二月若しは七月に至り、若しは一歳若しは二歳若しは七歳に至り、復国事を領理すること能わずと雖も已に臣民に宗敬せられ、諸の大王の子を以て伴侶とせん、王及び夫人、愛心偏に重くして常に与みし共に語らん。所以は何ん、稚小なるを以ての故にといわんが如く、善男子、是の持経者も亦復是の如し。諸仏の国王と是の経の夫人と和合して、共に是の菩薩の子を生ず。若し菩薩是の経を聞くことを得て、若しは一句、若しは一偈、若しは一転、若しは二転、若しは十、若しは百、若しは千、若しは万、若しは億万・恒河沙無量無数転せば、復真理の極を体ること能わずと雖も、復三千大千の国土を震動し、雷奮梵音をもって大法輪を転ずること能わずと雖も、已に一切の四衆・八部に宗み仰がれ、諸の大菩薩を以て眷属とせん。深く諸仏秘密の法に入って、演説する所違うことなく失なく、常に諸仏に護念し慈愛偏に覆われん、新学なるを以ての故に。善男子、是れを是の経の第四の功徳不思議の力と名く。
【第四の功徳】 菩薩たちと仲間になり、仏から手厚く守護される・・・
「『第四の功徳』は、この教えを一句でも聞けば、悟りを得るためのあらゆる困難にも負けない強い心が生じ、まだ悟っていなくとも、他の人を救えるようになります。その人は多くの菩薩の仲間となり、いつも仏がその人に向き合って、一対一で法を説いてくださいます。そして教えを聞くと、すっかり身に具えることができ、教え通りに実践をして、行動に誤りがありません。さらに多くの人に法を説き、 相手の機根に応じて的確に法を説くことができるようになります」。
「この人は、例えば、王家に生まれた王子が、多くの愛情を受けて育ち、幼いながらも他国の王族と対等に付き合うことが出来る王子に育ち、国王と王妃が常にそばにいて王子を守ってくれているように、教えを実践する人のそばには、いつも仏がついていて守ってくれます。そしてこの人が法を説くならば、人間のみならず仏法を守護する諸天善神からも敬われるようになり、大菩薩の仲間入りを果たすことができます。そして、真実を誤らずに説くことが出来、いつも諸仏から深い慈悲を受けて、親が子を守るように手厚く守護されます」
第三の功徳 船師不思議力
善男子、第三に是の経の不可思議の功徳力とは、若し衆生あって是の経を聞くことを得て、若しは一転、若しは一偈乃至一句もせば、百千万億の義に通達し已って、煩悩ありと雖も煩悩なきが如く、生死に出入すれども怖畏の想なけん。諸の衆生に於て憐愍の心を生じ、一切の法に於て勇健の想を得ん。壮んなる力士の諸有の重き者を能く担い能く持つが如く、是の持経の人も亦復是の如し。能く無上菩提の重き宝を荷い、衆生を担負して生死の道を出す。未だ自ら度すること能わざれども、已に能く彼を度せん。猶お船師の身重病に嬰り、四体御まらずして此の岸に安止すれども好き堅牢の舟船常に諸の彼を度する者の具を弁ぜることあるを、給い与えて去らしむるが如く、是の持経者も亦復是の如し。五道諸有の身百八の重病に嬰り、恒常に相纏わされて無明・老・死の此の岸に安止せりと雖も、而も堅牢なる此の大乗経無量義の能く衆生を度することを弁ずることあるを、説の如く行ずる者は、生死を度することを得るなり。善男子、是れを是の経の第三の功徳不思議の力と名く。
【第三の功徳】 煩悩があっても煩悩が無いのと同じになり、人生の「変化」に負けない・・・
「『第三の功徳』は、まだ心の底に『煩悩』が残っていても、全く煩悩がないのと同じようになり、人生におけるどんな『変化』にあおうとも、動揺し、引きずり込まれ、恐れたり、悩み苦しむようなことはありません。そして、煩悩に苦しむ全ての人に『救いの手』を差し伸べる心が生まれ、どんな困難をも乗り切る『勇気と力』を得ることができます。たとえ自分は悟っていなくても、他の人を悟りへと導くことが出来るようになります。それは、渡し守の船頭が病気で船を操作することができなくても、船がしっかりしていて道具も揃い、その道具の使い方を教えていれば、誰でも人を向こう岸へ渡らせることができるように、『無量義』の教え通りに行うならば、人々を様々な人生の『変化』による苦しみから救い出すことができるようになります」
第二の功徳 義生不思議力
善男子、第二に是の経の不可思議の功徳力とは、若し衆生あって是の経を聞くことを得ん者、若しは一転、若しは一偈乃至一句もせば、則ち能く百千億の義に通達して、無量数劫にも受持する所の法を演説すること能わじ。所以は何ん、其れ是の法は義無量なるを以ての故に。善男子、是の経は譬えば一の種子より百千万を生じ、百千万の中より一一に復百千万数を生じ、是の如く展転して乃至無量なるが如く、是の経典も亦復是の如し。一法より百千の義を生じ、百千の義の中より一一に復百千万数を生じ、是の如く展転して乃至無量無辺の義あり。是の故に此の経を無量義と名く。善男子、是れを是の経の第二の功徳不思議の力と名く。
【第二の功徳】 教えを少し聞いただけで、全ての仏の教えが理解できる・・・
「『第二の功徳』は、この教えのほんの一部だけを聞いたとしても、ただそれだけで、『数えきれない、仏の全ての教えの内容に通ずる』ことができます。したがって、その人が会得した教えを説こうとするならば、無限の時間を費やしても説き尽くすことが出来ません。なぜならこの『無量義の教え』は、あまりにも深遠であるからです。たとえて言うならば一つの種子から多くの実がなり、そして最終的に限りない種が生じるよう、この『無量義の教え』はこれをもととして数限りない教えの内容が生まれ出て来るのです。だから『無量義』と名づけたのであります」
第一の功徳 浄心不思議力
仏の言わく。善男子、第一に、是の経は能く菩薩の未だ発心せざる者をして菩提心を発さしめ、慈仁なき者には慈心を起さしめ、殺戮を好む者には大悲の心を起さしめ、嫉妬を生ずる者には随喜の心を起さしめ、愛著ある者には能捨の心を起さしめ、諸の慳貪の者には布施の心を起さしめ、憍慢多き者には持戒の心を起さしめ、瞋恚盛んなる者には忍辱の心を起さしめ、懈怠を生ずる者には精進の心を起さしめ、諸の散乱の者には禅定の心を起さしめ、愚痴多き者には智慧の心を起さしめ、未だ彼を度すること能わざる者には彼を度する心を起さしめ、十悪を行ずる者には十善の心を起さしめ、有為を楽う者には無為の心を志さしめ、退心ある者には不退の心を作さしめ、有漏を為す者には無漏の心を起さしめ、煩悩多き者には除滅の心を起さしむ。善男子、是れを是の経の第一の功徳不思議の力と名く。
【第一の功徳 】『四無量心』と『六波羅蜜』を修し、自他一体となっていく・・・
世尊はお答えになりました。「もしある人がこの『無量義』の教えを聞いて、一行でも一句でも理解したならば、次のような功徳を得ることができます。まず『第一の功徳』とは、だれもが仏を目指すという『発菩提心』を起こします。そしてあらゆる人と自他一体になることができ、『四無量心(慈悲喜捨)』の徳目を具え、大慈悲心を起こすことができます。そしてそればかりか、人を妬(ねた)む心や物事にとらわれる愛着の心を無くし、さらには何よりも『六波羅蜜』の徳行を修めることができます。さらには、自分だけではなく他の人々と共に救われなければ、『本当の幸せはない』ということが判り、ひとりでに他を救おうという心が自然と涌き起こります。殺生・妄語・邪淫などの悪行は全て無くなり、現象の変化に惑わされず、仏道精進が後戻りすることが無くなり、煩悩を無くそうという心が、これもまた自然と起きるようになります」
○未発心者→発菩提心 ○無慈仁者→起於慈心 ○好殺戮者→起大悲心 ○生嫉妬者→起隨喜心 ○有愛著者→起能捨心 ○諸慳貪者→起布施心 ○多驕慢者→起持戒心 ○瞋恚盛者→起忍辱心 ○生懈怠者→起精進心 ○諸散乱者→起禅定心 ○於愚癡者→起智慧心 ○未能度彼者→起度彼心 ○行十悪者→起十善心 ○楽有為者→志無為心 ○有退心者→作不退心 ○為有漏者→起無漏心 ○多煩悩者→起除滅心
慈心
自他一体になると、他者の幸せを願わずにはおれない。
慈とは、マイトリー maitrī の中国語訳です。ミトラ mitra が語源で、もともとの意味は、「友情」です。真の友情があれば、相手の喜びを自分のことのように喜び、相手の幸せを自分の幸せのように願うことでしょう。しかし、そのような友情は親友のような深い関係でなければなかなか育ちません。一生を通じて親友と言えるのは少ないと思います。仏教では、出会う人を友人だと思って接し、相手が必要とすることを必要なだけ施します。そのためには、自他一体という無分別の境地に入ることが大事です。
述歎
爾の時に世尊、大荘厳菩薩摩訶薩に告げて言わく。善哉善哉、善男子、是の如し是の如し、汝が説く所の如し。善男子、我是の経を説くこと甚深甚深真実甚深なり。
すると世尊は大変お喜びになり、お答えくださいました。「よろしい、大荘厳菩薩よ。そなたの言う通りこの教えはこの上なく尊く深遠なるものです。私がこの教えを説く理由は、私の深い、深い心から出ているものです。 : : 釈
所以は何ん、衆をして疾く無上菩提を成ぜしむるが故に、一たび聞けば能く一切の法を持つが故に、諸の衆生に於て大に利益するが故に、大直道を行じて留難なきが故に。
なぜこの教えを説くのかと言えば、この教えは人々を直接、仏の悟りへと導くものだからです。そして、この教えを一度聞けば、あらゆる物事を正しく、的確に判断することができます。 : : 来至住の問に答う
善男子、汝、是の経は何れの所よりか来り、去って何れの所にか至り、住って何れの所にか住すると問わば、当に善く諦かに聴くべし。善男子、是の経は本諸仏の室宅の中より来り、去って一切衆生の発菩提心に至り、諸の菩薩所行の処に住す。善男子、是の経は是の如く来り是の如く去り是の如く住したまえり。
あなたはこの教えの『①大本・②目的・③誰が、この教えを護持するのか』についての質問をしましたが、それについて答えましょう。いいですか、よく聞くのですよ。この教えの『大本』は、『諸仏の本心・諸仏の本願』からあらわれたもので、それは《真実の慈悲》から生じたものであり、教えの『目的』は、一切衆生に『最高無上の悟りを求める心を起こさしめる』《最高の智慧を得る》ために説かれたものであり、『誰が教えを護持するのか』は、それは人が『菩薩行を実践する』所に存在するもので、《たゆみない実践の中で、その真価を発揮》するのであります。しかもそればかりではありません。 : : ①無量義の教えはどこから来たのか? → 諸仏の心の内 ②無量義の教えはどこへ去るのか? → 一切衆生の覚りを求める心 ③無量義の教えはどこに留まるのか? → 多くの菩薩の修行の中 : : 如来の試問
善男子、汝、寧ろ是の経に復十の不思議の功徳力あるを聞かんと欲するや不や。
「この教えを実践すると、甚大な『十の功徳』があります。大荘厳よ、この『十の功徳』を聞きたいとは思いませんか」。 : : 大荘厳菩薩の言さく。願わくは聞きたてまつらんと欲す。
大荘厳菩薩は、即座に申し上げました。「世尊よ。どうぞその『十の功徳』についてお教え下さい」。 : : 十功徳
①浄心不思議力 ②義生不思議力 ③船師不思議力 ④王子不思議力 ⑤龍子不思議力 ⑥治等不思議力 ⑦賞封不思議力 ⑧得忍不思議力 ⑨抜済不思議力 ⑩登地不思議力 : : :
無量義経 十功徳品第三
流通分
無量義経は、三章構成です。第一章の「徳行品」が序分、「説法品第二」が正宗分、「十功徳品第三」が流通分に当たります。流通とは、パルヤヴァダーパイトル paryavadāpayitṛ の中国語訳であり、「途切れることも止まることもなく、継続的に流れるという意味」です。川の流れのように、教えを切らさず、滞らさずに広めることをいいます。よって流通分では、正宗分で説かれた内容を弟子たちが受持し、仏が弟子たちに広宣流布を委ね、弟子たちがそれを誓願します。その時、仏は、その教えの功徳を明かすことで弟子たちを鼓舞します。十功徳品でも功徳が主に伝えられています。 : : 功徳(くどく)
グゥナ guṇa = 徳、美徳、才能、性質 プゥニャ puṇya = 清い、清浄な、善行 優れた美徳、貴重な品質。自分の善行に応じて蓄積されるもの : : 流通分の重要さ
~われわれ凡夫は尊い教えを聞くとその当座は、なるほどと深く感銘します。その教えを実践してゆきたいという気持にもなります。しかし、よほどの人でない限りその気持ちはしっかりと固まったものではなく、何か身辺に面白くない変化が起こると、つい教えられたことを忘れて、怒ったり、驚いたり、悲しんだり、悩んだりしがちです。ですから、われわれ凡夫は、教えを聞いたらどんなことがあっても、教えを放さないという決定(けつじょう)を起こさなければなりません。そのためには、この教えにつかまっておれば、どんなことがあっても大丈夫だ! という確信がなければなりません。その確信を心に植え付けるために説かれるのが〈流通分〉です。 : : 心が環境を変える
~われわれの人生途上にはさまざまな変化が起こります。真実の教えを知らない者は、その千差万別の現象・変化に引きずり回されて、心の安まりはありません。環境にどのような変化が起ころうとも究極の真理(本仏)に生かされているのだという安心感をもって悠々としておれば、どのようなことが起こっても動ぜずに適切な判断にしたがって行動できますから、境遇は必ず好転するようになるのです。
~この世のすべては仏教の根本の教えである〈縁起の法則〉が説き示しているように、因と縁の和合によって変化していくものなのです。ですから自分がどのような因となり、縁となっていくかによって、自分をとりまく環境はどのようにでもかわるのです。つまり、私たちは仏さまの「智慧・慈悲」を身につけて、〈千変万化する現象もすべて自分がその因となり縁となっているのだから、自分が良い方向に行くことを念じ、努力を続けていけば必ず物事は良くなっていくのだ〉と確信し、行動することが第一なのです。まさしく〈三界は唯心の所現〉なのです。それを困難なことに出合うと、すぐに難しいことだからこそ、環境を変えることなど不可能だとあきらめてしまうのは、われわれが小さな我にとらわれているからにほかならないのです。もしわれわれが本当に仏さまと相通ずる心を持つことができ、仏さまのお心の如くに行動することができるようになれば、その程度に応じて、確かに環境を変えることができるのです。 : : ~この解説を読むと、物事には、善いことと悪いことが有るということが前提になっているようです。善いとか悪いというのは、分別による見方なので、真理においてはそのような区別はありません。性相空寂です。真理と事象には、実体が無く、縁起から離れていますので安楽の境地です。これは因である、これは縁である、これは果である、と固定的に観るのも分別ですから、真理を知ろうとするのなら、そういう思考からも離れたほうがいいでしょう。せっかく説法品で性相空寂を学んだのですから、それを活かした方がいいように思います。 : : 三界は唯心の所現
~「三界唯心」とは、華厳経に出てくる言葉であり、三界における事象は個々の心が作っていると観る教えです。後の唯識に大きな影響を与えています。三界とは、仏教の世界観で、生きとし生けるものが生死(輪廻)を繰り返し、苦しみ多き迷いの生存領域を分類したもので、欲界(よくかい)、色界(しきかい)、無色界(むしきかい)の3種を指します。つまり、凡夫の世界です。凡夫の世界は、実は個人が心で描いているのであって、実在する世界とは異なります。このことに気づくためには、深く瞑想をし、思惟する必要があるのであって、簡単に気づけることではありません。無量義経だけでも難しいのに、華厳経まで取り上げると聞く者は混乱してしまうのではないでしょうか? : :
無量義経を結歎する
善男子、是の故に我説く、微妙甚深無上大乗無量義経は、文理真正なり、尊にして過上なし。
善男子よ。この尊い『無量義の教え』は、その内容は真実であり、正しく、この上なく尊いものです。これ以上の教えは他にはありません。 : : 経約を明かす
三世の諸仏の共に守護したもう所、衆魔外道、得入すること有ることなし。一切の邪見生死に壊敗せられずと。
ですからこの教えを実践し、法を広める者は、過去・現在・未来の全ての諸仏から守護されるのです。そして邪魔者から妨害され、よこしまな見方・考え方に惑うことはなく、人生のどんな『変化』に出会っても、くじけたり、打ち負かされることなどありません。 : : 勧学
菩薩摩訶薩、若し疾く無上菩提を成ぜんと欲せば、当応に是の如き甚深無上大乗無量義経を修学すべし。
菩薩が、もし速やかに無上の覚りを成じたいのなら、まさにこの無量義経を修学してください。 : : 此方 随喜し供養する分
仏、是れを説きたもうこと已って、是に三千大千世界六種に震動し、自然に空中より種種の天華・天優鉢羅華・鉢曇摩華・拘物頭華・分陀利華を雨らし、又無数種種の天香・天衣・天瓔珞・天無価の宝を雨らして上空の中より旋転して来下し、仏及び諸の菩薩・声聞・大衆に供養す。天厨・天鉢器に天百味食充満盈溢し、天幢・天旛・天軒蓋・天妙楽具処処に安置し、天の妓楽を作して仏を歌歎したてまつる。
釈尊がこのようにお説きになりますと、世界中は感動のあまりに打ち震い、天から美しい花々が降ってきました。そして様々な香(かぐわ)しい香りや、価(あたい)もつけられない数々の貴重な宝が降りそそがれ、釈尊のみならず、その教えを聞く菩薩や一般の人々にも注がれて供養されました。 : : 他方 随喜し供養する分
又復六種に東方恒河沙等の諸仏の世界を震動し、亦天華・天香・天衣・天瓔珞・天無価宝・天厨・天鉢器・天百味・天幢・天旛・天軒蓋・天妙楽具を雨らし、天の妓楽を作して彼の仏及び彼の菩薩・声聞・大衆を歌歎したてまつる。南西北方四維上下も亦復是の如し。
そして東方の世界で同じような奇瑞(きずい)が起こり、そればかりか十方世界の全てでも同じように仏と菩薩、人々が供養されるのでありました。 : : 菩薩の得益
是に衆中の三万二千の菩薩摩訶薩は無量義三昧を得、三万四千の菩薩摩訶薩は無数無量の陀羅尼門を得、能く一切三世の諸仏の不退の法輪を転ず。
すると、聴聞(ちょうもん)している多くの菩薩たちは、無量義の教えに集中する禅定の境地(『無量義三昧』)を得ました。そして、悪をとどめ、善を行う無限の力を得て、三世の諸仏が説き続けて来た『無量義の教え』を受け継いで、それを説き広めることができるようになりました。 : : 小乗の得益
其の諸の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・大転輪王・小転輪王・銀輪・鉄輪・諸輪の王・国王・王子・国臣・国民・国士・国女・国大長者及び諸の眷属百千衆倶に、仏如来の是の経を説きたもうを聞きたてまつる時、或は煖法・頂法・世間第一法・須陀洹果・斯陀含果・阿那含果・阿羅漢果・辟支仏果を得、
その諸々の男性の出家者・女性の出家者・男性の在家者・女性の在家者・天の神々・龍神・鬼神・精霊・阿修羅・ガルーダ・キンナラ・マホガラ・大転輪王・国王・王子・国臣・国民・国士・国女・長者・及び諸々の多くの眷属と共に、仏のこの経を聞いた時、さまざまな果報を得ました。 : : 大乗の得益
又菩薩の無生法忍を得、又一陀羅尼を得、又二陀羅尼を得、又三陀羅尼を得、又四陀羅尼・五・六・七・八・九・十陀羅尼を得、又百千万億陀羅尼を得、又無量無数恒河沙阿僧祇陀羅尼を得て、皆能く随順して不退転の法輪を転ず。無量の衆生は阿耨多羅三藐三菩提の心を発しき。
また、菩薩は無生法忍を得、多くの陀羅尼を得、皆、よく従って不退転の教えを転じました。無量の人々は、無上の覚りを求める心を起しました。 : :
法身仏の説法
善男子、是の義を以ての故に、一切の諸仏は二言あることなく、能く一音を以て普く衆の声に応じ、能く一身を以て百千万億那由他無量無数恒河沙の身を示し、一一の身の中に又若干百千万億那由他阿僧祇恒河沙種種の類形を示し、一一の形の中に又若干百千万億那由他阿僧祇恒河沙の形を示す。善男子、是れ則ち諸仏の不可思議甚深の境界なり。二乗の知る所に非ず、亦十地の菩薩の及ぶ所に非ず、唯仏と仏とのみ乃し能く究了したまえり。
善男子よ。一切の諸仏が説く『真理』は、二つはありません。ただ一つだけです。しかし、その『真理』を多くの人々に説くためには、仏は様々な説き方、現わし方をするのです。ですから『仏の本体はただ一つですが、その一つの身が無数の身に変わり、無数のはたらきという〈変化〉として現れる』のです。このことは、声聞や縁覚の境地の人には理解することができません。いや、たとえ菩薩のなかの最高の境地の菩薩であっても、このことは分からないでしょう。ただ仏だけが本当に知り得るものです。
善男子よ。このことから、一切の諸仏は二言あることなく、よく一音によって衆生の声に応じ、よく一身をもって、無量の身を示し、それぞれの身の中にまた無量の種種の類形を示し、それぞれの形の中にまた無量の形を示します。このことは、諸仏の不可思議で甚深の境界です。声聞・縁覚の知る所ではなく、また十地の菩薩の及ぶ所ではありません。ただ仏と仏とのみが、よく究了しています。
~いよいよ難しいことになってきました。仏の本体は「ただ一つの宇宙の大真理・大生命」であり、その分身がいろいろ様々な形をとって現われ、いろいろ様々なはたらきや、形式によって、我々を教え、導き、救っていてくださるのだということも、静かに思いをこらしてみると、確かにそうだ、と解ってきます。特にここで大切なのは、仏がいろいろ様々な身となり、いろいろ様々なはたらきや形式で人を導かれるということです。(仏は常に仏の形や、宗教家の形をとって世の中に現われるとは限りません。その現われは千差万別なのです。)
~仏の本体は「ただ一つの宇宙の大真理・大生命」である、という表現には違和感があります。仏の本体は真理(法)なのでしょうが、それを大生命というと違うように思えます。仏教では、無我や空を説いて、一切の実体を否定しているのに、大生命という言葉を使うことによって、そこに実体を見ることになりそうだからです。この表現だと、宇宙には仏という超人的な存在がおり、人々を救い教化していると考える人が出てくるのではないでしょうか? まるで、神のような存在です。仏は神ではありませんので、このような表現はしないほうがいいでしょう。
~ここでは、真理を体とする仏である「法身仏」のことが説かれています。現象は、真理によって展開しますので、現象としての応身仏と真理としての法身仏は一体です。法身仏は、一人一人の衆生に応じて、教化・救済のために、相応しい現象を起こしていると観ます。現象こそが法身仏の説法なのです。これまで、「仏は方便(言葉)によって真理へと導く」とお伝えしてきましたが、ここでは、「本仏は現象によって真理へと導く」と説かれています。方便とは、言葉だけではなく、現象のことでもあります。仏菩薩が、相手に相応しく示現して教化・救済することを「普門示現」といいます。法華経の観世音菩薩普門品第二十五では、普門示現が詳しく説かれています。このことは、諸仏の不可思議甚深の境界であり、声聞・縁覚・十地の菩薩には分からないことです。ただ仏と仏とが知っています。
~仏は、苦・空・無常・無我・非真・非仮・非大・非小・本来生ぜず今亦滅せず、一相・無相・法相・法性・不来・不去、しかも諸々の衆生四相に変化すると説いてきました。それは、俗諦であり、最高の真理へと導くための教えです。ここでは、そのことを無量に展開する教えというテーマで説いています。仏は一音によって衆生を救います。一音とは、一つの真理のことです。その一つの真理は、もとは一つの身であっても、無量の衆生を救うために無量の身を示し、またその身の中に無量の類形を示し、それぞれの形の中にまた無量の形を示します。つまり、無量の衆生を救い教化するために、真理は無量の現象を示すのです。それが善い内容であっても、悪い内容であっても、その現象を通して私たちを学ばせようとしています。
月をさす指
是の故に善男子、我道を得て初めて起って法を説きしより、今日、大乗無量義経を演説するに至るまで、未だ曾て苦・空・無常・無我・非真・非仮・非大・非小・本来生ぜず今亦滅せず、一相・無相・法相・法性・不来・不去なり、而も諸の衆生四相に遷さるると説かざるにあらず。
私はこれまで変わることなく【苦・空・無常・無我】を説き、この世は生ずることも滅することはなく、 【一相・いっそう】といって真理の根本は『ただ一つ』であり、【無相・むそう】という『差別のない相(すがた)』で、『現象に現われる相(すがた)・性質』、つまり【法相・ほっそう/法性・ほっしょう】は、「来る」ことも「去る」こともない『すべては一つ』であると説いてきました。そして目の前の物事・現象を、【生・住・異・滅】という『変化』に心を惑わせ、迷ってはならないと説いてきました。
このことから善男子よ。私は道を得て初めて法を説いた時より、今日、大乗無量義経を説くに至るまで、未だ曾て、苦・空・無常・無我・非真・非仮・非大・非小・本来生ぜず今亦滅せず、一相・無相・法相・法性・不来・不去、しかも諸々の衆生四相に変化すると説かなかったことはありませんでした。
~苦・空・無常・無我・非真・非仮・非大・非小などの言葉は、俗世においては真理だと思われています。しかし、それらは俗諦であって、最高の真理ではありません。俗諦とは、俗世の言葉によって表された真理のことです。言葉の制約があるために、最高の真理については言い表すことはできません。最高の真理とは、真諦のことであり、法華経では、妙法といわれています。俗諦は、方便であり、真諦へと導くために説かれました。釈尊は、真理そのものは説いて来なかったけれど、真理を覚れるように重要なヒントを示されてこられたのです。これらの言葉は「月をさす指」だと知る必要があります。賢者は指がさす方を見て月を知りますが、愚者は指に執着して月を見ようとはしません。
~ところで、Rの会では、「ただ一つ」「すべては一つ」だということを強調されています。「一相といって真理の根本は『ただ一つ』であり」と説明していますが、何が一つなのかがよく分かりません。真理の根本とは何なのでしょう? 真理自体が分からないのに、真理の根本が分かるのでしょうか? しかも、それが「ただ一つ」だとする根拠は何でしょうか? 一相とは、「差別や対立のない絶対的な平等」のことです。絶対的な平等なので、「ただ一つ」だと言っているのかも知れませんが、どうも納得がいきません。もう少し説明が必要だと思います。何が一つなのか? なぜ一つなのか? どのように一つなのか?
水の譬え
善男子、法は譬えば水の能く垢穢を洗うに、若しは井、若しは池、若しは江、若しは河、渓・渠・大海、皆悉く能く諸有の垢穢を洗うが如く、其の法水も亦復是の如し、能く衆生の諸の煩悩の垢を洗う。善男子、水の性は是れ一なれども江・河・井・池・渓・渠・大海、各各別異なり。其の法性も亦復是の如し、塵労を洗除すること等しくして差別なけれども、三法・四果・二道不一なり。善男子、水は倶に洗うと雖も而も井は池に非ず、池は江河に非ず、渓渠は海に非ず。如来世雄の法に於て自在なるが如く、所説の諸法も亦復是の如し、初・中・後の説、皆能く衆生の煩悩を洗除すれども、而も初は中に非ず、而も中は後に非ず。初・中・後の説、文辞一なりと雖も而も義各異なり。
善男子よ、例えば水には井戸や池、大きな川や谷川、用水路や海など様々な水があります。それぞれは違う水です。しかし違う水ではあっても、どの水も『汚れを洗い落とす』という意味では『同じ水』ですが、井戸と池は違います。また谷川や用水路、海も違います。これと同じで如来は自由自在に教えを説きますが、説く教えの現われ方はさまざまです。つまり仏の教えは、人々の苦しみを取り除くという点では『同じ』であり『違い』はありませんが、私が説いた初期の教え、中期の教え、そして後期の教えは、『同じ』ようのようでも、『違い』があるのです。すべての教えが同一だとは言えません。『内容の深さ』において違いがあるのです。
善男子よ。教えは、たとえば水がよく垢や汚れを洗うように、井戸にせよ、池にしろ、小さな川にせよ、大きな川にせよ、大海にせよ、よく物の汚れを落とします。教えも同じように、よく人々の様々な煩悩の垢を洗います。善男子よ。水の性は一つだけれど、江・河・井・池・渓・渠・大海、それぞれに差があります。その水の量によって、洗える物の大きさ・量は異なります。法の性もまた同じです。塵労を洗い除く働きは等しくて差別はありませんが、結果としての果報は同じではありません。善男子よ。すべての水は洗うという働きは同じでも、井は池に非ず、池は江河に非ず、渓渠は海に非ずです。如来は法において自在であり、所説の教えも自在です。初・中・後の説、すべてよく衆生の煩悩を洗除しますが、しかも初は中に非ず、しかも中は後に非ずです。初・中・後の説は、言葉としては同じでも、義は異なります。 : : 諸法は本より来空寂なり
善男子、我樹王を起って波羅奈・鹿野園の中に詣って、阿若拘隣等の五人の為に四諦の法輪を転ぜし時も、亦諸法は本より来空寂なり。代謝して住せず念念に生滅すと説き、中間此及び処処に於て、諸の比丘竝に衆の菩薩の為に、十二因縁・六波羅蜜を弁演し宣説し、亦諸法は本より来空寂なり、代謝して住せず念念に生滅すと説き、今復此に於て、大乗無量義経を演説するに、亦諸法は本より来空寂なり、代謝して住せず念念に生滅すと説く。善男子、是の故に初説・中説・後説、文辞是れ一なれども而も義別異なり。義異なるが故に衆生の解異なり。解異なるが故に得法・得果・得道亦異なり。
善男子よ、鹿野苑で私が初めて法を説いた時、私は五比丘のために『四諦』を説きました。この時もこの世の実相は『空寂』であると説きました。また中期以降、比丘や菩薩に『十二因縁』、『六波羅蜜』を説きましたが、その時、同じくこの世の実相は『空寂』であると説きました。そして今、ここで『無量義経』を説くにあたっても、同様にこの世の実相は『空寂』であると説いています。しかし善男子よ。初期、中期、そして後期である今においても、私が説く『言葉は同じ』ではありますが、その内容には大きな『開き』があります。内容に『開き』があるため、それを受け止める人々の『受け取り方』にも違いが生じます。ですから、教えを聞いて得た『悟り』にも、当然『違い』が生まれてくるのです。
善男子よ。最初、鹿野園において、五比丘に対し四諦の法輪を説いた時、諸法は本来空寂であり、変化してとどまらず、刻々と生滅すると説きました。中間、霊鷲山などにおいて、諸々の比丘や菩薩に対し十二因縁・六波羅蜜を説いた時、諸法は本来空寂であり、変化してとどまらず、刻々と生滅すると説きました。今、またここにおいて、大乗無量義経を説いた時、諸法は本来空寂であり、変化してとどまらず、刻々と生滅すると説きました。善男子よ。このことによって、初説・中説・後説、言葉は同じではありますが、義は異なります。義が異なるので、衆生の理解は異なり、理解が異なるために、結果としての果報は同じではありません。
~「諸法は本来空寂であり、変化してとどまらず、刻々と生滅する」というのは、「あらゆる事物・現象は、もともと空であり、安楽の境地にある。一瞬たりともとどまらず、刻々と生滅する」ということです。真理としては、本来空寂ですが、凡夫がとらえる現象世界においては、変化してとどまらず、刻々と生滅するのです。そのことを伝えるために初説においては四諦を説き、中説においては十二因縁・六波羅蜜を説き、後説においては大乗無量義経を説きましたので、教義が異なります。教義が異なるために結果としての果報は同じではありません。 : : 果報
善男子。初め四諦を説いて声聞を求むる人の為にせしかども、而も八億の諸天来下して法を聴いて菩提心を発し、中ろ処処に於て、甚深の十二因縁を演説して辟支仏を求むる人の為にせしかども、而も無量の衆生菩提心を発し、或は声聞に住しき。次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説せしかども、而も百千の比丘・万億の人天・無量の衆生、須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢果、辟支仏因縁の法の中に住することを得。善男子、是の義を以ての故に、故に知んぬ説は同じけれども而も義は別異なり。義異なるが故に衆生の解異なり。解異なるが故に得法・得果・得道亦異なり。
善男子よ。私は初期において声聞の境地を求める者に【四諦】を説き、中期において縁覚の境地を求める者に【十二因縁】を説いてきました。それでも多くの人が菩提心を起し、なかには煩悩の迷いを捨て切る声聞の境地に達した者もいました。そして様々な大乗の教えを説いて、『歴劫修行・りゃっこうしゅぎょう』(生まれ変わり死に変わりして修行を続けていくこと)の大切さを示しましたが、これによって多くの比丘たちや、万億の人間界・天界の人びとは、それぞれが『声聞』や『縁覚』の境地、または『縁起の法則』を身につけることができたのでした。
色付き文字善男子よ。初め、声聞の人々に四諦を説いた時、八億の諸天は菩提心を起こしました。中間、縁覚の人々に十二因縁を説いた時、無量の衆生は菩提心を起こし、次に大乗の教え、般若経、華厳経を説いて、菩薩が非常に長い年月をかけて修行をすることを説いた時、多くの比丘、万億の人天、無量の衆生は、須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢果、辟支仏などの因縁の法の中に住することを得ました。善男子よ。このことから知ってください。説は同じでも義はことなり、義が異なるので衆生の理解は異なります。理解が異なるので結果としての果報は同じではありません。
四十余年未顕真実
これは、決して法惜しみをして真実を打ち明けられなかったものでないことは、もちろんです。おそばで修行してきた人たちの境地は非常に進んできていることですし、ご入滅の近づいたことをも自覚されましたので、いよいよ法の真実のすべて、究極の真理をお説きになるわけです。
釈尊は、弟子たちの機根が低かったから、真理を説かなかったのではなく、真理を説く術がないために説かなかったのです。無我・無常・苦・涅槃だと説いても、それは言葉であり、空・無相・無作を説いても、それは言葉でしかありません。無我・無常・苦・涅槃・空・無相・無作は、真理そのものではなく方便です。そのことをよく知る必要があります。
法華経で、真理をお説きになったというのであれば、その経文を引用してください。じっくりと考えれば、そのことは真理ではなく、方便だと気づくことでしょう。法華経には、「諸仏は、無量無数の方便・種々の因縁・譬喩・言辞を以て、衆生の為に諸法を演説したもう。是の法も皆一仏乗の為の故なり。是の諸の衆生の諸仏に従いたてまつって法を聞きしも、究竟して皆一切種智を得たり」と説かれているように、諸仏が説くのは方便であって、真理は説くことはできません。
正問に答える
是に仏、大荘厳菩薩に告げたまわく、善哉善哉、大善男子、能く如来に是の如き甚深無上大乗微妙の義を問えり。当に知るべし汝能く利益する所多く、人天を安楽し苦の衆生を抜く。真の大慈悲なり、信実にして虚しからず。是の因縁を以て、必ず疾く無上菩提を成ずることを得ん。亦一切の今世・来世の諸有の衆生をして、無上菩提を成ずることを得せしめん。善男子、我先に道場菩提樹下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。仏眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず。所以は何ん、諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず。是の故に衆生の得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず。
すると釈尊は大荘厳菩薩にお答えになりました。 「よろしい。じつに良い質問です。この大乗の教えについて、大事なことをよくぞ聞いてくれました。あなたの質問は大きな功徳を生むもので、人間界・天上界の人びとが、迷いから救われるものとなります。まさに『真の大慈悲』です。そして真の大慈悲であるからこそ、必ず真実のはたらきがあり、実際の成果・効果となって現われます。ムダではありません。その功徳によって、あなたは必ず真っすぐに仏の境地へと至るでしょう。そして現在のみならず未来の多くの人々を、無上の悟りへと導くことができましょう」
「善男子よ。私はかつてブッタガヤの菩提樹下で 6 年間端座して、ついに最高無上の悟りを得ることがでました。そして悟りを開いた仏眼でこの世の出来事を見ると、その時の段階の衆生に対して、悟りをそのまま説くことは、かえって良くないという結論に達しました。なぜなら、人々の『機根・性質・欲望(根性欲)』が様々であるために、その違いにしたがって教えを説き分ける必要があったためです。つまり衆生の『根性欲』の違いに合わせて、法を説いてきたのです。そのために、どうしても真実のすべてを『打ち明ける』ことは出来ず、とうとうこの40年間、究極の真理を解き明かすことはありませんでした。したがって、全ての人びとが真っすぐに、無上の悟りに達するというわけには行かなかったのであります」
仏は、大荘厳菩薩に告げました。「善哉。善哉。大いなる善男子よ。よく如来にこのような甚深無上大乗微妙の義を問いました。よく知ってください。あなたは、利益するろころ多く、人々や神々を安楽させ、衆生の苦を抜きます。真の大慈悲です。誠実であり偽りがありません。この因縁によって、必ず最高の覚りを成じます。また一切の今世と来世の人々は、必ず最高の覚りを成じることでしょう。善男子よ。私は昔菩提樹の下に端座して六年して、最高の覚りを得ることができました。仏の眼で一切の事象を観察したところ、この覚りについては説き広めないほうがいいと思いました。なぜならば、諸々の人々の性格や欲求が異なるからです。人々の性格や欲求が異なるので一人一人を覚りに導こうとするならば、一人一人に応じて種種に教えを説く必要があります。種種に教えを説くために方便力を用いました。これまでの四十余年には、未だに真実を顕していません。このことから人々の得た道は差別して、速やかに無上の覚りを得ることはできませんでした」 : : ~釈尊は、菩提樹の下で最高の覚りを得たとき、覚った真理は言葉にはできないと察しました。真理そのものを説くことができないので、真理に導くために方便を使うことにしました。方便とは、ウパーヤ upāya の訳であり、原意は、「近づける」です。仏教では、「真理に近づける方法」のことを方便と言います。人によって、根性欲が異なりますので、無量の方便が説かれることになりました。
「無量義とは一法より生ず」とは、「無量の方便は一つの真理より生ず」ということです。仏は、一つの真理をもとにして、無量の方便を説き、人々を成仏へと導いたのです。よって方便は、真理を知るための手掛かりに成りますが、真理そのものではありません。言葉によって説かれたことは、真理ではなく、方便だと知るべきです。四十余年には未だ真実を顕してはいません。表したのは方便であり、真理は顕していません。法華経信者の中には、法華経以前の経典には真理は説かれておらず、法華経において初めて真理が説かれるのだと解釈する人がいますが、法華経においても、文字によって説かれているのですから、そこに真理は説かれていません。 : : このことは、般若経においては、基本的な教えです。鳩摩羅什訳の摩訶般若波羅蜜經習應品第三には、次のように説かれています。
佛告舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。應如是思惟。菩薩但有名字佛亦但有字。般若波羅蜜亦但有字。色但有字受想行識亦但有字。
仏は舎利弗に告げました。「菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜の行を行じる時、まさにこのように思惟してください。菩薩とは、ただ名と字が有るのであり、仏もまたただ字だけがあります。般若波羅蜜もあるのは字だけであり、色もただ字だけがあり、受想行識もまた字があるだけです」
名前というのは人間がつけましたので、人類誕生以前には名前はありません。しかし、多くの人々は、そのものと名前とが一体だととらえており、名前があることによって、そのものに実体が有るとみます。個々の名前は、すべて仮です。このように般若経の作者たちは、言葉への不信を訴えています。真理を知る手掛かりとしては言葉は役に立ちますが、言葉を超えたところに真理があります。般若経を学ばずに法華経を読んでも、このような基本的なことも分かりませんので、まずは般若経を学んだ方がいいです。
: 一法門の義を答える : : 経:無量義(むりょうぎ)とは一法より生ず。其の一法とは即ち無相(むそう)也。是の如き無相は、相なく、相ならず、相ならずして相なきを名けて実相(じっそう)とす。菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)、是の如き真実の相に安住し已って、発する所の慈悲、明諦(みょうたい)にして虚しからず。衆生の所に於て真に能(よ)く苦を抜く。苦既に抜き已って、復為に法を説いて、諸の衆生をして快楽(けらく)を受けしむ。 : R訳:しかしその数々の教えは、もとを正せば、もともとは『ただ一つの真理(一法)』から生ずるものなのです。『真理・法』とは、特定の相(すがた)がないもので、一切の差別を作らず、一切が平等であります。これを名付けて『実相』といいます。菩薩よ。真実の教え(『すべては一つ』。必ず『生・住・異・滅』するという真実)に基づいて、そこから発した『慈悲(じひ)と智慧(ちえ)のはたらき』は、必ず立派な結果となって現われます。ムダには終わりません。すなわち、相手がそのままの境遇で苦から根こそぎ救われ、生きる喜びを得るという現象となって現われるのです。 : 太郎訳:無量の教義は、一つの真理より生じます。その一つの真理とは、無相です。このような無相は、特徴がなく、特徴をつくりません。特徴をつくらず特徴がないことを実相と言います。菩薩よ、このような真実の相に安住した後に発する慈悲は、明らかに正しいのであって偽りはありません。人々の中で、真によく苦を抜きます。苦を抜き終わると、またその人のために教えを説いて、諸々の人々の快楽を受けさせます。 : 太郎論:「無量義とは一法より生ず」という言葉は実に重要です。「無量の教義は、一つの真理より生じている」ということは、一つ一つの教義を深く観れば、大本の真理を知ることが出来るということです。ただし、真理は言葉によって表すことはできませんから、説かれた教義をヒントにして、自分で観察するしかありません。 : 太郎論:「其の一法とは即ち無相也」。一つの真理とは、無相です。特徴(相)はありません。特徴がありませんから、表現ができません。言語道断です。特徴が無く、表すことができないので、これを名付けて「実相」といいます。実相とは、真実無相のことです。Rの会では、空(くう)を平等のことだと説き、無相も平等のことだと説いています。だということは、空と無相とは同義なのでしょうか? 空は、「個の実体の欠如」のことであり、無相は、「個の特徴の否定」なので意味は異なります。 : 太郎論:決めつけず、こだわらず、とらわれず、固定観念を持たなければ、自由自在に相手と関わることができます。真理を覚った菩薩の慈悲は、明らかに真実であり、嘘偽りはありません。衆生の苦を抜き、衆生に安楽を与えます。抜苦与楽(ばっくよらく)です。真理を覚ることこそが、菩薩にとって非常に大事なことです。 : : 実相(じっそう) : R論:ただ一つの『真理』とは、無相(特定の相のないもの)であり、一切の「差別」がなく、「差別」をつくらないもの(不相)で、一切の差別をつくらないから、一切が「平等」であり、これを名付けて『実相』というのです。 : 太郎論:相というのは、ラクシャナ lakṣaṇa の訳で、特徴・特性・属性・記号・すがた・状態などの意味があります。実相は、タットヴァシャ・ラクシャナン tattvasya-lakṣaṇam の訳です。「ありのままのすがた」の意味です。「真実無相」のことだともいわれます。鳩摩羅什(くまらじゅう)は、法華経において、いくつかの語を実相と訳しています。たとえば、ダルマ・スヴァバーヴァ dharma-svabhāva がそれです。本来は、法性(ほっしょう)と訳すところを実相と訳しています。それは、仏の覚りによって照らされた内容として理解され、したがって、如実、真実、法身、涅槃、無条件無爲などの概念と同義です。 : : 無相・不相 : R論:《無相》の「相」というのは、「差別相」という意味。差別のある相(すがた)が一切ない、すべて「平等」だというのです。《不相》 というのは、差別的なはたらきをしない。差別をつくらないという意味です。 : 太郎論:「如是無相。無相不相。不相無相。名為実相」という文は難しいです。無相とは、アラクシャナ alakṣaṇa の訳で、「特徴が無い」ということです。不相のサンスクリットは不明ですが、「特徴をつくらない」「特徴を為さない」ということでしょう。よって、「無相とは特徴のないことです。特徴がないのですから特徴を認識することはできません。特徴を認識できないので特徴はありません。それがあるがままの世界です」ということです。無相とは、人間の言葉をはなれ、心でおしはかることのできないことをいいます。特徴がないのですから、そのものを表す言葉はありません。言語道断であり、不可思議です。これまで、真理を言葉では表せないことを述べてきましたが、実は、事実・現象についても特徴はありませんから、そのものを表現する言葉はありません。すべてにおいて、言語表現から離れていることを実相と呼んでいます。真実は、言葉では表現できません。 : 太郎論:事物・現象には、本来意味はありません。意味をつくっているのは個人です。一人一人が個々の意味をつくっています。そして、自分専用の辞書を頭に持ち、その辞書をもとにして、観念を持ちます。幼い頃は、辞書を作っても、何度も書き換えをしてきましたが、大人になると固定してしまいます。固定した辞書を持っているために、観念もまた固定し、こだわり・きめつけを強めます。機根・性質・欲求は、観念によって決定しますから、人の数ほどの異なる根性欲があり、根性欲が無量なので、説法は無量であり、説法が無量なので、教義は無量です。しかし、無量の教義は一つの真理から生じています。それが無相です。特徴はないので区別や差別はなくなり、そのことで一切の執着から離れ、無分別(むふんべつ)の境地に入ります。 : : 一法門の義を答える : :
生・住・異・滅
法の相是の如くして是の如き法を生ず。法の相是の如くして是の如き法を住す。法の相是の如くして是の如き法を異す。法の相是の如くして是の如き法を滅す。法の相是の如くして能く悪法を生ず。法の相是の如くして能く善法を生ず。住・異・滅も亦復是の如し。菩薩是の如く四相の始末を観察して悉く遍く知り已って、次に復諦かに一切の諸法は念念に住せず新新に生滅すと観じ、復即時に生・住・異・滅すと観ぜよ。
この『実相』を深く見極めるということは、即ち、この世の全てのものは、例外なく、『生・住・異・滅』の存在であると知ることです。つまり全ては、今までなかった現象・事物が『現象として生じ』《生》、その現象・事物が『そのままの状態で、しばらくは維持し』《住》、そしてその現象・事物が、必ず『異なった形に変化し』《異》、結局は、その現象・事物は、必ず『消滅する』のです。《滅》。菩薩は、全ての現象・事物は、例外なくこの『生・住・異・滅』の法則に従っている、ということを知らなければなりません。ですから菩薩は、全ての現象・事物は、一刻も元のままでとどまっているものはなく、一瞬一瞬、生じ、滅する『生・住・異・滅』という『四相の始末』の変化の法則が、瞬間、瞬時にはたらいているということを、しっかりと悟っていなければなりません。
事象は、このようにして、このように事象を生じます。事象は、このようにして、このように事象にとどまります。事象は、このようにして、このように事象を変化します。事象は、このようにして、このように事象を滅します。事象は、このようにして、悪い事象を生じます。事象は、このようにして、善い事象を生じます。住・異・滅も同様です。菩薩は、このように四相の始末(生・住・異・滅)を観察して、よく知ったなら、次にまた明らかに一切の事象は、瞬瞬に住するのではなく、新新に生滅すると観じ、また即時に生・住・異・滅すと観てください。
~事物・現象は、生じ・とどまり・変化し・滅しています。生・住・異・滅です。事物・現象をよく観察すれば、生じている状態・とどまっている状態・変化している状態・滅している状態があることが分かります。炎を観れば、新しい火が起こり、火はとどまり、火は変化し、火は滅します。瞬瞬に状態が変わっていることが分かります。生・住・異・滅とは、無常のことなのですが、多くの人々は長い時間をかけて変化することだととらえています。しかし、無常とは、瞬瞬の変化のことを言っていますから、刻々と変化していると知ることが重要です。悪いこと、善いことは、長くとどまるものではなく、変化するのです。
~「一切の諸法は念念に住せず新新に生滅すと観じ、復即時に生・住・異・滅すと観ぜよ」と説かれているように、諸法は、長くはとどまらず、新新に生滅しています。固定観念を持つことなく、現象を柔軟に受け入れることが大事です。生・住・異・滅とは、有為法です。有為法とは、因縁によって作られる現象のことです。真理は、無為法ですから、因縁によって生滅するものではありません。凡夫は、有為法の中で生きています。無為法を知りませんから、因縁に従って変化する現象を体験しています。これを「諸行無常」といいます。諸行とは、有為法のことです。 : : 無量義
是の如く観じ已って衆生の諸の根性欲に入る。性欲無量なるが故に説法無量なり、説法無量なるが故に義も亦無量なり。
衆生をみると、衆生の『機根・性質・欲望 (根性欲・こんじょうよく)』が、千差万別にはたらいていることが分かります。ですから人々に法を説く時、当然、法の説き方も『千差万別』にならざるを得なくなります。仏の説法は様々な『根性欲』の衆生を対象に行うのですから、当然その教えの内容は数限りなくあることになります。
このように観じおわって人々の諸々の機根、性質、欲求に入ります。機根、性質、欲求が無量なので、それに応じた説法は無量です。説法が無量なので、したがって教義もまた無量です。
~根性欲とは、機根・性質・欲求のことです。機根とは、教えを聞いて発動する能力のことです。根性欲は、個々個人によって異なるし、個人においても、過去・現在・未来において異なり、縁によっても異なります。生・住・異・滅のどの状態にあるのかによっても、その人の根性欲は異なります。根性欲は、無量にあります。根性欲が無量なので、それに応じる説法も無量であり、説法が無量なので、教義も無量です。つまり、対機説法なので、無量の義が生じたのです。
衆生の誤った見方
而るに諸の衆生、虚妄に是は此是は彼、是は得是は失と横計して、不善の念を起し衆の悪業を造って六趣に輪回し、諸の苦毒を受けて、無量億劫自ら出ずること能わず。
ところが人々は、目の前に現われた現象を見て、自分にとっての善悪、損得、好き嫌い等で物事を判断し、価値付けをして、自分中心の身勝手な計算をしてしまいます。その結果、『不善の心』を起こして、結局は様々な悪い行いをしてしまい、そのためにいつも『六道』をグルグル回って、数々の苦を受け続けることになり、結果的にいつまでたっても、その苦しみの境界から抜け出せないでいます。
しかし、諸々の衆生は、分別の見方をするために、真実から離れて「これはこちら」「これはあちら」、「これは得」「これは損」と誤って善くない想いを起こし、多くの悪い業をつくって六道を輪廻して、諸々の苦毒を受けて、非常に長い間、自力では出ることができません。
~真理を覚れば、無分別の境地に入りますので、自他・個々を分けません。差別・区別がありませんから、執着から離れています。我執や欲を滅し、安らかな境地に住します。しかし、凡夫は真理を知らないために、分別をします。自他を分け、個々を分けるので、差別・区別をし、自分に執着し、自分の欲しいものに執着します。そのことで、苦の境地に堕ちます。
このことは、十二因縁でも説かれています。無明とは、真理を知らないことです。つまり、空・無分別を覚っていないので分別の見方をします。分別による意志によって、すべてを分けて認識することに成ります。心と体、六つの感覚器官、自他を分けることによって、自分が他を欲し、手に入れようとし、執着します。そのことで、煩悩のある生存となり、新しい自分が生まれ、やがて老い、死ぬという苦に入ります。分別して見るために、自他を分け、自分に主体が有るという錯覚を起こし、我意識が強くなり、自己主義になります。わがまま勝手にふるまうために、まわりとの調和がとれず、敵をつくって孤立し、どんどん憂悲苦悩を感じるようになります。 : : 六趣(ろくしゅ)
凡夫が輪廻する六趣の迷いの境涯 六道ともいいます
地獄(ナラカ・ガーティ naraka-gati) 地獄道…生前の罪による罰を受け続ける亡者たちの境涯
餓鬼(プレタ・ガーティ preta-gati) 餓鬼道…常に飢えと渇きによる欲求不満状態にある死者の霊の境涯
畜生(ティルヤニョニ・ガーティ tiryagyoni-gati) 畜生道…横になって這う物、すなわち動物衆の境涯
修羅(アスラ・ガーティ asura-gati) 阿修羅道…常に争いの状態にある阿修羅衆の境涯
人間(マヌシャ・ガーティ manuṣya-gati) 人間道…人間衆の境涯
天上(デーヴァ・ガーティ deva-gati) 天道…神々の境涯
六道輪廻
輪廻とは、肉体が死に変わり、生まれ変わって、六趣の境涯を巡り続けることをいいます。この思想は、仏教以前のヴェーダの宗教(バラモン教)の頃から説かれていた説です。善行を繰り返せば天上界へと趣き、悪行を繰り返せば、人間界・畜生界・餓鬼界・地獄界に堕ちると説いています。仏教でも初めは天上界を安楽の境地としていましたが、神々は覚っていないので迷いの世界に住すると言われるようになりました。輪廻から解脱するためには、覚りをひらいて仏に成る道しかありません。天台大師智顗は、迷いの六道に対して、聖なる四道を設定しました。声聞道・縁覚道・菩薩道・仏道です。合わせて十界といいます。十界説は、智顗の説ですので、インドの法華経にはそのような説はありません。
仏教では、輪廻や六道は方便だといいます。輪廻や六道が存在するわけではなく、人々を善に導くためにそのように説いたとします。多くの国では、治安のために法律を定めて、罪と罰を制定することで、人々の道徳・倫理を正していますが、インドでは、業・輪廻・解脱というシステムによって人々の道徳・倫理を正しています。
六道は、心の境地を表しているともいいます。いずれも、自己主義な心です。
地獄…苦が続く状態 餓鬼…欲求不満の状態 畜生…智慧のない状態 修羅…争いの状態 人間…不安定な状態 疑惑 天上…束の間の安楽の状態 喜び
我にとらわれていなければ、これらの苦の状態は起こりません。そのためには自他分別から離れるために「無我」を覚ることが必要であり、個々の分別から離れるために「空」を覚ることが必要です。 : : 大慈悲
菩薩摩訶薩、是の如く諦かに観じて、憐愍の心を生じ大慈悲を発して将に救抜せんと欲し、又復深く一切の諸法に入れ。
菩薩よ。このように衆生は、苦しみの中から抜け切れないでいるということをはっきりと見極めて、だからこそ衆生に対して『あわれみの心』を起こし、大きな慈悲心を奮い立たせて、衆生を『根こそぎ、完全に救い出す』という決意をしなければなりません。そしてその尊い目的を達成させるためには、どうしても一切の物事の『実相』というものを、より深く見極めていることが必要なのです。
菩薩は、衆生が分別の見方をしているために苦に堕ちていることをあきらかに観じて、不憫に感じたならば、大慈悲心をおこして、まさに救いぬくことを欲し、さらに深く一切の諸法を観察することが必要です。
一法門の名を答える
仏の言わく。善男子、是の一の法門をば名けて無量義と為す。
釈尊は即座に答えられます。「善男子よ。それは『無量義』という教えです」
仏が答えられました。「善男子、この一つの法門とは、名を無量義といいます」 : : 一法門の行を答える
性相空寂
菩薩、無量義を修学することを得んと欲せば、まさに一切諸法は、自ら本・来・今、性相空寂にして、無大・無小、無生・無滅、非住・非動、不進・不退、なお虚空の如く 二法あることなしと観察すべし。
菩薩たちが、この『無量義』の教えを修めようと望むならば、まず次のことを見極めなければなりません。それは、過去・現在・未来におけるこの世のあらゆるものごとの根源の相(すがた)は、全ては『ただ一つ』であり、『一切が平等』であるというものです。しかも、あらゆるものは生成発展し、『大きな調和』を保っている、このことを見極めることが必要です。
菩薩が無量義を修学しようとするならば、一切の事物・現象は、過去・現在・未来において、真理も事象として現れるすがたも、ともに実体はなく、安らかな状態だと知ることが重要です。よって、大きいとか小さいということはなく、生じるとか滅するということはなく、とどまるとか動くということはなく、進むとか退くということはありません。固定した観方や一方に偏った観方を否定します。虚空のように、すべてが一つであり、二つに分かれたものではないと観察してください。
~《性相・しょうそう》 「性」とは性質。「相」とはその性質が表に現れた相(すがた)。《空・くう》とは、すべてのものごとは「縁起の法則」によって存在しているのであって、そのことから、すべてのものごとはその本質においては、平等であるという意味にもなります。この「空とは平等である」ということが、仏教としてもっとも大事な意味なのです。《寂・じゃく》とは、「大調和した状態」です。全てのものが生々発展しながらも、大きく調和して、争いや摩擦がないために「寂・しずか」であるという状態を、この字から感じとらなければなりません。〈寂光土〉も、すべてが生々溌剌(せいせいはつらつ)として活動しながら、しかも大きな調和を保っている理想の状態をいうのです。変化するものごとにとらわれていては、いつまでたっても大安心を得ることはできない、ということです。そこで、変化を超越した立場に立ってものごとを見る、という〈寂〉の立場が必要になるのです。それは (二種類の存在) で、ちょうど我々を取り巻いている虚空が、「ただ ひといろ」であるようなものだというわけです。
~性相とは、真理と事象のことです。性とは、不変平等絶対真実の本体や道理のことで、相とは、変化差別相対の現象的なすがたのことです。中国でいう「理事」と同じような意味です。真理と事象とは離れているのではなく、真理は事象によって観ることができ、事象は真理によって仮に存在します。「性」とは性質、「相」とはその性質が表に現れた相(すがた)のことだという解釈もありますが、性相空寂という場合は、真理と事象のことです。
Rの会では、空を「全ては『ただ一つ』であり、『一切が平等』である」と解釈しているようです。しかし、空にはそのような意味はありません。空とは、「実体の欠如」という意味です。サンスクリットの原語は、シューニャ śūnya です。シューニャは、「欠如」「空虚」「膨れ上がった」という意味です。『ただ一つ』や『一切が平等』ととらえると法華経は理解できないでしょう。一切の事物・現象は因縁和合によって仮に生じ、滅しているので、そのものには、我体・本体・実体と呼ばれるようなものはないという教えです。
寂とは、ニルヴァーナ nirvāṇa の訳です。煩悩の火を消した安らかな境地のことです。涅槃とも訳されます。涅槃とは、一切の因縁を結ばない境地なので、因縁によって作られるものではありません。
古代よりインドでは、事象そのものよりも、事象を成り立たせる真理のほうに興味をもっていました。リンゴがあるのは、リンゴをリンゴとして成らしめる真理があるからであり、猫があるのは、猫を猫として成らしめる真理があるからだとみたのです。真理によって事象があるという観方です。
仏教以前のヴェーダの宗教(バラモン教)では、個を個と成らしめるものをアートマン(我)と名付けました。アートマンは個の真理であり、主宰するものであり、独立して存在し、常住するものだと考えました。また、宇宙の創造を司るものをブラフマンといい、宇宙の真理だとしました。
これを仏教では、神とか超越した存在がこの宇宙をつくるのではなく、すべては因縁に依ってあるという思想を説きました。形而上学的な考えを否定して、無我・空を説いています。真理は空であり、一切の事物・現象は空だとし、空なるものは安らかであると説きました。
空とは、実体がないことであり、寂とは因縁がないことです。因縁がないので変化はありません。実体がなく、因縁を結びませんので、大小という特徴は認識されず、生じるとか滅するという変化もありません。とどまることもなく、動くこともなく、進むことも、退くこともありません。「猫が歩いている」と言っても、猫という実体がないのであれば、歩くという行為はありません。一切は無量無辺の虚空のように差別・区別はなく無際であり、一切は一つであると観察することが勧められています。
空は、『ただ一つ』や『一切が平等』という意味ではありません。空の理を深く観察することによって、一切には差別・区別は無く、無分別だと知ることができます。無分別を覚ることが智慧であり、智慧を完成させることが覚りです。最高の覚りを得ることができれば、成仏にいたります。よって、空を覚ることは、仏教において最重要な行です。 : : 法とは
第一に、〈ものごと〉。「諸法実相」とか「諸法無我」という場合の「法」。 第二に、〈真理〉。 第三に、〈仏教の教え〉という意味。真理によって、正しく、その時々に応じて説かれた教え。 第四に、〈善の実践〉。自分自身のためだけでなく他の人や社会と調和して、よりよい方向にいこうとする倫理や道徳にかなった〈善いことの実践〉という意味。
~法とは、ダルマ dharma の中国語訳であり、掟、法、(宗教上の)義務、人の道、人としての道徳、道理、教え、本質、物事などの意味があります。ダルマの語根は、ダル √dhṛ です。意味は、支える、維持する、保持する、保有する、所有するなどです。つまり、人を人として支えるものが、掟、法律、義務、教えであり、掟や法律を支えるものが、人の道、人としての道徳です。また、物事を物事として支えるものが道理であり、道理を道理として支えるものが事物・現象です。法には、たくさんの意味がありますが、本来の「支えるもの」という意味を把握すれば、理解しやすくなると思います。
無量義経 説法品第二
https://www.youtube.com/watch?v=FiUK4GSEdFI&t=1s
~この品は、仏陀の説法について述べられています。仏陀は、悟りを得られてから、こういう目的で、こういう順序によって法をお説きになった、その法というのは、いろいろさまざまに説かれてきたけれども、根本の真理の法は「ただ一つ」である。その一つの法から、無量の(数かぎりない)法が生まれるのである、ということを説かれたのが、この章であります。
無量義経の第二章は、説法品です。無量義経の中心であり、無量義についての教義が説かれています。法華経と通じる内容ですので、合わせて学ぶと理解が深まります。
大衆正に問う分
爾の時に大荘厳菩薩摩訶薩、八万の菩薩摩訶薩と、是の偈を説いて仏を讃めたてまつることを已って、倶に仏に白して言さく、世尊、我等八万の菩薩の衆、今者如来の法の中に於て、諮問する所あらんと欲す。不審、世尊愍聴を垂れたまいなんや不や。
大荘厳菩薩と八万の菩薩たちが世尊の大徳を讃えたあと、世尊に次のように質問をしました。「世尊よ。私ども一同は、仏さまにぜひお伺いをしたいことがございます。如何でしょうか。お聞き下さり、お教えいただけますでしょうか?」
如来 許しを垂る分
仏、大荘厳菩薩及び八万の菩薩に告げたまわく、善哉善哉、善男子、善く是れ時なることを知れり、汝が所問を恣にせよ。如来久しからずして当に般涅槃すべし。涅槃の後も、普く一切をして復余の疑無からしめん。何の所問をか欲する、便ち之を説くべし。
善いかな、善いかな。大事な時に質問をしてくれました。なんでも質問をしなさい。じつは、私はもう少しでこの世を去ろうとしています。私が亡くなった後、疑問が残ることがないよう、何でも聞きなさい。何でも伝えましょう。
すると釈尊は大荘厳菩薩と八万の菩薩たちにお答えになりました。「素晴らしいことです。善男子よ。よくぞ、今、この時に質問をされました。あなたの聞きたい事をぜひ訊いてください。私は間もなく、この世を去ろうとしています。私が亡くなった後に、人々が、教えに対し不信感を抱かない様にしておきたいと思います。どの様な質問でしょうか? 何でも答えしましょう。
菩薩 正に問う分
是に大荘厳菩薩、八万の菩薩と、即ち共に声を同じゅうして仏に白して言さく、世尊、菩薩摩訶薩疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得んと欲せば、応当に何等の法門を修行すべき、何等の法門か能く菩薩摩訶薩をして疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ぜしむるや。
すると大荘厳菩薩と八万の菩薩たちは、声をそろえて申し上げました。「世尊よ。私ども菩薩が、まわり道をせず『真っすぐ』に最高無上の悟りを得るためには、どんな教えを修行したら良いのでしょうか?」
そこで、大荘厳菩薩と多くの菩薩たちは、声を合わせて仏に申し上げました。「世尊。菩薩が速やかに最上の覚りを得ようとするならば、どの様な教えを修行すればよろしいでしょうか? どの様な教えが、菩薩をして、速やかに最高の覚りを得させるでしょうか?」
阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい) アヌッタラー・サムヤック・サンボーディ anuttarāṃ-samyak-sambodhiṃ 最も正しい覚りのことで、「正覚」とも訳されます。菩提 ボーディ bodhi とは、目覚めることですので、「さとり」に当てる漢字は、「覚り」のほうがいいように思えます。「悟り」もよく使われますが、悟は自分の心を知ることであり、覚は真理に目覚めることですから意味がことなります。
如来 略して答える分
仏、大荘厳菩薩及び八万の菩薩に告げて言わく、善男子、一の法門あり、能く菩薩をして疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得せしむ。若し菩薩あって是の法門を学せば、則ち能く阿耨多羅三藐三菩提を得ん。世尊、是の法門とは号を何等と字くる、其の義云何、菩薩云何が修行せん。
釈尊はお答えになりました。「みなさん。ここに一つの教えがあります。これこそが、菩薩の皆さんを『真っすぐ』に最高無上の悟りへと導くものです。この教えを学び実践するならば、ただちに『仏の悟り』を得るでしょう」
三疑を問う(名・義・行)
世尊、是の法門とは号を何等と字くる、其の義云何、菩薩云何が修行せん。
大荘厳菩薩は、釈尊のことばを待ちきれずに直ぐにお尋ねします。「世尊。それは何という教えですか? その教えの内容とはどのようなものですか? そして、どのように修行したらよろしいのでしょうか?」
世尊。その法門は何という名称でしょうか? その内容はどの様なものですか? 菩薩は、どの様に修行すればよろしいでしょうか?
其の身は有に非ず亦無に非ず
「その身は有るのではなく、無いのではない」というのは、非有非無の中道のことです。凡夫は、物事を有る、無いで判断しますが、真理においては、有るのではなく、無いのではありません。因縁によって生起し、滅しますから、個々の存在は、仮に存在し、仮に滅しています。あらゆる存在には実体はありません。これを「空」(シューニャ śūnya)といいます。大乗仏教の重要な教義です。
個の存在は空ですので、個そのものには特徴はありません。特徴とは、他と比べることによって認識されるのですから、個自体だけでは特徴は見出すことはできません。特徴とは、サンスクリットのラクシャナ lakṣaṇa の訳であり、中国語では、「相」と訳されました。特徴・形・しるし・記号などの意味があります。特徴が無いことを「無相」(アラクシャナ alakṣaṇa)といい、空と並んで大乗仏教では重視されます。
「因に非ず縁に非ず自他に非ず」という文以降は、無相について述べられています。凡夫は、言葉によって、そのものの特徴を知ろうとしますが、そもそも、真理においては特徴はありません。無相です。
真理
真理は、固定してとらえることができませんので、真理を表すときは否定形を使います。肯定をすれば、何らかの概念にこだわる結果になりますので、無我・無常・無相・無作のように否定して表します。空とは、「無自性」のことですので、これも否定形です。ただし、これらの表現がそのまま真理のことをいうのではなく、真理へと導く方便であると知っておく必要があります。
声聞の名 徳を歎ず
其の比丘の名を、大智舎利弗・神通目揵連・慧命須菩提・摩訶迦旃延・弥多羅尼子・富楼那・阿若憍陳如等・天眼阿那律・持律優婆離・侍者阿難・仏子羅雲・優波難佗・離波多・劫賓那・薄拘羅・阿周陀・莎伽陀・頭陀大迦葉・優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉という。是の如き等の比丘万二千人あり。皆阿羅漢にして、諸の結漏を尽くして復縛著なく、真正解脱なり。
そうした菩薩と共にこの会座には、智慧第一の舎利弗や神通第一の目連、富楼那、阿難、羅睺羅など数多く(一万二千人)の比丘たちが連なっています。みな阿羅漢の境地を得ており、迷い・混乱・執着を消滅し、煩悩が出てくることなどありません。物事にとらわれず、正しいはたらきが自由自在にでき、一切の迷いから解放されています。
三業供養
爾の時に大荘厳菩薩摩訶薩、遍く衆の坐して各定意なるを観じ已って、衆中の八万の菩薩摩訶薩と倶に、座より而も起って仏所に来詣し、頭面に足を礼し繞ること百千匝して、天華・天香を焼散し、天衣・天瓔珞・天無価宝珠、上空の中より旋転して来下し、四面に雲のごとく集って而も仏に献る。天厨・天鉢器に天百味充満盈溢せる、色を見香を聞ぐに自然に飽足す。天幢・天旛・天軒蓋・天妙楽具処処に安置し、天の伎楽を作して仏を娯楽せしめたてまつり、即ち前んで胡跪し合掌し、一心に倶共に声を同じゅうして、偈を説いて讃めて言さく。
その時大荘厳菩薩は周囲を見渡し、一同全員が釈尊の教えを伺おうということに集中していることを見定めて、釈尊の前に進み出ました。そして様々な供養を成し、釈尊に向かって『偈(げ・韻を踏んだ詩歌)』を唱えて讃嘆しました。
仏身歎
大なる哉大悟大聖主 垢なく染なく所著なし 天人象馬の調御師 道風徳香一切に薫じ 智恬かに情泊かに慮凝静なり 意滅し識亡して心亦寂なり 永く夢妄の思想念を断じて 復諸大陰入界なし
大いなる大導師よ 一切の汚れが無く どんな現象にも心が乱れず 執着もなく 天界・人界のすべてのものを自由に導く力を具えておられます その徳の高さは まるで香(かぐわ)しいお香のように ひとりでに周囲の人々の心に染み入って行きます 人に対して見返りや 求める心などなく 常に相手の幸せだけを願われます 心にとらわれがなく 常に静かに澄み切ったお心でいらっしゃいます そして夢想・妄想によって心乱れることなどなく 外界からのどんな影響を受けない 超越した境地にいらっしゃいます
菩薩の敎化方法の讃嘆
ここには、菩薩がどのように衆生を教化するのかを表し、それを讃えています。まず、菩薩は、身近で分かりやすい教えを説いて悩みを除いて清涼を与えます。次に十二因縁を説いて苦悩を解き、その後、大乗の教えを説いて、覚りへと導きます。大乗を説く前に、十二因縁を説くことによって、その人の苦を除くことが大事なことです。よって、般若経や法華経を学ぶ前に、十二因縁を学んで、苦の原因を究明し、苦を滅する道を行くことが薦められます。しかし、十二因縁は分かりにくい教義であり、仏教初心者が簡単に理解できるものではありません。Rの会では、次のように十二因縁を教えていますが、この解釈は非常に分かりにくいです。
十二因縁
「肉体の生成(外縁起)」と「心の成長(内縁起)」に十二段階の法則があるという教え。〈①無明 むみょう〉⇒〈② 行 ぎょう〉⇒〈③識 しき〉⇒〈④名色 みょうしき〉⇒〈⑤六入 ろくにゅう〉⇒〈⑥触 そく〉⇒〈⑦受 じゅ〉⇒〈⑧愛 あい〉⇒〈⑨取 しゅ〉⇒〈⑩有 う〉⇒〈⑪生 しょう〉⇒〈⑫老死 ろうし〉
【十二因縁の外縁起】『肉体』(肉体の生成)の順序
〈①無明 むみょう〉過去世において輪廻し無明(無智)であった 〈②行 ぎょう〉過去世において無智の行為を繰り返して「業・ごう」を積む 〈③識 しき〉両親の夫婦生活という無明の行為で命を宿し受精後「識」が生ず 〈④名色 みょうしき〉「名」は精神、「色」は肉体。この肉体と精神が徐々に整う 〈⑤六入 ろくにゅう〉「名色」が発達して六根(眼耳鼻舌身意)が心身の中に入る。 〈⑥触 そく〉この世に出生して六根が外界に触れその機能が完成 〈⑦受 じゅ〉次に、これは受け入れる、受け入れないという感情が生まれる 〈⑧愛 あい〉特に異性を求める心、何かを求めるという心が生まれる。 〈⑨取 しゅ〉異性や何かを自分のものにしたい所有欲、「取」の心が起きる 〈⑩有 う〉「取」の心がはたらいて、異性を得て(有)結婚する 〈⑪生 しょう〉多くが結婚を通して次世代の命を宿し子を誕生させる 〈⑫老死 ろうし〉この世に生まれた者は憂悲苦悩を繰り返し、ついに「老死」に至り、人生を終える
ここで講義されている十二因縁のもとになる経典が何なのかが分かりません。おそらくは、説一切有部の「分位縁起」を基にしているのでしょう。しかし、「分位縁起」とも大部違いますから、Rの会のオリジナルなのでしょうか。十二因縁は、サンスクリット原語の意味を知らなければ理解しにくいので、次にサンスクリット原語を表しながら十二因縁を紐解きます。
〈①無明 むみょう〉アヴィドャー avidyā 無知 〈②行 ぎょう〉サンスカーラ saṃskāra 意志・行為 〈③識 しき〉ビジュニャーナ vijñāna 識別作用 〈④名色 みょうしき〉ナーマルーパ nāmarūpa 名称と姿 心と体 〈⑤六入 ろくにゅう〉シャダーヤタナ ṣaḍāyatana 眼耳鼻舌身意の6感官 〈⑥触 そく〉スパルシャ sparśa 接触 〈⑦受 じゅ〉ヴェーダナー vedanā 感受 〈⑧愛 あい〉トリシュナー tṛṣṇā 渇愛 〈⑨取 しゅ〉ウパーダーナ upādāna 執着 〈⑩有 う〉 バーヴァ bhava 存在 〈⑪生 しょう〉ジャーティ jāti 生まれること 〈⑫老死 ろうし〉 ジャーラーマラーナ jarā-maraṇa 老いと死
無知な意志によって分別をし、心と体に分け、6つの感覚に分け、自分と自分以外とが接触します。接触によって世界を感受し、欲しいものを手に入れたいと思い、そのものに執着します。そのことで存在し、新しく生まれ、老い、死にます。。。このように無明(惑・煩悩)・行(業)によって生老死という苦に至ると説くのが十二因縁です。
凡夫は、自他を分け、個々を分けてとらえます。分別による見方です。仏は、自他を分けず、個々を分けずにとらえます。無分別による見方です。分別しませんから、差別や区別をせず、一切を一つとして観ます。これを不二ともいいます。無明とは、分別による見方をすることです。不二・無分別の理を知っていれば、一つのものを分けることはせず、直観でとらえます。自他の区別、個々の区別がなければ、自己中心な心、渇愛、執着はなくなり、苦悩を滅することができるでしょう。
分位縁起
分位縁起(ぶんいえんぎ)とは、五蘊のその時々の位相が十二支として表される説です。説一切有部では、分位縁起に立脚しつつ、十二支を過去・現在・未来の3つ(正確には、過去因・現在果・現在因・未来果の4つ)に割り振って対応させ、過去→現在(過去因→現在果)と現在→未来(現在因→未来果)という2つの因果が、過去・現在・未来の3世に渡って対応的に2重(両重)になって存在しているとする、輪廻のありようを説く胎生学的な「三世両重(の)因果」が唱えられました(ウィキペディア)。
Rの会では、法華経による先祖供養を重視します。死後の世界・輪廻・転生を信じる立場にあるようです。なので輪廻を肯定する説一切有部の説を取り入れたのかも知れません。仏教においては、非有非無の中道を説きます。有に執着せず、無に執着しない立場です。なので死後の世界が有る、輪廻が有る、転生が有ると、積極的には説かないし、死後の世界は無い、輪廻は無い、転生は無いと、積極的には説きません。経典中では、輪廻(生死)について触れられるシーンがありますが、それらは輪廻を信じているインド人たちを肯定する方便だと受け取ったほうがいいです。
初期仏教においては、縁起を説く場合、時間経過については説かれていません。「此が有れば彼が有り、此が無ければ彼が無い。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」という此縁性の縁起です。この此縁性の縁起を詳しく説いた内容が十二因縁なので、時間経過は考慮されません。時間という概念を取り入れ、十二因縁を複雑にしたのは説一切有部です。基本的な十二因縁を学ぶためには、初期仏教の経典を紐解いたほうがいいでしょう。
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経:其の菩薩の名を、文殊師利法王子(もんじゅしりほうおうじ)・大威徳蔵法王子(だいいとくぞうほうおうじ)・無憂蔵法王子(むうぞうほうおうじ)・大弁蔵法王子(だいべんぞうほうおうじ)・弥勒菩薩(みろくぼさつ)・導首菩薩(どうしゅぼさつ)・薬王菩薩(やくおうぼさつ)・薬上菩薩(やくじょうぼさつ)・華幢菩薩(けどうぼさつ)・華光幢菩薩(けこうどうぼさつ)・陀羅尼自在王菩薩(だらにじざいおうぼさつ)・観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)・大勢至菩薩(だいせいぼさつ)・常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)・宝印首菩薩(ほういんしゅぼさつ)・宝積菩薩(ほうしゃくぼさつ)・宝杖菩薩(ほうじょうぼさつ)・越三界菩薩(おつさんがいぼさつ)・毘摩跋羅菩薩(びまばつらぼさつ)・香象菩薩(こうぞう)・大香象菩薩(だいこうぞうぼさつ)・師子吼王菩薩(ししくおうぼさつ)・師子遊戯世菩薩(ししゆけせぼさつ)・師子奮迅菩薩(ししふんじんぼさつ)・師子精進菩薩(しししょうじんぼさつ)・勇鋭力菩薩(ゆえいりきぼさつ)・師子威猛伏菩薩(ししいみょうぶくぼさつ)・荘厳菩薩(しょうごんぼさつ)・大荘厳菩薩(だいしょうごんぼさつ)という。是の如き等の菩薩摩訶薩八万人と倶なり。 : : 法身(ほっしん) : 経:是の諸の菩薩、皆是れ法身の大士ならざることなし。戒(かい)・定(じょう)・慧(え)・解脱(げだつ)・解脱知見(げだつちけん)の成就(じょうじゅ)せる所なり。 : R訳:ここに集う文殊菩薩、弥勒菩薩、薬王菩薩、観世音菩薩をはじめとする八万人の菩薩たちは、どんな変化にも動揺せず世間の苦悩から解放され、真理と一体となった菩薩たちです。菩薩たちは『三学』という仏道修行者が修すべき基本の道「戒・定・慧」を修め、解脱しており、しかも解脱に至るまでの具体的な手順・経緯(プロセス)をしっかりと自覚、解脱知見しています。 : : 止徳 : 経:其の心禅寂(ぜんじゃく)にして、常に三昧(さんまい)に在って、恬安憺泊(てんなんたんぱく)に無為無欲(むいむよく)なり。顛倒乱想(てんどうらんそう)、復入ることを得ず。静寂清澄(じょうじゃくしょうちょう)に志玄虚漠(しげんこまく)なり。之を守って動ぜざること億百千劫、無量の法門悉く現在前せり。 : : R訳:しかもどんな境遇にあっても、とらわれることなく安らかで、他人に対して要求する心はなく、不平不満を覚えず、たとえ好意や感謝をされなくても、そのことにこだわることはありません。自己中心的でなく、我欲から離れており、真相を見誤って真理と反対の見方をして、心が乱れることもありません。静かに落ち着き、煩悩に惑わされない澄み切った心で、甚深微妙(じんじんみみょう)で奥深く、限りなく広く大きな心を持っています。こういう心境を億千万年という長い期間保ち続けていますので、動揺することがなく仏の全ての教え・この世のあらゆる物事の真相を正しく見極めています。 : : 観徳 : 経:大智慧を得て諸法を通達し、性相(しょうそう)の真実を暁了(ぎょうりょう)し分別(ふんべつ)するに、有無・長短、明現顕白(みょうげんけんびゃく)なり。又善く諸の根性欲(こんじょうよく)を知り、陀羅尼(だらに)・無碍弁才(むげべんざい)を以て、諸仏の転法輪(てんぽうりん)、随順して能く転ず。 : : R訳:すべての出来事を正しく分析・解説することができ、あらゆる人びとの機根・性質・欲望(根性欲)を見抜いていますので、善をすすめて悪をとどめる強い力と、どんな人をも納得させる説得力を持っています。ですから自由自在に人びとを教化することができるのです。菩薩はこのような尊い徳分を具えています。 : : 無量義経 徳行品第一 : :
: 経・論・釈 : : Rの会では、開祖の著書を拠り所にしているようです。新興宗教の場合、開祖や教祖の教えが第一にされているところが多いので、Rの会もそうなのでしょう。本来ならば、法華経という経典を拠り所にするべきですが、開祖の著書を取り上げていために、インドで編纂された法華経(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)とは異なる結果になっていると思えます。 : 仏教書には、経・論・釈があります。釈尊が説法した内容を記したものが経(スートラ)です。歴史上の釈尊が説法したことが、そのまま書かれているわけではなく、釈尊が亡くなった後に高弟子たちが編纂(へんさん)した内容です。よって説法内容の記録ではありません。インドで作られたものが経であり、中国や日本で作られたものは偽経だといわれます。 : 経の内容は難しいため、経の内容を分かりやすく論じたものが論書(アビダルマ)です。論書は、インドの高僧によって書かれました。説一切有部(せついっさいうぶ)のアビダルマ、龍樹(りゅうじゅ)の中論・大智度論(だいちどろん)、世親(せしん)の大乗成業論(だいじょうじょうごうろん)・唯識(ゆいしき)二十論などが有名です。論書は、経典の理解を助けるために書かれたのですから、論書だけを読むのではなく、論書と経典を合わせて学ぶ必要があります。 : 釈とは、経典と論書をさらに理解しやすいように書いたものであり、中国や日本の高僧によって書かれました。天台智顗(てんだいちぎ)・日蓮(にちれん)・親鸞(しんらん)・道元(どうげん)などの著書は釈書です。釈は、経典・論書の理解を助けるために書かれたのですから、釈書だけを読むのではなく、経典・論書を合わせて学ぶ必要があります。あくまでも経典が主であることを忘れてはいけません。 : 現代では、各宗派の僧侶、仏教者、学者、新興宗教の代表者などが、経典の解釈本を出しています。きちんと経典に合わせて解釈する人もいますが、自分の思想を発表している人も多いです。新興宗教では、自分たちの信仰を正当化するために、本にしているところもあります。解釈本は、経典の解釈をするためのものなのですから、独断と偏見によって綴るのは誤りです。特に「南無妙法蓮華経」を唱えるところは、法華経に基づいて学ぶ必要があります。 : : 経・論・釈 : :
: 仏教はただ一仏乗 : : ○ ただ一筋しかない仏の教えの大道に目を向けさせようという、やむにやまれぬ熱意から書かれたのが、ほかならぬ≪妙法蓮華経≫だったのです。 : 紀元前後に般若経の一派が起こり、自らを大乗仏教だと称しました。それまでの仏教は、自分たちの修行しか考えていない劣ったものだといい小乗仏教だと蔑称で呼びました。ただし、ここで小乗仏教と呼ばれたのは、説一切有部(せついっさいうぶ)です。説一切有部は托鉢(たくはつ)をせず、精舎(しょうじゃ)にこもって経典の研究ばかりしていたため、劣っているといわれました。 : やがて説一切有部と大乗仏教徒の間で対立が起こり、説一切有部は大乗を伝統のないでっちあげの仏教だと非難し、大乗は説一切有部を成仏できない仏教徒だと非難しました。そのことを哀れだと思った法華経の一派が、小乗(説一切有部)も大乗も同じく釈尊の弟子であり、誰もが修行次第で成仏できるとして「一仏乗(いちぶつじょう)」を著しました。それが法華経です。 : : 中国に〈理〉の花開く : 大乗仏教は、インドから中央アジアを経て、中国に渡りました。法華経も同様です。紀元前後から編纂(へんさん)され始め、2世紀頃に成立し、中国に伝わって、数人の訳経僧(やっきょうそう)によって中国語に訳されました。その中でも鳩摩羅什(くまらじゅう)による『妙法蓮華経』が有名であり、中国・日本において法華経というと妙法蓮華経だといわれています。 : 鳩摩羅什は、龍樹(りゅうじゅ)の思想に傾倒しており、妙法蓮華経を訳す前に、龍樹の『中論(ちゅうろん)』『大智度論(だいちどろん)』などを訳しています。いわゆる中観派(ちゅうがんは)です。中観派は、般若経を支持しますので、鳩摩羅什は法華経よりも般若経の布教を進めていたようです。龍樹も法華経よりも般若経を支持しています。大智度論は、『二万五千頌般若経』について論じたものです。 : 7世紀頃、中国に智顗(ちぎ)が生まれ、実質的に天台宗の開祖となりました。智顗以前、天台では龍樹を支持しており、『中論』『大智度論』を拠り所にしていました。智顗は、それに加えて、法華経を取り入れています。よって智顗は、中観派と法華派だったのです。特に法華経については、「法華第一」と言って特別視し、仏教経典中最高の経典であると位置づけました。智顗は、法華経を徹底的に研究し、龍樹の論を参考にして、『法華玄義(ほっけげんぎ)』『法華文句(ほっけもんぐ)』『摩訶止観(まかしかん)』などの書を著し、中国や日本の多くの僧侶・仏教者に読まれました。『摩訶止観』にある「一念三千」は有名です。こうして、智顗によって法華経の「理」の花が開きました。 : : 仏教はただ一仏乗 : :
: 法華経に説かれていること : : 法華経は一切経の精髄 : ① 宇宙の本当の相(すがた)はどうであるか? ② 人間とはどんなものか? ③ 人間はどう生きねばならないか? ④ 人間と人間との関係はどうあらねばならないか? : これらのことが、法華経で説かれている、ということですが、果たしてそうなのでしょうか? 宇宙の相は明かされていないし、人間とはどういうものかも説かれていません。人間はどう生きねばならないかについては、あくまでも仏教的解釈です。人間と人間との関係についても同様です。これらのことは、Rの会で説かれることなので注意が必要です。 : : 仏はいつもいる すべての人に仏性(ぶっしょう)あり : ① 仏はいつもそばにいて、われわれを導いてくださる ② すべての人に仏性(ぶっしょう)あり ③ だれでも努力次第で仏の境地に達せられること : 「仏はいつもそばにいて、われわれを導いてくださる」というときの仏とは、肉体を持った釈尊のことではなく、真理を体とする法身仏(ほっしんぶつ)のことです。このことは、難しい内容ですので、じっくりと学ぶ必要があります。「すべての人に仏性あり」ということは、法華経には説かれていません。法華経の後につくられた『涅槃経(ねはんぎょう)』で説かれたことですので、法華経に仏性という説はありません。仏性という言葉もありません。「だれでも努力次第で仏の境地に達せられること」(皆成仏道(かいじょうぶつどう))は、法華経に説かれています。 : : 仏性(ぶっしょう)とは : 仏性とは、ブッダ・ダートゥ Buddha-dhātu の訳です。ブッダとは、仏陀のことで、仏ともいいます。最高の覚りをひらかれた人のことです。ダートゥとは、生物が生存し輪廻(りんね)する空間を意味します。フィールド、世界、要素などの意味もあります。よって、仏性とは、「仏の境界」のような意味です。衆生は、生まれもって仏と同じ境界を持つということです。または、ダートゥには、原因という意味もありますので、「仏に成る原因」「仏に成る可能性」の意味としても使われます。 : 解釈本を読むと、仏性とは、「仏の性質」の意味で解釈していることがあります。私たちの心には、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という迷いの境界と声聞・縁覚・菩薩・仏陀という聖なる境界があり、誰もが仏と同じ性質を持つというのです。この意味での仏性を自覚するということは、我を意識するのと同じで、空なるものを有ると観ることにつながります。無我に反しています。ヒンドゥー教的な思想です。日本では、仏性とか、如来蔵に注目する傾向が強く、そのことが執着につながることに無頓着です。 : 仏性を「仏に成る原因」「仏に成る可能性」の意味として使うことは問題ありません。法華経で、声聞たちが授記(じゅき)されるのは、仏に成る可能性があるからです。授記とは、将来成仏することの予言です。可能性があるから、皆成仏道(かいじょうぶつどう)が説かれています。 : : 法華経に説かれていること : :
: 法華経は難しい教えではない? : : Rの会では、「法華経は難しい教えではない」と教えます。難しくないのなら簡単な教えなのでしょうか? 私は、そうとは思えません。法華経の経文中にも難解な教えだと書いてあるのですから、簡単な教えではないでしょう。難しいところを省き、または簡単な意味に置き換えて教えれば、それを聞く者は簡単な教えだと思ってしまうのかも知れませんが、それだと法華経の教えを歪めていることになります。 : 法華経は、大乗仏教の経典です。多くの般若経(はんにゃきょう)がつくられた後に世に出ました。般若経には、「空(くう)」の理が説かれており、法華経では、空の実践が説かれています。よって般若経を深く学び、空の理をマスターしていなければ法華経は理解できません。いきなり法華経を学んでも、ちんぷんかんぷんになってしまいます。般若経といっても、般若心経を学ぶのではなく、八千頌般若経・二万五千頌般若経などを学ぶ必要があります。般若心経は、二万五千頌般若経の抜粋なので、これだけを学んでも理解はできません。 : Rの会では、般若経を学ばず、法華経を学びます。それだと空の理が分からないので、法華経の理解はできません。それなのに「法華経は難しい教えではない」と主張するのはおかしな話です。法華経の中でも、安楽行品(あんらくぎょうほん)第十四などで空の理は説かれていますが、短い文章なので、理解できる人は少ないでしょう。般若経を学んだ人ならば分かるのでしょうが、法華経だけを読んで理解しようとしても無理があります。 : Rの会の会員の大多数は主婦のようです。それも中高年です。そういう人たちに仏教の甚深(じんじん)の教えを説いても伝わりにくいでしょう。だから、「法華経は難しい教えではない」と言って法華経に興味を持たせようとしているのかも知れません。だとしたら、法華経という難しい経典を選ばず、もっと理解しやすい経典を選ぶべきです。たとえば、『法句経(ほっくきょう)』などが手ごろかも知れません。『法句経』は、初期仏教の経典であり、初心者でも、ある程度の理解はできると思います。 : 仏教は、対機説法です。相手の機根(きこん)・性格・欲求に応じて法を説きます。法華経は、菩薩への教えですから、一般人では歯が立ちません。機根に応じた教えを説くことが重要だと思います。 : : 法華経は難しい教えではない? : :
法華経を学ぶ上での心構え : : まず、法華経を学ぶ上での心構えが4つ説かれています。 : ①又如来の滅度の後に、若し人あって妙法華経の乃至一偈・一句を聞いて一念も随喜(ずいき)せん者には、我亦阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の記を与え授く。 : この経文は、法華経の法師品(ほっしほん)第十からの引用です。講師は、「如来が亡くなった後に、もしある人が法華経の一行でも一句でも聞いて、一瞬でもいいから「ああ、ありがたい」と思うのなら、成仏することを保証しましょう」というように解釈しています。つまり、法華経をすべて学び尽くそうとするのではなく、一行でも一句でも聞いて喜びを感じるのであれば成仏に通じるということなのでしょう。確かに何事でも学び修得するためには、最初の喜びが重要だと思います。喜びを得ることができれば、学習意欲は高まることでしょう。 : しかし、ここに出てくる随喜(ずいき)という言葉は、「ああ、ありがたい」というような単純な意味ではありません。随喜とは、サンスクリットのアヌモダナー anumodanā の中国語訳であり、「共感的喜び」のことです。つまり、他者の言動を受け入れ、承認し、喜ぶことをいいます。共感がなければ随喜とはいえません。法華経の一行でも一句でも聞いて、自分勝手に解釈したのでは随喜とはいえません。法華経を深く学び、共感し、喜びを得ることが成仏に通じます。そのためには、法華経に書かれたことを正しく読むことが重要です。 : : ②其の習学せざる者は 此れを暁了(ぎょうりょう)すること能わじ : この経文は、法華経の方便品第十からの引用です。暁了とは、「明らかに理解すること」「明らかにさとり知ること」です。習学とは、「知識を学んで身につけること」です。「其の習学せざる者は」とありますから、何を修学するのかが分かりません。方便品には、次のように説かれています。 : : 舎利弗(しゃりほつ)当に知るべし 諸仏の法是の如く 万億の方便を以て 宜しきに随って法を説きたもう 其の習学せざる者は 此れを暁了すること能わじ 汝等既已(すで)に 諸仏世の師の 随宜(ずいぎ)方便の事を知りぬ 復諸の疑惑なく 心に大歓喜を生じて 自ら当に作仏すべしと知れ : : つまり、「随宜方便の事」を修学することが勧められています。諸仏は、「万億の方便を以て 宜しきに随って法を説きたもう」のですから、方便を方便として学ぶことが大事だということです。 : : ③「習学」の3つのステップ「聞解(もんげ)・思惟(しゆい)・修習(しゅしゅう)」 : この経文は、法華経の法師品第十からの引用です。聞解とは、教えを聞くこととその教えを理解することです。思惟とは、教えを理解した上で思索することです。修習とは、思惟した内容を身体で実践することです。 : 法師品第十には、次のように説かれています。 : 若し是の法華経を未だ聞かず、未だ解せず、未だ修習すること能わずんば、当に知るべし、是の人は阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を去ること尚お遠し。若し聞解し思惟し修習することを得ば、必ず阿耨多羅三藐三菩提に近づくことを得たりと知れ。 : : 教えを聞いて理解するだけではなく、教えを思惟するだけではなく、教えを実践するだけはなく、聞解・思惟・修習を行うことで最高の覚りに至ります。聞解を得意とする声聞(しょうもん)、思惟を得意とする縁覚(えんがく)、修習を得意とする菩薩(ぼさつ)。人にはタイプがあって、得意とすることは違いますが、聞解・思惟・修習をバランスよく行うことで、成仏への道は開けます。 : ④『十分の一でも実践できれば、いや、その一つにでも徹することができれば、りっぱな精進(しょうじん)といえる』 : 法華経は、菩薩への教えですから、法華経に書かれている修行内容は、非常に難しいです。六波羅蜜(ろくはらみつ)にせよ、五種法師(ごしゅほっし)の行にしろ、凡夫はなかなか続けることはできません。できることから、こつこつの実践することが大事です。頑張ることと精進は違います。精進は、具体的に行動することを続けます。 : : 法華経を学ぶ上での心構え : :
流通を讃嘆する
爾の時に仏讃めて言わく、善哉善哉諸の善男子、汝等今者真に是れ仏子なり。弘き大慈大悲をもって深く能く苦を抜き厄を救う者なり。一切衆生の良福田なり。広く一切の為に大良導師と作れり。一切衆生の大依止処なり。一切衆生の大施主なり。常に法利を以て広く一切に施せと。
それをお聞きになった仏さまは心から喜ばれ、「よろしい。大変結構です。お前たちは今こそ、ほんとうに『仏の子』です。そなた達こそ、大きな『慈悲の心』をもって、人々の苦しみを救い、一切の人々の幸福を生み出す力となり、素晴らしい導師であり、心の支え、依り所となる人です。どうかこの教えの利益を、常に広く人々に与えてあげて下さい」
経を聞いて受持する
爾の時に大会皆大に歓喜して、仏の為に礼を作し、受持して去りにき。
この仏さまのお言葉を受けて、一同は『大歓喜』し、仏さまに礼拝をして、そして教えをしっかりと胸に刻んで受持し、法会の席を立って行きました。
滅後弘経の仏勅を敬い受く
是の時に大荘厳菩薩摩訶薩、八万の菩薩摩訶薩と即ち座より起って仏所に来詣して、頭面に足を礼し遶ること百千匝して、即ち前んで胡跪し倶共に声を同じゅうして仏に白して言さく、世尊、我等快く世尊の慈愍を蒙りぬ。我等が為に是の甚深微妙無上大乗無量義経を説きたもう。敬んで仏勅を受けて、如来の滅後に於て当に広く是の経典を流布せしめ、普く一切をして受持し読誦し書写し供養せしむべし、唯願わくは憂慮を垂れたもうことなかれ。我等当に願力を以て、普く一切衆生をして此の経を見聞し読誦し書写し供養することを得、是の経の威神の福を得せしむべし。
すると大荘厳菩薩と八万の菩薩たちは一斉に立ち上がり、世尊の御前に進み出て、み足に額をつけて礼拝し、『帰依』の誠を捧げて申し上げました。
「世尊よ。私共に大きなお慈悲をおかけくださったことを、心から感謝申し上げます。私たちは、『法を弘めよ。それこそが大慈大悲』という仏さまのお言いつけを謹んでお受けし、仏さまがお亡くなられた後も、しっかりとこの教えを弘め、あまねく人々がこの教えを信じ、読誦・書写・供養できるように法を弘めます」
と決意を申し上げました。
菩薩たちに付属する
爾の時に仏、大荘厳菩薩摩訶薩及び八万の菩薩摩訶薩に告げて言わく、汝等当に此の経に於て深く敬心を起し法の如く修行し、広く一切を化して勤心に流布すべし。常に当に慇懃に昼夜守護して、諸の衆生をして各法利を獲せしむべし。汝等真に是れ大慈大悲なり。以て神通の願力を立てて、是の経を守護して疑滞せしむることなかれ。汝、当時に於て必ず広く閻浮提に行ぜしめ、一切衆生をして見聞し読誦し書写し供養することを得せしめよ。是れを以ての故に、亦疾く汝等をして速かに阿耨多羅三藐三菩提を得せしめん。
その時、世尊は、大荘厳菩薩をはじめとする多くの菩薩たちにお告げになりました。
「そなたたちは、この教えを深く信じ、敬い、心を尽くして一切の人々を教化しなければなりません。その行いこそが『真の大慈大悲』なのです。この教えを弘めることで、みなさんは『五種法師の行』をつとめられるようになり、真っ直ぐに仏の悟りを得ることができるようになるのです」
此土の供養
是の語を作し已りし、爾の時に三千大千世界六種に震動し、上空の中より復種種の天華・天優鉢羅華・鉢曇摩華・拘物頭華・分陀利華を雨らし、又無数種種の天香・天衣・天瓔珞・天無価の宝を雨らして、上空の中より旋転して来下し、仏及び諸の菩薩・声聞・大衆に供養す。天厨・天鉢器に天百味充満盈溢せる、色を見香を聞くに自然に飽足す。天幢・天幡・天軒蓋・天妙楽具処処に安置し、天の妓楽を作して仏を歌歎す。
以上、讃嘆と感謝の言葉を大荘厳菩薩たちが申し述べると、世界中が感動のあまり打ち震い、空からたくさんの美しい花びらが舞い降り、芳しい香りと様々な宝物が仏および教えを聴聞している菩薩をはじめとする多くの人々に降り注がれました。
他土東方の供養
又復六種に東方恒河沙等の諸仏の世界を震動す。亦天華・天香・天衣・天瓔珞・天無価の宝を雨らし、天厨・天鉢器・天百味、色を見香を聞くに自然に飽足す。天幢・天幡・天軒蓋・天妙楽具処処に安置し、天の妓楽を作して彼の仏及び諸の菩薩・声聞・大衆を歌歎す。南西北方四維上下も亦復是の如し。
すると東方の世界のみならず、あらゆる十方世界・宇宙全体にある無数の仏の世界でも、同様の現象が起こり、仏と菩薩と大衆が供養されるのでありました。
菩薩の領解
時に大荘厳菩薩摩訶薩及び八万の菩薩摩訶薩、声を同じゅうして仏に白して言さく、世尊、仏の所説の如き甚深微妙無上大乗無量義経は、文理真正に、尊にして過上なし。三世の諸仏の共に守護したもう所、衆魔群道、得入することあることなく、一切の邪見生死に壊敗せられず。是の故に此の経は乃ち是の如き十の功徳不思議の力います。
その時、大荘厳菩薩及び八万の菩薩たちが、口をそろえて世尊に申し上げました。「世尊よ。世尊がお説きになった、深淵な教えである『無量義経』は、この上な尊く、真実そのものです。ですから、この教えの通り修行している限り、三世(過去・現在・未来)の諸仏が守護してくださり、どのような邪魔ものにも妨害されることはなく、間違った考えや、人生の様々な『変化』に遭遇しても動揺し、挫け、打ち負かされることはありません。この教えに十の不可思議な功徳があることも、よく解らせていただきました」。
重ねて時会の得益を讃える
大に無量の一切衆生を饒益し、一切の諸の菩薩摩訶薩をして各無量義三昧を得、或は百千陀羅尼門を得せしめ、或は菩薩の諸地・諸忍を得、或は縁覚・羅漢の四道果の証を得せしめたもう。世尊慈愍して快く我等が為に是の如き法を説いて、我をして大に法利を獲せしめたもう。甚だ為れ奇特に未曾有也。世尊の慈恩実に報ずべきこと難し。
「この教えはあらゆる人々に余すところなく利益を与え、素晴らしい境地に至らしめるものです。尊いみ教えをいただき、こんな有難い経験をしたことはこれまでにございません。尊く素晴らしい教えをお説きくださった世尊の深いお慈悲に、私どもはどのようにしてお報いしてよいかわからないくらい、深く感謝申し上げます。誠に世尊は、広大無辺な慈恩のお方であられます」
十功徳力を結す
善男子、是の如き無上大乗無量義経は、極めて大威神の力ましまして、尊にして過上なし。能く諸の凡夫をして皆聖果を成じ、永く生死を離れて皆自在なることを得せしめたもう。是の故に是の経を無量義と名く。能く一切衆生をして、凡夫地に於て、諸の菩薩の無量の道牙を生起せしめ、功徳の樹をして欝茂扶蔬増長せしめたもう。是の故に此の経を不可思議の功徳力と号く。
「このように、この教えは極めて大きな力を持ち、この上なく尊い教えであります。そしてどんな人でも素晴らしい信仰の境地へ至らしめ、人生のあらゆる変化にも揺るがされず、何ごとにもとらわれない『自由自在』の心に導くものです。それゆえ『無量義』と名づけられたのです。そして全ての人が菩薩行を実践するように導くことができ、それによって功徳の樹木が生い茂るように伸び、広がって行きます。これがこの教えの不可思議な功徳力であります」
第十の功徳 登地不思議力
善男子、第十に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子・善女人、若しは仏の在世若しは滅度の後に、若し是の経を得て大歓喜を発し、希有の心を生じ、既に自ら受持し読誦し書写し供養し説の如く修行し、復能く広く在家出家の人を勧めて、受持し読誦し書写し供養し解説し、法の如く修行せしめん。既に余人をして是の経を修行せしむる力の故に、得道・得果せんこと、皆是の善男子・善女人の慈心をもって勤ろに化する力に由るが故に、是の善男子・善女人は即ち是の身に於て便ち無量の諸の陀羅尼門を逮得せん。凡夫地に於て、自然に初めの時に能く無数阿僧祇の弘誓大願を発し、深く能く一切衆生を救わんことを発し、大悲を成就し、広く能く衆の苦を抜き、厚く善根を集めて一切を饒益せん。而して法の沢を演べて洪に枯涸に潤おし、能く法の薬を以て諸の衆生に施し、一切を安楽し、漸見超登して法雲地に住せん。恩沢普く潤し慈被すること外なく、苦の衆生を摂して道跡に入らしめん。是の故に此の人は、久しからずして阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得ん。善男子、是れを是の経の第十の功徳不思議の力と名く。
【第十の功徳】凡夫の身であっても、菩薩の「最高の境地」に達する・・・
「『第十の功徳』は、自ら『五種法師の行』を行うばかりでなく、他の人々に『五種法師の行』を行わせるようになり、その功徳によって自らが仏の悟りを得るようになります。そしてまだ凡夫の身でありながら、一切の人々を救う誓いを立て、人々の苦を抜き去り、一切の利益を与えることができるようになります。それはあたかも、渇ききった人々の心を水で潤すように、また、薬によって人々の心の病を治すように、教えによって人々を救い出すようになります。つまりその人は、菩薩の最高の境地である一切の人々を救う『法雲地・ほううんぢ(「菩薩の十地」の第十地)』の境地に達することができるのです。この人は、全ての人々を慈しみの心で包み込み、人生苦に喘ぐ人々を、仏の足跡(仏の道)に導き、その功徳によって、さほど長い年月をかけずに仏の悟りを得ることができます」
第九の功徳 抜済不思議力
善男子、第九に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子・善女人、若しは仏の在世若しは滅度の後に、是の経を得ることあって歓喜踊躍し、未曾有なることを得て、受持し読誦し書写し供養し、広く衆人の為に是の経の義を分別し解説せん者は、即ち宿業の余罪重障一時に滅尽することを得、便ち清浄なることを得て、大弁を逮得し、次第に諸の波羅蜜を荘厳し、諸の三昧・首楞厳三昧を獲、大総持門に入り、勤精進力を得て速かに上地に越ゆることを得、善く分身散体して十方の国土に遍じ、一切二十五有の極苦の衆生を抜済して悉く解脱せしめん。是の故に是の経に此の如きの力います。善男子、是れを是の経の第九の功徳不思議の力と名く。
【第九の功徳】「宿業余罪」を滅し、自分の分身が誕生して人々の苦を救う・・・
「『第九の功徳』は、この教えに触れて心が躍動し、大きな感動を覚えて『五種法師の行』を行うようになります。そして、人々に法を説き、教えの内容をかみくだいて解説してあげたならば、その人は、長い長い過去世から積み重ねて来た『悪業』(宿業)を、一瞬にして滅し (宿業余罪滅尽)、速やかに清らかな身となります。しかもどんな人に対しても仏の道に導くことの出来る教化力を身につけ、仏と菩薩だけが達することのできる『首楞厳三昧(しゅりょうごんざんまい)』という境地を得ることができます。そして悪をとどめ、善を保つ力を具えます。そして常に精進して菩薩の境界に登り詰め、ここに居ながらにして、あらゆるところに自分の分身を派遣できるようになります。つまり、自分の精神を受け継ぐ人々を、さまざまなところに誕生させ、あらゆる人を教化し、すべての人の苦を救うようになります」
第八の功徳 得忍不思議力
色付き文字善男子、第八に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子・善女人、若しは仏の在世若しは滅度の後に、人あって能く是の経典を得たらん者は、敬信すること仏身を視たてまつるが如く等しくして異ることなからしめ、是の経を愛楽し、受持し読誦し書写し頂戴し、法の如く奉行し、戒・忍を堅固にし、兼ねて檀度を行じ、深く慈悲を発して、此の無上大乗無量義経を以て、広く人の為に説かん。若し人先より来、都べて罪福あることを信ぜざる者には、是の経を以て之を示して、種種の方便を設け強て化して信ぜしめん。経の威力を以ての故に、其の人の信心を発し炊然として回することを得ん。信心既に発して勇猛精進するが故に、能く是の経の威徳勢力を得て、得道・得果せん。是の故に善男子・善女人、化を蒙る功徳を以ての故に、男子・女人即ち是の身に於て無生法忍を得、上地に至ることを得て、諸の菩薩と以て眷属と為りて、速かに能く衆生を成就し、仏国土を浄め、久しからずして無上菩提を成ずることを得ん。善男子、是れを是の経の第八の功徳不思議の力と名く。
【第八の功徳】 経典の力(経力)を得て、たちまちにして人々を幸せにする・・・
「『第八の功徳』は、その人は『経典』を仏の身と同じように敬うようになります。教えを心から愛し、『五種法師』や『六波羅蜜』の徳行を行うようになり、無量義の教えを多くの人々に説くようになるでしょう。そして経典の力によって、教えを信じきれない者に、信仰心を引き起こさせ、経典の力で、その人の心を、たちまちにして仏道へと振り向けさせます。そして娑婆世界に生きる凡夫の身でありながらも、どんな現象の変化にも動揺しない安穏の境地を得ます。そればかりか多くの菩薩の仲間入りを果たし、多くの人々の人格を完成させ、この世の中を清らかにして行きます。そして、さほど長い年月をかけずして、最高の仏の境地に達することができるでしょう」
第七の功徳 賞封不思議力
善男子、第七に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子・善女人、仏の在世若しは滅度の後に於て、是の経を聞くことを得て、歓喜し信楽し希有の心を生じ、受持し読誦し書写し解説し説の如く修行し、菩提心を発し、諸の善根を起し、大悲の意を興して、一切の苦悩の衆生を度せんと欲せば、未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜自然に在前し、即ち是の身に於て無生法忍を得、生死・煩悩一時に断壊して菩薩の第七の地に昇らん。
譬えば健やかなる人の王の為に怨を除くに、怨既に滅し已りなば王大に歓喜して、賞賜するに半国の封悉く以て之を与えんが如く、持経の善男子・善女人も亦復是の如し。諸の行人に於て最も為れ勇健なり。六度の法宝求めざるに自ら至ることを得たり。生死の怨敵自然に散壊し、無生忍の半仏国の宝を証し、封の賞あって安楽ならん。善男子、是れを是の経の第七の功徳不思議の力と名く。
【第七の功徳】 日々の行動が自然と『六波羅蜜』の通りになり、人生苦から解放・・・
「『第七の功徳』は、その人が仏の教えを聞いて喜びを覚え、さらに仏の教えを強く求める心を起こしたならば、『五種法師の行』を修することができ、その結果、最高の悟りを求める決意を立てるようになります。そして様々な善行を行うようになり、そればかりか人の不幸を取り除き、苦しみ悩む全ての人を救う願いを持つようになります。その人は未だ六波羅蜜を完全に修めていなくても、自然と『六波羅蜜』を完成したようになります。そして、娑婆世界に生きる凡夫の身でありながらも、目の前の現象に引きずられて苦しむことはなくなり、煩悩を断つことが出来るようになります。さらに菩薩の高い境地を得ることができ、それによって多くの人々と『自他一体』になる境地を得ます。譬えば、全ての敵をことごとく打ち払った最高の勇士に対して、国王は大いに喜び、国土の半分の領地を褒美として与えるのと同じで、教えの実践者は自然と『六波羅蜜』を身につけることができ、しかも成仏するための半分の功徳にあたる『無生法忍・むしょうぼうにん』という境地を自得するようになります。そして結果的に、悟りを得ることになり、安楽に過ごすことができるようになります」
第六の功徳 治等不思議力
善男子、第六に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子・善女人、若しは仏の在世若しは滅度の後に、是の経典を受持し読誦せん者は、煩悩を具せりと雖も、而も衆生の為に法を説いて、煩悩生死を遠離し一切の苦を断ずることを得せしめん。衆生聞き已って修行して得法・得果・得道すること、仏如来と等しくして差別なけん。譬えば王子復稚小なりと雖も、若し王の巡遊し及び疾病するに、是の王子に委せて国事を領理せしむ。王子是の時大王の命に依って、法の如く群僚百官を教令し正化を宣流するに、国土の人民各其の要に随って、大王の治するが如く等しくして異ることあることなきが如く、持経の善男子・善女人も亦復是の如し。若しは仏の在世若しは滅度の後、是の善男子未だ初不動地に住することを得ずと雖も、仏の是の如く教法を用説したもうに依って而も之を敷演せんに、衆生聞き已って一心に修行せば、煩悩を断除し、得法・得果・乃至得道せん。善男子、是れを是の経の第六の功徳不思議の力と名く。
【第六の功徳】人生苦を断ち切れ、尊い境地に至ってなくても人を幸せに導ける・・・
「『第六の功徳』は、その人が煩悩を持つ身であっても、その人が衆生のために法を説くと、多くの人々を、煩悩による苦や変化に動揺する『凡夫の境地』から離れさせ、『人生苦』を断ち切ることが出来るようになります。そしてその人自身も仏と同じ悟りの境地に達することができます。それはあたかも、王子が幼い時、大王が不在または病弱であっても、王子が大王の言いつけの通りに政(まつりごと)を行えば、国全体が自然と治まっていくのと同じです。その人が菩薩の境地に至っていなくても、その人が説いた教えを実践していくと、世の多くの人々は煩悩を除き去り、菩薩の道を得ることができるようになります」。
第五の功徳 龍子不思議力
善男子、第五に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子・善女人、若しは仏の在世若しは滅度の後に、其れ是の如き甚深無上大乗無量義経を受持し読誦し書写することあらん。是の人復具縛煩悩にして、未だ諸の凡夫の事を遠離すること能わずと雖も、而も能く大菩薩の道を示現し、一日を演べて以て百劫と為し、百劫を亦能く促めて一日と為して、彼の衆生をして歓喜し信伏せしめん。善男子、是の善男子・善女人、譬えば龍子始めて生れて七日に、即ち能く雲を興し亦能く雨を降らすが如し。善男子、是れを是の経の第五の功徳不思議の力と名く。
【第五の功徳】 大菩薩と同じ行動ができ、一日の精進が何万年分の精進と同じになる・・・
「『第五の功徳』は、まだ『煩悩』が残り、凡夫の境界にいても、大菩薩と同じ尊い結果現象を現わすことが出来、 一日の精進が何万年分の修行に値するようになります。また何万年分の修行の成果が、その人の一日の精進で悟りを得ることが出来るようになります。ですからその人が説く法を聞くと、多くの人々は『仏法を聞く喜び』をすぐさま得られるようになります。たとえその人が凡夫の身であっても、変わりはありません。それは生後7日目の龍の子であっても、ちゃんと雲を起こし、雨を降らせることができるのと同じであります」
第四の功徳 王子不思議力
善男子、第四に是の経の不可思議の功徳力とは、若し衆生あって是の経を聞くことを得て、若しは一転、若しは一偈乃至一句もせば、勇健の想を得て、未だ自ら度せずと雖も而も能く他を度せん。諸の菩薩と以て眷属と為り、諸仏如来、常に是の人に向って而も法を演説したまわん。是の人聞き已って悉く能く受持し、随順して逆らわじ。転た復人の為に宜しきに随って広く説かん。
善男子、是の人は譬えば国王と夫人と、新たに王子を生ぜん。若しは一日若しは二日若しは七日に至り、若しは一月若しは二月若しは七月に至り、若しは一歳若しは二歳若しは七歳に至り、復国事を領理すること能わずと雖も已に臣民に宗敬せられ、諸の大王の子を以て伴侶とせん、王及び夫人、愛心偏に重くして常に与みし共に語らん。所以は何ん、稚小なるを以ての故にといわんが如く、善男子、是の持経者も亦復是の如し。諸仏の国王と是の経の夫人と和合して、共に是の菩薩の子を生ず。若し菩薩是の経を聞くことを得て、若しは一句、若しは一偈、若しは一転、若しは二転、若しは十、若しは百、若しは千、若しは万、若しは億万・恒河沙無量無数転せば、復真理の極を体ること能わずと雖も、復三千大千の国土を震動し、雷奮梵音をもって大法輪を転ずること能わずと雖も、已に一切の四衆・八部に宗み仰がれ、諸の大菩薩を以て眷属とせん。深く諸仏秘密の法に入って、演説する所違うことなく失なく、常に諸仏に護念し慈愛偏に覆われん、新学なるを以ての故に。善男子、是れを是の経の第四の功徳不思議の力と名く。
【第四の功徳】 菩薩たちと仲間になり、仏から手厚く守護される・・・
「『第四の功徳』は、この教えを一句でも聞けば、悟りを得るためのあらゆる困難にも負けない強い心が生じ、まだ悟っていなくとも、他の人を救えるようになります。その人は多くの菩薩の仲間となり、いつも仏がその人に向き合って、一対一で法を説いてくださいます。そして教えを聞くと、すっかり身に具えることができ、教え通りに実践をして、行動に誤りがありません。さらに多くの人に法を説き、 相手の機根に応じて的確に法を説くことができるようになります」。
「この人は、例えば、王家に生まれた王子が、多くの愛情を受けて育ち、幼いながらも他国の王族と対等に付き合うことが出来る王子に育ち、国王と王妃が常にそばにいて王子を守ってくれているように、教えを実践する人のそばには、いつも仏がついていて守ってくれます。そしてこの人が法を説くならば、人間のみならず仏法を守護する諸天善神からも敬われるようになり、大菩薩の仲間入りを果たすことができます。そして、真実を誤らずに説くことが出来、いつも諸仏から深い慈悲を受けて、親が子を守るように手厚く守護されます」
第三の功徳 船師不思議力
善男子、第三に是の経の不可思議の功徳力とは、若し衆生あって是の経を聞くことを得て、若しは一転、若しは一偈乃至一句もせば、百千万億の義に通達し已って、煩悩ありと雖も煩悩なきが如く、生死に出入すれども怖畏の想なけん。諸の衆生に於て憐愍の心を生じ、一切の法に於て勇健の想を得ん。壮んなる力士の諸有の重き者を能く担い能く持つが如く、是の持経の人も亦復是の如し。能く無上菩提の重き宝を荷い、衆生を担負して生死の道を出す。未だ自ら度すること能わざれども、已に能く彼を度せん。猶お船師の身重病に嬰り、四体御まらずして此の岸に安止すれども好き堅牢の舟船常に諸の彼を度する者の具を弁ぜることあるを、給い与えて去らしむるが如く、是の持経者も亦復是の如し。五道諸有の身百八の重病に嬰り、恒常に相纏わされて無明・老・死の此の岸に安止せりと雖も、而も堅牢なる此の大乗経無量義の能く衆生を度することを弁ずることあるを、説の如く行ずる者は、生死を度することを得るなり。善男子、是れを是の経の第三の功徳不思議の力と名く。
【第三の功徳】 煩悩があっても煩悩が無いのと同じになり、人生の「変化」に負けない・・・
「『第三の功徳』は、まだ心の底に『煩悩』が残っていても、全く煩悩がないのと同じようになり、人生におけるどんな『変化』にあおうとも、動揺し、引きずり込まれ、恐れたり、悩み苦しむようなことはありません。そして、煩悩に苦しむ全ての人に『救いの手』を差し伸べる心が生まれ、どんな困難をも乗り切る『勇気と力』を得ることができます。たとえ自分は悟っていなくても、他の人を悟りへと導くことが出来るようになります。それは、渡し守の船頭が病気で船を操作することができなくても、船がしっかりしていて道具も揃い、その道具の使い方を教えていれば、誰でも人を向こう岸へ渡らせることができるように、『無量義』の教え通りに行うならば、人々を様々な人生の『変化』による苦しみから救い出すことができるようになります」
第二の功徳 義生不思議力
善男子、第二に是の経の不可思議の功徳力とは、若し衆生あって是の経を聞くことを得ん者、若しは一転、若しは一偈乃至一句もせば、則ち能く百千億の義に通達して、無量数劫にも受持する所の法を演説すること能わじ。所以は何ん、其れ是の法は義無量なるを以ての故に。善男子、是の経は譬えば一の種子より百千万を生じ、百千万の中より一一に復百千万数を生じ、是の如く展転して乃至無量なるが如く、是の経典も亦復是の如し。一法より百千の義を生じ、百千の義の中より一一に復百千万数を生じ、是の如く展転して乃至無量無辺の義あり。是の故に此の経を無量義と名く。善男子、是れを是の経の第二の功徳不思議の力と名く。
【第二の功徳】 教えを少し聞いただけで、全ての仏の教えが理解できる・・・
「『第二の功徳』は、この教えのほんの一部だけを聞いたとしても、ただそれだけで、『数えきれない、仏の全ての教えの内容に通ずる』ことができます。したがって、その人が会得した教えを説こうとするならば、無限の時間を費やしても説き尽くすことが出来ません。なぜならこの『無量義の教え』は、あまりにも深遠であるからです。たとえて言うならば一つの種子から多くの実がなり、そして最終的に限りない種が生じるよう、この『無量義の教え』はこれをもととして数限りない教えの内容が生まれ出て来るのです。だから『無量義』と名づけたのであります」
第一の功徳 浄心不思議力
仏の言わく。善男子、第一に、是の経は能く菩薩の未だ発心せざる者をして菩提心を発さしめ、慈仁なき者には慈心を起さしめ、殺戮を好む者には大悲の心を起さしめ、嫉妬を生ずる者には随喜の心を起さしめ、愛著ある者には能捨の心を起さしめ、諸の慳貪の者には布施の心を起さしめ、憍慢多き者には持戒の心を起さしめ、瞋恚盛んなる者には忍辱の心を起さしめ、懈怠を生ずる者には精進の心を起さしめ、諸の散乱の者には禅定の心を起さしめ、愚痴多き者には智慧の心を起さしめ、未だ彼を度すること能わざる者には彼を度する心を起さしめ、十悪を行ずる者には十善の心を起さしめ、有為を楽う者には無為の心を志さしめ、退心ある者には不退の心を作さしめ、有漏を為す者には無漏の心を起さしめ、煩悩多き者には除滅の心を起さしむ。善男子、是れを是の経の第一の功徳不思議の力と名く。
【第一の功徳 】『四無量心』と『六波羅蜜』を修し、自他一体となっていく・・・
世尊はお答えになりました。「もしある人がこの『無量義』の教えを聞いて、一行でも一句でも理解したならば、次のような功徳を得ることができます。まず『第一の功徳』とは、だれもが仏を目指すという『発菩提心』を起こします。そしてあらゆる人と自他一体になることができ、『四無量心(慈悲喜捨)』の徳目を具え、大慈悲心を起こすことができます。そしてそればかりか、人を妬(ねた)む心や物事にとらわれる愛着の心を無くし、さらには何よりも『六波羅蜜』の徳行を修めることができます。さらには、自分だけではなく他の人々と共に救われなければ、『本当の幸せはない』ということが判り、ひとりでに他を救おうという心が自然と涌き起こります。殺生・妄語・邪淫などの悪行は全て無くなり、現象の変化に惑わされず、仏道精進が後戻りすることが無くなり、煩悩を無くそうという心が、これもまた自然と起きるようになります」
○未発心者→発菩提心
○無慈仁者→起於慈心
○好殺戮者→起大悲心
○生嫉妬者→起隨喜心
○有愛著者→起能捨心
○諸慳貪者→起布施心
○多驕慢者→起持戒心
○瞋恚盛者→起忍辱心
○生懈怠者→起精進心
○諸散乱者→起禅定心
○於愚癡者→起智慧心
○未能度彼者→起度彼心
○行十悪者→起十善心
○楽有為者→志無為心
○有退心者→作不退心
○為有漏者→起無漏心
○多煩悩者→起除滅心
慈心
自他一体になると、他者の幸せを願わずにはおれない。
慈とは、マイトリー maitrī の中国語訳です。ミトラ mitra が語源で、もともとの意味は、「友情」です。真の友情があれば、相手の喜びを自分のことのように喜び、相手の幸せを自分の幸せのように願うことでしょう。しかし、そのような友情は親友のような深い関係でなければなかなか育ちません。一生を通じて親友と言えるのは少ないと思います。仏教では、出会う人を友人だと思って接し、相手が必要とすることを必要なだけ施します。そのためには、自他一体という無分別の境地に入ることが大事です。
述歎
爾の時に世尊、大荘厳菩薩摩訶薩に告げて言わく。善哉善哉、善男子、是の如し是の如し、汝が説く所の如し。善男子、我是の経を説くこと甚深甚深真実甚深なり。
すると世尊は大変お喜びになり、お答えくださいました。「よろしい、大荘厳菩薩よ。そなたの言う通りこの教えはこの上なく尊く深遠なるものです。私がこの教えを説く理由は、私の深い、深い心から出ているものです。
:
:
釈
所以は何ん、衆をして疾く無上菩提を成ぜしむるが故に、一たび聞けば能く一切の法を持つが故に、諸の衆生に於て大に利益するが故に、大直道を行じて留難なきが故に。
なぜこの教えを説くのかと言えば、この教えは人々を直接、仏の悟りへと導くものだからです。そして、この教えを一度聞けば、あらゆる物事を正しく、的確に判断することができます。
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来至住の問に答う
善男子、汝、是の経は何れの所よりか来り、去って何れの所にか至り、住って何れの所にか住すると問わば、当に善く諦かに聴くべし。善男子、是の経は本諸仏の室宅の中より来り、去って一切衆生の発菩提心に至り、諸の菩薩所行の処に住す。善男子、是の経は是の如く来り是の如く去り是の如く住したまえり。
あなたはこの教えの『①大本・②目的・③誰が、この教えを護持するのか』についての質問をしましたが、それについて答えましょう。いいですか、よく聞くのですよ。この教えの『大本』は、『諸仏の本心・諸仏の本願』からあらわれたもので、それは《真実の慈悲》から生じたものであり、教えの『目的』は、一切衆生に『最高無上の悟りを求める心を起こさしめる』《最高の智慧を得る》ために説かれたものであり、『誰が教えを護持するのか』は、それは人が『菩薩行を実践する』所に存在するもので、《たゆみない実践の中で、その真価を発揮》するのであります。しかもそればかりではありません。
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①無量義の教えはどこから来たのか? → 諸仏の心の内
②無量義の教えはどこへ去るのか? → 一切衆生の覚りを求める心
③無量義の教えはどこに留まるのか? → 多くの菩薩の修行の中
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如来の試問
善男子、汝、寧ろ是の経に復十の不思議の功徳力あるを聞かんと欲するや不や。
「この教えを実践すると、甚大な『十の功徳』があります。大荘厳よ、この『十の功徳』を聞きたいとは思いませんか」。
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大荘厳菩薩の言さく。願わくは聞きたてまつらんと欲す。
大荘厳菩薩は、即座に申し上げました。「世尊よ。どうぞその『十の功徳』についてお教え下さい」。
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十功徳
①浄心不思議力
②義生不思議力
③船師不思議力
④王子不思議力
⑤龍子不思議力
⑥治等不思議力
⑦賞封不思議力
⑧得忍不思議力
⑨抜済不思議力
⑩登地不思議力
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無量義経 十功徳品第三
無量義経 十功徳品第三
流通分
無量義経は、三章構成です。第一章の「徳行品」が序分、「説法品第二」が正宗分、「十功徳品第三」が流通分に当たります。流通とは、パルヤヴァダーパイトル paryavadāpayitṛ の中国語訳であり、「途切れることも止まることもなく、継続的に流れるという意味」です。川の流れのように、教えを切らさず、滞らさずに広めることをいいます。よって流通分では、正宗分で説かれた内容を弟子たちが受持し、仏が弟子たちに広宣流布を委ね、弟子たちがそれを誓願します。その時、仏は、その教えの功徳を明かすことで弟子たちを鼓舞します。十功徳品でも功徳が主に伝えられています。
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功徳(くどく)
グゥナ guṇa = 徳、美徳、才能、性質
プゥニャ puṇya = 清い、清浄な、善行
優れた美徳、貴重な品質。自分の善行に応じて蓄積されるもの
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流通分の重要さ
~われわれ凡夫は尊い教えを聞くとその当座は、なるほどと深く感銘します。その教えを実践してゆきたいという気持にもなります。しかし、よほどの人でない限りその気持ちはしっかりと固まったものではなく、何か身辺に面白くない変化が起こると、つい教えられたことを忘れて、怒ったり、驚いたり、悲しんだり、悩んだりしがちです。ですから、われわれ凡夫は、教えを聞いたらどんなことがあっても、教えを放さないという決定(けつじょう)を起こさなければなりません。そのためには、この教えにつかまっておれば、どんなことがあっても大丈夫だ! という確信がなければなりません。その確信を心に植え付けるために説かれるのが〈流通分〉です。
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心が環境を変える
~われわれの人生途上にはさまざまな変化が起こります。真実の教えを知らない者は、その千差万別の現象・変化に引きずり回されて、心の安まりはありません。環境にどのような変化が起ころうとも究極の真理(本仏)に生かされているのだという安心感をもって悠々としておれば、どのようなことが起こっても動ぜずに適切な判断にしたがって行動できますから、境遇は必ず好転するようになるのです。
~この世のすべては仏教の根本の教えである〈縁起の法則〉が説き示しているように、因と縁の和合によって変化していくものなのです。ですから自分がどのような因となり、縁となっていくかによって、自分をとりまく環境はどのようにでもかわるのです。つまり、私たちは仏さまの「智慧・慈悲」を身につけて、〈千変万化する現象もすべて自分がその因となり縁となっているのだから、自分が良い方向に行くことを念じ、努力を続けていけば必ず物事は良くなっていくのだ〉と確信し、行動することが第一なのです。まさしく〈三界は唯心の所現〉なのです。それを困難なことに出合うと、すぐに難しいことだからこそ、環境を変えることなど不可能だとあきらめてしまうのは、われわれが小さな我にとらわれているからにほかならないのです。もしわれわれが本当に仏さまと相通ずる心を持つことができ、仏さまのお心の如くに行動することができるようになれば、その程度に応じて、確かに環境を変えることができるのです。
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~この解説を読むと、物事には、善いことと悪いことが有るということが前提になっているようです。善いとか悪いというのは、分別による見方なので、真理においてはそのような区別はありません。性相空寂です。真理と事象には、実体が無く、縁起から離れていますので安楽の境地です。これは因である、これは縁である、これは果である、と固定的に観るのも分別ですから、真理を知ろうとするのなら、そういう思考からも離れたほうがいいでしょう。せっかく説法品で性相空寂を学んだのですから、それを活かした方がいいように思います。
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三界は唯心の所現
~「三界唯心」とは、華厳経に出てくる言葉であり、三界における事象は個々の心が作っていると観る教えです。後の唯識に大きな影響を与えています。三界とは、仏教の世界観で、生きとし生けるものが生死(輪廻)を繰り返し、苦しみ多き迷いの生存領域を分類したもので、欲界(よくかい)、色界(しきかい)、無色界(むしきかい)の3種を指します。つまり、凡夫の世界です。凡夫の世界は、実は個人が心で描いているのであって、実在する世界とは異なります。このことに気づくためには、深く瞑想をし、思惟する必要があるのであって、簡単に気づけることではありません。無量義経だけでも難しいのに、華厳経まで取り上げると聞く者は混乱してしまうのではないでしょうか?
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無量義経を結歎する
善男子、是の故に我説く、微妙甚深無上大乗無量義経は、文理真正なり、尊にして過上なし。
善男子よ。この尊い『無量義の教え』は、その内容は真実であり、正しく、この上なく尊いものです。これ以上の教えは他にはありません。
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経約を明かす
三世の諸仏の共に守護したもう所、衆魔外道、得入すること有ることなし。一切の邪見生死に壊敗せられずと。
ですからこの教えを実践し、法を広める者は、過去・現在・未来の全ての諸仏から守護されるのです。そして邪魔者から妨害され、よこしまな見方・考え方に惑うことはなく、人生のどんな『変化』に出会っても、くじけたり、打ち負かされることなどありません。
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勧学
菩薩摩訶薩、若し疾く無上菩提を成ぜんと欲せば、当応に是の如き甚深無上大乗無量義経を修学すべし。
菩薩が、もし速やかに無上の覚りを成じたいのなら、まさにこの無量義経を修学してください。
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此方 随喜し供養する分
仏、是れを説きたもうこと已って、是に三千大千世界六種に震動し、自然に空中より種種の天華・天優鉢羅華・鉢曇摩華・拘物頭華・分陀利華を雨らし、又無数種種の天香・天衣・天瓔珞・天無価の宝を雨らして上空の中より旋転して来下し、仏及び諸の菩薩・声聞・大衆に供養す。天厨・天鉢器に天百味食充満盈溢し、天幢・天旛・天軒蓋・天妙楽具処処に安置し、天の妓楽を作して仏を歌歎したてまつる。
釈尊がこのようにお説きになりますと、世界中は感動のあまりに打ち震い、天から美しい花々が降ってきました。そして様々な香(かぐわ)しい香りや、価(あたい)もつけられない数々の貴重な宝が降りそそがれ、釈尊のみならず、その教えを聞く菩薩や一般の人々にも注がれて供養されました。
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他方 随喜し供養する分
又復六種に東方恒河沙等の諸仏の世界を震動し、亦天華・天香・天衣・天瓔珞・天無価宝・天厨・天鉢器・天百味・天幢・天旛・天軒蓋・天妙楽具を雨らし、天の妓楽を作して彼の仏及び彼の菩薩・声聞・大衆を歌歎したてまつる。南西北方四維上下も亦復是の如し。
そして東方の世界で同じような奇瑞(きずい)が起こり、そればかりか十方世界の全てでも同じように仏と菩薩、人々が供養されるのでありました。
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菩薩の得益
是に衆中の三万二千の菩薩摩訶薩は無量義三昧を得、三万四千の菩薩摩訶薩は無数無量の陀羅尼門を得、能く一切三世の諸仏の不退の法輪を転ず。
すると、聴聞(ちょうもん)している多くの菩薩たちは、無量義の教えに集中する禅定の境地(『無量義三昧』)を得ました。そして、悪をとどめ、善を行う無限の力を得て、三世の諸仏が説き続けて来た『無量義の教え』を受け継いで、それを説き広めることができるようになりました。
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小乗の得益
其の諸の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・大転輪王・小転輪王・銀輪・鉄輪・諸輪の王・国王・王子・国臣・国民・国士・国女・国大長者及び諸の眷属百千衆倶に、仏如来の是の経を説きたもうを聞きたてまつる時、或は煖法・頂法・世間第一法・須陀洹果・斯陀含果・阿那含果・阿羅漢果・辟支仏果を得、
その諸々の男性の出家者・女性の出家者・男性の在家者・女性の在家者・天の神々・龍神・鬼神・精霊・阿修羅・ガルーダ・キンナラ・マホガラ・大転輪王・国王・王子・国臣・国民・国士・国女・長者・及び諸々の多くの眷属と共に、仏のこの経を聞いた時、さまざまな果報を得ました。
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大乗の得益
又菩薩の無生法忍を得、又一陀羅尼を得、又二陀羅尼を得、又三陀羅尼を得、又四陀羅尼・五・六・七・八・九・十陀羅尼を得、又百千万億陀羅尼を得、又無量無数恒河沙阿僧祇陀羅尼を得て、皆能く随順して不退転の法輪を転ず。無量の衆生は阿耨多羅三藐三菩提の心を発しき。
また、菩薩は無生法忍を得、多くの陀羅尼を得、皆、よく従って不退転の教えを転じました。無量の人々は、無上の覚りを求める心を起しました。
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法身仏の説法
善男子、是の義を以ての故に、一切の諸仏は二言あることなく、能く一音を以て普く衆の声に応じ、能く一身を以て百千万億那由他無量無数恒河沙の身を示し、一一の身の中に又若干百千万億那由他阿僧祇恒河沙種種の類形を示し、一一の形の中に又若干百千万億那由他阿僧祇恒河沙の形を示す。善男子、是れ則ち諸仏の不可思議甚深の境界なり。二乗の知る所に非ず、亦十地の菩薩の及ぶ所に非ず、唯仏と仏とのみ乃し能く究了したまえり。
善男子よ。一切の諸仏が説く『真理』は、二つはありません。ただ一つだけです。しかし、その『真理』を多くの人々に説くためには、仏は様々な説き方、現わし方をするのです。ですから『仏の本体はただ一つですが、その一つの身が無数の身に変わり、無数のはたらきという〈変化〉として現れる』のです。このことは、声聞や縁覚の境地の人には理解することができません。いや、たとえ菩薩のなかの最高の境地の菩薩であっても、このことは分からないでしょう。ただ仏だけが本当に知り得るものです。
善男子よ。このことから、一切の諸仏は二言あることなく、よく一音によって衆生の声に応じ、よく一身をもって、無量の身を示し、それぞれの身の中にまた無量の種種の類形を示し、それぞれの形の中にまた無量の形を示します。このことは、諸仏の不可思議で甚深の境界です。声聞・縁覚の知る所ではなく、また十地の菩薩の及ぶ所ではありません。ただ仏と仏とのみが、よく究了しています。
~いよいよ難しいことになってきました。仏の本体は「ただ一つの宇宙の大真理・大生命」であり、その分身がいろいろ様々な形をとって現われ、いろいろ様々なはたらきや、形式によって、我々を教え、導き、救っていてくださるのだということも、静かに思いをこらしてみると、確かにそうだ、と解ってきます。特にここで大切なのは、仏がいろいろ様々な身となり、いろいろ様々なはたらきや形式で人を導かれるということです。(仏は常に仏の形や、宗教家の形をとって世の中に現われるとは限りません。その現われは千差万別なのです。)
~仏の本体は「ただ一つの宇宙の大真理・大生命」である、という表現には違和感があります。仏の本体は真理(法)なのでしょうが、それを大生命というと違うように思えます。仏教では、無我や空を説いて、一切の実体を否定しているのに、大生命という言葉を使うことによって、そこに実体を見ることになりそうだからです。この表現だと、宇宙には仏という超人的な存在がおり、人々を救い教化していると考える人が出てくるのではないでしょうか? まるで、神のような存在です。仏は神ではありませんので、このような表現はしないほうがいいでしょう。
~ここでは、真理を体とする仏である「法身仏」のことが説かれています。現象は、真理によって展開しますので、現象としての応身仏と真理としての法身仏は一体です。法身仏は、一人一人の衆生に応じて、教化・救済のために、相応しい現象を起こしていると観ます。現象こそが法身仏の説法なのです。これまで、「仏は方便(言葉)によって真理へと導く」とお伝えしてきましたが、ここでは、「本仏は現象によって真理へと導く」と説かれています。方便とは、言葉だけではなく、現象のことでもあります。仏菩薩が、相手に相応しく示現して教化・救済することを「普門示現」といいます。法華経の観世音菩薩普門品第二十五では、普門示現が詳しく説かれています。このことは、諸仏の不可思議甚深の境界であり、声聞・縁覚・十地の菩薩には分からないことです。ただ仏と仏とが知っています。
~仏は、苦・空・無常・無我・非真・非仮・非大・非小・本来生ぜず今亦滅せず、一相・無相・法相・法性・不来・不去、しかも諸々の衆生四相に変化すると説いてきました。それは、俗諦であり、最高の真理へと導くための教えです。ここでは、そのことを無量に展開する教えというテーマで説いています。仏は一音によって衆生を救います。一音とは、一つの真理のことです。その一つの真理は、もとは一つの身であっても、無量の衆生を救うために無量の身を示し、またその身の中に無量の類形を示し、それぞれの形の中にまた無量の形を示します。つまり、無量の衆生を救い教化するために、真理は無量の現象を示すのです。それが善い内容であっても、悪い内容であっても、その現象を通して私たちを学ばせようとしています。
月をさす指
是の故に善男子、我道を得て初めて起って法を説きしより、今日、大乗無量義経を演説するに至るまで、未だ曾て苦・空・無常・無我・非真・非仮・非大・非小・本来生ぜず今亦滅せず、一相・無相・法相・法性・不来・不去なり、而も諸の衆生四相に遷さるると説かざるにあらず。
私はこれまで変わることなく【苦・空・無常・無我】を説き、この世は生ずることも滅することはなく、 【一相・いっそう】といって真理の根本は『ただ一つ』であり、【無相・むそう】という『差別のない相(すがた)』で、『現象に現われる相(すがた)・性質』、つまり【法相・ほっそう/法性・ほっしょう】は、「来る」ことも「去る」こともない『すべては一つ』であると説いてきました。そして目の前の物事・現象を、【生・住・異・滅】という『変化』に心を惑わせ、迷ってはならないと説いてきました。
このことから善男子よ。私は道を得て初めて法を説いた時より、今日、大乗無量義経を説くに至るまで、未だ曾て、苦・空・無常・無我・非真・非仮・非大・非小・本来生ぜず今亦滅せず、一相・無相・法相・法性・不来・不去、しかも諸々の衆生四相に変化すると説かなかったことはありませんでした。
~苦・空・無常・無我・非真・非仮・非大・非小などの言葉は、俗世においては真理だと思われています。しかし、それらは俗諦であって、最高の真理ではありません。俗諦とは、俗世の言葉によって表された真理のことです。言葉の制約があるために、最高の真理については言い表すことはできません。最高の真理とは、真諦のことであり、法華経では、妙法といわれています。俗諦は、方便であり、真諦へと導くために説かれました。釈尊は、真理そのものは説いて来なかったけれど、真理を覚れるように重要なヒントを示されてこられたのです。これらの言葉は「月をさす指」だと知る必要があります。賢者は指がさす方を見て月を知りますが、愚者は指に執着して月を見ようとはしません。
~ところで、Rの会では、「ただ一つ」「すべては一つ」だということを強調されています。「一相といって真理の根本は『ただ一つ』であり」と説明していますが、何が一つなのかがよく分かりません。真理の根本とは何なのでしょう? 真理自体が分からないのに、真理の根本が分かるのでしょうか? しかも、それが「ただ一つ」だとする根拠は何でしょうか? 一相とは、「差別や対立のない絶対的な平等」のことです。絶対的な平等なので、「ただ一つ」だと言っているのかも知れませんが、どうも納得がいきません。もう少し説明が必要だと思います。何が一つなのか? なぜ一つなのか? どのように一つなのか?
水の譬え
善男子、法は譬えば水の能く垢穢を洗うに、若しは井、若しは池、若しは江、若しは河、渓・渠・大海、皆悉く能く諸有の垢穢を洗うが如く、其の法水も亦復是の如し、能く衆生の諸の煩悩の垢を洗う。善男子、水の性は是れ一なれども江・河・井・池・渓・渠・大海、各各別異なり。其の法性も亦復是の如し、塵労を洗除すること等しくして差別なけれども、三法・四果・二道不一なり。善男子、水は倶に洗うと雖も而も井は池に非ず、池は江河に非ず、渓渠は海に非ず。如来世雄の法に於て自在なるが如く、所説の諸法も亦復是の如し、初・中・後の説、皆能く衆生の煩悩を洗除すれども、而も初は中に非ず、而も中は後に非ず。初・中・後の説、文辞一なりと雖も而も義各異なり。
善男子よ、例えば水には井戸や池、大きな川や谷川、用水路や海など様々な水があります。それぞれは違う水です。しかし違う水ではあっても、どの水も『汚れを洗い落とす』という意味では『同じ水』ですが、井戸と池は違います。また谷川や用水路、海も違います。これと同じで如来は自由自在に教えを説きますが、説く教えの現われ方はさまざまです。つまり仏の教えは、人々の苦しみを取り除くという点では『同じ』であり『違い』はありませんが、私が説いた初期の教え、中期の教え、そして後期の教えは、『同じ』ようのようでも、『違い』があるのです。すべての教えが同一だとは言えません。『内容の深さ』において違いがあるのです。
善男子よ。教えは、たとえば水がよく垢や汚れを洗うように、井戸にせよ、池にしろ、小さな川にせよ、大きな川にせよ、大海にせよ、よく物の汚れを落とします。教えも同じように、よく人々の様々な煩悩の垢を洗います。善男子よ。水の性は一つだけれど、江・河・井・池・渓・渠・大海、それぞれに差があります。その水の量によって、洗える物の大きさ・量は異なります。法の性もまた同じです。塵労を洗い除く働きは等しくて差別はありませんが、結果としての果報は同じではありません。善男子よ。すべての水は洗うという働きは同じでも、井は池に非ず、池は江河に非ず、渓渠は海に非ずです。如来は法において自在であり、所説の教えも自在です。初・中・後の説、すべてよく衆生の煩悩を洗除しますが、しかも初は中に非ず、しかも中は後に非ずです。初・中・後の説は、言葉としては同じでも、義は異なります。
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諸法は本より来空寂なり
善男子、我樹王を起って波羅奈・鹿野園の中に詣って、阿若拘隣等の五人の為に四諦の法輪を転ぜし時も、亦諸法は本より来空寂なり。代謝して住せず念念に生滅すと説き、中間此及び処処に於て、諸の比丘竝に衆の菩薩の為に、十二因縁・六波羅蜜を弁演し宣説し、亦諸法は本より来空寂なり、代謝して住せず念念に生滅すと説き、今復此に於て、大乗無量義経を演説するに、亦諸法は本より来空寂なり、代謝して住せず念念に生滅すと説く。善男子、是の故に初説・中説・後説、文辞是れ一なれども而も義別異なり。義異なるが故に衆生の解異なり。解異なるが故に得法・得果・得道亦異なり。
善男子よ、鹿野苑で私が初めて法を説いた時、私は五比丘のために『四諦』を説きました。この時もこの世の実相は『空寂』であると説きました。また中期以降、比丘や菩薩に『十二因縁』、『六波羅蜜』を説きましたが、その時、同じくこの世の実相は『空寂』であると説きました。そして今、ここで『無量義経』を説くにあたっても、同様にこの世の実相は『空寂』であると説いています。しかし善男子よ。初期、中期、そして後期である今においても、私が説く『言葉は同じ』ではありますが、その内容には大きな『開き』があります。内容に『開き』があるため、それを受け止める人々の『受け取り方』にも違いが生じます。ですから、教えを聞いて得た『悟り』にも、当然『違い』が生まれてくるのです。
善男子よ。最初、鹿野園において、五比丘に対し四諦の法輪を説いた時、諸法は本来空寂であり、変化してとどまらず、刻々と生滅すると説きました。中間、霊鷲山などにおいて、諸々の比丘や菩薩に対し十二因縁・六波羅蜜を説いた時、諸法は本来空寂であり、変化してとどまらず、刻々と生滅すると説きました。今、またここにおいて、大乗無量義経を説いた時、諸法は本来空寂であり、変化してとどまらず、刻々と生滅すると説きました。善男子よ。このことによって、初説・中説・後説、言葉は同じではありますが、義は異なります。義が異なるので、衆生の理解は異なり、理解が異なるために、結果としての果報は同じではありません。
~「諸法は本来空寂であり、変化してとどまらず、刻々と生滅する」というのは、「あらゆる事物・現象は、もともと空であり、安楽の境地にある。一瞬たりともとどまらず、刻々と生滅する」ということです。真理としては、本来空寂ですが、凡夫がとらえる現象世界においては、変化してとどまらず、刻々と生滅するのです。そのことを伝えるために初説においては四諦を説き、中説においては十二因縁・六波羅蜜を説き、後説においては大乗無量義経を説きましたので、教義が異なります。教義が異なるために結果としての果報は同じではありません。
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果報
善男子。初め四諦を説いて声聞を求むる人の為にせしかども、而も八億の諸天来下して法を聴いて菩提心を発し、中ろ処処に於て、甚深の十二因縁を演説して辟支仏を求むる人の為にせしかども、而も無量の衆生菩提心を発し、或は声聞に住しき。次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説せしかども、而も百千の比丘・万億の人天・無量の衆生、須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢果、辟支仏因縁の法の中に住することを得。善男子、是の義を以ての故に、故に知んぬ説は同じけれども而も義は別異なり。義異なるが故に衆生の解異なり。解異なるが故に得法・得果・得道亦異なり。
善男子よ。私は初期において声聞の境地を求める者に【四諦】を説き、中期において縁覚の境地を求める者に【十二因縁】を説いてきました。それでも多くの人が菩提心を起し、なかには煩悩の迷いを捨て切る声聞の境地に達した者もいました。そして様々な大乗の教えを説いて、『歴劫修行・りゃっこうしゅぎょう』(生まれ変わり死に変わりして修行を続けていくこと)の大切さを示しましたが、これによって多くの比丘たちや、万億の人間界・天界の人びとは、それぞれが『声聞』や『縁覚』の境地、または『縁起の法則』を身につけることができたのでした。
色付き文字善男子よ。初め、声聞の人々に四諦を説いた時、八億の諸天は菩提心を起こしました。中間、縁覚の人々に十二因縁を説いた時、無量の衆生は菩提心を起こし、次に大乗の教え、般若経、華厳経を説いて、菩薩が非常に長い年月をかけて修行をすることを説いた時、多くの比丘、万億の人天、無量の衆生は、須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢果、辟支仏などの因縁の法の中に住することを得ました。善男子よ。このことから知ってください。説は同じでも義はことなり、義が異なるので衆生の理解は異なります。理解が異なるので結果としての果報は同じではありません。
四十余年未顕真実
これは、決して法惜しみをして真実を打ち明けられなかったものでないことは、もちろんです。おそばで修行してきた人たちの境地は非常に進んできていることですし、ご入滅の近づいたことをも自覚されましたので、いよいよ法の真実のすべて、究極の真理をお説きになるわけです。
釈尊は、弟子たちの機根が低かったから、真理を説かなかったのではなく、真理を説く術がないために説かなかったのです。無我・無常・苦・涅槃だと説いても、それは言葉であり、空・無相・無作を説いても、それは言葉でしかありません。無我・無常・苦・涅槃・空・無相・無作は、真理そのものではなく方便です。そのことをよく知る必要があります。
法華経で、真理をお説きになったというのであれば、その経文を引用してください。じっくりと考えれば、そのことは真理ではなく、方便だと気づくことでしょう。法華経には、「諸仏は、無量無数の方便・種々の因縁・譬喩・言辞を以て、衆生の為に諸法を演説したもう。是の法も皆一仏乗の為の故なり。是の諸の衆生の諸仏に従いたてまつって法を聞きしも、究竟して皆一切種智を得たり」と説かれているように、諸仏が説くのは方便であって、真理は説くことはできません。
正問に答える
是に仏、大荘厳菩薩に告げたまわく、善哉善哉、大善男子、能く如来に是の如き甚深無上大乗微妙の義を問えり。当に知るべし汝能く利益する所多く、人天を安楽し苦の衆生を抜く。真の大慈悲なり、信実にして虚しからず。是の因縁を以て、必ず疾く無上菩提を成ずることを得ん。亦一切の今世・来世の諸有の衆生をして、無上菩提を成ずることを得せしめん。善男子、我先に道場菩提樹下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。仏眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず。所以は何ん、諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず。是の故に衆生の得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず。
すると釈尊は大荘厳菩薩にお答えになりました。
「よろしい。じつに良い質問です。この大乗の教えについて、大事なことをよくぞ聞いてくれました。あなたの質問は大きな功徳を生むもので、人間界・天上界の人びとが、迷いから救われるものとなります。まさに『真の大慈悲』です。そして真の大慈悲であるからこそ、必ず真実のはたらきがあり、実際の成果・効果となって現われます。ムダではありません。その功徳によって、あなたは必ず真っすぐに仏の境地へと至るでしょう。そして現在のみならず未来の多くの人々を、無上の悟りへと導くことができましょう」
「善男子よ。私はかつてブッタガヤの菩提樹下で 6 年間端座して、ついに最高無上の悟りを得ることがでました。そして悟りを開いた仏眼でこの世の出来事を見ると、その時の段階の衆生に対して、悟りをそのまま説くことは、かえって良くないという結論に達しました。なぜなら、人々の『機根・性質・欲望(根性欲)』が様々であるために、その違いにしたがって教えを説き分ける必要があったためです。つまり衆生の『根性欲』の違いに合わせて、法を説いてきたのです。そのために、どうしても真実のすべてを『打ち明ける』ことは出来ず、とうとうこの40年間、究極の真理を解き明かすことはありませんでした。したがって、全ての人びとが真っすぐに、無上の悟りに達するというわけには行かなかったのであります」
仏は、大荘厳菩薩に告げました。「善哉。善哉。大いなる善男子よ。よく如来にこのような甚深無上大乗微妙の義を問いました。よく知ってください。あなたは、利益するろころ多く、人々や神々を安楽させ、衆生の苦を抜きます。真の大慈悲です。誠実であり偽りがありません。この因縁によって、必ず最高の覚りを成じます。また一切の今世と来世の人々は、必ず最高の覚りを成じることでしょう。善男子よ。私は昔菩提樹の下に端座して六年して、最高の覚りを得ることができました。仏の眼で一切の事象を観察したところ、この覚りについては説き広めないほうがいいと思いました。なぜならば、諸々の人々の性格や欲求が異なるからです。人々の性格や欲求が異なるので一人一人を覚りに導こうとするならば、一人一人に応じて種種に教えを説く必要があります。種種に教えを説くために方便力を用いました。これまでの四十余年には、未だに真実を顕していません。このことから人々の得た道は差別して、速やかに無上の覚りを得ることはできませんでした」
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~釈尊は、菩提樹の下で最高の覚りを得たとき、覚った真理は言葉にはできないと察しました。真理そのものを説くことができないので、真理に導くために方便を使うことにしました。方便とは、ウパーヤ upāya の訳であり、原意は、「近づける」です。仏教では、「真理に近づける方法」のことを方便と言います。人によって、根性欲が異なりますので、無量の方便が説かれることになりました。
「無量義とは一法より生ず」とは、「無量の方便は一つの真理より生ず」ということです。仏は、一つの真理をもとにして、無量の方便を説き、人々を成仏へと導いたのです。よって方便は、真理を知るための手掛かりに成りますが、真理そのものではありません。言葉によって説かれたことは、真理ではなく、方便だと知るべきです。四十余年には未だ真実を顕してはいません。表したのは方便であり、真理は顕していません。法華経信者の中には、法華経以前の経典には真理は説かれておらず、法華経において初めて真理が説かれるのだと解釈する人がいますが、法華経においても、文字によって説かれているのですから、そこに真理は説かれていません。
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このことは、般若経においては、基本的な教えです。鳩摩羅什訳の摩訶般若波羅蜜經習應品第三には、次のように説かれています。
佛告舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。應如是思惟。菩薩但有名字佛亦但有字。般若波羅蜜亦但有字。色但有字受想行識亦但有字。
仏は舎利弗に告げました。「菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜の行を行じる時、まさにこのように思惟してください。菩薩とは、ただ名と字が有るのであり、仏もまたただ字だけがあります。般若波羅蜜もあるのは字だけであり、色もただ字だけがあり、受想行識もまた字があるだけです」
名前というのは人間がつけましたので、人類誕生以前には名前はありません。しかし、多くの人々は、そのものと名前とが一体だととらえており、名前があることによって、そのものに実体が有るとみます。個々の名前は、すべて仮です。このように般若経の作者たちは、言葉への不信を訴えています。真理を知る手掛かりとしては言葉は役に立ちますが、言葉を超えたところに真理があります。般若経を学ばずに法華経を読んでも、このような基本的なことも分かりませんので、まずは般若経を学んだ方がいいです。
:無量義 とは一法より生ず。其の一法とは即ち無相 也。是の如き無相は、相なく、相ならず、相ならずして相なきを名けて実相 とす。菩薩摩訶薩 、是の如き真実の相に安住し已って、発する所の慈悲、明諦 にして虚しからず。衆生の所に於て真に能 く苦を抜く。苦既に抜き已って、復為に法を説いて、諸の衆生をして快楽 を受けしむ。相 がないもので、一切の差別を作らず、一切が平等であります。これを名付けて『実相』といいます。菩薩よ。真実の教え(『すべては一つ』。必ず『生・住・異・滅』するという真実)に基づいて、そこから発した『慈悲 と智慧 のはたらき』は、必ず立派な結果となって現われます。ムダには終わりません。すなわち、相手がそのままの境遇で苦から根こそぎ救われ、生きる喜びを得るという現象となって現われるのです。空 を平等のことだと説き、無相も平等のことだと説いています。だということは、空と無相とは同義なのでしょうか? 空は、「個の実体の欠如」のことであり、無相は、「個の特徴の否定」なので意味は異なります。抜苦与楽 です。真理を覚ることこそが、菩薩にとって非常に大事なことです。
実相 鳩摩羅什 は、法華経において、いくつかの語を実相と訳しています。たとえば、ダルマ・スヴァバーヴァ dharma-svabhāva がそれです。本来は、法性 と訳すところを実相と訳しています。それは、仏の覚りによって照らされた内容として理解され、したがって、如実、真実、法身、涅槃、無条件無爲などの概念と同義です。相 が一切ない、すべて「平等」だというのです。《不相》 というのは、差別的なはたらきをしない。差別をつくらないという意味です。 無分別 の境地に入ります。
一法門の義を答える
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経:
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R訳:しかしその数々の教えは、もとを正せば、もともとは『ただ一つの真理(一法)』から生ずるものなのです。『真理・法』とは、特定の
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太郎訳:無量の教義は、一つの真理より生じます。その一つの真理とは、無相です。このような無相は、特徴がなく、特徴をつくりません。特徴をつくらず特徴がないことを実相と言います。菩薩よ、このような真実の相に安住した後に発する慈悲は、明らかに正しいのであって偽りはありません。人々の中で、真によく苦を抜きます。苦を抜き終わると、またその人のために教えを説いて、諸々の人々の快楽を受けさせます。
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太郎論:「無量義とは一法より生ず」という言葉は実に重要です。「無量の教義は、一つの真理より生じている」ということは、一つ一つの教義を深く観れば、大本の真理を知ることが出来るということです。ただし、真理は言葉によって表すことはできませんから、説かれた教義をヒントにして、自分で観察するしかありません。
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太郎論:「其の一法とは即ち無相也」。一つの真理とは、無相です。特徴(相)はありません。特徴がありませんから、表現ができません。言語道断です。特徴が無く、表すことができないので、これを名付けて「実相」といいます。実相とは、真実無相のことです。Rの会では、
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太郎論:決めつけず、こだわらず、とらわれず、固定観念を持たなければ、自由自在に相手と関わることができます。真理を覚った菩薩の慈悲は、明らかに真実であり、嘘偽りはありません。衆生の苦を抜き、衆生に安楽を与えます。
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R論:ただ一つの『真理』とは、無相(特定の相のないもの)であり、一切の「差別」がなく、「差別」をつくらないもの(不相)で、一切の差別をつくらないから、一切が「平等」であり、これを名付けて『実相』というのです。
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太郎論:相というのは、ラクシャナ lakṣaṇa の訳で、特徴・特性・属性・記号・すがた・状態などの意味があります。実相は、タットヴァシャ・ラクシャナン tattvasya-lakṣaṇam の訳です。「ありのままのすがた」の意味です。「真実無相」のことだともいわれます。
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無相・不相
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R論:《無相》の「相」というのは、「差別相」という意味。差別のある
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太郎論:「如是無相。無相不相。不相無相。名為実相」という文は難しいです。無相とは、アラクシャナ alakṣaṇa の訳で、「特徴が無い」ということです。不相のサンスクリットは不明ですが、「特徴をつくらない」「特徴を為さない」ということでしょう。よって、「無相とは特徴のないことです。特徴がないのですから特徴を認識することはできません。特徴を認識できないので特徴はありません。それがあるがままの世界です」ということです。無相とは、人間の言葉をはなれ、心でおしはかることのできないことをいいます。特徴がないのですから、そのものを表す言葉はありません。言語道断であり、不可思議です。これまで、真理を言葉では表せないことを述べてきましたが、実は、事実・現象についても特徴はありませんから、そのものを表現する言葉はありません。すべてにおいて、言語表現から離れていることを実相と呼んでいます。真実は、言葉では表現できません。
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太郎論:事物・現象には、本来意味はありません。意味をつくっているのは個人です。一人一人が個々の意味をつくっています。そして、自分専用の辞書を頭に持ち、その辞書をもとにして、観念を持ちます。幼い頃は、辞書を作っても、何度も書き換えをしてきましたが、大人になると固定してしまいます。固定した辞書を持っているために、観念もまた固定し、こだわり・きめつけを強めます。機根・性質・欲求は、観念によって決定しますから、人の数ほどの異なる根性欲があり、根性欲が無量なので、説法は無量であり、説法が無量なので、教義は無量です。しかし、無量の教義は一つの真理から生じています。それが無相です。特徴はないので区別や差別はなくなり、そのことで一切の執着から離れ、
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一法門の義を答える
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生・住・異・滅
法の相是の如くして是の如き法を生ず。法の相是の如くして是の如き法を住す。法の相是の如くして是の如き法を異す。法の相是の如くして是の如き法を滅す。法の相是の如くして能く悪法を生ず。法の相是の如くして能く善法を生ず。住・異・滅も亦復是の如し。菩薩是の如く四相の始末を観察して悉く遍く知り已って、次に復諦かに一切の諸法は念念に住せず新新に生滅すと観じ、復即時に生・住・異・滅すと観ぜよ。
この『実相』を深く見極めるということは、即ち、この世の全てのものは、例外なく、『生・住・異・滅』の存在であると知ることです。つまり全ては、今までなかった現象・事物が『現象として生じ』《生》、その現象・事物が『そのままの状態で、しばらくは維持し』《住》、そしてその現象・事物が、必ず『異なった形に変化し』《異》、結局は、その現象・事物は、必ず『消滅する』のです。《滅》。菩薩は、全ての現象・事物は、例外なくこの『生・住・異・滅』の法則に従っている、ということを知らなければなりません。ですから菩薩は、全ての現象・事物は、一刻も元のままでとどまっているものはなく、一瞬一瞬、生じ、滅する『生・住・異・滅』という『四相の始末』の変化の法則が、瞬間、瞬時にはたらいているということを、しっかりと悟っていなければなりません。
事象は、このようにして、このように事象を生じます。事象は、このようにして、このように事象にとどまります。事象は、このようにして、このように事象を変化します。事象は、このようにして、このように事象を滅します。事象は、このようにして、悪い事象を生じます。事象は、このようにして、善い事象を生じます。住・異・滅も同様です。菩薩は、このように四相の始末(生・住・異・滅)を観察して、よく知ったなら、次にまた明らかに一切の事象は、瞬瞬に住するのではなく、新新に生滅すると観じ、また即時に生・住・異・滅すと観てください。
~事物・現象は、生じ・とどまり・変化し・滅しています。生・住・異・滅です。事物・現象をよく観察すれば、生じている状態・とどまっている状態・変化している状態・滅している状態があることが分かります。炎を観れば、新しい火が起こり、火はとどまり、火は変化し、火は滅します。瞬瞬に状態が変わっていることが分かります。生・住・異・滅とは、無常のことなのですが、多くの人々は長い時間をかけて変化することだととらえています。しかし、無常とは、瞬瞬の変化のことを言っていますから、刻々と変化していると知ることが重要です。悪いこと、善いことは、長くとどまるものではなく、変化するのです。
~「一切の諸法は念念に住せず新新に生滅すと観じ、復即時に生・住・異・滅すと観ぜよ」と説かれているように、諸法は、長くはとどまらず、新新に生滅しています。固定観念を持つことなく、現象を柔軟に受け入れることが大事です。生・住・異・滅とは、有為法です。有為法とは、因縁によって作られる現象のことです。真理は、無為法ですから、因縁によって生滅するものではありません。凡夫は、有為法の中で生きています。無為法を知りませんから、因縁に従って変化する現象を体験しています。これを「諸行無常」といいます。諸行とは、有為法のことです。
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無量義
是の如く観じ已って衆生の諸の根性欲に入る。性欲無量なるが故に説法無量なり、説法無量なるが故に義も亦無量なり。
衆生をみると、衆生の『機根・性質・欲望 (根性欲・こんじょうよく)』が、千差万別にはたらいていることが分かります。ですから人々に法を説く時、当然、法の説き方も『千差万別』にならざるを得なくなります。仏の説法は様々な『根性欲』の衆生を対象に行うのですから、当然その教えの内容は数限りなくあることになります。
このように観じおわって人々の諸々の機根、性質、欲求に入ります。機根、性質、欲求が無量なので、それに応じた説法は無量です。説法が無量なので、したがって教義もまた無量です。
~根性欲とは、機根・性質・欲求のことです。機根とは、教えを聞いて発動する能力のことです。根性欲は、個々個人によって異なるし、個人においても、過去・現在・未来において異なり、縁によっても異なります。生・住・異・滅のどの状態にあるのかによっても、その人の根性欲は異なります。根性欲は、無量にあります。根性欲が無量なので、それに応じる説法も無量であり、説法が無量なので、教義も無量です。つまり、対機説法なので、無量の義が生じたのです。
衆生の誤った見方
而るに諸の衆生、虚妄に是は此是は彼、是は得是は失と横計して、不善の念を起し衆の悪業を造って六趣に輪回し、諸の苦毒を受けて、無量億劫自ら出ずること能わず。
ところが人々は、目の前に現われた現象を見て、自分にとっての善悪、損得、好き嫌い等で物事を判断し、価値付けをして、自分中心の身勝手な計算をしてしまいます。その結果、『不善の心』を起こして、結局は様々な悪い行いをしてしまい、そのためにいつも『六道』をグルグル回って、数々の苦を受け続けることになり、結果的にいつまでたっても、その苦しみの境界から抜け出せないでいます。
しかし、諸々の衆生は、分別の見方をするために、真実から離れて「これはこちら」「これはあちら」、「これは得」「これは損」と誤って善くない想いを起こし、多くの悪い業をつくって六道を輪廻して、諸々の苦毒を受けて、非常に長い間、自力では出ることができません。
~真理を覚れば、無分別の境地に入りますので、自他・個々を分けません。差別・区別がありませんから、執着から離れています。我執や欲を滅し、安らかな境地に住します。しかし、凡夫は真理を知らないために、分別をします。自他を分け、個々を分けるので、差別・区別をし、自分に執着し、自分の欲しいものに執着します。そのことで、苦の境地に堕ちます。
このことは、十二因縁でも説かれています。無明とは、真理を知らないことです。つまり、空・無分別を覚っていないので分別の見方をします。分別による意志によって、すべてを分けて認識することに成ります。心と体、六つの感覚器官、自他を分けることによって、自分が他を欲し、手に入れようとし、執着します。そのことで、煩悩のある生存となり、新しい自分が生まれ、やがて老い、死ぬという苦に入ります。分別して見るために、自他を分け、自分に主体が有るという錯覚を起こし、我意識が強くなり、自己主義になります。わがまま勝手にふるまうために、まわりとの調和がとれず、敵をつくって孤立し、どんどん憂悲苦悩を感じるようになります。
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六趣(ろくしゅ)
凡夫が輪廻する六趣の迷いの境涯 六道ともいいます
地獄(ナラカ・ガーティ naraka-gati)
地獄道…生前の罪による罰を受け続ける亡者たちの境涯
餓鬼(プレタ・ガーティ preta-gati)
餓鬼道…常に飢えと渇きによる欲求不満状態にある死者の霊の境涯
畜生(ティルヤニョニ・ガーティ tiryagyoni-gati)
畜生道…横になって這う物、すなわち動物衆の境涯
修羅(アスラ・ガーティ asura-gati)
阿修羅道…常に争いの状態にある阿修羅衆の境涯
人間(マヌシャ・ガーティ manuṣya-gati)
人間道…人間衆の境涯
天上(デーヴァ・ガーティ deva-gati)
天道…神々の境涯
六道輪廻
輪廻とは、肉体が死に変わり、生まれ変わって、六趣の境涯を巡り続けることをいいます。この思想は、仏教以前のヴェーダの宗教(バラモン教)の頃から説かれていた説です。善行を繰り返せば天上界へと趣き、悪行を繰り返せば、人間界・畜生界・餓鬼界・地獄界に堕ちると説いています。仏教でも初めは天上界を安楽の境地としていましたが、神々は覚っていないので迷いの世界に住すると言われるようになりました。輪廻から解脱するためには、覚りをひらいて仏に成る道しかありません。天台大師智顗は、迷いの六道に対して、聖なる四道を設定しました。声聞道・縁覚道・菩薩道・仏道です。合わせて十界といいます。十界説は、智顗の説ですので、インドの法華経にはそのような説はありません。
仏教では、輪廻や六道は方便だといいます。輪廻や六道が存在するわけではなく、人々を善に導くためにそのように説いたとします。多くの国では、治安のために法律を定めて、罪と罰を制定することで、人々の道徳・倫理を正していますが、インドでは、業・輪廻・解脱というシステムによって人々の道徳・倫理を正しています。
六道は、心の境地を表しているともいいます。いずれも、自己主義な心です。
地獄…苦が続く状態
餓鬼…欲求不満の状態
畜生…智慧のない状態
修羅…争いの状態
人間…不安定な状態 疑惑
天上…束の間の安楽の状態 喜び
我にとらわれていなければ、これらの苦の状態は起こりません。そのためには自他分別から離れるために「無我」を覚ることが必要であり、個々の分別から離れるために「空」を覚ることが必要です。
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大慈悲
菩薩摩訶薩、是の如く諦かに観じて、憐愍の心を生じ大慈悲を発して将に救抜せんと欲し、又復深く一切の諸法に入れ。
菩薩よ。このように衆生は、苦しみの中から抜け切れないでいるということをはっきりと見極めて、だからこそ衆生に対して『あわれみの心』を起こし、大きな慈悲心を奮い立たせて、衆生を『根こそぎ、完全に救い出す』という決意をしなければなりません。そしてその尊い目的を達成させるためには、どうしても一切の物事の『実相』というものを、より深く見極めていることが必要なのです。
菩薩は、衆生が分別の見方をしているために苦に堕ちていることをあきらかに観じて、不憫に感じたならば、大慈悲心をおこして、まさに救いぬくことを欲し、さらに深く一切の諸法を観察することが必要です。
一法門の名を答える
仏の言わく。善男子、是の一の法門をば名けて無量義と為す。
釈尊は即座に答えられます。「善男子よ。それは『無量義』という教えです」
仏が答えられました。「善男子、この一つの法門とは、名を無量義といいます」
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一法門の行を答える
性相空寂
菩薩、無量義を修学することを得んと欲せば、まさに一切諸法は、自ら本・来・今、性相空寂にして、無大・無小、無生・無滅、非住・非動、不進・不退、なお虚空の如く 二法あることなしと観察すべし。
菩薩たちが、この『無量義』の教えを修めようと望むならば、まず次のことを見極めなければなりません。それは、過去・現在・未来におけるこの世のあらゆるものごとの根源の相(すがた)は、全ては『ただ一つ』であり、『一切が平等』であるというものです。しかも、あらゆるものは生成発展し、『大きな調和』を保っている、このことを見極めることが必要です。
菩薩が無量義を修学しようとするならば、一切の事物・現象は、過去・現在・未来において、真理も事象として現れるすがたも、ともに実体はなく、安らかな状態だと知ることが重要です。よって、大きいとか小さいということはなく、生じるとか滅するということはなく、とどまるとか動くということはなく、進むとか退くということはありません。固定した観方や一方に偏った観方を否定します。虚空のように、すべてが一つであり、二つに分かれたものではないと観察してください。
~《性相・しょうそう》 「性」とは性質。「相」とはその性質が表に現れた相(すがた)。《空・くう》とは、すべてのものごとは「縁起の法則」によって存在しているのであって、そのことから、すべてのものごとはその本質においては、平等であるという意味にもなります。この「空とは平等である」ということが、仏教としてもっとも大事な意味なのです。《寂・じゃく》とは、「大調和した状態」です。全てのものが生々発展しながらも、大きく調和して、争いや摩擦がないために「寂・しずか」であるという状態を、この字から感じとらなければなりません。〈寂光土〉も、すべてが生々溌剌(せいせいはつらつ)として活動しながら、しかも大きな調和を保っている理想の状態をいうのです。変化するものごとにとらわれていては、いつまでたっても大安心を得ることはできない、ということです。そこで、変化を超越した立場に立ってものごとを見る、という〈寂〉の立場が必要になるのです。それは (二種類の存在) で、ちょうど我々を取り巻いている虚空が、「ただ ひといろ」であるようなものだというわけです。
~性相とは、真理と事象のことです。性とは、不変平等絶対真実の本体や道理のことで、相とは、変化差別相対の現象的なすがたのことです。中国でいう「理事」と同じような意味です。真理と事象とは離れているのではなく、真理は事象によって観ることができ、事象は真理によって仮に存在します。「性」とは性質、「相」とはその性質が表に現れた相(すがた)のことだという解釈もありますが、性相空寂という場合は、真理と事象のことです。
Rの会では、空を「全ては『ただ一つ』であり、『一切が平等』である」と解釈しているようです。しかし、空にはそのような意味はありません。空とは、「実体の欠如」という意味です。サンスクリットの原語は、シューニャ śūnya です。シューニャは、「欠如」「空虚」「膨れ上がった」という意味です。『ただ一つ』や『一切が平等』ととらえると法華経は理解できないでしょう。一切の事物・現象は因縁和合によって仮に生じ、滅しているので、そのものには、我体・本体・実体と呼ばれるようなものはないという教えです。
寂とは、ニルヴァーナ nirvāṇa の訳です。煩悩の火を消した安らかな境地のことです。涅槃とも訳されます。涅槃とは、一切の因縁を結ばない境地なので、因縁によって作られるものではありません。
古代よりインドでは、事象そのものよりも、事象を成り立たせる真理のほうに興味をもっていました。リンゴがあるのは、リンゴをリンゴとして成らしめる真理があるからであり、猫があるのは、猫を猫として成らしめる真理があるからだとみたのです。真理によって事象があるという観方です。
仏教以前のヴェーダの宗教(バラモン教)では、個を個と成らしめるものをアートマン(我)と名付けました。アートマンは個の真理であり、主宰するものであり、独立して存在し、常住するものだと考えました。また、宇宙の創造を司るものをブラフマンといい、宇宙の真理だとしました。
これを仏教では、神とか超越した存在がこの宇宙をつくるのではなく、すべては因縁に依ってあるという思想を説きました。形而上学的な考えを否定して、無我・空を説いています。真理は空であり、一切の事物・現象は空だとし、空なるものは安らかであると説きました。
空とは、実体がないことであり、寂とは因縁がないことです。因縁がないので変化はありません。実体がなく、因縁を結びませんので、大小という特徴は認識されず、生じるとか滅するという変化もありません。とどまることもなく、動くこともなく、進むことも、退くこともありません。「猫が歩いている」と言っても、猫という実体がないのであれば、歩くという行為はありません。一切は無量無辺の虚空のように差別・区別はなく無際であり、一切は一つであると観察することが勧められています。
空は、『ただ一つ』や『一切が平等』という意味ではありません。空の理を深く観察することによって、一切には差別・区別は無く、無分別だと知ることができます。無分別を覚ることが智慧であり、智慧を完成させることが覚りです。最高の覚りを得ることができれば、成仏にいたります。よって、空を覚ることは、仏教において最重要な行です。
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法とは
第一に、〈ものごと〉。「諸法実相」とか「諸法無我」という場合の「法」。
第二に、〈真理〉。
第三に、〈仏教の教え〉という意味。真理によって、正しく、その時々に応じて説かれた教え。
第四に、〈善の実践〉。自分自身のためだけでなく他の人や社会と調和して、よりよい方向にいこうとする倫理や道徳にかなった〈善いことの実践〉という意味。
~法とは、ダルマ dharma の中国語訳であり、掟、法、(宗教上の)義務、人の道、人としての道徳、道理、教え、本質、物事などの意味があります。ダルマの語根は、ダル √dhṛ です。意味は、支える、維持する、保持する、保有する、所有するなどです。つまり、人を人として支えるものが、掟、法律、義務、教えであり、掟や法律を支えるものが、人の道、人としての道徳です。また、物事を物事として支えるものが道理であり、道理を道理として支えるものが事物・現象です。法には、たくさんの意味がありますが、本来の「支えるもの」という意味を把握すれば、理解しやすくなると思います。
無量義経 説法品第二
https://www.youtube.com/watch?v=FiUK4GSEdFI&t=1s
~この品は、仏陀の説法について述べられています。仏陀は、悟りを得られてから、こういう目的で、こういう順序によって法をお説きになった、その法というのは、いろいろさまざまに説かれてきたけれども、根本の真理の法は「ただ一つ」である。その一つの法から、無量の(数かぎりない)法が生まれるのである、ということを説かれたのが、この章であります。
無量義経の第二章は、説法品です。無量義経の中心であり、無量義についての教義が説かれています。法華経と通じる内容ですので、合わせて学ぶと理解が深まります。
大衆正に問う分
爾の時に大荘厳菩薩摩訶薩、八万の菩薩摩訶薩と、是の偈を説いて仏を讃めたてまつることを已って、倶に仏に白して言さく、世尊、我等八万の菩薩の衆、今者如来の法の中に於て、諮問する所あらんと欲す。不審、世尊愍聴を垂れたまいなんや不や。
大荘厳菩薩と八万の菩薩たちが世尊の大徳を讃えたあと、世尊に次のように質問をしました。「世尊よ。私ども一同は、仏さまにぜひお伺いをしたいことがございます。如何でしょうか。お聞き下さり、お教えいただけますでしょうか?」
如来 許しを垂る分
仏、大荘厳菩薩及び八万の菩薩に告げたまわく、善哉善哉、善男子、善く是れ時なることを知れり、汝が所問を恣にせよ。如来久しからずして当に般涅槃すべし。涅槃の後も、普く一切をして復余の疑無からしめん。何の所問をか欲する、便ち之を説くべし。
善いかな、善いかな。大事な時に質問をしてくれました。なんでも質問をしなさい。じつは、私はもう少しでこの世を去ろうとしています。私が亡くなった後、疑問が残ることがないよう、何でも聞きなさい。何でも伝えましょう。
すると釈尊は大荘厳菩薩と八万の菩薩たちにお答えになりました。「素晴らしいことです。善男子よ。よくぞ、今、この時に質問をされました。あなたの聞きたい事をぜひ訊いてください。私は間もなく、この世を去ろうとしています。私が亡くなった後に、人々が、教えに対し不信感を抱かない様にしておきたいと思います。どの様な質問でしょうか? 何でも答えしましょう。
菩薩 正に問う分
是に大荘厳菩薩、八万の菩薩と、即ち共に声を同じゅうして仏に白して言さく、世尊、菩薩摩訶薩疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得んと欲せば、応当に何等の法門を修行すべき、何等の法門か能く菩薩摩訶薩をして疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ぜしむるや。
すると大荘厳菩薩と八万の菩薩たちは、声をそろえて申し上げました。「世尊よ。私ども菩薩が、まわり道をせず『真っすぐ』に最高無上の悟りを得るためには、どんな教えを修行したら良いのでしょうか?」
そこで、大荘厳菩薩と多くの菩薩たちは、声を合わせて仏に申し上げました。「世尊。菩薩が速やかに最上の覚りを得ようとするならば、どの様な教えを修行すればよろしいでしょうか? どの様な教えが、菩薩をして、速やかに最高の覚りを得させるでしょうか?」
阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)
アヌッタラー・サムヤック・サンボーディ
anuttarāṃ-samyak-sambodhiṃ
最も正しい覚りのことで、「正覚」とも訳されます。菩提 ボーディ bodhi とは、目覚めることですので、「さとり」に当てる漢字は、「覚り」のほうがいいように思えます。「悟り」もよく使われますが、悟は自分の心を知ることであり、覚は真理に目覚めることですから意味がことなります。
如来 略して答える分
仏、大荘厳菩薩及び八万の菩薩に告げて言わく、善男子、一の法門あり、能く菩薩をして疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得せしむ。若し菩薩あって是の法門を学せば、則ち能く阿耨多羅三藐三菩提を得ん。世尊、是の法門とは号を何等と字くる、其の義云何、菩薩云何が修行せん。
釈尊はお答えになりました。「みなさん。ここに一つの教えがあります。これこそが、菩薩の皆さんを『真っすぐ』に最高無上の悟りへと導くものです。この教えを学び実践するならば、ただちに『仏の悟り』を得るでしょう」
三疑を問う(名・義・行)
世尊、是の法門とは号を何等と字くる、其の義云何、菩薩云何が修行せん。
大荘厳菩薩は、釈尊のことばを待ちきれずに直ぐにお尋ねします。「世尊。それは何という教えですか? その教えの内容とはどのようなものですか? そして、どのように修行したらよろしいのでしょうか?」
世尊。その法門は何という名称でしょうか? その内容はどの様なものですか? 菩薩は、どの様に修行すればよろしいでしょうか?
其の身は有に非ず亦無に非ず
「その身は有るのではなく、無いのではない」というのは、非有非無の中道のことです。凡夫は、物事を有る、無いで判断しますが、真理においては、有るのではなく、無いのではありません。因縁によって生起し、滅しますから、個々の存在は、仮に存在し、仮に滅しています。あらゆる存在には実体はありません。これを「空」(シューニャ śūnya)といいます。大乗仏教の重要な教義です。
個の存在は空ですので、個そのものには特徴はありません。特徴とは、他と比べることによって認識されるのですから、個自体だけでは特徴は見出すことはできません。特徴とは、サンスクリットのラクシャナ lakṣaṇa の訳であり、中国語では、「相」と訳されました。特徴・形・しるし・記号などの意味があります。特徴が無いことを「無相」(アラクシャナ alakṣaṇa)といい、空と並んで大乗仏教では重視されます。
「因に非ず縁に非ず自他に非ず」という文以降は、無相について述べられています。凡夫は、言葉によって、そのものの特徴を知ろうとしますが、そもそも、真理においては特徴はありません。無相です。
真理
真理は、固定してとらえることができませんので、真理を表すときは否定形を使います。肯定をすれば、何らかの概念にこだわる結果になりますので、無我・無常・無相・無作のように否定して表します。空とは、「無自性」のことですので、これも否定形です。ただし、これらの表現がそのまま真理のことをいうのではなく、真理へと導く方便であると知っておく必要があります。
声聞の名 徳を歎ず
其の比丘の名を、大智舎利弗・神通目揵連・慧命須菩提・摩訶迦旃延・弥多羅尼子・富楼那・阿若憍陳如等・天眼阿那律・持律優婆離・侍者阿難・仏子羅雲・優波難佗・離波多・劫賓那・薄拘羅・阿周陀・莎伽陀・頭陀大迦葉・優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉という。是の如き等の比丘万二千人あり。皆阿羅漢にして、諸の結漏を尽くして復縛著なく、真正解脱なり。
そうした菩薩と共にこの会座には、智慧第一の舎利弗や神通第一の目連、富楼那、阿難、羅睺羅など数多く(一万二千人)の比丘たちが連なっています。みな阿羅漢の境地を得ており、迷い・混乱・執着を消滅し、煩悩が出てくることなどありません。物事にとらわれず、正しいはたらきが自由自在にでき、一切の迷いから解放されています。
三業供養
爾の時に大荘厳菩薩摩訶薩、遍く衆の坐して各定意なるを観じ已って、衆中の八万の菩薩摩訶薩と倶に、座より而も起って仏所に来詣し、頭面に足を礼し繞ること百千匝して、天華・天香を焼散し、天衣・天瓔珞・天無価宝珠、上空の中より旋転して来下し、四面に雲のごとく集って而も仏に献る。天厨・天鉢器に天百味充満盈溢せる、色を見香を聞ぐに自然に飽足す。天幢・天旛・天軒蓋・天妙楽具処処に安置し、天の伎楽を作して仏を娯楽せしめたてまつり、即ち前んで胡跪し合掌し、一心に倶共に声を同じゅうして、偈を説いて讃めて言さく。
その時大荘厳菩薩は周囲を見渡し、一同全員が釈尊の教えを伺おうということに集中していることを見定めて、釈尊の前に進み出ました。そして様々な供養を成し、釈尊に向かって『偈(げ・韻を踏んだ詩歌)』を唱えて讃嘆しました。
仏身歎
大なる哉大悟大聖主
垢なく染なく所著なし
天人象馬の調御師
道風徳香一切に薫じ
智恬かに情泊かに慮凝静なり
意滅し識亡して心亦寂なり
永く夢妄の思想念を断じて
復諸大陰入界なし
大いなる大導師よ
一切の汚れが無く どんな現象にも心が乱れず 執着もなく
天界・人界のすべてのものを自由に導く力を具えておられます
その徳の高さは まるで香(かぐわ)しいお香のように
ひとりでに周囲の人々の心に染み入って行きます
人に対して見返りや 求める心などなく 常に相手の幸せだけを願われます
心にとらわれがなく 常に静かに澄み切ったお心でいらっしゃいます
そして夢想・妄想によって心乱れることなどなく
外界からのどんな影響を受けない
超越した境地にいらっしゃいます
菩薩の敎化方法の讃嘆
ここには、菩薩がどのように衆生を教化するのかを表し、それを讃えています。まず、菩薩は、身近で分かりやすい教えを説いて悩みを除いて清涼を与えます。次に十二因縁を説いて苦悩を解き、その後、大乗の教えを説いて、覚りへと導きます。大乗を説く前に、十二因縁を説くことによって、その人の苦を除くことが大事なことです。よって、般若経や法華経を学ぶ前に、十二因縁を学んで、苦の原因を究明し、苦を滅する道を行くことが薦められます。しかし、十二因縁は分かりにくい教義であり、仏教初心者が簡単に理解できるものではありません。Rの会では、次のように十二因縁を教えていますが、この解釈は非常に分かりにくいです。
十二因縁
「肉体の生成(外縁起)」と「心の成長(内縁起)」に十二段階の法則があるという教え。〈①無明 むみょう〉⇒〈② 行 ぎょう〉⇒〈③識 しき〉⇒〈④名色 みょうしき〉⇒〈⑤六入 ろくにゅう〉⇒〈⑥触 そく〉⇒〈⑦受 じゅ〉⇒〈⑧愛 あい〉⇒〈⑨取 しゅ〉⇒〈⑩有 う〉⇒〈⑪生 しょう〉⇒〈⑫老死 ろうし〉
【十二因縁の外縁起】『肉体』(肉体の生成)の順序
〈①無明 むみょう〉過去世において輪廻し無明(無智)であった
〈②行 ぎょう〉過去世において無智の行為を繰り返して「業・ごう」を積む
〈③識 しき〉両親の夫婦生活という無明の行為で命を宿し受精後「識」が生ず
〈④名色 みょうしき〉「名」は精神、「色」は肉体。この肉体と精神が徐々に整う
〈⑤六入 ろくにゅう〉「名色」が発達して六根(眼耳鼻舌身意)が心身の中に入る。
〈⑥触 そく〉この世に出生して六根が外界に触れその機能が完成
〈⑦受 じゅ〉次に、これは受け入れる、受け入れないという感情が生まれる
〈⑧愛 あい〉特に異性を求める心、何かを求めるという心が生まれる。
〈⑨取 しゅ〉異性や何かを自分のものにしたい所有欲、「取」の心が起きる
〈⑩有 う〉「取」の心がはたらいて、異性を得て(有)結婚する
〈⑪生 しょう〉多くが結婚を通して次世代の命を宿し子を誕生させる
〈⑫老死 ろうし〉この世に生まれた者は憂悲苦悩を繰り返し、ついに「老死」に至り、人生を終える
ここで講義されている十二因縁のもとになる経典が何なのかが分かりません。おそらくは、説一切有部の「分位縁起」を基にしているのでしょう。しかし、「分位縁起」とも大部違いますから、Rの会のオリジナルなのでしょうか。十二因縁は、サンスクリット原語の意味を知らなければ理解しにくいので、次にサンスクリット原語を表しながら十二因縁を紐解きます。
〈①無明 むみょう〉アヴィドャー avidyā 無知
〈②行 ぎょう〉サンスカーラ saṃskāra 意志・行為
〈③識 しき〉ビジュニャーナ vijñāna 識別作用
〈④名色 みょうしき〉ナーマルーパ nāmarūpa 名称と姿 心と体
〈⑤六入 ろくにゅう〉シャダーヤタナ ṣaḍāyatana 眼耳鼻舌身意の6感官
〈⑥触 そく〉スパルシャ sparśa 接触
〈⑦受 じゅ〉ヴェーダナー vedanā 感受
〈⑧愛 あい〉トリシュナー tṛṣṇā 渇愛
〈⑨取 しゅ〉ウパーダーナ upādāna 執着
〈⑩有 う〉 バーヴァ bhava 存在
〈⑪生 しょう〉ジャーティ jāti 生まれること
〈⑫老死 ろうし〉 ジャーラーマラーナ jarā-maraṇa 老いと死
無知な意志によって分別をし、心と体に分け、6つの感覚に分け、自分と自分以外とが接触します。接触によって世界を感受し、欲しいものを手に入れたいと思い、そのものに執着します。そのことで存在し、新しく生まれ、老い、死にます。。。このように無明(惑・煩悩)・行(業)によって生老死という苦に至ると説くのが十二因縁です。
凡夫は、自他を分け、個々を分けてとらえます。分別による見方です。仏は、自他を分けず、個々を分けずにとらえます。無分別による見方です。分別しませんから、差別や区別をせず、一切を一つとして観ます。これを不二ともいいます。無明とは、分別による見方をすることです。不二・無分別の理を知っていれば、一つのものを分けることはせず、直観でとらえます。自他の区別、個々の区別がなければ、自己中心な心、渇愛、執着はなくなり、苦悩を滅することができるでしょう。
分位縁起
分位縁起(ぶんいえんぎ)とは、五蘊のその時々の位相が十二支として表される説です。説一切有部では、分位縁起に立脚しつつ、十二支を過去・現在・未来の3つ(正確には、過去因・現在果・現在因・未来果の4つ)に割り振って対応させ、過去→現在(過去因→現在果)と現在→未来(現在因→未来果)という2つの因果が、過去・現在・未来の3世に渡って対応的に2重(両重)になって存在しているとする、輪廻のありようを説く胎生学的な「三世両重(の)因果」が唱えられました(ウィキペディア)。
Rの会では、法華経による先祖供養を重視します。死後の世界・輪廻・転生を信じる立場にあるようです。なので輪廻を肯定する説一切有部の説を取り入れたのかも知れません。仏教においては、非有非無の中道を説きます。有に執着せず、無に執着しない立場です。なので死後の世界が有る、輪廻が有る、転生が有ると、積極的には説かないし、死後の世界は無い、輪廻は無い、転生は無いと、積極的には説きません。経典中では、輪廻(生死)について触れられるシーンがありますが、それらは輪廻を信じているインド人たちを肯定する方便だと受け取ったほうがいいです。
初期仏教においては、縁起を説く場合、時間経過については説かれていません。「此が有れば彼が有り、此が無ければ彼が無い。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」という此縁性の縁起です。この此縁性の縁起を詳しく説いた内容が十二因縁なので、時間経過は考慮されません。時間という概念を取り入れ、十二因縁を複雑にしたのは説一切有部です。基本的な十二因縁を学ぶためには、初期仏教の経典を紐解いたほうがいいでしょう。
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ここからは、法華経の開経である無量義経の解釈にはいります。無量義とは、多くの教義のことです。仏教には、非常に多くの経典(教え)があります。キリスト教やイスラム教と比べれば、教えの多さに驚きます。なぜこのように多くの教えがあるのか、その理由を説いたのが無量義経です。無量義経の第一章は、徳行品です。
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徳行品のあらすじ
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通序
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経:是の如きを我聞きき。一時、仏、
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R訳:私はこのように聞いております。釈尊が王舎城の
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菩薩衆の名
経:其の菩薩の名を、文殊師利法王子 ・大威徳蔵法王子 ・無憂蔵法王子 ・大弁蔵法王子 ・弥勒菩薩 ・導首菩薩 ・薬王菩薩 ・薬上菩薩 ・華幢菩薩 ・華光幢菩薩 ・陀羅尼自在王菩薩 ・観世音菩薩 ・大勢至菩薩 ・常精進菩薩 ・宝印首菩薩 ・宝積菩薩 ・宝杖菩薩 ・越三界菩薩 ・毘摩跋羅菩薩 ・香象菩薩 ・大香象菩薩 ・師子吼王菩薩 ・師子遊戯世菩薩 ・師子奮迅菩薩 ・師子精進菩薩 ・勇鋭力菩薩 ・師子威猛伏菩薩 ・荘厳菩薩 ・大荘厳菩薩 という。是の如き等の菩薩摩訶薩八万人と倶なり。
法身 戒 ・定 ・慧 ・解脱 ・解脱知見 の成就 せる所なり。禅寂 にして、常に三昧 に在って、恬安憺泊 に無為無欲 なり。顛倒乱想 、復入ることを得ず。静寂清澄 に志玄虚漠 なり。之を守って動ぜざること億百千劫、無量の法門悉く現在前せり。甚深微妙 で奥深く、限りなく広く大きな心を持っています。こういう心境を億千万年という長い期間保ち続けていますので、動揺することがなく仏の全ての教え・この世のあらゆる物事の真相を正しく見極めています。性相 の真実を暁了 し分別 するに、有無・長短、明現顕白 なり。又善く諸の根性欲 を知り、陀羅尼 ・無碍弁才 を以て、諸仏の転法輪 、随順して能く転ず。
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経:是の諸の菩薩、皆是れ法身の大士ならざることなし。
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R訳:ここに集う文殊菩薩、弥勒菩薩、薬王菩薩、観世音菩薩をはじめとする八万人の菩薩たちは、どんな変化にも動揺せず世間の苦悩から解放され、真理と一体となった菩薩たちです。菩薩たちは『三学』という仏道修行者が修すべき基本の道「戒・定・慧」を修め、解脱しており、しかも解脱に至るまでの具体的な手順・経緯(プロセス)をしっかりと自覚、解脱知見しています。
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止徳
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経:其の心
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R訳:しかもどんな境遇にあっても、とらわれることなく安らかで、他人に対して要求する心はなく、不平不満を覚えず、たとえ好意や感謝をされなくても、そのことにこだわることはありません。自己中心的でなく、我欲から離れており、真相を見誤って真理と反対の見方をして、心が乱れることもありません。静かに落ち着き、煩悩に惑わされない澄み切った心で、
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観徳
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経:大智慧を得て諸法を通達し、
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R訳:すべての出来事を正しく分析・解説することができ、あらゆる人びとの機根・性質・欲望(根性欲)を見抜いていますので、善をすすめて悪をとどめる強い力と、どんな人をも納得させる説得力を持っています。ですから自由自在に人びとを教化することができるのです。菩薩はこのような尊い徳分を具えています。
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無量義経 徳行品第一
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:編纂 した内容です。よって説法内容の記録ではありません。インドで作られたものが経であり、中国や日本で作られたものは偽経だといわれます。説一切有部 のアビダルマ、龍樹 の中論・大智度論 、世親 の大乗成業論 ・唯識 二十論などが有名です。論書は、経典の理解を助けるために書かれたのですから、論書だけを読むのではなく、論書と経典を合わせて学ぶ必要があります。天台智顗 ・日蓮 ・親鸞 ・道元 などの著書は釈書です。釈は、経典・論書の理解を助けるために書かれたのですから、釈書だけを読むのではなく、経典・論書を合わせて学ぶ必要があります。あくまでも経典が主であることを忘れてはいけません。
経・論・釈
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Rの会では、開祖の著書を拠り所にしているようです。新興宗教の場合、開祖や教祖の教えが第一にされているところが多いので、Rの会もそうなのでしょう。本来ならば、法華経という経典を拠り所にするべきですが、開祖の著書を取り上げていために、インドで編纂された法華経(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)とは異なる結果になっていると思えます。
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仏教書には、経・論・釈があります。釈尊が説法した内容を記したものが経(スートラ)です。歴史上の釈尊が説法したことが、そのまま書かれているわけではなく、釈尊が亡くなった後に高弟子たちが
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経の内容は難しいため、経の内容を分かりやすく論じたものが論書(アビダルマ)です。論書は、インドの高僧によって書かれました。
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釈とは、経典と論書をさらに理解しやすいように書いたものであり、中国や日本の高僧によって書かれました。
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現代では、各宗派の僧侶、仏教者、学者、新興宗教の代表者などが、経典の解釈本を出しています。きちんと経典に合わせて解釈する人もいますが、自分の思想を発表している人も多いです。新興宗教では、自分たちの信仰を正当化するために、本にしているところもあります。解釈本は、経典の解釈をするためのものなのですから、独断と偏見によって綴るのは誤りです。特に「南無妙法蓮華経」を唱えるところは、法華経に基づいて学ぶ必要があります。
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経・論・釈
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:説一切有部 です。説一切有部は托鉢 をせず、精舎 にこもって経典の研究ばかりしていたため、劣っているといわれました。一仏乗 」を著しました。それが法華経です。編纂 され始め、2世紀頃に成立し、中国に伝わって、数人の訳経僧 によって中国語に訳されました。その中でも鳩摩羅什 による『妙法蓮華経』が有名であり、中国・日本において法華経というと妙法蓮華経だといわれています。龍樹 の思想に傾倒しており、妙法蓮華経を訳す前に、龍樹の『中論 』『大智度論 』などを訳しています。いわゆる中観派 です。中観派は、般若経を支持しますので、鳩摩羅什は法華経よりも般若経の布教を進めていたようです。龍樹も法華経よりも般若経を支持しています。大智度論は、『二万五千頌般若経』について論じたものです。智顗 が生まれ、実質的に天台宗の開祖となりました。智顗以前、天台では龍樹を支持しており、『中論』『大智度論』を拠り所にしていました。智顗は、それに加えて、法華経を取り入れています。よって智顗は、中観派と法華派だったのです。特に法華経については、「法華第一」と言って特別視し、仏教経典中最高の経典であると位置づけました。智顗は、法華経を徹底的に研究し、龍樹の論を参考にして、『法華玄義 』『法華文句 』『摩訶止観 』などの書を著し、中国や日本の多くの僧侶・仏教者に読まれました。『摩訶止観』にある「一念三千」は有名です。こうして、智顗によって法華経の「理」の花が開きました。
仏教はただ一仏乗
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○ ただ一筋しかない仏の教えの大道に目を向けさせようという、やむにやまれぬ熱意から書かれたのが、ほかならぬ≪妙法蓮華経≫だったのです。
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紀元前後に般若経の一派が起こり、自らを大乗仏教だと称しました。それまでの仏教は、自分たちの修行しか考えていない劣ったものだといい小乗仏教だと蔑称で呼びました。ただし、ここで小乗仏教と呼ばれたのは、
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やがて説一切有部と大乗仏教徒の間で対立が起こり、説一切有部は大乗を伝統のないでっちあげの仏教だと非難し、大乗は説一切有部を成仏できない仏教徒だと非難しました。そのことを哀れだと思った法華経の一派が、小乗(説一切有部)も大乗も同じく釈尊の弟子であり、誰もが修行次第で成仏できるとして「
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中国に〈理〉の花開く
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大乗仏教は、インドから中央アジアを経て、中国に渡りました。法華経も同様です。紀元前後から
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鳩摩羅什は、
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7世紀頃、中国に
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仏教はただ一仏乗
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:相 はどうであるか?仏性 あり仏性 あり法身仏 のことです。このことは、難しい内容ですので、じっくりと学ぶ必要があります。「すべての人に仏性あり」ということは、法華経には説かれていません。法華経の後につくられた『涅槃経 』で説かれたことですので、法華経に仏性という説はありません。仏性という言葉もありません。「だれでも努力次第で仏の境地に達せられること」(皆成仏道 )は、法華経に説かれています。
仏性 とは輪廻 する空間を意味します。フィールド、世界、要素などの意味もあります。よって、仏性とは、「仏の境界」のような意味です。衆生は、生まれもって仏と同じ境界を持つということです。または、ダートゥには、原因という意味もありますので、「仏に成る原因」「仏に成る可能性」の意味としても使われます。授記 されるのは、仏に成る可能性があるからです。授記とは、将来成仏することの予言です。可能性があるから、皆成仏道 が説かれています。
法華経に説かれていること
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法華経は一切経の精髄
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① 宇宙の本当の
② 人間とはどんなものか?
③ 人間はどう生きねばならないか?
④ 人間と人間との関係はどうあらねばならないか?
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これらのことが、法華経で説かれている、ということですが、果たしてそうなのでしょうか? 宇宙の相は明かされていないし、人間とはどういうものかも説かれていません。人間はどう生きねばならないかについては、あくまでも仏教的解釈です。人間と人間との関係についても同様です。これらのことは、Rの会で説かれることなので注意が必要です。
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仏はいつもいる すべての人に
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① 仏はいつもそばにいて、われわれを導いてくださる
② すべての人に
③ だれでも努力次第で仏の境地に達せられること
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「仏はいつもそばにいて、われわれを導いてくださる」というときの仏とは、肉体を持った釈尊のことではなく、真理を体とする
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仏性とは、ブッダ・ダートゥ Buddha-dhātu の訳です。ブッダとは、仏陀のことで、仏ともいいます。最高の覚りをひらかれた人のことです。ダートゥとは、生物が生存し
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解釈本を読むと、仏性とは、「仏の性質」の意味で解釈していることがあります。私たちの心には、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という迷いの境界と声聞・縁覚・菩薩・仏陀という聖なる境界があり、誰もが仏と同じ性質を持つというのです。この意味での仏性を自覚するということは、我を意識するのと同じで、空なるものを有ると観ることにつながります。無我に反しています。ヒンドゥー教的な思想です。日本では、仏性とか、如来蔵に注目する傾向が強く、そのことが執着につながることに無頓着です。
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仏性を「仏に成る原因」「仏に成る可能性」の意味として使うことは問題ありません。法華経で、声聞たちが
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法華経に説かれていること
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:般若経 がつくられた後に世に出ました。般若経には、「空 」の理が説かれており、法華経では、空の実践が説かれています。よって般若経を深く学び、空の理をマスターしていなければ法華経は理解できません。いきなり法華経を学んでも、ちんぷんかんぷんになってしまいます。般若経といっても、般若心経を学ぶのではなく、八千頌般若経・二万五千頌般若経などを学ぶ必要があります。般若心経は、二万五千頌般若経の抜粋なので、これだけを学んでも理解はできません。安楽行品 第十四などで空の理は説かれていますが、短い文章なので、理解できる人は少ないでしょう。般若経を学んだ人ならば分かるのでしょうが、法華経だけを読んで理解しようとしても無理があります。甚深 の教えを説いても伝わりにくいでしょう。だから、「法華経は難しい教えではない」と言って法華経に興味を持たせようとしているのかも知れません。だとしたら、法華経という難しい経典を選ばず、もっと理解しやすい経典を選ぶべきです。たとえば、『法句経 』などが手ごろかも知れません。『法句経』は、初期仏教の経典であり、初心者でも、ある程度の理解はできると思います。機根 ・性格・欲求に応じて法を説きます。法華経は、菩薩への教えですから、一般人では歯が立ちません。機根に応じた教えを説くことが重要だと思います。
法華経は難しい教えではない?
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Rの会では、「法華経は難しい教えではない」と教えます。難しくないのなら簡単な教えなのでしょうか? 私は、そうとは思えません。法華経の経文中にも難解な教えだと書いてあるのですから、簡単な教えではないでしょう。難しいところを省き、または簡単な意味に置き換えて教えれば、それを聞く者は簡単な教えだと思ってしまうのかも知れませんが、それだと法華経の教えを歪めていることになります。
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法華経は、大乗仏教の経典です。多くの
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Rの会では、般若経を学ばず、法華経を学びます。それだと空の理が分からないので、法華経の理解はできません。それなのに「法華経は難しい教えではない」と主張するのはおかしな話です。法華経の中でも、
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Rの会の会員の大多数は主婦のようです。それも中高年です。そういう人たちに仏教の
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仏教は、対機説法です。相手の
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法華経は難しい教えではない?
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法華経を学ぶ上での心構え随喜 せん者には、我亦阿耨多羅三藐三菩提 の記を与え授く。法師品 第十からの引用です。講師は、「如来が亡くなった後に、もしある人が法華経の一行でも一句でも聞いて、一瞬でもいいから「ああ、ありがたい」と思うのなら、成仏することを保証しましょう」というように解釈しています。つまり、法華経をすべて学び尽くそうとするのではなく、一行でも一句でも聞いて喜びを感じるのであれば成仏に通じるということなのでしょう。確かに何事でも学び修得するためには、最初の喜びが重要だと思います。喜びを得ることができれば、学習意欲は高まることでしょう。随喜 という言葉は、「ああ、ありがたい」というような単純な意味ではありません。随喜とは、サンスクリットのアヌモダナー anumodanā の中国語訳であり、「共感的喜び」のことです。つまり、他者の言動を受け入れ、承認し、喜ぶことをいいます。共感がなければ随喜とはいえません。法華経の一行でも一句でも聞いて、自分勝手に解釈したのでは随喜とはいえません。法華経を深く学び、共感し、喜びを得ることが成仏に通じます。そのためには、法華経に書かれたことを正しく読むことが重要です。暁了 すること能わじ
舎利弗 当に知るべし 諸仏の法是の如く既已 に 諸仏世の師の
随宜 方便の事を知りぬ 復諸の疑惑なく聞解 ・思惟 ・修習 」阿耨多羅三藐三菩提 を去ること尚お遠し。若し聞解し思惟し修習することを得ば、必ず阿耨多羅三藐三菩提に近づくことを得たりと知れ。声聞 、思惟を得意とする縁覚 、修習を得意とする菩薩 。人にはタイプがあって、得意とすることは違いますが、聞解・思惟・修習をバランスよく行うことで、成仏への道は開けます。精進 といえる』 六波羅蜜 にせよ、五種法師 の行にしろ、凡夫はなかなか続けることはできません。できることから、こつこつの実践することが大事です。頑張ることと精進は違います。精進は、具体的に行動することを続けます。
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まず、法華経を学ぶ上での心構えが4つ説かれています。
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①又如来の滅度の後に、若し人あって妙法華経の乃至一偈・一句を聞いて一念も
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この経文は、法華経の
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しかし、ここに出てくる
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②其の習学せざる者は 此れを
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この経文は、法華経の方便品第十からの引用です。暁了とは、「明らかに理解すること」「明らかにさとり知ること」です。習学とは、「知識を学んで身につけること」です。「其の習学せざる者は」とありますから、何を修学するのかが分かりません。方便品には、次のように説かれています。
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万億の方便を以て 宜しきに随って法を説きたもう
其の習学せざる者は 此れを暁了すること能わじ
汝等
心に大歓喜を生じて 自ら当に作仏すべしと知れ
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つまり、「随宜方便の事」を修学することが勧められています。諸仏は、「万億の方便を以て 宜しきに随って法を説きたもう」のですから、方便を方便として学ぶことが大事だということです。
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③「習学」の3つのステップ「
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この経文は、法華経の法師品第十からの引用です。聞解とは、教えを聞くこととその教えを理解することです。思惟とは、教えを理解した上で思索することです。修習とは、思惟した内容を身体で実践することです。
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法師品第十には、次のように説かれています。
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若し是の法華経を未だ聞かず、未だ解せず、未だ修習すること能わずんば、当に知るべし、是の人は
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教えを聞いて理解するだけではなく、教えを思惟するだけではなく、教えを実践するだけはなく、聞解・思惟・修習を行うことで最高の覚りに至ります。聞解を得意とする
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④『十分の一でも実践できれば、いや、その一つにでも徹することができれば、りっぱな
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法華経は、菩薩への教えですから、法華経に書かれている修行内容は、非常に難しいです。
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法華経を学ぶ上での心構え
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はじめに
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Rの会では、『
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Rの会では、インドの法華経そのものを学ぶのではなく、創設者の庭野開祖によって解釈された内容を学んでいます。それは、中国において訳された『妙法蓮華経』とも異なります。完全にオリジナルから外れているとは言いませんが、庭野開祖の法華経の解釈をインドの法華経だと信じてしまうことは問題だと思います。Rの会の法華経の解釈本には、『法華経の新しい解釈』『新釈法華三部経』というタイトルをつけていますので、あくまでも「新しい解釈」「新釈」であることを念頭においておく必要があります。
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私が法華経の解釈をする場合は、サンスクリット原典のサッダルマ・プンダリーカ・スートラ、
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今回は、Rの会の高知教会で、YouTubeにて講義された『みんなで法華経を学ぼう!』を参照にします。せっかく動画になっていますから、リンクを貼らせていただきます。これによって、Rの会の法華経の新しい解釈がある程度理解できることでしょう。
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はじめに
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