: 用語の意味-2 : 大乗(だいじょう) マハーヤーナ mahāyāna 「大きな乗り物」。大勢の人と共に成仏を目指すので、大勢を乗せることが出来る乗り物に喩えている。大乗仏教徒は、部派仏教の説一切有部を小乗と呼んだ。一人乗りの小さな乗り物のこと。これは蔑称なので、現在ではあまり使われていない。 : 功徳(くどく) グナ guṇa=徳、美徳、才能、性質。 プニャ puṇya=清い、清浄な、善行。 徳のあることを功徳といい、善行も功徳という。 : 菩提(ぼだい) ボーディ bodhi 目覚めること。仏教では、真実に目覚めることを菩提という。覚・道・智とも訳される。 : 阿耨多羅三貎三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい) アヌッタラ・サミヤク・サンボーディ anuttara-samyak-saṃbodhi 無上の正しい覚り。 : 微妙(みみょう) 趣深くすぐれていること。 : 真実(しんじつ) タタター tathatā 仮ではない、絶対の真理。真如。 : : 用語の意味-2 : :
: 用語の意味-1 : 根性欲(こんじょうよく) 機根・性質(習性)・欲望の略。機根とは、教えを理解し実践する能力のこと。対機説法の「機」とは、機根のこと。 : 陀羅尼(だらに) ダーラニー dhāraṇī 「記憶して忘れない」ということ。本来は、仏教修行者が覚えるべき教えや作法などをしっかりと記憶することを言った。後に変じて、「記憶する呪文」のことをいうようになった。意訳して総持、能持、能遮等ともいう。意味よりも音に効力があるとされるため、サンスクリットの音写である。 : 無礙弁才(むげべんざい) 無礙は、障害、妨げのないこと。弁才は、巧みに話す能力のこと。 : 法輪(ほうりん) ダルマ・チャクラ dharma-cakra 仏教の教義、特に釈尊が説いた四諦・八正道の別称。輪は、インドの円盤型の武器のこと。チャクラムという。教えを聞いた人が、煩悩を砕く様をチャクラムに喩えている。法輪(教え)を他者に伝えることを転法輪といい、釈尊が鹿野園で五比丘に対して初めて教えを説いたことを初転法輪という。 : 涅槃(ねはん) ニルヴァーナ nirvāṇa 直訳すれば、「吹き消す」こと。燃える火を消すこと。煩悩を火に譬え、それを消すことをいう。繰り返す再生の輪廻から解放された状態のこと。解脱の別名。滅、寂滅、滅度、寂、寂静、不生不滅などとも訳される。因縁の無い境地。因縁が無いので、何も生じないし、滅しない。無為。 : 解脱(げだつ) ヴィモクシャ vimokṣa 解放、悟り、自由、放免を手に入れた状態。ヴェーダのウパニシャッドで、前七世紀頃に説かれ始めた。バラモン教では、アートマン・業・輪廻・解脱が中心思想である。仏教でもそれを引き継いでおり、輪廻からの解脱が修行の目的だといわれた。解脱した境地を涅槃という。 : 甚深(じんじん) 非常に奥が深いこと : 十二因縁(じゅうにいんねん) dvādaśāṅgika-pratītyasamutpāda 苦の原因の究明と苦を滅尽について説く法門。無明(むみょう)・行(ぎょう)・識(しき)・名色(みょうしき)・六処(ろくしょ)・触(そく)・受(じゅ)・愛(あい)・取(しゅ)・有(う)・生(しょう)・老死(ろうし)という連鎖縁起。 : : 用語の意味-1 : :
: (b)利他 : ①転法輪 : 経:また、善く諸の根性欲を知り、陀羅尼(だらに)・無礙弁才を以って、諸仏の転法輪、随順してよく転ず。 : 訳:また、人々の教えを受ける能力、性格、欲望をよく知っており、善をすすめ悪を止める力と人々を説得する力を持っていましたので、諸仏の教えに従って、その教えを人々に伝えることができました。 : : ②利他徳 : 経:微渧(みたい)先ず堕ちて以って欲塵をひたし、涅槃の門を開き 解脱の風を扇いで、世の悩熱を除き法の清涼を致す。次に甚深の十二因縁を降らして、用(もっ)て 無明・老・病・死等の猛盛熾然(みょうじょうしねん)なる 苦聚(くじゅ)の日光にそそぎ、しこうして乃ち洪(おおい)に無上の大乗を注いで、衆生の諸有の善根を潤漬(にんし)し、善の種子(しゅじ)を布いて功徳の田に遍じ、普く一切をして菩提の萌を発さしむ。
智慧の日月・方便の時節・大乗の事業を扶蔬(ふそ)増長して、衆をして疾(と)く阿耨多羅三貎三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成じ、常住の快楽(けらく)、微妙真実に、無量の大悲、苦の衆生を救わしむ。 : 訳:渇いてほこりの多いところに水のしずくをたらせば、そこだけが塵をおさえることが出来るように、まずは、小さな教えから入って欲望を抑え、涅槃への門を開き、解脱へと導く縁となりました。人々が、苦悩から離れられるように教えを説き、教えを実践することによる喜びを体験させました。それは、暑苦しいところに冷たい風を吹かせて、涼しくて清々しい状態に導くことに似ていました。
次には、非常に深い「十二因縁の法門」を説いて、真理を知らないために人生が苦悩であることを伝えました。そして、苦悩から離れる方法を説き明かしました。その教えを聴いた人々は、照りつける灼熱の太陽の光から救ってくれる夕立のような恵みを感じました。その後、この上もなく尊い大乗の教えを説き示し、誰もが持っている良心に潤いを与え、善の心を芽生えさせ、水田の一面に稲が実るように、心を功徳で満たし、ひろく人々に菩提心を起こさせました。
菩薩の智慧は、闇を消す太陽と月の光となり、方便として必要な時によく人々を照らします。そのことは、人々が大乗の道を進むことを援助し、人々がまっすぐに最上の悟りの境地へとたどりつき、常にある安らぎ、深い真理と限りない大きな慈悲の心で、苦悩する人々を救うようになります。 : : 利他 : :
終わり
: 呉音(ごおん) : 漢訳の仏教経典は、多くの場合、呉音で読みます。呉音は漢音以前から中国で使われており、日本にも呉音が最初に入ってきました。江戸時代までは、呉音の方が普及していたのですが、明治になって漢音が多く使われるようになりました。結果的に日本人が使う漢字は、音読み(漢音・呉音)、訓読みというように複雑化しています。 : 経典を読むとき、普段とは違う読み方をしますので違和感があります。フリガナがついていないと読めません。たとえば、品は、漢音では「ひん」と読みますが、呉音では「ほん」です。日は、「じつ」「にち」、礼は、「れい」「らい」、力は、「りょく」「りき」というような感じです。 : ネットに上がっている漢訳経典には、フリガナがついていないことが多いので読めません。経典の読みに慣れるためには、フリガナ付の経典を購入することをお薦めします。 : : 呉音 : :
: 菩薩とは : 菩薩とは、ボーディ・サットヴァ bodhi-sattva の音写です。「覚り+人」という合成語です。初期仏教では、覚りを得る前の釈尊のことをいいました。「覚ることが決まっている人」という意味です。他には、釈尊の次に成仏するといわれる弥勒も菩薩と呼ばれました。大乗仏教になると、「覚りを求める人」という意味で使われるようになりました。大乗は、みんなで成仏を目指すので、大乗仏教徒たちは自らを菩薩と呼びました。大乗の菩薩なので、菩薩摩訶薩ともいいます。摩訶薩とは、マハー・サットヴァ mahā-sattva の音写です。意味は、「大いなる人」です。
般若経典は、菩薩摩訶薩たちによって編纂されました。その中で、空の実践者としての菩薩摩訶薩が強調されています。しかし、声聞や縁覚は成仏できないといって差別したために、法華経の編纂者からは、三乗の菩薩だといわれています。一切衆生の成仏を願う一乗の菩薩とは区別されています。法華経では、菩薩とは、「一切衆生の覚りを求める人」であり、「自他を覚りに導く人」です。
大乗仏教は、紀元前後に起こりましたので、釈尊の時代にはありません。よって、無量義経や法華経の会に菩薩が参加することはありません。実在の人物だとされる弥勒菩薩が参加しているかも知れませんが、八万人もの菩薩が集うことはありません。それらの菩薩とは、法身の菩薩だといわれます。法身菩薩とは、真理・教えを体とする菩薩のことです。真理を覚った菩薩のことですから、仏に近い存在です。しかし、実在しているわけではなく、教義の象徴として登場します。たとえば、慈悲の象徴としての弥勒菩薩、智慧の象徴としての文殊菩薩、実践の象徴としての普賢菩薩というような感じです。経典で弥勒菩薩が登場したら慈悲についての教えが説かれ、文殊菩薩が登場したら智慧についての教えが説かれ、普賢菩薩が登場したら実践について説かれます。
無量義経・法華経は、菩薩への教えです。経典の中でも教菩薩法という言葉が頻繁に出てきます。無量義経では、大荘厳菩薩への説法という形式ですので、菩薩への教えだと分かりやすいのですが、法華経の前半は、声聞たちを対象にしています。会に参加している声聞たちを教化し、菩提心(覚りを求める心)を起して、未来に成仏することを予言し、全員を菩薩にしています。法師品第十以前は声聞への教えのように思えます。法師品からは、薬王菩薩・大楽説菩薩・文殊菩薩・弥勒菩薩などが説法の対象になっていますので、菩薩への教えだというのは明らかですが、法師品以前を菩薩への教えだと言えるのでしょうか?
法華経は、菩薩を対象にした実践指導です。声聞をどのようにして教化し、菩提心を起させ、菩薩としての自覚を持たせ、広宣流布を誓願させるかを、釈尊が実際に行い、菩薩たちに見せて、指導をしているわけです。このことから、教菩薩法といいます。釈尊は、声聞と菩薩を同時に教化しているのです。 : : 菩薩とは : :
: 智慧(ちえ)とは : 智慧とは、プラジュニャー prajñā の中国語訳です。般若(はんにゃ)とも訳されます。意味は、一切の現象や、現象の背後にある道理を見きわめる心作用のことです。つまり、真理を観る能力のことをいいます。智慧という言葉を智と慧に分けた場合、智は、ジュニャーナ jñāna の訳語で、ものごとを分けてとらえることです。つまり、分別(ふんべつ)です。慧はプラジュニャーの訳語です。分けずにとらえることです。つまり、無分別(むふんべつ)です。釈尊の覚りは、慧だといわれます。
分別とは、認識するものと認識されるものを分けてみることです。主客が分かれているとみます。無分別は、認識するものと認識されるものを分けてみないことです。主客が分かれているとはみません。
仏教の目的は成仏です。仏陀に成ることです。仏陀とは、真理に目覚めた者のことですから、真理を観察する智慧が完成しています。つまり般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)の境地に達しています。私たち凡夫は、智慧が煩悩に覆われているために真理を観ることができません。そこで、釈尊は、煩悩を滅し、智慧を得る道を示されました。たとえば、四諦の法門では、人生は苦であると言い、苦の原因は煩悩であり、煩悩を滅すれば安楽の境地に至り、そのために八正道を実践するようにと教えました。八正道は、智慧を得るための方法です。 : : 智慧とは : :
: 無量義経とは : 無量義とは、数多くの教義のことです。キリスト教の聖書やイスラーム教のコーランに比べると、仏教の経典は、非常にたくさんあります。それぞれの経典には、それぞれに教義がありますから、教義の数は無量です。無量とは、量ることができない、ということです。なぜ、大量の教義が説かれたのか、その理由が、この無量義経で説かれています。
無量義経は、三章から成ります。徳行品第一・説法品第二・十功徳品第三です。徳行品が序分、説法品が正宗分、十功徳品が流通分(るつうぶん)です。序分は、その経典のプロローグで、正宗分は、その経典の中心となる章です。テーマとなる教えが説かれます。流通分は、説かれた教えを流布するようにと勧める章です。
徳行品では、菩薩・声聞・仏陀の徳と行が讃嘆されます。法華経でも、「供養(くよう)・恭敬(くぎょう)・尊重(そんじゅう)・讃歎(さんたん)」という言葉が何度も出てきますが、他者を讃嘆することは、重要なことだとされています。
説法品では、無量の教義のことが説かれています。仏陀は、人に合わせて教えを説いたので無量の教義になったのだといいます。しかし、無量の教義は一つの真実から生じています。その真実は何かというと無相です。このことは、説法品に詳しく説かれています。
十功徳品では、無量義経を学び、実践した者の功徳が説かれています。功徳を説くことによって、人々に流布を勧めています。 : : 無量義経とは : :
: 用語の意味 : 禅寂(ぜんじゃく) 瞑想的な平寂。集中力と心の静けさを伴う瞑想。座禅。 : 三昧(さんまい) サマーディ samādhi 深い禅定の状態のこと。精神集中が深まりきった状態のことをいう。 : 恬安憺怕(てんなんたんぱく) 環境の変化に惑わされず穏やかで安らかなこと。 : 無為(むい) アサンスクリタ asaṃskṛta 分別造作がないこと。因縁によって造られたものでなく、生滅変化を離れた常住絶対の法のこと。涅槃のこと。因縁によって造られたものを「有為」という。 : 顛倒(てんどう) ヴィパルヤーサ viparyāsa 転倒。道理にそむいて誤っていること。ひっくりかえること。本来とは逆になっていること。認知の歪み。仏教では、四顛倒を説く。 : ①常顛倒(じょうてんどう)・・事物は無常であるが、常だと考えること。 ②楽顛倒(らくてんどう)・・一切は苦であるが、一時的な状態だけで楽だと考えること。 ③浄顛倒(じょうてんどう)・・不浄なものを、表面だけを見て浄だと考えること。 ④我顛倒(がてんどう)・・すべては無我であるが、我だと考えること。 : 智慧(ちえ) プラジュニャー prajñā 音写して般若という。真実を覚る無分別智のこと。物事を正しくとらえ、真理を見きわめる認識力。六波羅蜜の一。 : 諸法(しょほう) サルヴァ・ダルマ sarva-dharma 一切法。世界のすべてのもの、すべての存在、すべての法の集合体をさす。さまざまな事物・現象のこと。 : 性相(しょうそう) スヴァバーヴァ・ラクシャナ svabhāva-lakṣaṇa 自性と特徴。真理と現象。 : 暁了(ぎょうりょう) あきらかに理解すること。 : 分別(ふんべつ) ヴィカルパ vikalpa 分けて考えること。分析。もろもろの事理を思量し、識別する心の働き。空の思想は、「無分別」による観察を行うため、分別をしないように勧める。まず、事理を分別し、次に無分別して真実を観て、さらに分別を無分別の智によって観る。 : : 用語の意味 : :
: 用語の意味 : 法身(ほっしん) ダルマ・カーヤ dharma-kāya 真理そのものの身体のこと。 : 法身の大士 仏の自性である真如を体とする大菩薩のこと。 : 五分法身 戒・定・慧・解脱・解脱知見の成就のこと。 五分法身とは、法身の大士が具えている五種の功徳性のこと。解脱身のこと。 : ①戒(かい) シーラ śīla 仏教徒にとっての自分を律する内面的な道徳規範を戒といい、戒を守ることを持戒という。 : ②禅定(ぜんじょう) ディヤーナ dhyāna 特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させること。 : ③智慧(ちえ) プラジュニャー prajñā 諸法実相を観察することによって体得できる実践的精神作用を慧といい、煩悩を完全に断つ主因となる精神作用を智という。 : ④解脱(げだつ) ヴィモークシャ vimokṣa 煩悩に縛られていることから解放され、迷いの苦を脱すること。 : ⑤解脱知見(げだつちけん) ヴィムクティ・ジュニャーナ・ダルシャナ vimukti-jñāna-darśana 解脱している事を自分自身で認識していること。 : : 用語の意味 : :
: 1)菩薩衆-1 : a.名を列ね数を唱える : 経:其の菩薩の名を、文殊師利法王子(もんじゅしりほうおうじ)・大威徳蔵法王子(だいいとくぞうほうおうじ)・無憂蔵法王子(むうぞうほうおうじ)・大弁蔵法王子(だいべんぞうほうおうじ)・弥勒菩薩(みろくぼさつ)・導首菩薩(どうしゅぼさつ)・薬王菩薩(やくおうぼさつ)・薬上菩薩(やくじょうぼさつ)・華幢菩薩(けどうぼさつ)・華光幢菩薩(けこうどうぼさつ)・陀羅尼自在王菩薩(だらにじざいおうぼさつ)・観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)・大勢至菩薩(だいせいぼさつ)・常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)・宝印首菩薩(ほういんしゅぼさつ)・宝積菩薩(ほうしゃくぼさつ)・宝杖菩薩(ほうじょうぼさつ)・越三界菩薩(おつさんがいぼさつ)・毘摩跋羅菩薩(びまばつらぼさつ)・香象菩薩(こうぞうぼさつ)・大香象菩薩(だいこうぞうぼさつ)・師子吼王菩薩(ししくおうぼさつ)・師子遊戯世菩薩(ししゆけせぼさつ)・師子奮迅菩薩(ししふんじんぼさつ)・師子精進菩薩(しししょうじんぼさつ)・勇鋭力菩薩(ゆえいりきぼさつ)・師子威猛伏菩薩(ししいみょうぶくぼさつ)・荘厳菩薩(しょうごんぼさつ)・大荘厳菩薩(だいしょうごんぼさつ)という。是の如き等の菩薩摩訶薩八万人と倶なり。 : : b. 菩薩衆の徳を歎ずる : (a)自利 : ①法身 : 経:是の諸の菩薩、皆是れ法身の大士ならざることなし。戒(かい)・定(じょう)・慧(え)・解脱(げだつ)・解脱知見(げだつちけん)の成就(じょうじゅ)せる所なり。 : 訳:この菩薩たちは、皆、真理と一体となった高位の者たちです。戒律を守り、禅定をし、智慧が深く、迷いから離れ、迷いから離れていることを自覚していました。 : : ②止徳 : 経:その心禅寂にして、常に三昧に在って、恬安憺怕(てんなんたんぱく)に無為無欲なり。顛倒乱想(てんどうらんそう)、また入ることを得ず。静寂清澄(じょうじゃくしょうちょう)に志玄虚漠(しげんこまく)なり。これを守って動ぜざること億百千劫、無量の法門悉く現在前せり。 : 訳:その菩薩たちの心は落ち着いていて動じることがなく、常に一心に集中しており、現象に振り回されることなく常に安らかであり、ものごとにこだわることがありません。自己中心的ではなく、必要以上の欲もありません。真理を無視するような自分勝手な考えはなく、想いが乱れることもありません。心が澄んで静かに落ち着いており、志しは高く、広くて限りがありません。このことを守って長い間、動揺することなく、多くの教えを理解してきました。 : : ③観徳 : 経:大智慧を得て諸法を通達し、性相の真実を暁了(ぎょうりょう)し分別するに、有無長短、明現顕白なり。 : 訳:大きな智慧を得ていますので、世界の事物・現象を深く観ることができ、物事の特徴と本質を見通し、見分けるとき、そのものの特徴の有無、度合いをはっきりと見極めていました。 : : 1)菩薩衆-1 : :
: 用語の意味-3 : 比丘(びく) ビクシュ bhikṣu 出家して具足戒を受けた男性修行者のこと。 : 比丘尼(びくに) ビクシュニー bhikṣuṇī 出家して具足戒を受けた女性修行者のこと。 : 優婆塞(うばそく) ウパーサカ upāsaka 三帰五戒を受けた在家の男性修行者のこと。清信士、居士と訳す。 : 優婆夷(うばい) ウパーシカー upāsikā 三帰五戒を受けた在家の女性修行者のこと。清信女と訳す。 : 転輪王 チャクラヴァルティ・ラージャン cakravarti-rājan 古代インドの伝説上の理想の王。身に三十二相を具え、即位の時に天より輪宝を感得し、これを転じて四方を征服するので転輪王という。輪宝に金・銀・銅・鉄の四種があり、その輪宝の種類によって治める範囲が異なる。 : 国士・国女 中堅階級の男女のこと。 : 国大長者 地主や長者のこと。 : 囲遶(いにょう) 法会のとき、多くの人々が釈尊の周囲を右に回って礼拝すること。 : 匝(そう) 聖者のまわりを右回りに何回も回って、敬意と帰依を表わす。基本的には三匝する。 : 供養(くよう) プージャナー pūjanā 仏・菩薩・諸天などに、香・華・燈明・飲食などの供物を真心から捧げること。日本では、死者や祖先に対する追善供養のことも供養ということが多い。供養には、「利供養」「敬供養」「行供養」がある。 : ①利供養(りくよう)・・衣服臥具などの物品を捧げて供養すること。 : ②敬供養(きょうくよう)・・讃嘆・恭敬する供養。 : ③行供養(ぎょうくよう)・・仏法を実践する供養。 : : 用語の意味-3 : :
: 用語の意味-2 : 八部衆(はちぶしゅう) 仏教を守護する天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩侯羅伽のこと。 : 天(てん) デーヴァ deva 天上界に住む神々のこと。もともとはヴェーダの神。仏教では、八部衆の一群として仏法を護っている。梵天、帝釈天など。 : 龍(りゅう) ナーガ naga インド神話の龍は、上半身は人間で頭に五頭の蛇がおり、下半身は大蛇の姿で表わされる。このように古代インドでは、半身半蛇の姿であったが、中国で、中国伝承の龍のイメージに変わって日本に伝わったため、日本の龍も中国的な大蛇風の姿で表わされる。天候を操る力があり、怒れば雨を降らさずに干ばつにし、怒りがおさまったら雨を降らせるという。釈尊の成道の時、ずっと守護したという伝説もある。 : 夜叉(やしゃ) 男:ヤクシャ yakṣa 女:ヤクシニー yakṣinī 古代インド神話に登場する鬼神。毘沙門天の眷属だといわれる。 : 乾闥婆(けんだつば) ガンダルヴァ gandharva インド神話では、帝釈天に仕える半神半獣の楽団に属し、神々が集まる宮殿において、美しい音楽を奏でる役割を担っている。神々の飲む霊薬「ソーマ」を守る役も果たしている。香を食事とし、身体からも芳しい香りを放つ。乾闥婆の妻は、天女のアプサラスである。 : 阿修羅(あしゅら) アスラ asura 意訳は非天。阿修羅は、元は天上界の神だったが、帝釈天との戦いに敗れて、海中に落とされ神の位も剥奪された。争いを好む。 : 迦楼羅(かるら) (巴)ガルダ garuda インド神話ではヴィシュヌ神の乗り物とされ、蛇や龍を食べて退治する。鳥頭人身有翼である。インドネシアの国営航空会社のシンボルであり、日本のカラス天狗のモデルだともいわれる。 : 緊那羅(きんなら) キンナラ kimnara 歌の上手な音楽の神。男性の緊那羅は半人半馬で、女性の緊那羅はキンナリーと呼ばれ、美しい天女の姿をしている。半人半馬のため人非人ともいう。 : 摩侯羅伽(まごらが) マゴラガ mahoraga 「大きな蛇」の意味。音楽神。身体が人間で、首から上がニシキヘビのような姿をしている。 : : 用語の意味-2 : :
: 用語の意味 : 通序 仏教経典に共通する序文のこと。その経典が、いつ、どこで、説かれたのかを最初に明かしている。そこには、五事・六成就が書かれている。 : 五事 信・聞・時・主・処の経の五事のこと。 ①信=如是・・法成就。釈尊の説法を正確に記述しているということ。 ②聞=我聞・・人成就。この我とは、ほとんどの経典において、釈尊の侍者として説法を聞いた阿難のことをいう。 ③時=一時・・時成就。釈尊がこの説法をしたのが、いつであるかの記述。 ④主=仏・・主成就。この教えを説かれたのは釈尊に間違いないという記述。 ⑤処=住王舎城・・処成就。釈尊がどこで説法をしたのかの記述。 : 六成就 五事に衆成就(聴聞相手)を加えて、六成就という。 : : 王舎城(おうしゃじょう) ラージャグリハ Rājagṛha 中インドのマガダ国の首都。釈尊の生まれた紀元前五世紀頃、インドでは村から街へとコミュニティ形態が変化していた。王族の権力が大きくなり始め、バラモンを頂点とするカースト制に反発もあり、そのことから仏教に帰依する王族も多かったようである。マガダ国のビンビサーラ王も、その息子のアジャータシャトル王も仏教に帰依していた。マガダ国とは、当時のインドでは大きな国であり、この国ではカースト制度が緩かったという。 : 城(じょう) 日本の城のイメージではなく、街のことをいう。インドの街は、自衛のために四方を壁でぐるりと囲んでいた。 : 耆闍崛山(ぎしゃくせん) グリドラクータ Gṛdhrakūṭa グリドラクータを音写して耆闍崛山という。霊鷲山(りょうじゅせん)のこと。王舎城の東北にあり、釈尊説法の場所として有名。鷲が多いこと、霊山だったことからも分かるように、この山の頂上では、鳥葬が行われていたという。死体が転がっている近くで、釈尊は生活をしていたようである。 : 声聞(しょうもん) シュラーヴァカ śrāvaka 教えを聴聞する者のこと。弟子のこと。初期仏教では、弟子たちは釈尊の教えを聞いて学んでいたので、出家・在家・男女の差はなく、全員を声聞と呼んでいた。部派仏教の時代になって、出家者の学問主義の弟子のことを声聞と言った。 : 比丘(びく) ビクシュ bhikṣu ビクシュを音写して比丘という。出家して具足戒を受けた男性修行者のこと。 : 菩薩(ぼさつ) ボーディ・サットヴァ bodhi-sattva 覚りを求める者のこと。菩提薩埵(ぼだいさった)を略して菩薩という。仏果を求め、菩提心を起こして仏道に入り、六波羅蜜の行を修する修行者。上求菩提・下化衆生。 : 摩訶薩(まかさつ) マハー・サットヴァ mahā-sattva 偉大なる者のこと。大乗の修行者。菩薩摩訶薩というように、菩薩と合わせて使われる。菩薩摩訶薩とは、大乗の菩薩のこと。 : :
: 第一通序-1 : 1.法・人・時・主・処の経の五事 : 経:是の如きを我聞きき。一時、仏、王舎城(おうしゃじょう)・耆闍崛山(ぎしゃくせん)の中に住したまい、 : 訳:このように私は聞きました。ある時、仏は、マガダ王国の都ラージャグリハの霊鷲山に住み、 : : 2.聴聞衆を明かす : (1)標 : 経:大比丘(びく)衆万二千人と倶なりき。菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)八万人あり。天(てん)・龍(りゅう)・夜叉(やしゃ)・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅(あしゅら)・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩睺羅伽(まごらが)あり。諸の比丘(びく)・比丘尼(びくに)及び優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)も倶なり。大転輪王・小転輪王・金輪・銀輪・諸輪の王・国王・王子・国臣・国民・国士・国女・国大長者、各眷属(けんぞく)百千万数にして自ら圍遶(いにょう)せると、仏所に来詣(らいけい)して頭面に足を礼し、遶(めぐ)ること百千匝(そう)して、香を焼き華を散じ、種々に供養すること已って、退いて一面に坐す。 : 訳:一万二千人の出家修行者と共にいました。大菩薩たちが、八万人いました。天上界の神々、ナーガ、ヤクシャ、ガンバルヴァ、アスラ、ガルダ、キンナラ、マホーラガたちが同席していました。多くの男女の出家修行者や在家修行者も同席していました。大転輪王、小転輪王、金輪・銀輪・諸輪の王、国王、王子、優れた家来たち、優れた人々、大長者たちが、それぞれ多くの眷属と共に集まっていました。人々は、次々と仏のもとへと進み、仏のみ足に額をつけて礼拝し、仏のまわりを右回りに巡りました。香をたき、花を散じ、様々に供養しおわって、退いて席へと戻りました。 : : 第一通序-1 : :
: 無我 : 無我は、アナートマン anātman の訳です。アートマンの否定という意味です。アートマン ātman とは、インド思想の中心にあるもので、個の原理・個の主体・個の実体のことをいいます。個の原理とは、私を私として成り立たせるもの、という意味です。全体の原理のことをブラフマン brahman といいます。アートマンとブラフマンは同一だと覚ることが、インド思想では重視されます。梵我一如といいます。個の主体とは、心身の中心のことです。感情・思考・意志・行動の主導者です。または、業・輪廻・解脱の主体です。アートマンは、絶対なる主体なので、決して認識されません。認識したら、それはアートマンではありません。個の実体とは、「真に存在するもの」のことです。
釈尊の時代、多くの修行者がアートマンを求めて出家をしました。絶対的な主体であり、客体にはならないアートマンを覚ることは不可能のような気がしますが、修行者たちは、ヨーガをし、苦行をしてアートマンを認識しようとしました。一つの方法として、これがアートマンである、と感じたら、それを片っ端に否定することが勧められました。そうして最後に残ったのがアートマンだというのです。果たして、どれくらいの成功者がいたのかは不明です。
釈尊は、29歳で出家し、師について瞑想をしましたが、瞑想では覚れないと分かって苦行に入りました。約6年もの間、過酷な苦行を行いましたが、苦行でも覚れないと分かって苦行を捨てました。そして、菩提樹の下で禅定に入り、遂に覚りを得ました。その時、何を覚ったのかは不明です。真実に目覚められたのでしょうが、それがアートマンに関するものなのかは分かりません。ただ、覚られた仏陀は、無我を説きました。それが、「アートマンは無い」という全否定なのか、「アートマンに執着するな」というものなのか、「あなたが想うものは、アートマンでは無い」というものなのかは不明です。
無我とは、アートマンの否定のことです。よって、アートマンという概念を知らなければ無我は分かりません。しかし、中国に仏教が入ってきたとき、中国にはアートマンという思想がなかったので、当然無我も理解できませんでした。アートマンを訳す言葉が無かったため、「我」という漢字を借りたくらいです。我とは、円盤状ののこぎりの様な武器のことですので、アートマンとの関連はありません。新しい意味で使われ始めた我という字は、後に「私」という意味でも使われるようになったので、余計に混乱しました。日本の仏教は中国経由で入ってきましたので、日本でも我・無我は理解されませんでした。そもそもバラモン教の思想であるアートマンを否定して無我だと言ったのですから、バラモン教を知らなければ理解できないと思います。
4世紀に鳩摩羅什が、摩訶般若波羅蜜経や龍樹の大智度論・中論を訳し、合わせて座学で仏教を講義しました。このことで、中国では、無我や空などの重要な仏教用語の意味が知られることになりました。それでも、日本での無我の解釈には誤りが多いようです。ネットの情報を鵜呑みにせず、仏教用語辞典などで、きちんと意味を把握したほうがいいです。 : : 無我 : :
これまで、Rの会のYouTubeを見ながら、法華三部経の解釈をしてきましたが、訂正して、ダルマ太郎の解釈のみにします。
: はじめに : ここでは、『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』を主にして、その開経としての『無量義経(むりょうぎきょう)』、結経としての『仏説観普賢菩薩行法経(ぶっせつかんふげんぼさつぎょうほうきょう)』を合わせて学んでいきます。この三経を法華三部経といい、妙法蓮華経並開結(みょうほうれんげきょうならびにかいけつ)とも称されます。ただし、このことは、インドの法華経で言われていたことではなく、中国において、天台大師智顗(てんだいたいしちぎ)が言い出したことです。なので、法華三部経というものが「有る」のではなく、仮にそういう風に言っています。
私が法華経の解釈をする場合は、サンスクリット原典のサッダルマ・プンダリーカ・スートラ、鳩摩羅什(くまらじゅう)が訳した妙法蓮華経を参照にします。分からない言葉については、仏教大辞典を開いて意味を調べながら進めていきます。できるだけ、自分勝手な解釈はつつしむつもりです。しかし、開経としての『無量義経』、結経としての『仏説観普賢菩薩行法経』には、サンスクリット原典がありませんから、中国語訳の経典を参照にします。 : : はじめに : :
: 五蘊(ごうん) : 五陰(ごおん)・五衆とも訳されます。スカンダ・パンチャカ skandha-pañcaka の訳で、「五つの集合」という意味です。世界を構成する五つの要素のことだといわれます。それは、中国語では色受想行識、日本語訳では物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用です。なぜ、五蘊が世界を構成するのかというと、私たちにとっての世界とは認識されたものだからです。認識するから、それは有りますが、認識しなければありません。よって、認識されるものと認識するものによって、世界は構成されます。では、五蘊の一つ一つをみていきましょう。 : : 色(物質的現象)ルーパ rūpa 形あるもの、色があるもののことで、物質・物質性・身体の意です。他の四つが精神的作用なのに対し、物質的存在を指します。認識の対象です。
受(感受作用)ヴェダナー vedanā 外部の対象から感覚を受け取る精神機能。感覚・感情。苦・楽・不苦不楽などの印象。
想(想起作用)サンジュニャー saṃjñā 連想思考または象徴機能の集合体、心の中に浮かぶイメージを指します。対象のありかたを心で把握すること。表象、一致、理解、意識、知識、合図、命名。
行(意志作用)サンスカーラ saṃskāra 意志、意図、または渇望の原因となる精神機能です。
識(認識作用)ビジュニャーナ vijñāna 認知機能、つまり識別機能です。識別を通じて知ることです。 : : 五蘊は、連鎖縁起して認識を生じます。たとえば、それを見て快く感じ、それがリンゴという名で美味しい果物だと想ったならば、それに近づこうとして、それを認識します。または、その人と出会い不快に感じ、その人がチンピラで質が悪いと想ったならば、その人から離れようとし、その人を認識します。もし、それを感受しても何も感じず、何も想わず、無視したとしたら、認識は起こりません。人混みで多くの人を認識しないのは、このためです。しかし、風景としては認識していますから、その人の世界にはいます。このように感情・思考・意志によって認識します。人それぞれに感情のパターン、思考のパターン、意志のパターンは異なりますので、それを個性と言います。つまり、個の性格です。
ところで、私たちは、外部の対象を感受しているのでしょうか? 眼や耳は、外部のあるがままの世界を見たり、聞いたりできるのでしょうか? 答えは否です。私たちは、外部の対象をあるがままには感受できません。眼は光を信号にし、耳は音を信号にして脳に伝えて、脳で世界を仮設していますから、実際の世界と仮設世界とは異なります。その仮設世界を私たちは感受し、想起しています。仮設された世界は、鏡に映った像のように実体が有りません。実体の無い世界を認識し、それを世界だと思っています。少し考えれば、そのことが事実だと分かりますが、多くの人は、仮設世界を現実世界だとして生きています。
つまり、五蘊のすべては脳にあります。脳の外には私たちの世界は有りません。仮設世界を感受し、想起し、意志を持ち、認識しています。現実世界を感受するためには智慧が必要です。智慧とは、真実を観る能力です。しかし、私たちの智慧は、煩悩に覆われているので働いていません。煩悩を滅し、智慧の働きを活発にしなければなりません。
唯識では、外部の対象を否定しています。私たちの内側にある世界以外に世界は無く、その世界は心が造ると言います。それが真実なのかどうかは、覚らないと分かりません。唯識以外では、外部には現実の世界が有るけれど、それを認知できていない、と説きます。果たして真実はどちらなのでしょうか? 真実を覚れば、その人は仏陀と呼ばれます。仏陀に成れば、苦から解放され、自由自在の境地になるといいます。しかし、凡夫の私には、なぜ真実を覚れば、苦から解放されるのかが謎です。一体、何が起こるのでしょう? : : 五蘊 : :
: 色即是空 まとめ : これまでに読んだように摩訶般若波羅蜜経には、「色即是空。空即是色」が5回も説かれています。般若心経だと説明がないので意味が分かりませんが、摩訶般若波羅蜜経の場合は説明があるので多少は理解できます。
奉鉢品第二では、菩薩は般若波羅蜜(智慧の完成)の行を行じる時、名称を見てはいけないと説きます。名称は人が付けたのであって、そのものに固有のものではありません。仮です。仮ですが、人は名称があるとそれに実体を見て、執着してしまいます。執着があると雑念から離れられなくなりますから修行の妨げです。無執着を目指すのなら、ものに実体をみないようにし、そのためには名称を見ないようにします。
そのことの根拠が、「色即是空。空即是色」です。物質的現象には実体が無く、実体が無いから物質的現象です。私たちが感知しているのは実際の世界ではなく、脳内で仮設した世界です。眼や耳で感受したものは、信号として脳に伝わり、脳で仮設されます。仮設された世界を私たちは、実際の世界だと思って感知しています。しかし、仮設された世界を感知しているのですから、一切の事象には実体は有りません。空です。
物質的現象、それは即ち空です。仮設世界の物質は、鏡に映った像、池に映った月と同じく、実像ではありませんので実体は有りません。空です。空、それは即ち物質的現象です。私たちにとって、空なる世界、すなわち仮設された世界が物質的現象です。そのことを知れば、あらゆるものに実体を見ないので執着することもなくなるでしょう。たとえば、業・輪廻・解脱も空です。実体は有りませんから、執着の対象はありません。 : : 習応品第三では、五蘊が空ならば、五蘊は無いと説いています。仮設世界の五蘊は、仮に有るので、存在していません。概念としては有りますが、事実としてはありません。よって、仮設世界は、夢のようなもの、幻のようなものです。 : : 集散品第九では、菩薩が智慧の完成の行を求めるのならば、一切の物事に執着してはいけないと説いています。なぜならば、「色即是空。空即是色」だからです。実体が無いのですから、執着の対象はありません。 : : 相行品第十では、事象について定義をしないことが説かれています。なぜならば、「色即是空。空即是色」だからです。実体が無いのですから、定義はできません。 : : 幻学品第十一では、「色は空である」と見るのではなく、「色即是空」と見るようにと説いています。色についてあれこれ考えるのではなく、「色、それは即空である」と見ます。 : : 色即是空 まとめ : :
: 勧誘は禁止にしてほしい : 昔は、訪問販売というのがあって、セールスマンが一軒一軒家を周り、物を売っていました。そんなに売れはせず、100軒回って一件売れるという感じでしょう。もちろん、商品によりますが、けっこう大変なビジネスです。まあ、大変なのは、歩き回って、一日中断られるセールスマンであって、上の人は事務所で楽々な毎日を送っているのでしょうが。
新聞・化粧品・NHK・教材などが、よく来ていました。断っても、断っても、しつこく来ます。私が相手をするときは、すぐに帰っていきますが、母が出るとねばってきます。新聞なんかは、若い子を使って同情を買うような演技をしていましたので、優しい母は、まんまとひっかかっていました。なんだか詐欺師のようなやりかたです。
宗教もしつこいですね。私は、きっぱりと断りますので諦めますが、姉夫婦のところには、義兄の友人たちが新興宗教団体だったので、しょっちゅう家に上がり込んで長い時間をかけて勧誘を受けていました。3~4人で現れ、図々しくも夕食を食べ、お酒を飲みながら勧誘をしてくるんだとか。嫌ですね、こういうの。
一般人にとって、勧誘行為は迷惑です。訪問による勧誘も、街で声をかける勧誘も、やめてもらいたいですね。時間の無駄だし不快です。政府は、なぜ勧誘を禁止しないのでしょう? たくさんの人たちが、犠牲になっていることを知っていながら放っておくのはなぜでしょうか? おそらくは、お金がからんでいるのでしょう。宗教団体が政治献金をしているために、政治家は何の対策もしないのでしょう。結局は、市民が馬鹿を見るのが、この社会なのだと思います。正義の味方が現れて、この世界を浄化して欲しいですね。 : : 勧誘は禁止にしてほしい : :
: 被焼の相 : 訳) 諸の鬼神等 声を揚げて大に叫ぶ 鵰(ちょう)・鷲(じゅ)・諸鳥(しょちょう) 鳩槃荼(くはんだ)等 周慞惶怖(しゅうしょうおうふ)して 自ら出ずること能わず : : 太郎訳) 様々な鬼神たちは 大きな声をあげて叫びました クマタカやワシなどの鳥たち 鳩槃荼鬼などは 慌てて逃げ惑いますが 自分の力では 逃げ出すことができませんでした : : 色界に火が起こる : 訳) 悪獣毒虫 孔穴に蔵竄(ぞうざん)し 毘舎闍鬼(びしゃじゃき) またその中に住せり 福徳薄きが故に 火に逼まられ 共に相残害して 血を飲み肉を食らう 野干の属 ならびにすでに前に死す 諸の大悪獣 競い来って食敢(じきだん)す 臭煙蓬悖(しゅうえんぶぼつ)して 四面に充塞(じゅうそく)す : : 太郎訳) 悪い獣や毒虫たちは 穴を見つけてそこに逃げ込みました 毘舎闍鬼も穴に入りました ところが これまで悪業を重ね 徳を積んでいなかったために 火に囲まれ 責められて 自分だけでも助かろうと 安全を求めて争い お互いに傷つけ合い 血を飲み 肉を喰らいました ジャッカルたちは すでに死んでいました すると様々な悪獣たちが 競って集まり群がって その死骸に喰らいつきました 臭いと煙が盛んにおこりたち あたり一面にたちこめました : : 被焼の相 : :
: 献身 : 宗教団体って儲かるのでしょうか? 会員には、欲を捨てなさいと説いて献金をさせているのに、会長や幹部がお金儲けしているのは矛盾しています。会では、必要最低限のお金だけを使い、残りは寄付すればいいのにね。会員は、洗脳されれば、ロボットと同じなので、指示・命令を聞いて、お金を出し、労力を出し、知人友人を勧誘して、会に貢献しようとします。貢献できない人は、無視されます。
ある会に貧乏な家庭の娘さんがいました。彼女は、お金が無かったので、献身をしていました。教団の施設の掃除をしたり、食事を作ったり、イベントの手伝いをしたりで、割と忙しかったそうです。彼女の恋人が事故で亡くなり、ショックから彼女の精神がおかしくなりました。すると、教団の人は、彼女を無視するようになりました。相談を持ち掛けても相手にされず、挨拶をしても、返事がなかったといいます。そのくせ、掃除などはやらされていたんだとか。その内に病気が酷くなって外出ができなくなると、連絡も途絶えました。利用できるときは利用し、使えなくなったら捨てるのでしょうか。酷い話です。
宗教って、人を救うものだと思っていましたが、弱者を食い物にし、ただでこき使うなんてどうかしてますよね。その会ではありませんが、若い会員をワゴン車に乗せて全国を巡って壺を売らせるという酷いことをする宗教団体もあります。信じる者は救われると言いますが、実際には信じる者は馬鹿を見るようです。こういう話を聞くと宗教って必要なのかな? と思ってしまいます。 : : 献身 : :
: 勉強会 : もう、ずいぶん前のことです。私の友人に、ある仏教系の新興宗教教団の青年部幹部がいて、その人に誘われ、私もよくその会の勉強会に参加しました。勧誘をしないという条件です。参加者は、平均して10名ほどで、半年ほど通いました。男女半々でした。その勉強会の中で、縁起・無我・無常・苦・涅槃・四諦・八正道・六波羅蜜などの教義を学びました。講師は、教務員という役目の人でした。
最初の勉強会のテーマは縁起でした。その会では、「縁起とは因縁果報」だと教えていました。すごい違和感を感じましたが、何にひっかかっているのかは、当時の私には分かりませんでした。「因は直接的原因。縁は間接的原因。因縁が和合して結果となり、そのことが他に影響を与える、それを報という」と説いていました。そういう解釈は聞いたことが無かったので、違和感を感じたのでしょう。
今だと分かるのですが、縁起とは、「縁って起こる」という意味です。なので、「因縁が和合して結果が生じる」というのは合っていますが報は入りません。報が入ると業報の思想になりますので、基本的な縁起とは異なります。報が入っているために、その会の会員は縁起の教えが分からなかったようです。これは問題ですよね。
その後の無我や無常なども、仏教用語辞典の内容とは違っていました。なぜ、違う解釈をするのでしょう? 不思議です。この会では、独自の解釈をするのが良いことだと思っているのでしょうか? 最も基本的な無我・無常・縁起の教義が異なれば、全体的な教義にも影響します。初期仏教を基本編、大乗仏教を応用編だとみれば、初期仏教の教義を独自の解釈で教えれば、大乗仏教の教義は理解できないと思います。理解できても、それは本来の意味とは違いますから、他の教団と話しても通じないでしょう。
仏教教団を名乗っているのなら、仏教用語については独自の解釈をせず、伝統的な意味で解釈したほうがいいです。独自の解釈の方が正しいと思っているのでしょうが、伝統的な意味の方が正しいと思います。人々の幸せを望むのであれば、勝手な解釈はつつしむべきでしょう。 : : 勉強会 : :
: 摩訶般若波羅蜜経幻学品第十一の解釈 : 「また次に須菩提よ。菩薩は智慧の完成の行を行じ、このように思惟します。物質的現象は空であるという見方によれば、物質的現象は空ではありません。物質的現象、それは即ち空であり、空、それは即ち物質的現象だからです。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用も同じです」。
ここは、釈尊が須菩提に説法をしています。「色は空である」という認識だと、色は空ではありません。「色即是空。空即是色」だと認識することが重要です。「即」という言葉が入ることで、色と空は、コインの裏表のように、離れていないことを表しています。一致しています。「色は空である」という見方だと、色と空を離して認識しているために、色に実体を見て、空に実体を見るという過ちを起してしまいます。色にも、空にも実体を見ないのなら、「色即是空。空即是色」と見る必要があります。
「眼は空である」「感受は空である」「四念処は空である」「十八不共法は空である」という認識よりも、「眼即是空。空即是眼」「受即是空。空即是受」「四念処即是空。空即是四念処」「十八不共法即是空。空即是十八不共法」と見ます。 : : 「須菩提よ。このように菩薩は智慧の完成の行を行じので、驚かず、畏れず、怖いと思いません」。
一切の事物・現象は、即空なので、個々の事象に実体を見ません。実体を見ないので、特徴を見ることが無く、よって驚くことは無く、畏れることは無く、怖いと思うことはありません。周りの変化に惑わされず不動です。 : : 摩訶般若波羅蜜経幻学品第十一の解釈 : :
: 色即是空-5 : 摩訶般若波羅蜜経幻学品第十一より : 経:復次須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。如是思惟。不以空色故色空。色即是空空即是色。受想行識亦如是。不以空眼故眼空。眼即是空空即是眼。乃至意觸因縁生受。不以空受。故受空。受即是空空即是受。不以空四念處故。四念處空。四念處即是空。空即是四念處。乃至不以空十八不共法故。十八不共法空。十八不共法即是空。空即是十八不共法。如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。不驚不畏不怖。 : : 太郎訳:また次に須菩提よ。菩薩は智慧の完成の行を行じ、このように思惟します。物質的現象は空であるという見方によれば、物質的現象は空ではありません。物質的現象、それは即ち空であり、空、それは即ち物質的現象だからです。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用も同じです。眼は空であるという見方によれば、眼は空ではありません。眼、それは即ち空であり、空、それは即ち眼だからです。ないし、意の接触という因縁で感受が生じると見るとき、感受は空であるという見方によれば、感受は空ではありません。感受、それは即ち空であり、空、それは即ち感受だからです。四念処は空であるという見方によれば、四念処は空ではありません。四念処、それは即ち空であり、空、それは即ち四念処だからです。ないし、十八不共法は空であるという見方によれば、十八不共法は空ではありません。十八不共法、それは即ち空であり、空、それは即ち十八不共法だからです。このように須菩提よ。菩薩は智慧の完成の行を行じるので、驚かず、畏れず、怖いと思いません。 : : 色即是空-5 : :
: 摩訶般若波羅蜜経相行品第十の解釈 : 舎利弗が須菩提に、「菩薩が智慧の完成の行を行じる時、どのように方便を用いるのですか?」と質問し、それに須菩提が答えます。須菩提は、解空第一と呼ばれるほどに、空を理解している弟子です。多くの般若経で、釈尊と問答をしています。
須菩提は答えました。それは、あらゆることを定義しないことだといいます。五蘊(物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用)を定義しないし、五蘊の特徴を定義しません。また、五蘊が常だと定義しないし、無常だと定義しません。五蘊が楽だと定義しないし、苦だと定義しません。五蘊が我だと定義しないし、無我だと定義しません。五蘊が空・無相・無作だと定義しません。五蘊が離れていると定義しないし、寂滅(涅槃)だと定義しません。
なぜ定義しないのかというと五蘊が空だからです。実体が無いので定義はできません。しかし、説法の時、定義するのは方便です。よって、定義すること、定義しないことを受けません。 : : 摩訶般若波羅蜜経相行品第十の解釈 : :
: 色即是空・空即是色-4 : 摩訶般若波羅蜜経相行品第十 : 経:舍利弗問須菩提。云何當知菩薩摩訶薩行般若波羅蜜有方便。須菩提語舍利弗。若菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜時。不行色不行受想行識。不行色相不行受想行識相。不行色受想行識常。不行色受想行識無常。不行色受想行識樂。不行色受想行識苦。不行色受想行識我。不行色受想行識無我。不行色受想行識空。不行色受想行識無相。不行色受想行識無作。不行色受想行識離。不行色受想行識寂滅。何以故。舍利弗。是色空爲非色。離空無色離色無空。色即是空空即是色。受想行識空爲非識。離空無識離識無空。空即是識識即是空。乃至十八不共法空。爲非十八不共法。離空無十八不共法。離十八不共法無空。空即是十八不共法。十八不共法即是空。如是舍利弗。當知是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜有方便。是菩薩摩訶薩如是行。般若波羅蜜。能得阿耨多羅三藐三菩提。是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。行亦不受不行亦不受。行不行亦不受。非行非不行亦不受。不受亦不受。 : : 太郎訳:舎利弗は、須菩提に問いました。なぜ、菩薩は智慧の完成を行じるとき、方便が有ると知ることができるのですか? 須菩提は舎利弗に語りました。もし菩薩が、智慧の完成の行を欲するのなら、物質的現象を定義しません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用を定義しません。物質的現象の特徴を定義しません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用の特徴を定義しません。五蘊(物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用)が常住だと定義しません。五蘊が無常だと定義しません。五蘊が楽だと定義しません。五蘊が苦だと定義しません。五蘊が我だと定義しません。五蘊が無我だと定義しません。五蘊が空だと定義しません。五蘊が無相だと定義しません。五蘊が無作だと定義しません。五蘊が離れていると定義しません。五蘊が寂滅だと定義しません。
なぜならば、舎利弗よ。これは、物質的現象が空なので、物質的現象ではないからです。空から離れて物質的現象は無く、物質的現象を離れて空はありません。物質的現象、それは即ち空であり、空、それは即ち物質的現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用が空なので、認識作用ではありません。空から離れて認識作用はなく、認識作用を離れて空はありません。空は、即ち認識作用であり、認識作用は、即ち空です。ないし、十八不共法は空なので、十八不共法ではありません。空から離れて十八不共法はありません。十八不共法から離れて空はありません。空は、即ち十八不共法です。十八不共法は、即ち空です。
舎利弗よ。このことを、よく知っておいてください。この菩薩が、智慧の完成の修行をするとき、方便を用います。この菩薩が、このように行じれば、智慧は完成し、よく無上の覚りを得ることができます。この菩薩が、智慧の完成の行を行じる時、定義を受けるのではなく、定義をしないことを受けるのではありません。定義をすること、定義をしないことを受けません。定義を否定すること、定義をしないことを否定することを受けません。また、受けないことを受けません。 : : 色即是空・空即是色-4 : :
: 摩訶般若波羅蜜経集散品第九の解釈 : この章では、須菩提が釈尊に自分の領解を発表しています。須菩提は、十大弟子の一人で解空第一・無諍第一などと呼ばれます。空をよく理解しているので解空第一といわれ、言い争うことがないので無諍第一と呼ばれました。 : : 「また次に世尊。菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を欲するならば、物質的現象の中に留まってはいけません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用の中に留まってはいけません」。
須菩提は、菩薩が智慧の完成の修行を求めるならば、物質的現象に執着してはいけないと言います。物質的現象は空なので、執着の対象ではありません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用も同じです。このように五蘊は空だから、執着するなと言っています。 : : 「眼耳鼻舌身意の中に留まってはいけません。色声香味触法の中に留まってはいけません。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の中に留まってはいけません。視覚的接触、ないし意の接触の中に留まってはいけません。視覚的接触の因縁によって生じる感受、ないし意の接触の因縁によって生じる感受の中に留まってはいけません。地の要素、水・火・風の要素、空間・意識の要素の中に留まってはいけません。無明ないし老死の中に留まってはいけません」。
十二処・十八界なども空ですから、執着の対象ではありません。そういうものに執着しても、得るものは有りません。 : : 「なぜならば、世尊。物質的現象の特徴は空であり、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用の特徴は空だからです。世尊よ。物質的現象は、名称が無いので物質的現象です。空から離れれば、物質的現象ではありません。物質的現象、それは即ち空であり、空、それは即ち物質的現象です」。
物質的現象に執着してはいけない理由は、それが空だからです。空なるものに、執着することはできません。夢や幻に執着するようなものですから、利益がありません。私たちは、物質的現象の一つ一つに名称をつけていますが、物質的現象には名称がありません。すべての名称は人が便宜上付けただけですから仮です。名称が無いものが物質的現象なのです。空から離れて、物質的現象は有りません。物質的現象は、即ち空です。実体は有りません。空は、即ち物質的現象です。実体が無いから、因縁和合し、物質的現象が生じます。 : : 「感受作用・想起作用・意志作用・認識作用もまた空であり、名称が無いので認識作用です。空から離れれば、認識作用ではありません。認識作用、それは即ち空であり、空、それは即ち認識作用です」。
五蘊のすべては空であり、名称が無いから認識作用です。空から離れて、認識作用はありません。認識作用、それは即ち空です。実体は有りません。空は、即ち認識作用です。実体が無いから、因縁和合して、認識作用が生じます。 : : 「ないし老死の特徴は空です。世尊。老死は空であり、名称が無いので老死です。空から離れれば、老死ではありません。老死、それは即ち空であり、空、それは即ち老死です」。
老死も空ですから、実体は有りません。名称が無いので老死であり、空から離れれば老死ではありません。老死、それは即ち空です。実体は有りません。空は、即ち老死です。実体が無いから、因縁和合して、老死が生じます。 : : 「世尊。この因縁によって、菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を欲する時は、物質的現象の中に留まってはいけないし、ないし老死の中に留まってはいけません」。
一切は空なのですから、一切への執着を捨てる必要があります。一切は空であり、空が一切を作っています。よって、あらゆるものに執着してはいけません。私たちが世界だと思っているのは、実は脳内で仮設した世界です。仮設された世界は、水に映った月のようなものですから実体は有りません。実体の無い仮設された世界に執着しても、得られるものは有りません。 : : 摩訶般若波羅蜜経集散品第九の解釈 : :
: 総じて利鈍を結す : 経) 夜叉・餓鬼 諸の悪鳥獣 飢急にして四に向い 窓をうかがい看る : 太郎訳) このような夜叉・餓鬼 様々な悪い鳥・獣たちは 食べ物を探し求めながら 屋敷内をさ迷い 窓から外を観察していました : : 火起の由 : 経) 是の如き諸難 恐畏無量なり この朽ち故りたる宅は 一人に属せり その人近く出でて 未だ久しからざるの間 : 太郎訳) このように様々な難儀があり 無量の恐怖に満ちていました この古くて壊れそうな邸宅は ある一人の所有でした その人が近くに出かけてすぐに : : 火起の勢 : 経) 後に宅舎に 忽然に火起る 四面一時に その焔 倶に熾(さか)んなり 棟梁椽柱(でんちゅう) 爆声震裂(ばくしょうしんれつ)し 摧折堕落(さいせつだらく)し 墻壁(しょうびゃく)崩れ倒る : : 太郎訳) 邸宅に突然 火事が起こりました 四方に火は燃え移り燃え盛り 棟・梁・たるき・柱が 音をたててくだけ 垣や壁はくずれ落ちました : : 総じて利鈍を結す : :
: 勧誘 : 伝統的な宗教は勧誘をしませんが、新興宗教では勧誘をします。会員を集めなければ、お金を集めることができないし、無料の労働力も確保できませんから、勧誘を積極的に行うのでしょう。すべての新興宗教ではありませんが、あくどい方法で勧誘をするところがあります。しつこく、つきまとって強引に勧誘するところ、美しい女性やイケメンを使って、色仕掛けで勧誘するところ、集団で一人を囲み、圧力で勧誘をするところなど、人の弱いところにつけこんで勧誘します。
仏教には、摂受(しょうじゅ)と折伏(しゃくぶく)という勧誘方法があります。摂受とは、相手を肯定して勧誘する方法で、折伏は、相手を否定して勧誘する方法です。常識的には、摂受の方が仏教的なのですが、教団によっては、折伏を主に仕掛けるところもあります。相手の入っている宗教を貶し、相手の考え方を徹底的に否定して攻撃します。そういう方法がうまくいくとは思えないのですが、それを続けている教団がありますので、勧誘はできているのでしょうね。 : : 勧誘 : :
: 色即是空・空即是色-3 : 摩訶般若波羅蜜経集散品第九 : 経:復次世尊。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。色中不應住。受想行識中不應住。眼耳鼻舌身意中不應住。色聲香味觸法中不應住。眼識乃至意識中不應住。眼觸乃至意觸中不應住。眼觸因縁生受。乃至意觸因縁生受中不應住。地種。水火風種空識種中不應住。無明乃至老死中不應住。何以故。世尊。色色相空。受想行識識相空。世尊。色空不名爲色。離空亦無色。色即是空。空即是色。受想行識。識空不名爲識。離空亦無識。識即是空。空即是識。乃至老死老死相空。世尊。老死空不名老死。離空亦無老死。老死即是空。空即是老死。世尊。以是因縁故。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。不應色中住。乃至老死中不應住。 : : 太郎訳:また次に世尊。菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を欲するならば、物質的現象の中に留まってはいけません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用の中に留まってはいけません。眼耳鼻舌身意の中に留まってはいけません。色声香味触法の中に留まってはいけません。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の中に留まってはいけません。視覚的接触、ないし意の接触の中に留まってはいけません。視覚的接触の因縁によって生じる感受、ないし意の接触の因縁によって生じる感受の中に留まってはいけません。地の要素、水・火・風の要素、空間・意識の要素の中に留まってはいけません。無明ないし老死の中に留まってはいけません。
なぜならば、世尊。物質的現象の特徴は空であり、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用の特徴は空だからです。世尊よ。物質的現象は、名称が無いので物質的現象です。空から離れれば、物質的現象ではありません。物質的現象、それは即ち空であり、空、それは即ち物質的現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用もまた空であり、名称が無いので認識作用です。空から離れれば、認識作用ではありません。認識作用、それは即ち空であり、空、それは即ち認識作用です。ないし老死の特徴は空です。世尊。老死は空であり、名称が無いので老死です。空から離れれば、老死ではありません。老死、それは即ち空であり、空、それは即ち老死です。世尊。この因縁によって、菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を欲する時は、物質的現象の中に留まってはいけないし、ないし老死の中に留まってはいけません。 : : 色即是空・空即是色-3 : :
: 摩訶般若波羅蜜経習応品第三の解釈 : 摩訶般若波羅蜜経で、「色即是空。空即是色」という言葉は、五回出てきます。一回目は、奉鉢品第二で、二回目は、習応品第三です。今回は、習応品第三の解釈をします。 : 「舎利弗よ。空においては、物質的現象はありません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用もまた、空においては、ありません」。
空という思想を土台にして観れば、物質的現象は否定されます。実体が無いのですから、それをそれとして観ることができません。つまり、物質的現象は無いということになります。空なる世界とは、仮設世界のことです。私たちが感受しているのは、実際の世界ではなく、脳内に仮設された世界です。仮設された世界には、実体は有りません。よって空なる世界です。言い方を変えれば、それは概念の世界です。言葉だけがあり、実体の無い世界です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用についても、空においては実体が有りません。 : : 「舎利弗よ。物質的現象は、空なので、傷つけることはありません。感受作用は空なので、感受することはありません。想起作用は、空なので、知ることがありません。意志作用は、空なので、作ることはありません。認識作用は、空なので、覚ることはありません」。
仮設された世界において、物質的現象には実体が無いために、実際に人を傷つけることはありません。何かの役に立ったり、邪魔をすることはありません。そういう働きは、脳内で作り出しています。感受作用は感受しないし、想起作用は想起せず、意志作用は意志はなく、認識作用は認識しません。空においては、色受想行識はありません。 : : 「なぜならば、舎利弗よ。物質的現象は空と異ならないし、空は物質的現象と異ならないからです。物質的現象は、即ち空であり、空は、即ち物質的現象だからです。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用についても同様です」。
物質的現象は、仮設世界と異ならないし、仮設世界は、物質的現象と異なりません。物質的現象は、即ち仮設世界だし、私たちにとっては仮設世界は、即ち物質的現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用についても同じです。 : : 「舎利弗よ。このように諸法は空であり、無相なので、生じることは無く、滅することは無く、垢は無く、浄いことは無く、増えることはなく、減ることはありません」。
私たちにとっての世界は仮設世界です。なので、そこは空であり、無相です。無相とは、特徴が無いことです。概念の世界には、実体は無いし、特徴はありません。よって、生滅・垢浄・増減ということはありません。そのような認識があるだけです。 : : 「この空においては、過去は否定され、未来は否定され、現在は否定されます」。
時間もまた概念です。過去は、過ぎ去っていますから実在しないし、未来は、未だ来ていませんから実在しません。現在は、現に在ると書きますが、今という瞬間をとらえることはできません。とらえたと思っても、思った瞬間に過去になるからです。空間もまた概念です。時空には実体は有りません。 : : 「このことから、空においては、物質的現象は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用はありません。眼・耳・鼻・舌・身・意という六根は無く、色・音・香・味・触・現象という六根の対象は無く、眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意識界はありません」。
五蘊・十二処・十八界とは、部派仏教の説一切有部における一切法のことです。つまり、説一切有部の教義です。人は、名称があると実体視しますが、それが教義だと、さらにその傾向は強くなります。説一切有部は、法有を説いていますので、法を実体視することを否定していません。大乗経典の般若経典では、これを否定しています。実体視すれば、執着につながりますから否定するのです。
この文は、般若心経にも出てきます。これを読んで、大乗は説一切有部を否定している、という方がいます。確かにその通りですが、単にそれだけではなく、言葉による実体視を指摘しています。 : : 「また、無明は無いし、無明を滅尽することもありません。また、老死は無いし、老死を滅尽することもありません。四諦の法門で説かれるところの、苦諦・集諦・滅諦・道諦は無いし、また智は無いし、また智を得ることもありません」。
ここでは、十二因縁と四諦の法門を否定しています。初期仏教の重要な教義ですが、空においては、それらも言葉だけが有るのであって実体は無いといいます。智慧も無いし、智慧を得ることもありません。 : : 「また、須陀洹はおらず、須陀洹という果はありません。斯陀含はおらず、斯陀含という果はありません。阿那含はおらず、阿那含という果はありません。阿羅漢はおらず、阿羅漢という果はありません。縁覚はおらず、辟支仏の道というものはありません。仏はおらず、仏道はありません」。
須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢とは、声聞における覚りの階位のことです。辟支仏・仏陀というのは、覚者の位です。空においては、そのような位もありません。 : : 「舎利弗よ。菩薩は、このように習応します。これを智慧の完成と相応すると名付けます」。
習応とは、繰り返し学び、応答することです。菩薩は、一切法は空なので、名称にとらわれず、言葉・概念にとらわれません。このことが、智慧の完成と心が一致します。 : : 摩訶般若波羅蜜経習応品第三の解釈 : :
: 色即是空・空即是色-2 : 摩訶般若波羅蜜經習應品第三より : 経:舍利弗。色空中無有色。受想行識空中無有識。舍利弗。色空故無惱壞相。受空故無受相。想空故無知相。行空故無作相。識空故無覺相。何以故。舍利弗。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦如是。舍利弗。是諸法空相。不生不滅。不垢不淨。不増不減。是空法非過去非未來非現在。是故空中無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界乃至無意識界。亦無無明亦無無明盡。乃至亦無老死亦無老死盡。無苦集滅道。亦無智亦無得。亦無須陀洹。無須陀洹果。無斯陀含。無斯陀含果。無阿那含。無阿那含果。無阿羅漢。無阿羅漢果。無辟支佛無辟支佛道。無佛亦無佛道。舍利弗。菩薩摩訶薩如是習應。是名與般若波羅蜜相應。 : : 太郎訳:舎利弗よ。空においては、物質現象はありません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用もまた、空においては、ありません。舎利弗よ。物質的現象は、空なので、傷つけることはありません。感受作用は、空なので、感受することはありません。想起作用は、空なので、知ることがありません。意志作用は、空なので、作ることはありません。認識作用は、空なので、覚ることはありません。なぜならば、舎利弗よ。物質的現象は空と異ならないし、空は物質的現象と異ならないからです。物質的現象は、即ち空であり、空は、即ち物質的現象だからです。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用についても同様です。
舎利弗よ。このように諸法は空であり、無相なので、生じることは無く、滅することは無く、垢は無く、浄いことは無く、増えることはなく、減ることはありません。この空においては、過去は否定され、未来は否定され、現在は否定されます。このことから、空においては、物質的現象は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用はありません。眼耳鼻舌身意という六根は無く、色・音・香・味・触・現象という六根の対象は無く、眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意識界はありません。また、無明は無いし、無明を滅尽することもありません。また、老死は無いし、老死を滅尽することもありません。四諦の法門で説かれるところの、苦諦・集諦・滅諦・道諦は無いし、また智は無いし、また智を得ることもありません。また、須陀洹はおらず、須陀洹という果はありません。斯陀含はおらず、斯陀含という果はありません。阿那含はおらず、阿那含という果はありません。阿羅漢はおらず、阿羅漢という果はありません。縁覚はおらず、辟支仏の道というものはありません。仏はおらず、仏道はありません。舎利弗よ。菩薩は、このように習応します。これを智慧の完成と相応すると名付けます。 : : 色即是空・空即是色-2 : :
: 摩訶般若波羅蜜経奉鉢品第二の解釈 : 舎利弗が釈尊に、「菩薩摩訶薩は、どのようにして智慧の完成の行を行じるのですか?」と質問をします。菩薩とは、菩提(覚り)を求める人のこと、摩訶薩は、大いなる人ということです。大乗の菩薩のことです。
その質問に対し、釈尊が答えました。 「菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を行じる時、菩薩を見てはいけません。また、菩薩という字を見てはいけません。智慧の完成を見てはいけません。また、私は智慧の完成の行を行じていると見てはいけません。また、私は智慧の完成の行を行じていないと見てはいけません。なぜならば、菩薩・菩薩という字の性は、空だからです」
このように、釈尊は、菩薩が智慧の完成の修行をするのなら、菩薩を見ず、菩薩という字を見ず、智慧の完成を見ず、智慧の完成のための修行をしていると見ず、智慧の完成のための修行をしていないと、見てはいけないといいます。なぜなら、それらは、すべて空だからです。すべては空なのですが、人々は名があると、それには実体が有ると思ってしまいます。リンゴという名があれば、リンゴというものが有ると思ってしまいます。しかし、リンゴというのは、人がそのように名付けただけですから、それにはリンゴという名はありません。名が有ることで、実体が有ると思い込むことを釈尊は指摘しているわけです。言葉への不信は、仏教での大きなテーマの一つです。
「空においては、事物現象は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用はありません。事物現象を離れて空は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用を離れて空はありません」。普通の人は、空を通してものを見ませんが、ここでは、空を通して観察した場合を説いています。空を通して観れば、物質現象はありません。因縁によって仮に有る世界は、鏡に映った像のようなものですから、実体を見ることはできません。脳に仮設された世界は、テレビに映った世界のようなものですから、実体は無いのです。カメラが追う世界は実像ですが、それを私たちは感受できません。私たちは、鏡に映った世界、テレビに映った世界を見ていますので、そこに事物現象はありません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用も同様です。また、事物現象を観察することで空を知ることができますから、事物現象と空は離れていません。現象は空によって有り、空は現象によって有ります。 : : 「事物現象、それは空であり、空、それは事物現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用は、即ち空であり、空は、即ち認識作用です。なぜならば、舎利弗よ。ただ名と字が有るから、菩提というのです。ただ名と字が有るから菩薩というのです。ただ名と字が有るから空というのです」。
事物現象だと思って見ているものは、実は自分の脳で仮設された世界ですので空です。実体は有りません。実体がないものが、私たちにとっての事物現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用も同様です。実体の無いものが認識作用です。なぜなら、実体が無くても、名称と字が有るから、菩提というのであり、菩薩というのであり、空と言います。 : : 「そのことが、何故言えるのかというと、諸々の真実の性は、生じることが無く、滅することが無く、垢が無く、浄くはありません。そのことから、菩薩摩訶薩は、このように行じて、生を見ず、滅を見ず、垢を見ず、浄を見ません。なぜならば、名と字は因縁が和合することによって作られるからです」。
事物現象の真実の本性は、生じず、滅せず、垢が無く、浄くはありません。あらゆる特徴はありません。特徴とは、他との比較によってあるのですから、そのものだけでは、特徴は無いのです。特徴が無いので、菩薩は、生を見ず、滅を見ず、垢を見ず、浄を見ません。名称と字は、因縁和合によって作られるのですから、実体は有りません。実体が無いものが、生滅することはありえません。 : : 「ただ、分けてみて、推測して想像することによって、仮に名を用いて説きます。これによって、菩薩摩訶薩は、智慧の完成の行を行じる時は、一切の名と字を見ず、見ないことによって執着しません」。
人が名称を付ける時、まわりとそれを分けます。ここに幾つかの果物が有る場合、それぞれの形や大きさ、色や香りで分類し、同じ種類のものに、リンゴ・バナナ・ミカンというように名をつけます。そして、まわりの人たちとの合意によって、広く使うことになります。このように名称は仮なのですから、菩薩が智慧の完成の修行をする時は、一切の名称と字を見ず、見ないことによって執着しないようにします。 : : 摩訶般若波羅蜜経奉鉢品第二の解釈 : :
: 色即是空・空即是色について : 色とは、ルーパ rūpa の訳です。「物質・形・色」の意味です。初期仏教では、肉体の意味で使われていましたが、部派仏教時代に物質的現象の意味で使われるようになりました。大乗仏教でも、物質的現象の意味で用いられます。
空とは、シューニャター śūnyatā の訳です。「欠如」という意味です。空瓶といえば、中身の入っていない瓶のこと、空席とは、誰も坐っていない席というように、あるべきものが欠如している状態を空といいます。大乗仏教になると、欠如しているのは、自性だとされました。自性とは、個の原理であり、主体であり、実体のことです。
色即是空は、「物質的現象、それは空である」と訳されます。つまり、すべての物質的現象には実体が無いという意味です。空をエネルギーのこと、霊界のこと、眼に見えないこと、などと解釈する人がいますが、いずれも空の意味から外れています。知恵袋などのネットでは、確信を持ってそのように説く人がいますが、それは空の意味ではありません。
物質的現象は、因縁和合によって生じます。決して、それだけの力で生じるのではなく、他の力だけで生じるのではありません。多くの因縁が和合することによって有るのですから、個々の物事には実体は無く、因縁の結果として生じている物事にも実体は有りません。もし、個々に実体が有るのなら、木は木のままですので、それを加工することはできません。実体が無いので、椅子や机や台などに加工できますが、ずっと木のままなら、それを加工できません。実体が有るのなら、種は種のままですから、発芽しないし、花が咲くこともありません。赤ちゃんは、いつまでも赤ちゃんのままです。実体が有れば、自然現象は、何の変化もなくなってしまいます。
色とは、五蘊の一つです。五蘊とは、世界を構成する五つの要素のことです。それは、色受想行識であり、物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用のことです。たとえば、そこにリンゴが有り、それを見て、リンゴだと想起し、食べたいと思えば、それをリンゴだと認識します。色が認識の対象であり、受想行識は心の働きです。世界を構成する五つのうち、四つが心だというのは仏教らしいですね。これは、仏教では、世界というのは、認識されてはじめて存在すると見るからです。たとえ、リンゴがそこに有っても、見なければ認識されませんので、無いのと同じです。
五蘊が縁起することで、私たちは世界を認識します。物質的現象を感受し、想起し、意志を持つことで認識作用が起こります。五蘊が縁起しなければ認識できません。因縁によるもの、それは空であり、仮であり、中だと龍樹は論じました。五蘊は縁起ですので、それぞれの要素は空です。よって、物質的現象は空であり、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用は空です。このことからも、色即是空だといえます。また、受想行識即是空だといえます。
ところで、私たちは、はたして外部のものをあるがままに感受しているのでしょうか? 答えは否です。あるがままに感受できる機能を持っていないので、外部をあるがままに感受することはできません。眼は、光を感受し、それを信号にして脳に送り、脳で仮設しています。そして、その仮設した世界を私たちは事実だと思い、それを感受し、想起し、意志を持ち、認識しています。つまり、私たちが認識しているのは、仮の世界であって事実ではありません。よって、色即是仮だといえます。また、受想行識即是仮だといえます。このように、五蘊のすべては、心によって構成されています。
仏教では、あるがままの世界を真実だと言います。五感によっては真実を見ることはできません。真実を見ることができるのは、智慧のはたらきによります。智慧は、煩悩によって塞がっているために、まずは、煩悩を滅することが必要です。そのために八正道や六波羅蜜という行が重視されます。大乗仏教では、六波羅蜜の行が特に勧められます。六波羅蜜の六番目にある智慧を完成させること、つまり般若波羅蜜によって真実を観察できるからです。
色即是空を理解するためには、智慧が必要です。世界が仮であり、空であると知るには、一般的な知識や思考では無理です。瞑想に入り、深く思惟しなければ分かりません。一般人がいきなり瞑想をしても、雑念ばかりが沸き起こり、精神統一ができません。よって、瞑想に入る準備として、善行を為し(布施)、悪行を為さず(持戒)、心を浄化させます(忍辱)。つまり、六波羅蜜の実践が大事です。
色即是空は、比較的分かりやすいけれど、空即是色は難解です。意味は、「空、それは物質的現象である」と言われてもピンときません。どういう意味なのでしょう? このことは、般若心経だけを読んでも分かりません。二万五千頌般若経などの般若経を勉強する必要があります。八千頌般若経・金剛般若経でもいいです。
般若経には、「菩薩は菩薩ではない。よって菩薩という」というような意味不明な文がよく出てきます。これは、「菩薩には菩薩という固定した名は無い。よって、菩薩という名を仮につけることができる」ということです。名称のすべては、人類が仮に名付けたのですから、もともと事象には名称はありません。しかし、人は名があるために、そこに実体を見てしまい、執着します。すべては空なのですから、名は無く、字は無いので、執着の対象はありません。
空即是色というのは、一切が空だから、因縁和合が可能であって、仮に物質的現象をつくることが可能だということです。つまり、空即是色は、空の作用について述べています。 : : 色即是空・空即是色について : :
: 色即是空・空即是色-1 : : 摩訶般若波羅蜜経奉鉢品第二より : 経:舍利弗白佛言。菩薩摩訶薩云何應行般若波羅蜜。佛告舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不見菩薩不見菩薩字。不見般若波羅蜜亦不見我行般若波羅蜜。亦不見我不行般若波羅蜜。何以故。菩薩菩薩字性空。空中無色無受想行識。離色亦無空。離受想行識亦無空。色即是空。空即是色。受想行識即是空。空即是識。何以故。舍利弗。但有名字故謂爲菩提。但有名字故謂爲菩薩。但有名字故謂爲空。所以者何。諸法實性。無生無滅無垢無淨故。菩薩摩訶薩如是行。亦不見生亦不見滅。亦不見垢亦不見淨。何以故。名字是因縁和合作法。但分別憶想假名説。是故菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不見一切名字。不見故不著 : : 太郎訳:舎利弗は釈尊に言いました。 「菩薩摩訶薩は、どのようにして智慧の完成の行を行じるのですか?」 釈尊は、舎利弗に告げました。 「菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を行じる時、菩薩を見てはいけません。また、菩薩という字を見てはいけません。智慧の完成を見てはいけません。また、私は智慧の完成の行を行じていると見てはいけません。また、私は智慧の完成の行を行じていないと見てはいけません。なぜならば、菩薩・菩薩という字の性は、空だからです。空においては、事物現象は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用はありません。事物現象を離れて空は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用を離れて空はありません。事物現象、それは空であり、空、それは事物現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用は、即ち空であり、空は、即ち認識作用です。なぜならば、舎利弗よ。ただ名と字が有るから、菩提というのです。ただ名と字が有るから菩薩というのです。ただ名と字が有るから空というのです。そのことが、何故言えるのかというと、諸々の真実の性は、生じることが無く、滅することが無く、垢が無く、浄くはありません。そのことから、菩薩摩訶薩は、このように行じて、生を見ず、滅を見ず、垢を見ず、浄を見ません。なぜならば、名と字は因縁が和合することによって作られるからです。ただ、分けてみて、推測して想像することによって、仮に名を用いて説きます。これによって、菩薩摩訶薩は、智慧の完成の行を行じる時は、一切の名と字を見ず、見ないことによって執着しません」 : : 色即是空・空即是色-1 : :
: 二万五千頌般若経の抜粋 : 般若心経は、二万五千頌般若経(摩訶般若波羅蜜経)の抜粋です。二十七巻という比較的長い経典をわずか260文字にまとめています。よって、要点だけを抜粋しているため、初心者には難解な内容です。ある程度、仏教を学んでいる人でも、般若心経だけを読んで理解できる人は少ないでしょう。二万五千頌般若経を読んだ者にしか理解できません。本屋に並んでいる般若心経の解釈本のほとんどは、二万五千頌般若経を読まずに解釈しているため、的を射たものは少ないです。ましてや、ネット上で公開されている解釈本は、とんちんかんなものがほとんどです。そういうものを読むことは、あまりおすすできません。
二万五千頌般若経を龍樹が解釈したのが大智度論です。大智度論は、100巻もある大作ですから、一般人で読んでいる人は少ないでしょう。二万五千頌般若経にしろ、大智度論にしろ、入手が困難なので、図書館などで読むしかありません。私は、国訳大蔵経全31巻を持っていますから、二万五千頌般若経・大智度論ともに、読むことができます。しかし、長すぎるので、全部を読むのには時間がかかります。
般若心経の最初の「観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄」と、最後の「羯諦。羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶」という呪文は、二万五千頌般若経にはありません。それ以外は、あります。有名な「色即是空。空即是色」という言葉は、5回も出てきます。二万五千頌般若経だと、詳しく「色即是空。空即是色」のことが説かれていますが、般若心経は、「色即是空。空即是色」とだけ書かれていますので意味が分かりにくいです。
「色即是空。空即是色」は、般若心経の核となる教義ですから、じっくりとお伝えしていきます。 : : 二万五千頌般若経の抜粋 : :
: 初期仏教~大乗仏教 : 仏教は、釈尊が覚りを開いて、鹿野園で五比丘に対し説法を説いた時に始まりました。それから、釈尊が亡くなって約100程年ほどして、仏教教団が保守派の上座部と革新派の大衆部とに根本分裂するまでを初期仏教といいます。
初期仏教は、アンチ・ヴェーダの教えだと言われます。なぜなら、ヴェーダ聖典の根本思想であるアートマンを否定したからです。アートマンは、個の原理・主体・実体です。これを否定してアナートマン、つまり無我を説きました。アートマン思想が広まっていたインドでは、無我の考え方は受け入れがたかったようです。紀元前3世紀頃にアショーカ大王が、インドを統一し、仏教を国教にして、仏教を保護し、仏教は大いに盛り上がりました。仏教が栄えたことによって、バラモン教は衰退しました。根本分裂の後、教団は次々と分かれましたので、この頃の仏教を部派仏教といいます。部派仏教の時代は、国からの保護を受けていたので、仏教はどんどん拡散しました。その結果、部派が増えたのです。
部派仏教の時代に最も勢力があったのは、説一切有部です。説一切有部は、人については無我だと説きましたが、法は有ると説きました。法とは、水を水として成り立たせるもの、火を火として成り立たせるもの、物を物として成り立たせるもののことです。「人無我。法有我」という説を土台にしたのです。
また、業報輪廻を積極的に説き、業報輪廻を十二因縁によって説明しました。無明・行を過去の因だとし、識・名色・六処・触・受を現世での果だとしました。愛・取・有を現世での因だとし、生・老死を来世の果だとしました。これを三世両重の因果といいます。これは、説一切有部の説であって、釈尊が説いた内容ではありません。
また、説一切有部は、食事が国から提供されるため、在家との関係を断っています。つまり、托鉢をやめてしまい、在家への説法もやめてしまいました。地方を巡って説法をする遊行もやめています。説一切有部は、それよりも経典の解釈をすることに熱中しました。いわゆるアビダルマ(論書)をつくることに懸命になったのです。大乗仏教では、説一切有部の説いた法有、業報輪廻、在家との関係を否定しました。一切法空・廻向・大乗を説いたのです。
このようにバラモン教を否定して初期仏教が説かれ、初期仏教を否定してアビダルマが論じられ、アビダルマを否定して大乗が説かれました。以前の教義を否定することによって、仏教は、より高度な教えへと発展しました。このことは、初期仏教の信者は納得しないのでしょうが、経典を読めば一目瞭然です。仏教の最終形態は、密教ですので、密教が最も高度で深い教えが説かれているのでしょう。しかし、密教は師から弟子へと伝えられる教えですから、一般人には知らされていません。よって、我々は、初期仏教経典・大乗仏教経典と中観派の論書・唯識派の論書を学ぶ必要があります。輪廻についても、初期仏教の経典だけで判断するのではなく、大乗仏教の経典も学んでから判断するべきでしょう。 : : 初期仏教~大乗仏教 : :
: 輪廻は恐怖 : 仏教における業報輪廻思想は、業報によって死後、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天に生まれ変わり、その後もずっと業報によって六道を輪廻するというものです。罪が深ければ、地獄に堕ちます。地獄が最も苦に満ちた場所であり、餓鬼・畜生がそれに続きます。餓鬼とは、常に飢餓の状態にあって、欲求不満によって苦しむ境界であり、その境界の生物も餓鬼と言います。畜生は、動物界のことで、その境界に住むのは動物です。これらの地獄・餓鬼・畜生を三悪道といいます。修羅とは、阿修羅のことで、もとは神でしたが、帝釈天と争って負け、海に突き落とされました。争いを好み、常に戦っています。人間とは、私たちのことです。まわりの変化に振り回され、疑惑と不安と恐怖の中で暮らしています。天とは、天上界のことで、そこに住んでいるのは神々です。六道の中では、安楽の境地ですが、寿命がありますので、死ぬ前は苦しみます。六道は、迷いの世界、苦の世界です。
インドでは、人間に生まれたことを悲しむようです。なぜなら、人間として生まれたということは、前世での行いが悪く、輪廻から解脱できなかったということだからです。バラモン教では、解脱すれば天界に生まれ変わると言いますので、人間に生まれた時点でアウトです。これから何度も輪廻を繰り返すことになります。人間ならまだいいのですが、地獄に堕ちれば、非常に長い間苦しむことになりますので、そのことを思えば苦しみます。よって、輪廻は恐怖の思想です。 : : 輪廻は恐怖 : :
:
大乗
功徳
菩提
阿耨多羅三貎三菩提
微妙
真実
用語の意味-2
:
マハーヤーナ mahāyāna
「大きな乗り物」。大勢の人と共に成仏を目指すので、大勢を乗せることが出来る乗り物に喩えている。大乗仏教徒は、部派仏教の説一切有部を小乗と呼んだ。一人乗りの小さな乗り物のこと。これは蔑称なので、現在ではあまり使われていない。
:
グナ guṇa=徳、美徳、才能、性質。
プニャ puṇya=清い、清浄な、善行。
徳のあることを功徳といい、善行も功徳という。
:
ボーディ bodhi
目覚めること。仏教では、真実に目覚めることを菩提という。覚・道・智とも訳される。
:
アヌッタラ・サミヤク・サンボーディ
anuttara-samyak-saṃbodhi
無上の正しい覚り。
:
趣深くすぐれていること。
:
タタター tathatā
仮ではない、絶対の真理。真如。
:
:
用語の意味-2
:
:
:
根性欲
陀羅尼
無礙弁才
法輪
涅槃
解脱
甚深
十二因縁 無明 ・行 ・識 ・名色 ・六処 ・触 ・受 ・愛 ・取 ・有 ・生 ・老死 という連鎖縁起。
用語の意味-1
:
機根・性質(習性)・欲望の略。機根とは、教えを理解し実践する能力のこと。対機説法の「機」とは、機根のこと。
:
ダーラニー dhāraṇī
「記憶して忘れない」ということ。本来は、仏教修行者が覚えるべき教えや作法などをしっかりと記憶することを言った。後に変じて、「記憶する呪文」のことをいうようになった。意訳して総持、能持、能遮等ともいう。意味よりも音に効力があるとされるため、サンスクリットの音写である。
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無礙は、障害、妨げのないこと。弁才は、巧みに話す能力のこと。
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ダルマ・チャクラ dharma-cakra
仏教の教義、特に釈尊が説いた四諦・八正道の別称。輪は、インドの円盤型の武器のこと。チャクラムという。教えを聞いた人が、煩悩を砕く様をチャクラムに喩えている。法輪(教え)を他者に伝えることを転法輪といい、釈尊が鹿野園で五比丘に対して初めて教えを説いたことを初転法輪という。
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ニルヴァーナ nirvāṇa
直訳すれば、「吹き消す」こと。燃える火を消すこと。煩悩を火に譬え、それを消すことをいう。繰り返す再生の輪廻から解放された状態のこと。解脱の別名。滅、寂滅、滅度、寂、寂静、不生不滅などとも訳される。因縁の無い境地。因縁が無いので、何も生じないし、滅しない。無為。
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ヴィモクシャ vimokṣa
解放、悟り、自由、放免を手に入れた状態。ヴェーダのウパニシャッドで、前七世紀頃に説かれ始めた。バラモン教では、アートマン・業・輪廻・解脱が中心思想である。仏教でもそれを引き継いでおり、輪廻からの解脱が修行の目的だといわれた。解脱した境地を涅槃という。
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非常に奥が深いこと
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dvādaśāṅgika-pratītyasamutpāda
苦の原因の究明と苦を滅尽について説く法門。
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用語の意味-1
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:陀羅尼 ・無礙弁才を以って、諸仏の転法輪、随順してよく転ず。微渧 先ず堕ちて以って欲塵をひたし、涅槃の門を開き 解脱の風を扇いで、世の悩熱を除き法の清涼を致す。次に甚深の十二因縁を降らして、用 て 無明・老・病・死等の猛盛熾然 なる 苦聚 の日光にそそぎ、しこうして乃ち洪 に無上の大乗を注いで、衆生の諸有の善根を潤漬 し、善の種子 を布いて功徳の田に遍じ、普く一切をして菩提の萌を発さしむ。
(b)利他
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①転法輪
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経:また、善く諸の根性欲を知り、
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訳:また、人々の教えを受ける能力、性格、欲望をよく知っており、善をすすめ悪を止める力と人々を説得する力を持っていましたので、諸仏の教えに従って、その教えを人々に伝えることができました。
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②利他徳
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経:
智慧の日月・方便の時節・大乗の事業を扶蔬 増長して、衆をして疾 く阿耨多羅三貎三菩提 を成じ、常住の快楽 、微妙真実に、無量の大悲、苦の衆生を救わしむ。
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訳:渇いてほこりの多いところに水のしずくをたらせば、そこだけが塵をおさえることが出来るように、まずは、小さな教えから入って欲望を抑え、涅槃への門を開き、解脱へと導く縁となりました。人々が、苦悩から離れられるように教えを説き、教えを実践することによる喜びを体験させました。それは、暑苦しいところに冷たい風を吹かせて、涼しくて清々しい状態に導くことに似ていました。
次には、非常に深い「十二因縁の法門」を説いて、真理を知らないために人生が苦悩であることを伝えました。そして、苦悩から離れる方法を説き明かしました。その教えを聴いた人々は、照りつける灼熱の太陽の光から救ってくれる夕立のような恵みを感じました。その後、この上もなく尊い大乗の教えを説き示し、誰もが持っている良心に潤いを与え、善の心を芽生えさせ、水田の一面に稲が実るように、心を功徳で満たし、ひろく人々に菩提心を起こさせました。
菩薩の智慧は、闇を消す太陽と月の光となり、方便として必要な時によく人々を照らします。そのことは、人々が大乗の道を進むことを援助し、人々がまっすぐに最上の悟りの境地へとたどりつき、常にある安らぎ、深い真理と限りない大きな慈悲の心で、苦悩する人々を救うようになります。
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利他
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終わり
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呉音
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漢訳の仏教経典は、多くの場合、呉音で読みます。呉音は漢音以前から中国で使われており、日本にも呉音が最初に入ってきました。江戸時代までは、呉音の方が普及していたのですが、明治になって漢音が多く使われるようになりました。結果的に日本人が使う漢字は、音読み(漢音・呉音)、訓読みというように複雑化しています。
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経典を読むとき、普段とは違う読み方をしますので違和感があります。フリガナがついていないと読めません。たとえば、品は、漢音では「ひん」と読みますが、呉音では「ほん」です。日は、「じつ」「にち」、礼は、「れい」「らい」、力は、「りょく」「りき」というような感じです。
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ネットに上がっている漢訳経典には、フリガナがついていないことが多いので読めません。経典の読みに慣れるためには、フリガナ付の経典を購入することをお薦めします。
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呉音
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菩薩とは
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菩薩とは、ボーディ・サットヴァ bodhi-sattva の音写です。「覚り+人」という合成語です。初期仏教では、覚りを得る前の釈尊のことをいいました。「覚ることが決まっている人」という意味です。他には、釈尊の次に成仏するといわれる弥勒も菩薩と呼ばれました。大乗仏教になると、「覚りを求める人」という意味で使われるようになりました。大乗は、みんなで成仏を目指すので、大乗仏教徒たちは自らを菩薩と呼びました。大乗の菩薩なので、菩薩摩訶薩ともいいます。摩訶薩とは、マハー・サットヴァ mahā-sattva の音写です。意味は、「大いなる人」です。
般若経典は、菩薩摩訶薩たちによって編纂されました。その中で、空の実践者としての菩薩摩訶薩が強調されています。しかし、声聞や縁覚は成仏できないといって差別したために、法華経の編纂者からは、三乗の菩薩だといわれています。一切衆生の成仏を願う一乗の菩薩とは区別されています。法華経では、菩薩とは、「一切衆生の覚りを求める人」であり、「自他を覚りに導く人」です。
大乗仏教は、紀元前後に起こりましたので、釈尊の時代にはありません。よって、無量義経や法華経の会に菩薩が参加することはありません。実在の人物だとされる弥勒菩薩が参加しているかも知れませんが、八万人もの菩薩が集うことはありません。それらの菩薩とは、法身の菩薩だといわれます。法身菩薩とは、真理・教えを体とする菩薩のことです。真理を覚った菩薩のことですから、仏に近い存在です。しかし、実在しているわけではなく、教義の象徴として登場します。たとえば、慈悲の象徴としての弥勒菩薩、智慧の象徴としての文殊菩薩、実践の象徴としての普賢菩薩というような感じです。経典で弥勒菩薩が登場したら慈悲についての教えが説かれ、文殊菩薩が登場したら智慧についての教えが説かれ、普賢菩薩が登場したら実践について説かれます。
無量義経・法華経は、菩薩への教えです。経典の中でも教菩薩法という言葉が頻繁に出てきます。無量義経では、大荘厳菩薩への説法という形式ですので、菩薩への教えだと分かりやすいのですが、法華経の前半は、声聞たちを対象にしています。会に参加している声聞たちを教化し、菩提心(覚りを求める心)を起して、未来に成仏することを予言し、全員を菩薩にしています。法師品第十以前は声聞への教えのように思えます。法師品からは、薬王菩薩・大楽説菩薩・文殊菩薩・弥勒菩薩などが説法の対象になっていますので、菩薩への教えだというのは明らかですが、法師品以前を菩薩への教えだと言えるのでしょうか?
法華経は、菩薩を対象にした実践指導です。声聞をどのようにして教化し、菩提心を起させ、菩薩としての自覚を持たせ、広宣流布を誓願させるかを、釈尊が実際に行い、菩薩たちに見せて、指導をしているわけです。このことから、教菩薩法といいます。釈尊は、声聞と菩薩を同時に教化しているのです。
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菩薩とは
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智慧 とは般若 とも訳されます。意味は、一切の現象や、現象の背後にある道理を見きわめる心作用のことです。つまり、真理を観る能力のことをいいます。智慧という言葉を智と慧に分けた場合、智は、ジュニャーナ jñāna の訳語で、ものごとを分けてとらえることです。つまり、分別 です。慧はプラジュニャーの訳語です。分けずにとらえることです。つまり、無分別 です。釈尊の覚りは、慧だといわれます。
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智慧とは、プラジュニャー prajñā の中国語訳です。
分別とは、認識するものと認識されるものを分けてみることです。主客が分かれているとみます。無分別は、認識するものと認識されるものを分けてみないことです。主客が分かれているとはみません。
仏教の目的は成仏です。仏陀に成ることです。仏陀とは、真理に目覚めた者のことですから、真理を観察する智慧が完成しています。つまり般若波羅蜜 の境地に達しています。私たち凡夫は、智慧が煩悩に覆われているために真理を観ることができません。そこで、釈尊は、煩悩を滅し、智慧を得る道を示されました。たとえば、四諦の法門では、人生は苦であると言い、苦の原因は煩悩であり、煩悩を滅すれば安楽の境地に至り、そのために八正道を実践するようにと教えました。八正道は、智慧を得るための方法です。
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智慧とは
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無量義経とは
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無量義とは、数多くの教義のことです。キリスト教の聖書やイスラーム教のコーランに比べると、仏教の経典は、非常にたくさんあります。それぞれの経典には、それぞれに教義がありますから、教義の数は無量です。無量とは、量ることができない、ということです。なぜ、大量の教義が説かれたのか、その理由が、この無量義経で説かれています。
無量義経は、三章から成ります。徳行品第一・説法品第二・十功徳品第三です。徳行品が序分、説法品が正宗分、十功徳品が流通分 です。序分は、その経典のプロローグで、正宗分は、その経典の中心となる章です。テーマとなる教えが説かれます。流通分は、説かれた教えを流布するようにと勧める章です。
徳行品では、菩薩・声聞・仏陀の徳と行が讃嘆されます。法華経でも、「供養 ・恭敬 ・尊重 ・讃歎 」という言葉が何度も出てきますが、他者を讃嘆することは、重要なことだとされています。
説法品では、無量の教義のことが説かれています。仏陀は、人に合わせて教えを説いたので無量の教義になったのだといいます。しかし、無量の教義は一つの真実から生じています。その真実は何かというと無相です。このことは、説法品に詳しく説かれています。
十功徳品では、無量義経を学び、実践した者の功徳が説かれています。功徳を説くことによって、人々に流布を勧めています。
:
:
無量義経とは
:
:
:
禅寂
三昧
恬安憺怕
無為
顛倒 常顛倒 ・・事物は無常であるが、常だと考えること。楽顛倒 ・・一切は苦であるが、一時的な状態だけで楽だと考えること。浄顛倒 ・・不浄なものを、表面だけを見て浄だと考えること。我顛倒 ・・すべては無我であるが、我だと考えること。
智慧
諸法
性相
暁了
分別
用語の意味
:
瞑想的な平寂。集中力と心の静けさを伴う瞑想。座禅。
:
サマーディ samādhi
深い禅定の状態のこと。精神集中が深まりきった状態のことをいう。
:
環境の変化に惑わされず穏やかで安らかなこと。
:
アサンスクリタ asaṃskṛta
分別造作がないこと。因縁によって造られたものでなく、生滅変化を離れた常住絶対の法のこと。涅槃のこと。因縁によって造られたものを「有為」という。
:
ヴィパルヤーサ viparyāsa
転倒。道理にそむいて誤っていること。ひっくりかえること。本来とは逆になっていること。認知の歪み。仏教では、四顛倒を説く。
:
①
②
③
④
:
プラジュニャー prajñā
音写して般若という。真実を覚る無分別智のこと。物事を正しくとらえ、真理を見きわめる認識力。六波羅蜜の一。
:
サルヴァ・ダルマ sarva-dharma
一切法。世界のすべてのもの、すべての存在、すべての法の集合体をさす。さまざまな事物・現象のこと。
:
スヴァバーヴァ・ラクシャナ svabhāva-lakṣaṇa
自性と特徴。真理と現象。
:
あきらかに理解すること。
:
ヴィカルパ vikalpa
分けて考えること。分析。もろもろの事理を思量し、識別する心の働き。空の思想は、「無分別」による観察を行うため、分別をしないように勧める。まず、事理を分別し、次に無分別して真実を観て、さらに分別を無分別の智によって観る。
:
:
用語の意味
:
:
:
法身 戒 禅定 智慧 解脱 解脱知見
用語の意味
:
ダルマ・カーヤ dharma-kāya
真理そのものの身体のこと。
:
法身の大士
仏の自性である真如を体とする大菩薩のこと。
:
五分法身
戒・定・慧・解脱・解脱知見の成就のこと。
五分法身とは、法身の大士が具えている五種の功徳性のこと。解脱身のこと。
:
①
シーラ śīla
仏教徒にとっての自分を律する内面的な道徳規範を戒といい、戒を守ることを持戒という。
:
②
ディヤーナ dhyāna
特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させること。
:
③
プラジュニャー prajñā
諸法実相を観察することによって体得できる実践的精神作用を慧といい、煩悩を完全に断つ主因となる精神作用を智という。
:
④
ヴィモークシャ vimokṣa
煩悩に縛られていることから解放され、迷いの苦を脱すること。
:
⑤
ヴィムクティ・ジュニャーナ・ダルシャナ vimukti-jñāna-darśana
解脱している事を自分自身で認識していること。
:
:
用語の意味
:
:
:文殊師利法王子 ・大威徳蔵法王子 ・無憂蔵法王子 ・大弁蔵法王子 ・弥勒菩薩 ・導首菩薩 ・薬王菩薩 ・薬上菩薩 ・華幢菩薩 ・華光幢菩薩 ・陀羅尼自在王菩薩 ・観世音菩薩 ・大勢至菩薩 ・常精進菩薩 ・宝印首菩薩 ・宝積菩薩 ・宝杖菩薩 ・越三界菩薩 ・毘摩跋羅菩薩 ・香象菩薩 ・大香象菩薩 ・師子吼王菩薩 ・師子遊戯世菩薩 ・師子奮迅菩薩 ・師子精進菩薩 ・勇鋭力菩薩 ・師子威猛伏菩薩 ・荘厳菩薩 ・大荘厳菩薩 という。是の如き等の菩薩摩訶薩八万人と倶なり。戒 ・定 ・慧 ・解脱 ・解脱知見 の成就 せる所なり。恬安憺怕 に無為無欲なり。顛倒乱想 、また入ることを得ず。静寂清澄 に志玄虚漠 なり。これを守って動ぜざること億百千劫、無量の法門悉く現在前せり。暁了 し分別するに、有無長短、明現顕白なり。
1)菩薩衆-1
:
a.名を列ね数を唱える
:
経:其の菩薩の名を、
:
:
b. 菩薩衆の徳を歎ずる
:
(a)自利
:
①法身
:
経:是の諸の菩薩、皆是れ法身の大士ならざることなし。
:
訳:この菩薩たちは、皆、真理と一体となった高位の者たちです。戒律を守り、禅定をし、智慧が深く、迷いから離れ、迷いから離れていることを自覚していました。
:
:
②止徳
:
経:その心禅寂にして、常に三昧に在って、
:
訳:その菩薩たちの心は落ち着いていて動じることがなく、常に一心に集中しており、現象に振り回されることなく常に安らかであり、ものごとにこだわることがありません。自己中心的ではなく、必要以上の欲もありません。真理を無視するような自分勝手な考えはなく、想いが乱れることもありません。心が澄んで静かに落ち着いており、志しは高く、広くて限りがありません。このことを守って長い間、動揺することなく、多くの教えを理解してきました。
:
:
③観徳
:
経:大智慧を得て諸法を通達し、性相の真実を
:
訳:大きな智慧を得ていますので、世界の事物・現象を深く観ることができ、物事の特徴と本質を見通し、見分けるとき、そのものの特徴の有無、度合いをはっきりと見極めていました。
:
:
1)菩薩衆-1
:
:
:
比丘
比丘尼
優婆塞
優婆夷
囲遶
匝
供養 利供養 ・・衣服臥具などの物品を捧げて供養すること。敬供養 ・・讃嘆・恭敬する供養。行供養 ・・仏法を実践する供養。
用語の意味-3
:
ビクシュ bhikṣu
出家して具足戒を受けた男性修行者のこと。
:
ビクシュニー bhikṣuṇī
出家して具足戒を受けた女性修行者のこと。
:
ウパーサカ upāsaka
三帰五戒を受けた在家の男性修行者のこと。清信士、居士と訳す。
:
ウパーシカー upāsikā
三帰五戒を受けた在家の女性修行者のこと。清信女と訳す。
:
転輪王
チャクラヴァルティ・ラージャン cakravarti-rājan
古代インドの伝説上の理想の王。身に三十二相を具え、即位の時に天より輪宝を感得し、これを転じて四方を征服するので転輪王という。輪宝に金・銀・銅・鉄の四種があり、その輪宝の種類によって治める範囲が異なる。
:
国士・国女
中堅階級の男女のこと。
:
国大長者
地主や長者のこと。
:
法会のとき、多くの人々が釈尊の周囲を右に回って礼拝すること。
:
聖者のまわりを右回りに何回も回って、敬意と帰依を表わす。基本的には三匝する。
:
プージャナー pūjanā
仏・菩薩・諸天などに、香・華・燈明・飲食などの供物を真心から捧げること。日本では、死者や祖先に対する追善供養のことも供養ということが多い。供養には、「利供養」「敬供養」「行供養」がある。
:
①
:
②
:
③
:
:
用語の意味-3
:
:
:
八部衆
天
龍
夜叉
乾闥婆
阿修羅
迦楼羅
緊那羅
摩侯羅伽
用語の意味-2
:
仏教を守護する天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩侯羅伽のこと。
:
デーヴァ deva
天上界に住む神々のこと。もともとはヴェーダの神。仏教では、八部衆の一群として仏法を護っている。梵天、帝釈天など。
:
ナーガ naga
インド神話の龍は、上半身は人間で頭に五頭の蛇がおり、下半身は大蛇の姿で表わされる。このように古代インドでは、半身半蛇の姿であったが、中国で、中国伝承の龍のイメージに変わって日本に伝わったため、日本の龍も中国的な大蛇風の姿で表わされる。天候を操る力があり、怒れば雨を降らさずに干ばつにし、怒りがおさまったら雨を降らせるという。釈尊の成道の時、ずっと守護したという伝説もある。
:
男:ヤクシャ yakṣa 女:ヤクシニー yakṣinī
古代インド神話に登場する鬼神。毘沙門天の眷属だといわれる。
:
ガンダルヴァ gandharva
インド神話では、帝釈天に仕える半神半獣の楽団に属し、神々が集まる宮殿において、美しい音楽を奏でる役割を担っている。神々の飲む霊薬「ソーマ」を守る役も果たしている。香を食事とし、身体からも芳しい香りを放つ。乾闥婆の妻は、天女のアプサラスである。
:
アスラ asura
意訳は非天。阿修羅は、元は天上界の神だったが、帝釈天との戦いに敗れて、海中に落とされ神の位も剥奪された。争いを好む。
:
(巴)ガルダ garuda
インド神話ではヴィシュヌ神の乗り物とされ、蛇や龍を食べて退治する。鳥頭人身有翼である。インドネシアの国営航空会社のシンボルであり、日本のカラス天狗のモデルだともいわれる。
:
キンナラ kimnara
歌の上手な音楽の神。男性の緊那羅は半人半馬で、女性の緊那羅はキンナリーと呼ばれ、美しい天女の姿をしている。半人半馬のため人非人ともいう。
:
マゴラガ mahoraga
「大きな蛇」の意味。音楽神。身体が人間で、首から上がニシキヘビのような姿をしている。
:
:
用語の意味-2
:
:
:
王舎城
城
耆闍崛山 霊鷲山 のこと。王舎城の東北にあり、釈尊説法の場所として有名。鷲が多いこと、霊山だったことからも分かるように、この山の頂上では、鳥葬が行われていたという。死体が転がっている近くで、釈尊は生活をしていたようである。
声聞
比丘
菩薩 菩提薩埵 を略して菩薩という。仏果を求め、菩提心を起こして仏道に入り、六波羅蜜の行を修する修行者。上求菩提・下化衆生。
摩訶薩
用語の意味
:
通序
仏教経典に共通する序文のこと。その経典が、いつ、どこで、説かれたのかを最初に明かしている。そこには、五事・六成就が書かれている。
:
五事
信・聞・時・主・処の経の五事のこと。
①信=如是・・法成就。釈尊の説法を正確に記述しているということ。
②聞=我聞・・人成就。この我とは、ほとんどの経典において、釈尊の侍者として説法を聞いた阿難のことをいう。
③時=一時・・時成就。釈尊がこの説法をしたのが、いつであるかの記述。
④主=仏・・主成就。この教えを説かれたのは釈尊に間違いないという記述。
⑤処=住王舎城・・処成就。釈尊がどこで説法をしたのかの記述。
:
六成就
五事に衆成就(聴聞相手)を加えて、六成就という。
:
:
ラージャグリハ Rājagṛha
中インドのマガダ国の首都。釈尊の生まれた紀元前五世紀頃、インドでは村から街へとコミュニティ形態が変化していた。王族の権力が大きくなり始め、バラモンを頂点とするカースト制に反発もあり、そのことから仏教に帰依する王族も多かったようである。マガダ国のビンビサーラ王も、その息子のアジャータシャトル王も仏教に帰依していた。マガダ国とは、当時のインドでは大きな国であり、この国ではカースト制度が緩かったという。
:
日本の城のイメージではなく、街のことをいう。インドの街は、自衛のために四方を壁でぐるりと囲んでいた。
:
グリドラクータ Gṛdhrakūṭa
グリドラクータを音写して耆闍崛山という。
:
シュラーヴァカ śrāvaka
教えを聴聞する者のこと。弟子のこと。初期仏教では、弟子たちは釈尊の教えを聞いて学んでいたので、出家・在家・男女の差はなく、全員を声聞と呼んでいた。部派仏教の時代になって、出家者の学問主義の弟子のことを声聞と言った。
:
ビクシュ bhikṣu
ビクシュを音写して比丘という。出家して具足戒を受けた男性修行者のこと。
:
ボーディ・サットヴァ bodhi-sattva
覚りを求める者のこと。
:
マハー・サットヴァ mahā-sattva
偉大なる者のこと。大乗の修行者。菩薩摩訶薩というように、菩薩と合わせて使われる。菩薩摩訶薩とは、大乗の菩薩のこと。
:
:
:王舎城 ・耆闍崛山 の中に住したまい、比丘 衆万二千人と倶なりき。菩薩摩訶薩 八万人あり。天 ・龍 ・夜叉 ・乾闥婆 ・阿修羅 ・迦楼羅 ・緊那羅 ・摩睺羅伽 あり。諸の比丘 ・比丘尼 及び優婆塞 ・優婆夷 も倶なり。大転輪王・小転輪王・金輪・銀輪・諸輪の王・国王・王子・国臣・国民・国士・国女・国大長者、各眷属 百千万数にして自ら圍遶 せると、仏所に来詣 して頭面に足を礼し、遶 ること百千匝 して、香を焼き華を散じ、種々に供養すること已って、退いて一面に坐す。
第一通序-1
:
1.法・人・時・主・処の経の五事
:
経:是の如きを我聞きき。一時、仏、
:
訳:このように私は聞きました。ある時、仏は、マガダ王国の都ラージャグリハの霊鷲山に住み、
:
:
2.聴聞衆を明かす
:
(1)標
:
経:大
:
訳:一万二千人の出家修行者と共にいました。大菩薩たちが、八万人いました。天上界の神々、ナーガ、ヤクシャ、ガンバルヴァ、アスラ、ガルダ、キンナラ、マホーラガたちが同席していました。多くの男女の出家修行者や在家修行者も同席していました。大転輪王、小転輪王、金輪・銀輪・諸輪の王、国王、王子、優れた家来たち、優れた人々、大長者たちが、それぞれ多くの眷属と共に集まっていました。人々は、次々と仏のもとへと進み、仏のみ足に額をつけて礼拝し、仏のまわりを右回りに巡りました。香をたき、花を散じ、様々に供養しおわって、退いて席へと戻りました。
:
:
第一通序-1
:
:
:
無我
:
無我は、アナートマン anātman の訳です。アートマンの否定という意味です。アートマン ātman とは、インド思想の中心にあるもので、個の原理・個の主体・個の実体のことをいいます。個の原理とは、私を私として成り立たせるもの、という意味です。全体の原理のことをブラフマン brahman といいます。アートマンとブラフマンは同一だと覚ることが、インド思想では重視されます。梵我一如といいます。個の主体とは、心身の中心のことです。感情・思考・意志・行動の主導者です。または、業・輪廻・解脱の主体です。アートマンは、絶対なる主体なので、決して認識されません。認識したら、それはアートマンではありません。個の実体とは、「真に存在するもの」のことです。
釈尊の時代、多くの修行者がアートマンを求めて出家をしました。絶対的な主体であり、客体にはならないアートマンを覚ることは不可能のような気がしますが、修行者たちは、ヨーガをし、苦行をしてアートマンを認識しようとしました。一つの方法として、これがアートマンである、と感じたら、それを片っ端に否定することが勧められました。そうして最後に残ったのがアートマンだというのです。果たして、どれくらいの成功者がいたのかは不明です。
釈尊は、29歳で出家し、師について瞑想をしましたが、瞑想では覚れないと分かって苦行に入りました。約6年もの間、過酷な苦行を行いましたが、苦行でも覚れないと分かって苦行を捨てました。そして、菩提樹の下で禅定に入り、遂に覚りを得ました。その時、何を覚ったのかは不明です。真実に目覚められたのでしょうが、それがアートマンに関するものなのかは分かりません。ただ、覚られた仏陀は、無我を説きました。それが、「アートマンは無い」という全否定なのか、「アートマンに執着するな」というものなのか、「あなたが想うものは、アートマンでは無い」というものなのかは不明です。
無我とは、アートマンの否定のことです。よって、アートマンという概念を知らなければ無我は分かりません。しかし、中国に仏教が入ってきたとき、中国にはアートマンという思想がなかったので、当然無我も理解できませんでした。アートマンを訳す言葉が無かったため、「我」という漢字を借りたくらいです。我とは、円盤状ののこぎりの様な武器のことですので、アートマンとの関連はありません。新しい意味で使われ始めた我という字は、後に「私」という意味でも使われるようになったので、余計に混乱しました。日本の仏教は中国経由で入ってきましたので、日本でも我・無我は理解されませんでした。そもそもバラモン教の思想であるアートマンを否定して無我だと言ったのですから、バラモン教を知らなければ理解できないと思います。
4世紀に鳩摩羅什が、摩訶般若波羅蜜経や龍樹の大智度論・中論を訳し、合わせて座学で仏教を講義しました。このことで、中国では、無我や空などの重要な仏教用語の意味が知られることになりました。それでも、日本での無我の解釈には誤りが多いようです。ネットの情報を鵜呑みにせず、仏教用語辞典などで、きちんと意味を把握したほうがいいです。
:
:
無我
:
:
これまで、Rの会のYouTubeを見ながら、法華三部経の解釈をしてきましたが、訂正して、ダルマ太郎の解釈のみにします。
:妙法蓮華経 』を主にして、その開経としての『無量義経 』、結経としての『仏説観普賢菩薩行法経 』を合わせて学んでいきます。この三経を法華三部経といい、妙法蓮華経並開結 とも称されます。ただし、このことは、インドの法華経で言われていたことではなく、中国において、天台大師智顗 が言い出したことです。なので、法華三部経というものが「有る」のではなく、仮にそういう風に言っています。
はじめに
:
ここでは、『
私が法華経の解釈をする場合は、サンスクリット原典のサッダルマ・プンダリーカ・スートラ、鳩摩羅什 が訳した妙法蓮華経を参照にします。分からない言葉については、仏教大辞典を開いて意味を調べながら進めていきます。できるだけ、自分勝手な解釈はつつしむつもりです。しかし、開経としての『無量義経』、結経としての『仏説観普賢菩薩行法経』には、サンスクリット原典がありませんから、中国語訳の経典を参照にします。
:
:
はじめに
:
:
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五蘊
五陰 ・五衆とも訳されます。スカンダ・パンチャカ skandha-pañcaka の訳で、「五つの集合」という意味です。世界を構成する五つの要素のことだといわれます。それは、中国語では色受想行識、日本語訳では物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用です。なぜ、五蘊が世界を構成するのかというと、私たちにとっての世界とは認識されたものだからです。認識するから、それは有りますが、認識しなければありません。よって、認識されるものと認識するものによって、世界は構成されます。では、五蘊の一つ一つをみていきましょう。
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色(物質的現象)ルーパ rūpa
形あるもの、色があるもののことで、物質・物質性・身体の意です。他の四つが精神的作用なのに対し、物質的存在を指します。認識の対象です。
受(感受作用)ヴェダナー vedanā
外部の対象から感覚を受け取る精神機能。感覚・感情。苦・楽・不苦不楽などの印象。
想(想起作用)サンジュニャー saṃjñā
連想思考または象徴機能の集合体、心の中に浮かぶイメージを指します。対象のありかたを心で把握すること。表象、一致、理解、意識、知識、合図、命名。
行(意志作用)サンスカーラ saṃskāra
意志、意図、または渇望の原因となる精神機能です。
識(認識作用)ビジュニャーナ vijñāna
認知機能、つまり識別機能です。識別を通じて知ることです。
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五蘊は、連鎖縁起して認識を生じます。たとえば、それを見て快く感じ、それがリンゴという名で美味しい果物だと想ったならば、それに近づこうとして、それを認識します。または、その人と出会い不快に感じ、その人がチンピラで質が悪いと想ったならば、その人から離れようとし、その人を認識します。もし、それを感受しても何も感じず、何も想わず、無視したとしたら、認識は起こりません。人混みで多くの人を認識しないのは、このためです。しかし、風景としては認識していますから、その人の世界にはいます。このように感情・思考・意志によって認識します。人それぞれに感情のパターン、思考のパターン、意志のパターンは異なりますので、それを個性と言います。つまり、個の性格です。
ところで、私たちは、外部の対象を感受しているのでしょうか? 眼や耳は、外部のあるがままの世界を見たり、聞いたりできるのでしょうか? 答えは否です。私たちは、外部の対象をあるがままには感受できません。眼は光を信号にし、耳は音を信号にして脳に伝えて、脳で世界を仮設していますから、実際の世界と仮設世界とは異なります。その仮設世界を私たちは感受し、想起しています。仮設された世界は、鏡に映った像のように実体が有りません。実体の無い世界を認識し、それを世界だと思っています。少し考えれば、そのことが事実だと分かりますが、多くの人は、仮設世界を現実世界だとして生きています。
つまり、五蘊のすべては脳にあります。脳の外には私たちの世界は有りません。仮設世界を感受し、想起し、意志を持ち、認識しています。現実世界を感受するためには智慧が必要です。智慧とは、真実を観る能力です。しかし、私たちの智慧は、煩悩に覆われているので働いていません。煩悩を滅し、智慧の働きを活発にしなければなりません。
唯識では、外部の対象を否定しています。私たちの内側にある世界以外に世界は無く、その世界は心が造ると言います。それが真実なのかどうかは、覚らないと分かりません。唯識以外では、外部には現実の世界が有るけれど、それを認知できていない、と説きます。果たして真実はどちらなのでしょうか? 真実を覚れば、その人は仏陀と呼ばれます。仏陀に成れば、苦から解放され、自由自在の境地になるといいます。しかし、凡夫の私には、なぜ真実を覚れば、苦から解放されるのかが謎です。一体、何が起こるのでしょう?
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五蘊
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色即是空 まとめ
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これまでに読んだように摩訶般若波羅蜜経には、「色即是空。空即是色」が5回も説かれています。般若心経だと説明がないので意味が分かりませんが、摩訶般若波羅蜜経の場合は説明があるので多少は理解できます。
奉鉢品第二では、菩薩は般若波羅蜜(智慧の完成)の行を行じる時、名称を見てはいけないと説きます。名称は人が付けたのであって、そのものに固有のものではありません。仮です。仮ですが、人は名称があるとそれに実体を見て、執着してしまいます。執着があると雑念から離れられなくなりますから修行の妨げです。無執着を目指すのなら、ものに実体をみないようにし、そのためには名称を見ないようにします。
そのことの根拠が、「色即是空。空即是色」です。物質的現象には実体が無く、実体が無いから物質的現象です。私たちが感知しているのは実際の世界ではなく、脳内で仮設した世界です。眼や耳で感受したものは、信号として脳に伝わり、脳で仮設されます。仮設された世界を私たちは、実際の世界だと思って感知しています。しかし、仮設された世界を感知しているのですから、一切の事象には実体は有りません。空です。
物質的現象、それは即ち空です。仮設世界の物質は、鏡に映った像、池に映った月と同じく、実像ではありませんので実体は有りません。空です。空、それは即ち物質的現象です。私たちにとって、空なる世界、すなわち仮設された世界が物質的現象です。そのことを知れば、あらゆるものに実体を見ないので執着することもなくなるでしょう。たとえば、業・輪廻・解脱も空です。実体は有りませんから、執着の対象はありません。
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習応品第三では、五蘊が空ならば、五蘊は無いと説いています。仮設世界の五蘊は、仮に有るので、存在していません。概念としては有りますが、事実としてはありません。よって、仮設世界は、夢のようなもの、幻のようなものです。
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集散品第九では、菩薩が智慧の完成の行を求めるのならば、一切の物事に執着してはいけないと説いています。なぜならば、「色即是空。空即是色」だからです。実体が無いのですから、執着の対象はありません。
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相行品第十では、事象について定義をしないことが説かれています。なぜならば、「色即是空。空即是色」だからです。実体が無いのですから、定義はできません。
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幻学品第十一では、「色は空である」と見るのではなく、「色即是空」と見るようにと説いています。色についてあれこれ考えるのではなく、「色、それは即空である」と見ます。
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色即是空 まとめ
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勧誘は禁止にしてほしい
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昔は、訪問販売というのがあって、セールスマンが一軒一軒家を周り、物を売っていました。そんなに売れはせず、100軒回って一件売れるという感じでしょう。もちろん、商品によりますが、けっこう大変なビジネスです。まあ、大変なのは、歩き回って、一日中断られるセールスマンであって、上の人は事務所で楽々な毎日を送っているのでしょうが。
新聞・化粧品・NHK・教材などが、よく来ていました。断っても、断っても、しつこく来ます。私が相手をするときは、すぐに帰っていきますが、母が出るとねばってきます。新聞なんかは、若い子を使って同情を買うような演技をしていましたので、優しい母は、まんまとひっかかっていました。なんだか詐欺師のようなやりかたです。
宗教もしつこいですね。私は、きっぱりと断りますので諦めますが、姉夫婦のところには、義兄の友人たちが新興宗教団体だったので、しょっちゅう家に上がり込んで長い時間をかけて勧誘を受けていました。3~4人で現れ、図々しくも夕食を食べ、お酒を飲みながら勧誘をしてくるんだとか。嫌ですね、こういうの。
一般人にとって、勧誘行為は迷惑です。訪問による勧誘も、街で声をかける勧誘も、やめてもらいたいですね。時間の無駄だし不快です。政府は、なぜ勧誘を禁止しないのでしょう? たくさんの人たちが、犠牲になっていることを知っていながら放っておくのはなぜでしょうか? おそらくは、お金がからんでいるのでしょう。宗教団体が政治献金をしているために、政治家は何の対策もしないのでしょう。結局は、市民が馬鹿を見るのが、この社会なのだと思います。正義の味方が現れて、この世界を浄化して欲しいですね。
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勧誘は禁止にしてほしい
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鵰 ・鷲 ・諸鳥 鳩槃荼 等
周慞惶怖 して 自ら出ずること能わず蔵竄 し
毘舎闍鬼 またその中に住せり食敢 す
臭煙蓬悖 して 四面に充塞 す
被焼の相
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訳)
諸の鬼神等 声を揚げて大に叫ぶ
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太郎訳)
様々な鬼神たちは 大きな声をあげて叫びました
クマタカやワシなどの鳥たち 鳩槃荼鬼などは
慌てて逃げ惑いますが 自分の力では
逃げ出すことができませんでした
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色界に火が起こる
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訳)
悪獣毒虫 孔穴に
福徳薄きが故に 火に逼まられ
共に相残害して 血を飲み肉を食らう
野干の属 ならびにすでに前に死す
諸の大悪獣 競い来って
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太郎訳)
悪い獣や毒虫たちは 穴を見つけてそこに逃げ込みました
毘舎闍鬼も穴に入りました
ところが これまで悪業を重ね 徳を積んでいなかったために
火に囲まれ 責められて 自分だけでも助かろうと
安全を求めて争い お互いに傷つけ合い
血を飲み 肉を喰らいました
ジャッカルたちは すでに死んでいました
すると様々な悪獣たちが 競って集まり群がって
その死骸に喰らいつきました
臭いと煙が盛んにおこりたち あたり一面にたちこめました
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被焼の相
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献身
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宗教団体って儲かるのでしょうか? 会員には、欲を捨てなさいと説いて献金をさせているのに、会長や幹部がお金儲けしているのは矛盾しています。会では、必要最低限のお金だけを使い、残りは寄付すればいいのにね。会員は、洗脳されれば、ロボットと同じなので、指示・命令を聞いて、お金を出し、労力を出し、知人友人を勧誘して、会に貢献しようとします。貢献できない人は、無視されます。
ある会に貧乏な家庭の娘さんがいました。彼女は、お金が無かったので、献身をしていました。教団の施設の掃除をしたり、食事を作ったり、イベントの手伝いをしたりで、割と忙しかったそうです。彼女の恋人が事故で亡くなり、ショックから彼女の精神がおかしくなりました。すると、教団の人は、彼女を無視するようになりました。相談を持ち掛けても相手にされず、挨拶をしても、返事がなかったといいます。そのくせ、掃除などはやらされていたんだとか。その内に病気が酷くなって外出ができなくなると、連絡も途絶えました。利用できるときは利用し、使えなくなったら捨てるのでしょうか。酷い話です。
宗教って、人を救うものだと思っていましたが、弱者を食い物にし、ただでこき使うなんてどうかしてますよね。その会ではありませんが、若い会員をワゴン車に乗せて全国を巡って壺を売らせるという酷いことをする宗教団体もあります。信じる者は救われると言いますが、実際には信じる者は馬鹿を見るようです。こういう話を聞くと宗教って必要なのかな? と思ってしまいます。
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献身
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勉強会
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もう、ずいぶん前のことです。私の友人に、ある仏教系の新興宗教教団の青年部幹部がいて、その人に誘われ、私もよくその会の勉強会に参加しました。勧誘をしないという条件です。参加者は、平均して10名ほどで、半年ほど通いました。男女半々でした。その勉強会の中で、縁起・無我・無常・苦・涅槃・四諦・八正道・六波羅蜜などの教義を学びました。講師は、教務員という役目の人でした。
最初の勉強会のテーマは縁起でした。その会では、「縁起とは因縁果報」だと教えていました。すごい違和感を感じましたが、何にひっかかっているのかは、当時の私には分かりませんでした。「因は直接的原因。縁は間接的原因。因縁が和合して結果となり、そのことが他に影響を与える、それを報という」と説いていました。そういう解釈は聞いたことが無かったので、違和感を感じたのでしょう。
今だと分かるのですが、縁起とは、「縁って起こる」という意味です。なので、「因縁が和合して結果が生じる」というのは合っていますが報は入りません。報が入ると業報の思想になりますので、基本的な縁起とは異なります。報が入っているために、その会の会員は縁起の教えが分からなかったようです。これは問題ですよね。
その後の無我や無常なども、仏教用語辞典の内容とは違っていました。なぜ、違う解釈をするのでしょう? 不思議です。この会では、独自の解釈をするのが良いことだと思っているのでしょうか? 最も基本的な無我・無常・縁起の教義が異なれば、全体的な教義にも影響します。初期仏教を基本編、大乗仏教を応用編だとみれば、初期仏教の教義を独自の解釈で教えれば、大乗仏教の教義は理解できないと思います。理解できても、それは本来の意味とは違いますから、他の教団と話しても通じないでしょう。
仏教教団を名乗っているのなら、仏教用語については独自の解釈をせず、伝統的な意味で解釈したほうがいいです。独自の解釈の方が正しいと思っているのでしょうが、伝統的な意味の方が正しいと思います。人々の幸せを望むのであれば、勝手な解釈はつつしむべきでしょう。
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勉強会
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摩訶般若波羅蜜経幻学品第十一の解釈
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「また次に須菩提よ。菩薩は智慧の完成の行を行じ、このように思惟します。物質的現象は空であるという見方によれば、物質的現象は空ではありません。物質的現象、それは即ち空であり、空、それは即ち物質的現象だからです。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用も同じです」。
ここは、釈尊が須菩提に説法をしています。「色は空である」という認識だと、色は空ではありません。「色即是空。空即是色」だと認識することが重要です。「即」という言葉が入ることで、色と空は、コインの裏表のように、離れていないことを表しています。一致しています。「色は空である」という見方だと、色と空を離して認識しているために、色に実体を見て、空に実体を見るという過ちを起してしまいます。色にも、空にも実体を見ないのなら、「色即是空。空即是色」と見る必要があります。
「眼は空である」「感受は空である」「四念処は空である」「十八不共法は空である」という認識よりも、「眼即是空。空即是眼」「受即是空。空即是受」「四念処即是空。空即是四念処」「十八不共法即是空。空即是十八不共法」と見ます。
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「須菩提よ。このように菩薩は智慧の完成の行を行じので、驚かず、畏れず、怖いと思いません」。
一切の事物・現象は、即空なので、個々の事象に実体を見ません。実体を見ないので、特徴を見ることが無く、よって驚くことは無く、畏れることは無く、怖いと思うことはありません。周りの変化に惑わされず不動です。
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摩訶般若波羅蜜経幻学品第十一の解釈
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色即是空-5
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摩訶般若波羅蜜経幻学品第十一より
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経:復次須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。如是思惟。不以空色故色空。色即是空空即是色。受想行識亦如是。不以空眼故眼空。眼即是空空即是眼。乃至意觸因縁生受。不以空受。故受空。受即是空空即是受。不以空四念處故。四念處空。四念處即是空。空即是四念處。乃至不以空十八不共法故。十八不共法空。十八不共法即是空。空即是十八不共法。如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。不驚不畏不怖。
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太郎訳:また次に須菩提よ。菩薩は智慧の完成の行を行じ、このように思惟します。物質的現象は空であるという見方によれば、物質的現象は空ではありません。物質的現象、それは即ち空であり、空、それは即ち物質的現象だからです。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用も同じです。眼は空であるという見方によれば、眼は空ではありません。眼、それは即ち空であり、空、それは即ち眼だからです。ないし、意の接触という因縁で感受が生じると見るとき、感受は空であるという見方によれば、感受は空ではありません。感受、それは即ち空であり、空、それは即ち感受だからです。四念処は空であるという見方によれば、四念処は空ではありません。四念処、それは即ち空であり、空、それは即ち四念処だからです。ないし、十八不共法は空であるという見方によれば、十八不共法は空ではありません。十八不共法、それは即ち空であり、空、それは即ち十八不共法だからです。このように須菩提よ。菩薩は智慧の完成の行を行じるので、驚かず、畏れず、怖いと思いません。
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色即是空-5
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摩訶般若波羅蜜経相行品第十の解釈
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舎利弗が須菩提に、「菩薩が智慧の完成の行を行じる時、どのように方便を用いるのですか?」と質問し、それに須菩提が答えます。須菩提は、解空第一と呼ばれるほどに、空を理解している弟子です。多くの般若経で、釈尊と問答をしています。
須菩提は答えました。それは、あらゆることを定義しないことだといいます。五蘊(物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用)を定義しないし、五蘊の特徴を定義しません。また、五蘊が常だと定義しないし、無常だと定義しません。五蘊が楽だと定義しないし、苦だと定義しません。五蘊が我だと定義しないし、無我だと定義しません。五蘊が空・無相・無作だと定義しません。五蘊が離れていると定義しないし、寂滅(涅槃)だと定義しません。
なぜ定義しないのかというと五蘊が空だからです。実体が無いので定義はできません。しかし、説法の時、定義するのは方便です。よって、定義すること、定義しないことを受けません。
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摩訶般若波羅蜜経相行品第十の解釈
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色即是空・空即是色-4
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摩訶般若波羅蜜経相行品第十
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経:舍利弗問須菩提。云何當知菩薩摩訶薩行般若波羅蜜有方便。須菩提語舍利弗。若菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜時。不行色不行受想行識。不行色相不行受想行識相。不行色受想行識常。不行色受想行識無常。不行色受想行識樂。不行色受想行識苦。不行色受想行識我。不行色受想行識無我。不行色受想行識空。不行色受想行識無相。不行色受想行識無作。不行色受想行識離。不行色受想行識寂滅。何以故。舍利弗。是色空爲非色。離空無色離色無空。色即是空空即是色。受想行識空爲非識。離空無識離識無空。空即是識識即是空。乃至十八不共法空。爲非十八不共法。離空無十八不共法。離十八不共法無空。空即是十八不共法。十八不共法即是空。如是舍利弗。當知是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜有方便。是菩薩摩訶薩如是行。般若波羅蜜。能得阿耨多羅三藐三菩提。是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。行亦不受不行亦不受。行不行亦不受。非行非不行亦不受。不受亦不受。
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太郎訳:舎利弗は、須菩提に問いました。なぜ、菩薩は智慧の完成を行じるとき、方便が有ると知ることができるのですか? 須菩提は舎利弗に語りました。もし菩薩が、智慧の完成の行を欲するのなら、物質的現象を定義しません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用を定義しません。物質的現象の特徴を定義しません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用の特徴を定義しません。五蘊(物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用)が常住だと定義しません。五蘊が無常だと定義しません。五蘊が楽だと定義しません。五蘊が苦だと定義しません。五蘊が我だと定義しません。五蘊が無我だと定義しません。五蘊が空だと定義しません。五蘊が無相だと定義しません。五蘊が無作だと定義しません。五蘊が離れていると定義しません。五蘊が寂滅だと定義しません。
なぜならば、舎利弗よ。これは、物質的現象が空なので、物質的現象ではないからです。空から離れて物質的現象は無く、物質的現象を離れて空はありません。物質的現象、それは即ち空であり、空、それは即ち物質的現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用が空なので、認識作用ではありません。空から離れて認識作用はなく、認識作用を離れて空はありません。空は、即ち認識作用であり、認識作用は、即ち空です。ないし、十八不共法は空なので、十八不共法ではありません。空から離れて十八不共法はありません。十八不共法から離れて空はありません。空は、即ち十八不共法です。十八不共法は、即ち空です。
舎利弗よ。このことを、よく知っておいてください。この菩薩が、智慧の完成の修行をするとき、方便を用います。この菩薩が、このように行じれば、智慧は完成し、よく無上の覚りを得ることができます。この菩薩が、智慧の完成の行を行じる時、定義を受けるのではなく、定義をしないことを受けるのではありません。定義をすること、定義をしないことを受けません。定義を否定すること、定義をしないことを否定することを受けません。また、受けないことを受けません。
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色即是空・空即是色-4
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摩訶般若波羅蜜経集散品第九の解釈
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この章では、須菩提が釈尊に自分の領解を発表しています。須菩提は、十大弟子の一人で解空第一・無諍第一などと呼ばれます。空をよく理解しているので解空第一といわれ、言い争うことがないので無諍第一と呼ばれました。
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「また次に世尊。菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を欲するならば、物質的現象の中に留まってはいけません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用の中に留まってはいけません」。
須菩提は、菩薩が智慧の完成の修行を求めるならば、物質的現象に執着してはいけないと言います。物質的現象は空なので、執着の対象ではありません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用も同じです。このように五蘊は空だから、執着するなと言っています。
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「眼耳鼻舌身意の中に留まってはいけません。色声香味触法の中に留まってはいけません。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の中に留まってはいけません。視覚的接触、ないし意の接触の中に留まってはいけません。視覚的接触の因縁によって生じる感受、ないし意の接触の因縁によって生じる感受の中に留まってはいけません。地の要素、水・火・風の要素、空間・意識の要素の中に留まってはいけません。無明ないし老死の中に留まってはいけません」。
十二処・十八界なども空ですから、執着の対象ではありません。そういうものに執着しても、得るものは有りません。
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「なぜならば、世尊。物質的現象の特徴は空であり、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用の特徴は空だからです。世尊よ。物質的現象は、名称が無いので物質的現象です。空から離れれば、物質的現象ではありません。物質的現象、それは即ち空であり、空、それは即ち物質的現象です」。
物質的現象に執着してはいけない理由は、それが空だからです。空なるものに、執着することはできません。夢や幻に執着するようなものですから、利益がありません。私たちは、物質的現象の一つ一つに名称をつけていますが、物質的現象には名称がありません。すべての名称は人が便宜上付けただけですから仮です。名称が無いものが物質的現象なのです。空から離れて、物質的現象は有りません。物質的現象は、即ち空です。実体は有りません。空は、即ち物質的現象です。実体が無いから、因縁和合し、物質的現象が生じます。
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「感受作用・想起作用・意志作用・認識作用もまた空であり、名称が無いので認識作用です。空から離れれば、認識作用ではありません。認識作用、それは即ち空であり、空、それは即ち認識作用です」。
五蘊のすべては空であり、名称が無いから認識作用です。空から離れて、認識作用はありません。認識作用、それは即ち空です。実体は有りません。空は、即ち認識作用です。実体が無いから、因縁和合して、認識作用が生じます。
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「ないし老死の特徴は空です。世尊。老死は空であり、名称が無いので老死です。空から離れれば、老死ではありません。老死、それは即ち空であり、空、それは即ち老死です」。
老死も空ですから、実体は有りません。名称が無いので老死であり、空から離れれば老死ではありません。老死、それは即ち空です。実体は有りません。空は、即ち老死です。実体が無いから、因縁和合して、老死が生じます。
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「世尊。この因縁によって、菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を欲する時は、物質的現象の中に留まってはいけないし、ないし老死の中に留まってはいけません」。
一切は空なのですから、一切への執着を捨てる必要があります。一切は空であり、空が一切を作っています。よって、あらゆるものに執着してはいけません。私たちが世界だと思っているのは、実は脳内で仮設した世界です。仮設された世界は、水に映った月のようなものですから実体は有りません。実体の無い仮設された世界に執着しても、得られるものは有りません。
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摩訶般若波羅蜜経集散品第九の解釈
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:熾 んなり椽柱 爆声震裂 し
摧折堕落 し 墻壁 崩れ倒る
総じて利鈍を結す
:
経)
夜叉・餓鬼 諸の悪鳥獣
飢急にして四に向い 窓をうかがい看る
:
太郎訳)
このような夜叉・餓鬼 様々な悪い鳥・獣たちは
食べ物を探し求めながら 屋敷内をさ迷い
窓から外を観察していました
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:
火起の由
:
経)
是の如き諸難 恐畏無量なり
この朽ち故りたる宅は 一人に属せり
その人近く出でて 未だ久しからざるの間
:
太郎訳)
このように様々な難儀があり 無量の恐怖に満ちていました
この古くて壊れそうな邸宅は ある一人の所有でした
その人が近くに出かけてすぐに
:
:
火起の勢
:
経)
後に宅舎に 忽然に火起る
四面一時に その焔 倶に
棟梁
:
:
太郎訳)
邸宅に突然 火事が起こりました
四方に火は燃え移り燃え盛り
棟・梁・たるき・柱が
音をたててくだけ
垣や壁はくずれ落ちました
:
:
総じて利鈍を結す
:
:
:
勧誘
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伝統的な宗教は勧誘をしませんが、新興宗教では勧誘をします。会員を集めなければ、お金を集めることができないし、無料の労働力も確保できませんから、勧誘を積極的に行うのでしょう。すべての新興宗教ではありませんが、あくどい方法で勧誘をするところがあります。しつこく、つきまとって強引に勧誘するところ、美しい女性やイケメンを使って、色仕掛けで勧誘するところ、集団で一人を囲み、圧力で勧誘をするところなど、人の弱いところにつけこんで勧誘します。
仏教には、摂受 と折伏 という勧誘方法があります。摂受とは、相手を肯定して勧誘する方法で、折伏は、相手を否定して勧誘する方法です。常識的には、摂受の方が仏教的なのですが、教団によっては、折伏を主に仕掛けるところもあります。相手の入っている宗教を貶し、相手の考え方を徹底的に否定して攻撃します。そういう方法がうまくいくとは思えないのですが、それを続けている教団がありますので、勧誘はできているのでしょうね。
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勧誘
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色即是空・空即是色-3
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摩訶般若波羅蜜経集散品第九
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経:復次世尊。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。色中不應住。受想行識中不應住。眼耳鼻舌身意中不應住。色聲香味觸法中不應住。眼識乃至意識中不應住。眼觸乃至意觸中不應住。眼觸因縁生受。乃至意觸因縁生受中不應住。地種。水火風種空識種中不應住。無明乃至老死中不應住。何以故。世尊。色色相空。受想行識識相空。世尊。色空不名爲色。離空亦無色。色即是空。空即是色。受想行識。識空不名爲識。離空亦無識。識即是空。空即是識。乃至老死老死相空。世尊。老死空不名老死。離空亦無老死。老死即是空。空即是老死。世尊。以是因縁故。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。不應色中住。乃至老死中不應住。
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太郎訳:また次に世尊。菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を欲するならば、物質的現象の中に留まってはいけません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用の中に留まってはいけません。眼耳鼻舌身意の中に留まってはいけません。色声香味触法の中に留まってはいけません。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の中に留まってはいけません。視覚的接触、ないし意の接触の中に留まってはいけません。視覚的接触の因縁によって生じる感受、ないし意の接触の因縁によって生じる感受の中に留まってはいけません。地の要素、水・火・風の要素、空間・意識の要素の中に留まってはいけません。無明ないし老死の中に留まってはいけません。
なぜならば、世尊。物質的現象の特徴は空であり、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用の特徴は空だからです。世尊よ。物質的現象は、名称が無いので物質的現象です。空から離れれば、物質的現象ではありません。物質的現象、それは即ち空であり、空、それは即ち物質的現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用もまた空であり、名称が無いので認識作用です。空から離れれば、認識作用ではありません。認識作用、それは即ち空であり、空、それは即ち認識作用です。ないし老死の特徴は空です。世尊。老死は空であり、名称が無いので老死です。空から離れれば、老死ではありません。老死、それは即ち空であり、空、それは即ち老死です。世尊。この因縁によって、菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を欲する時は、物質的現象の中に留まってはいけないし、ないし老死の中に留まってはいけません。
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色即是空・空即是色-3
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摩訶般若波羅蜜経習応品第三の解釈
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摩訶般若波羅蜜経で、「色即是空。空即是色」という言葉は、五回出てきます。一回目は、奉鉢品第二で、二回目は、習応品第三です。今回は、習応品第三の解釈をします。
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「舎利弗よ。空においては、物質的現象はありません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用もまた、空においては、ありません」。
空という思想を土台にして観れば、物質的現象は否定されます。実体が無いのですから、それをそれとして観ることができません。つまり、物質的現象は無いということになります。空なる世界とは、仮設世界のことです。私たちが感受しているのは、実際の世界ではなく、脳内に仮設された世界です。仮設された世界には、実体は有りません。よって空なる世界です。言い方を変えれば、それは概念の世界です。言葉だけがあり、実体の無い世界です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用についても、空においては実体が有りません。
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「舎利弗よ。物質的現象は、空なので、傷つけることはありません。感受作用は空なので、感受することはありません。想起作用は、空なので、知ることがありません。意志作用は、空なので、作ることはありません。認識作用は、空なので、覚ることはありません」。
仮設された世界において、物質的現象には実体が無いために、実際に人を傷つけることはありません。何かの役に立ったり、邪魔をすることはありません。そういう働きは、脳内で作り出しています。感受作用は感受しないし、想起作用は想起せず、意志作用は意志はなく、認識作用は認識しません。空においては、色受想行識はありません。
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「なぜならば、舎利弗よ。物質的現象は空と異ならないし、空は物質的現象と異ならないからです。物質的現象は、即ち空であり、空は、即ち物質的現象だからです。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用についても同様です」。
物質的現象は、仮設世界と異ならないし、仮設世界は、物質的現象と異なりません。物質的現象は、即ち仮設世界だし、私たちにとっては仮設世界は、即ち物質的現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用についても同じです。
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「舎利弗よ。このように諸法は空であり、無相なので、生じることは無く、滅することは無く、垢は無く、浄いことは無く、増えることはなく、減ることはありません」。
私たちにとっての世界は仮設世界です。なので、そこは空であり、無相です。無相とは、特徴が無いことです。概念の世界には、実体は無いし、特徴はありません。よって、生滅・垢浄・増減ということはありません。そのような認識があるだけです。
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「この空においては、過去は否定され、未来は否定され、現在は否定されます」。
時間もまた概念です。過去は、過ぎ去っていますから実在しないし、未来は、未だ来ていませんから実在しません。現在は、現に在ると書きますが、今という瞬間をとらえることはできません。とらえたと思っても、思った瞬間に過去になるからです。空間もまた概念です。時空には実体は有りません。
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「このことから、空においては、物質的現象は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用はありません。眼・耳・鼻・舌・身・意という六根は無く、色・音・香・味・触・現象という六根の対象は無く、眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意識界はありません」。
五蘊・十二処・十八界とは、部派仏教の説一切有部における一切法のことです。つまり、説一切有部の教義です。人は、名称があると実体視しますが、それが教義だと、さらにその傾向は強くなります。説一切有部は、法有を説いていますので、法を実体視することを否定していません。大乗経典の般若経典では、これを否定しています。実体視すれば、執着につながりますから否定するのです。
この文は、般若心経にも出てきます。これを読んで、大乗は説一切有部を否定している、という方がいます。確かにその通りですが、単にそれだけではなく、言葉による実体視を指摘しています。
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「また、無明は無いし、無明を滅尽することもありません。また、老死は無いし、老死を滅尽することもありません。四諦の法門で説かれるところの、苦諦・集諦・滅諦・道諦は無いし、また智は無いし、また智を得ることもありません」。
ここでは、十二因縁と四諦の法門を否定しています。初期仏教の重要な教義ですが、空においては、それらも言葉だけが有るのであって実体は無いといいます。智慧も無いし、智慧を得ることもありません。
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「また、須陀洹はおらず、須陀洹という果はありません。斯陀含はおらず、斯陀含という果はありません。阿那含はおらず、阿那含という果はありません。阿羅漢はおらず、阿羅漢という果はありません。縁覚はおらず、辟支仏の道というものはありません。仏はおらず、仏道はありません」。
須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢とは、声聞における覚りの階位のことです。辟支仏・仏陀というのは、覚者の位です。空においては、そのような位もありません。
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「舎利弗よ。菩薩は、このように習応します。これを智慧の完成と相応すると名付けます」。
習応とは、繰り返し学び、応答することです。菩薩は、一切法は空なので、名称にとらわれず、言葉・概念にとらわれません。このことが、智慧の完成と心が一致します。
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摩訶般若波羅蜜経習応品第三の解釈
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色即是空・空即是色-2
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摩訶般若波羅蜜經習應品第三より
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経:舍利弗。色空中無有色。受想行識空中無有識。舍利弗。色空故無惱壞相。受空故無受相。想空故無知相。行空故無作相。識空故無覺相。何以故。舍利弗。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦如是。舍利弗。是諸法空相。不生不滅。不垢不淨。不増不減。是空法非過去非未來非現在。是故空中無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界乃至無意識界。亦無無明亦無無明盡。乃至亦無老死亦無老死盡。無苦集滅道。亦無智亦無得。亦無須陀洹。無須陀洹果。無斯陀含。無斯陀含果。無阿那含。無阿那含果。無阿羅漢。無阿羅漢果。無辟支佛無辟支佛道。無佛亦無佛道。舍利弗。菩薩摩訶薩如是習應。是名與般若波羅蜜相應。
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太郎訳:舎利弗よ。空においては、物質現象はありません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用もまた、空においては、ありません。舎利弗よ。物質的現象は、空なので、傷つけることはありません。感受作用は、空なので、感受することはありません。想起作用は、空なので、知ることがありません。意志作用は、空なので、作ることはありません。認識作用は、空なので、覚ることはありません。なぜならば、舎利弗よ。物質的現象は空と異ならないし、空は物質的現象と異ならないからです。物質的現象は、即ち空であり、空は、即ち物質的現象だからです。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用についても同様です。
舎利弗よ。このように諸法は空であり、無相なので、生じることは無く、滅することは無く、垢は無く、浄いことは無く、増えることはなく、減ることはありません。この空においては、過去は否定され、未来は否定され、現在は否定されます。このことから、空においては、物質的現象は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用はありません。眼耳鼻舌身意という六根は無く、色・音・香・味・触・現象という六根の対象は無く、眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意識界はありません。また、無明は無いし、無明を滅尽することもありません。また、老死は無いし、老死を滅尽することもありません。四諦の法門で説かれるところの、苦諦・集諦・滅諦・道諦は無いし、また智は無いし、また智を得ることもありません。また、須陀洹はおらず、須陀洹という果はありません。斯陀含はおらず、斯陀含という果はありません。阿那含はおらず、阿那含という果はありません。阿羅漢はおらず、阿羅漢という果はありません。縁覚はおらず、辟支仏の道というものはありません。仏はおらず、仏道はありません。舎利弗よ。菩薩は、このように習応します。これを智慧の完成と相応すると名付けます。
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色即是空・空即是色-2
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摩訶般若波羅蜜経奉鉢品第二の解釈
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舎利弗が釈尊に、「菩薩摩訶薩は、どのようにして智慧の完成の行を行じるのですか?」と質問をします。菩薩とは、菩提(覚り)を求める人のこと、摩訶薩は、大いなる人ということです。大乗の菩薩のことです。
その質問に対し、釈尊が答えました。
「菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を行じる時、菩薩を見てはいけません。また、菩薩という字を見てはいけません。智慧の完成を見てはいけません。また、私は智慧の完成の行を行じていると見てはいけません。また、私は智慧の完成の行を行じていないと見てはいけません。なぜならば、菩薩・菩薩という字の性は、空だからです」
このように、釈尊は、菩薩が智慧の完成の修行をするのなら、菩薩を見ず、菩薩という字を見ず、智慧の完成を見ず、智慧の完成のための修行をしていると見ず、智慧の完成のための修行をしていないと、見てはいけないといいます。なぜなら、それらは、すべて空だからです。すべては空なのですが、人々は名があると、それには実体が有ると思ってしまいます。リンゴという名があれば、リンゴというものが有ると思ってしまいます。しかし、リンゴというのは、人がそのように名付けただけですから、それにはリンゴという名はありません。名が有ることで、実体が有ると思い込むことを釈尊は指摘しているわけです。言葉への不信は、仏教での大きなテーマの一つです。
「空においては、事物現象は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用はありません。事物現象を離れて空は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用を離れて空はありません」。普通の人は、空を通してものを見ませんが、ここでは、空を通して観察した場合を説いています。空を通して観れば、物質現象はありません。因縁によって仮に有る世界は、鏡に映った像のようなものですから、実体を見ることはできません。脳に仮設された世界は、テレビに映った世界のようなものですから、実体は無いのです。カメラが追う世界は実像ですが、それを私たちは感受できません。私たちは、鏡に映った世界、テレビに映った世界を見ていますので、そこに事物現象はありません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用も同様です。また、事物現象を観察することで空を知ることができますから、事物現象と空は離れていません。現象は空によって有り、空は現象によって有ります。
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「事物現象、それは空であり、空、それは事物現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用は、即ち空であり、空は、即ち認識作用です。なぜならば、舎利弗よ。ただ名と字が有るから、菩提というのです。ただ名と字が有るから菩薩というのです。ただ名と字が有るから空というのです」。
事物現象だと思って見ているものは、実は自分の脳で仮設された世界ですので空です。実体は有りません。実体がないものが、私たちにとっての事物現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用も同様です。実体の無いものが認識作用です。なぜなら、実体が無くても、名称と字が有るから、菩提というのであり、菩薩というのであり、空と言います。
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「そのことが、何故言えるのかというと、諸々の真実の性は、生じることが無く、滅することが無く、垢が無く、浄くはありません。そのことから、菩薩摩訶薩は、このように行じて、生を見ず、滅を見ず、垢を見ず、浄を見ません。なぜならば、名と字は因縁が和合することによって作られるからです」。
事物現象の真実の本性は、生じず、滅せず、垢が無く、浄くはありません。あらゆる特徴はありません。特徴とは、他との比較によってあるのですから、そのものだけでは、特徴は無いのです。特徴が無いので、菩薩は、生を見ず、滅を見ず、垢を見ず、浄を見ません。名称と字は、因縁和合によって作られるのですから、実体は有りません。実体が無いものが、生滅することはありえません。
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「ただ、分けてみて、推測して想像することによって、仮に名を用いて説きます。これによって、菩薩摩訶薩は、智慧の完成の行を行じる時は、一切の名と字を見ず、見ないことによって執着しません」。
人が名称を付ける時、まわりとそれを分けます。ここに幾つかの果物が有る場合、それぞれの形や大きさ、色や香りで分類し、同じ種類のものに、リンゴ・バナナ・ミカンというように名をつけます。そして、まわりの人たちとの合意によって、広く使うことになります。このように名称は仮なのですから、菩薩が智慧の完成の修行をする時は、一切の名称と字を見ず、見ないことによって執着しないようにします。
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摩訶般若波羅蜜経奉鉢品第二の解釈
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色即是空・空即是色について
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色とは、ルーパ rūpa の訳です。「物質・形・色」の意味です。初期仏教では、肉体の意味で使われていましたが、部派仏教時代に物質的現象の意味で使われるようになりました。大乗仏教でも、物質的現象の意味で用いられます。
空とは、シューニャター śūnyatā の訳です。「欠如」という意味です。空瓶といえば、中身の入っていない瓶のこと、空席とは、誰も坐っていない席というように、あるべきものが欠如している状態を空といいます。大乗仏教になると、欠如しているのは、自性だとされました。自性とは、個の原理であり、主体であり、実体のことです。
色即是空は、「物質的現象、それは空である」と訳されます。つまり、すべての物質的現象には実体が無いという意味です。空をエネルギーのこと、霊界のこと、眼に見えないこと、などと解釈する人がいますが、いずれも空の意味から外れています。知恵袋などのネットでは、確信を持ってそのように説く人がいますが、それは空の意味ではありません。
物質的現象は、因縁和合によって生じます。決して、それだけの力で生じるのではなく、他の力だけで生じるのではありません。多くの因縁が和合することによって有るのですから、個々の物事には実体は無く、因縁の結果として生じている物事にも実体は有りません。もし、個々に実体が有るのなら、木は木のままですので、それを加工することはできません。実体が無いので、椅子や机や台などに加工できますが、ずっと木のままなら、それを加工できません。実体が有るのなら、種は種のままですから、発芽しないし、花が咲くこともありません。赤ちゃんは、いつまでも赤ちゃんのままです。実体が有れば、自然現象は、何の変化もなくなってしまいます。
色とは、五蘊の一つです。五蘊とは、世界を構成する五つの要素のことです。それは、色受想行識であり、物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用のことです。たとえば、そこにリンゴが有り、それを見て、リンゴだと想起し、食べたいと思えば、それをリンゴだと認識します。色が認識の対象であり、受想行識は心の働きです。世界を構成する五つのうち、四つが心だというのは仏教らしいですね。これは、仏教では、世界というのは、認識されてはじめて存在すると見るからです。たとえ、リンゴがそこに有っても、見なければ認識されませんので、無いのと同じです。
五蘊が縁起することで、私たちは世界を認識します。物質的現象を感受し、想起し、意志を持つことで認識作用が起こります。五蘊が縁起しなければ認識できません。因縁によるもの、それは空であり、仮であり、中だと龍樹は論じました。五蘊は縁起ですので、それぞれの要素は空です。よって、物質的現象は空であり、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用は空です。このことからも、色即是空だといえます。また、受想行識即是空だといえます。
ところで、私たちは、はたして外部のものをあるがままに感受しているのでしょうか? 答えは否です。あるがままに感受できる機能を持っていないので、外部をあるがままに感受することはできません。眼は、光を感受し、それを信号にして脳に送り、脳で仮設しています。そして、その仮設した世界を私たちは事実だと思い、それを感受し、想起し、意志を持ち、認識しています。つまり、私たちが認識しているのは、仮の世界であって事実ではありません。よって、色即是仮だといえます。また、受想行識即是仮だといえます。このように、五蘊のすべては、心によって構成されています。
仏教では、あるがままの世界を真実だと言います。五感によっては真実を見ることはできません。真実を見ることができるのは、智慧のはたらきによります。智慧は、煩悩によって塞がっているために、まずは、煩悩を滅することが必要です。そのために八正道や六波羅蜜という行が重視されます。大乗仏教では、六波羅蜜の行が特に勧められます。六波羅蜜の六番目にある智慧を完成させること、つまり般若波羅蜜によって真実を観察できるからです。
色即是空を理解するためには、智慧が必要です。世界が仮であり、空であると知るには、一般的な知識や思考では無理です。瞑想に入り、深く思惟しなければ分かりません。一般人がいきなり瞑想をしても、雑念ばかりが沸き起こり、精神統一ができません。よって、瞑想に入る準備として、善行を為し(布施)、悪行を為さず(持戒)、心を浄化させます(忍辱)。つまり、六波羅蜜の実践が大事です。
色即是空は、比較的分かりやすいけれど、空即是色は難解です。意味は、「空、それは物質的現象である」と言われてもピンときません。どういう意味なのでしょう? このことは、般若心経だけを読んでも分かりません。二万五千頌般若経などの般若経を勉強する必要があります。八千頌般若経・金剛般若経でもいいです。
般若経には、「菩薩は菩薩ではない。よって菩薩という」というような意味不明な文がよく出てきます。これは、「菩薩には菩薩という固定した名は無い。よって、菩薩という名を仮につけることができる」ということです。名称のすべては、人類が仮に名付けたのですから、もともと事象には名称はありません。しかし、人は名があるために、そこに実体を見てしまい、執着します。すべては空なのですから、名は無く、字は無いので、執着の対象はありません。
空即是色というのは、一切が空だから、因縁和合が可能であって、仮に物質的現象をつくることが可能だということです。つまり、空即是色は、空の作用について述べています。
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色即是空・空即是色について
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色即是空・空即是色-1
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摩訶般若波羅蜜経奉鉢品第二より
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経:舍利弗白佛言。菩薩摩訶薩云何應行般若波羅蜜。佛告舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不見菩薩不見菩薩字。不見般若波羅蜜亦不見我行般若波羅蜜。亦不見我不行般若波羅蜜。何以故。菩薩菩薩字性空。空中無色無受想行識。離色亦無空。離受想行識亦無空。色即是空。空即是色。受想行識即是空。空即是識。何以故。舍利弗。但有名字故謂爲菩提。但有名字故謂爲菩薩。但有名字故謂爲空。所以者何。諸法實性。無生無滅無垢無淨故。菩薩摩訶薩如是行。亦不見生亦不見滅。亦不見垢亦不見淨。何以故。名字是因縁和合作法。但分別憶想假名説。是故菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不見一切名字。不見故不著
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太郎訳:舎利弗は釈尊に言いました。
「菩薩摩訶薩は、どのようにして智慧の完成の行を行じるのですか?」
釈尊は、舎利弗に告げました。
「菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を行じる時、菩薩を見てはいけません。また、菩薩という字を見てはいけません。智慧の完成を見てはいけません。また、私は智慧の完成の行を行じていると見てはいけません。また、私は智慧の完成の行を行じていないと見てはいけません。なぜならば、菩薩・菩薩という字の性は、空だからです。空においては、事物現象は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用はありません。事物現象を離れて空は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用を離れて空はありません。事物現象、それは空であり、空、それは事物現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用は、即ち空であり、空は、即ち認識作用です。なぜならば、舎利弗よ。ただ名と字が有るから、菩提というのです。ただ名と字が有るから菩薩というのです。ただ名と字が有るから空というのです。そのことが、何故言えるのかというと、諸々の真実の性は、生じることが無く、滅することが無く、垢が無く、浄くはありません。そのことから、菩薩摩訶薩は、このように行じて、生を見ず、滅を見ず、垢を見ず、浄を見ません。なぜならば、名と字は因縁が和合することによって作られるからです。ただ、分けてみて、推測して想像することによって、仮に名を用いて説きます。これによって、菩薩摩訶薩は、智慧の完成の行を行じる時は、一切の名と字を見ず、見ないことによって執着しません」
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色即是空・空即是色-1
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二万五千頌般若経の抜粋
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般若心経は、二万五千頌般若経(摩訶般若波羅蜜経)の抜粋です。二十七巻という比較的長い経典をわずか260文字にまとめています。よって、要点だけを抜粋しているため、初心者には難解な内容です。ある程度、仏教を学んでいる人でも、般若心経だけを読んで理解できる人は少ないでしょう。二万五千頌般若経を読んだ者にしか理解できません。本屋に並んでいる般若心経の解釈本のほとんどは、二万五千頌般若経を読まずに解釈しているため、的を射たものは少ないです。ましてや、ネット上で公開されている解釈本は、とんちんかんなものがほとんどです。そういうものを読むことは、あまりおすすできません。
二万五千頌般若経を龍樹が解釈したのが大智度論です。大智度論は、100巻もある大作ですから、一般人で読んでいる人は少ないでしょう。二万五千頌般若経にしろ、大智度論にしろ、入手が困難なので、図書館などで読むしかありません。私は、国訳大蔵経全31巻を持っていますから、二万五千頌般若経・大智度論ともに、読むことができます。しかし、長すぎるので、全部を読むのには時間がかかります。
般若心経の最初の「観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄」と、最後の「羯諦。羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶」という呪文は、二万五千頌般若経にはありません。それ以外は、あります。有名な「色即是空。空即是色」という言葉は、5回も出てきます。二万五千頌般若経だと、詳しく「色即是空。空即是色」のことが説かれていますが、般若心経は、「色即是空。空即是色」とだけ書かれていますので意味が分かりにくいです。
「色即是空。空即是色」は、般若心経の核となる教義ですから、じっくりとお伝えしていきます。
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二万五千頌般若経の抜粋
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初期仏教~大乗仏教
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仏教は、釈尊が覚りを開いて、鹿野園で五比丘に対し説法を説いた時に始まりました。それから、釈尊が亡くなって約100程年ほどして、仏教教団が保守派の上座部と革新派の大衆部とに根本分裂するまでを初期仏教といいます。
初期仏教は、アンチ・ヴェーダの教えだと言われます。なぜなら、ヴェーダ聖典の根本思想であるアートマンを否定したからです。アートマンは、個の原理・主体・実体です。これを否定してアナートマン、つまり無我を説きました。アートマン思想が広まっていたインドでは、無我の考え方は受け入れがたかったようです。紀元前3世紀頃にアショーカ大王が、インドを統一し、仏教を国教にして、仏教を保護し、仏教は大いに盛り上がりました。仏教が栄えたことによって、バラモン教は衰退しました。根本分裂の後、教団は次々と分かれましたので、この頃の仏教を部派仏教といいます。部派仏教の時代は、国からの保護を受けていたので、仏教はどんどん拡散しました。その結果、部派が増えたのです。
部派仏教の時代に最も勢力があったのは、説一切有部です。説一切有部は、人については無我だと説きましたが、法は有ると説きました。法とは、水を水として成り立たせるもの、火を火として成り立たせるもの、物を物として成り立たせるもののことです。「人無我。法有我」という説を土台にしたのです。
また、業報輪廻を積極的に説き、業報輪廻を十二因縁によって説明しました。無明・行を過去の因だとし、識・名色・六処・触・受を現世での果だとしました。愛・取・有を現世での因だとし、生・老死を来世の果だとしました。これを三世両重の因果といいます。これは、説一切有部の説であって、釈尊が説いた内容ではありません。
また、説一切有部は、食事が国から提供されるため、在家との関係を断っています。つまり、托鉢をやめてしまい、在家への説法もやめてしまいました。地方を巡って説法をする遊行もやめています。説一切有部は、それよりも経典の解釈をすることに熱中しました。いわゆるアビダルマ(論書)をつくることに懸命になったのです。大乗仏教では、説一切有部の説いた法有、業報輪廻、在家との関係を否定しました。一切法空・廻向・大乗を説いたのです。
このようにバラモン教を否定して初期仏教が説かれ、初期仏教を否定してアビダルマが論じられ、アビダルマを否定して大乗が説かれました。以前の教義を否定することによって、仏教は、より高度な教えへと発展しました。このことは、初期仏教の信者は納得しないのでしょうが、経典を読めば一目瞭然です。仏教の最終形態は、密教ですので、密教が最も高度で深い教えが説かれているのでしょう。しかし、密教は師から弟子へと伝えられる教えですから、一般人には知らされていません。よって、我々は、初期仏教経典・大乗仏教経典と中観派の論書・唯識派の論書を学ぶ必要があります。輪廻についても、初期仏教の経典だけで判断するのではなく、大乗仏教の経典も学んでから判断するべきでしょう。
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初期仏教~大乗仏教
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輪廻は恐怖
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仏教における業報輪廻思想は、業報によって死後、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天に生まれ変わり、その後もずっと業報によって六道を輪廻するというものです。罪が深ければ、地獄に堕ちます。地獄が最も苦に満ちた場所であり、餓鬼・畜生がそれに続きます。餓鬼とは、常に飢餓の状態にあって、欲求不満によって苦しむ境界であり、その境界の生物も餓鬼と言います。畜生は、動物界のことで、その境界に住むのは動物です。これらの地獄・餓鬼・畜生を三悪道といいます。修羅とは、阿修羅のことで、もとは神でしたが、帝釈天と争って負け、海に突き落とされました。争いを好み、常に戦っています。人間とは、私たちのことです。まわりの変化に振り回され、疑惑と不安と恐怖の中で暮らしています。天とは、天上界のことで、そこに住んでいるのは神々です。六道の中では、安楽の境地ですが、寿命がありますので、死ぬ前は苦しみます。六道は、迷いの世界、苦の世界です。
インドでは、人間に生まれたことを悲しむようです。なぜなら、人間として生まれたということは、前世での行いが悪く、輪廻から解脱できなかったということだからです。バラモン教では、解脱すれば天界に生まれ変わると言いますので、人間に生まれた時点でアウトです。これから何度も輪廻を繰り返すことになります。人間ならまだいいのですが、地獄に堕ちれば、非常に長い間苦しむことになりますので、そのことを思えば苦しみます。よって、輪廻は恐怖の思想です。
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輪廻は恐怖
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