こちらの知恵袋と関係しております。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13318289758
空を説く『般若心経』の中で、内観(内縁起)と外観(外縁起)とが説かれている事に気づかれている方居られますか?
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空を説く『般若心経』の中で、内観(内縁起)と外観(外縁起)とが説かれている事に気づかれている方居られますか?
仏教を象徴する経典のひとつ、『般若心経』。
その短い文のなかには、空という概念を中心に、非常に深い法理が凝縮されています。
その『般若心経』を、外観(色)と内観(受・想・行・識)の視点から紹介します。
『般若心経』の冒頭に出てくる有名な句、
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
ここで説かれる色(しき)とは、単に“色彩”の意味ではなく、「目に見える形ある存在」、つまり現象世界の物質的側面即ち**実在**を指しています。
この「色」がそのまま「空」であるというこの教えは、実在は縁起に依って存在しているという「空=縁起」の法理に他なりません。
この空観は、『小空経』(Skt: Cūḷasuññata Sutta)において説かれる「小空」に対応し、存在の“有る・無い”という状態性に対する認識から空性を説いています。
小空経は小乗仏教で展開された空理ですが、そこでは同時に〝無我〟が説かれております。
〝無我〟は、「自分は本来存在しない」といった説明をよく見かけますが、本来の意味はそれとは異なります。
『阿含経典』では無我は次のように紹介されております。
傍らに座した長老ラーダは、世尊に申し上げた。
「大徳よ、無我、無我と仰せられますが、大徳よ、いったい、いかなることを無我というのでありましょうか」
「ラーダよ、色(肉体)は無我である。受(感覚)は無我である。想(表象)は無我である。行(意志)は無我である。識(意識)は無我である。
ラーダよ、そのように観じて、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、色を厭い離れ、受を厭い離れ、想を厭い離れ、行を厭い離れ、識を厭い離れる。厭い離れることによって、貪りを離れる。貪りを離れることによって、解脱するのである。そして、すでに解脱するにいたれば、ああわたしは解脱したとの智が生じて、<わが迷いの生活はすでにおわった。清浄なる行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。もはやかような迷いの生活に入ることはあるまい>と知ることができるのである」
このように、無我とは──
色・受・想・行・識の五蘊から離れる(厭離する)ことであると、釈尊は説かれているのです。
したがって、小乗仏教における「空」とは、対象としての実在を、自身の五蘊による主観的な認識から離れて見つめ、そのモノがそのモノとなり得た因果(縁起)によって捉える- -色即是空、さらに、その因果に基づいて正しく理解された対象として見る--空即是色という、正見としての客観認識のあり方として説かれているのです。
次に、『般若心経』ではその客観による認識から起こる主観のあり方が説かれます。
受想行識 亦復如是
「受・想・行・識もまた、かくのごとし」と。
ここで言う「受・想・行・識」は、私たちの内面における認識作用、すなわち「感じる」「思う」「意志する」「識別する」といった一切の主観的プロセスを意味します。
これらの働きもまた、「色」と同様に空であると説かれるのです。
どういうことかと言いますと、
私たちが「綺麗だ」「汚い」などと思っているその対象というのは、実際のところ、私たちのそういった主観的な感情や思考によって成り立っている訳ではありません。
ある人が「これは汚い」と感じるモノが、別の人にとっては「美しい」と感じられることがあります。“汚い”とか“美しい”といった感覚は、対象そのものに備わった特性ではなく、それを見る側の主観の中に生じているものなのです。
そして、その主観すら、育ってきた環境、過去の記憶、教育、文化的背景など、さまざまな縁によって形成されたものにすぎません。
要するに、対象には「そのモノをそのモノとして成り立たせている変わらぬ本質」──つまり自性と呼べるようなものは存在しない、ということです。
仏教では、これを無自性と説きます。
この無自性という見方を通して、私たちが主観によって「そう見えている」と思っている対象の姿もまた、空であると観じていく──これが『般若心経』における「空即是色」の教えなのです。
おわかりいただけますでしょうか?
つまり──
『般若心経』における
「色即是空」は、五蘊による客観的認識から離れた無我の立場を、
「空即是色」は、主観による対象の固定概念を否定する無自性の立場を示しているのです。
具体的には──
「色即是空」は、五蘊(色・受・想・行・識)によって捉えられた「客観的に実在する対象」を、姿・形、音や匂い、触感、味わいといった外観から判断することを離れるということ。つまり、見た目による認識のとらわれからの解放を意味します。
一方で「空即是色」は、感情・印象・価値判断といった主観的な認識の枠組み──たとえば「美しい」「汚い」「好ましい」「忌まわしい」といった評価──から離れることを意味しています。すなわち、主観的な固定観念の否定です。
そして『般若心経』には、次のように説かれています。
舎利子 是諸法空相
舎利子よ、この諸法(あらゆる存在)は空の相(すがた)である。
続いて、
不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色 無受想行識
すなわち──
生じることも滅することもなく、汚いことも綺麗なこともなく、増えることも減ることもない。
ゆえに「空」の世界においては、色(しき)もなく、受想行識もはたらかない