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正式版『中国奥地紀行』付言「バード女史の行動・考え方に関する感想」(前編)

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正式版『中国奥地紀行』付言「バード女史の行動・考え方に関する感想」(後編) エンタメ小説研究交流会
トピックの字数制限の関係で「本文」「付言前編」「付言後編」の三つに分けます。「本文」「付言前編」は以下のリンクからどうぞ。 外部コンテンツ 正式版『中国奥地紀行』付言「バード女史
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【付言 バード女史の行動・考え方に関する感想】

 
 本文は「創作資料としての評価」なので、それとは外れるが、バード女史の行動・考え方の感想を三つ述べる。本書全巻を通じて、博識で公正なバード女史の言動に矛盾や違和感があることが多かった。

 なお訳者解説によると、本書の執筆が開始されたのは、1898年10月末で、バード女史の英国帰国が1巻の序によると1897年とあるので、バード女史の認識が「旅の最中」なのか、「帰国後」なのかの判断が付かないことがある。

 バード女史の旅行記は、本書以前に、アメリカが旅先の『ロッキー山脈踏破行 』(平凡社ライブラリー、小野崎晶裕訳)、現在のパキスタン、インド北部のチベット文化圏が行き先の『チベット人の中で』(中央公論事業出版、高畑美代子、長尾史郎訳)を読んだ。この両書では、バード女史が旅先の習慣に反するふるまいをし、キリスト教を押し売りし、住人のプライベート空間に侵入する印象はなかった。だが、本書を読むと「バート女史とはこんな人だったっけ?」との感を禁じ得ない。

1、公正なバード女史が、なぜ中国の慣習に反し、現地民の憎悪を買う「覆いのない轎」に乗り続けたのか?

 
 バード女史は、「敵対的な住人からの、彼らからすれば当然の攻撃に何度も遭遇」(訳者解説)している。しかも、バード女史を標的にする暴動・襲撃が2度も起きていている。しかも2度目には一時気を失い、1年間後遺症に悩まされるほどの重傷を負わされている(1度目も「みみずばれ」程度の軽傷を負わされた)。
 
 その原因を、バード女史自身が「中国の慣習に反して『覆いのない轎に乗ったこと』」と「日本製の笠、中国服、英国製の靴という服装」と繰り返し書いている。

 バード女史がこの自己分析に至ったのはいつなのか? 旅の最中、特に2度目の襲撃前なのか? それとも2度目の襲撃後か? それでは遅過ぎるからないだろうが、帰国後のことなのか? そもそもこの「自己分析」は当たっているのか? 後述の通り、バード女史の旅に協力した現地駐在の宣教師たちは、バード女史の「轎」「服装」を問題視しておらず、対応がチグハグで不自然。

 もっとも2巻第二十七章79、80ページには2度目の襲撃後、「官吏は[秘書を通じて]彭県での礼の失する事件について遺憾の意を表したが、その一方で、住民が覆いのない轎も外国の笠もこれまで見たことがなかったのでと言って、連中を一部弁護もした」とあった。バード女史が、襲撃の原因を「轎」と「笠」だと、この時点まで認識できていなかったのであれば遅い気はする。

 1度目の襲撃前に「覆いのない轎」が現地民の憎悪をこれほど買うとまでは予見できなかったとしても、第1の襲撃後も「覆いのない轎」に乗り続けたことが、本書最大の疑問。

 

 バード女史はこれほどの仕打ちを受けながら、して当然な中国や中国人を憎悪・侮蔑することなく、しかるべき役所へ旅行許可から当然の権利である抗議の申し立てもせず(抗議しても状況が終わったあとであれば無意味だし、下手に抗議すると、安全を理由に帰国を説得される恐れがあったのでは? と勝手に想像してはいる)、淡々と事実を記しているほどの、公正でタフな旅行家である。いたずらに現地民の憎悪をあおる言動を取るとは考えにくい。しかも、次のように書いてさえいる。

 私は中国人暴徒の暴力に苦しめられてきたし、それが官吏によって煽動されたものではないにしろ、黙認されてきたと信じている。しかし、これまで何度もそうしてもよい機会はあったが、実際には正式に苦情を訴えたり官吏の活動を妨げたりすることはしてこなかった。官吏の大変さに同情していたからである。
 (中略)
 また、外国人の故意ではないにしろ軽はずみな行動によって反外国人感情が刺激され爆発することもある――私の場合だと、慣習を踏みにじって覆いのない轎に乗ってしまった!ことがいけなかった。暴動がおこり、外国人が身体にも持ち物にも危害が加えられたと告訴し、自国の領事もこれを後押しする。すると官吏は、たとえ事件の現場から何マイルも離れた所にいたとしても責任を取らされ、おそらくは左遷される。(1巻第二十三章392ページ)

 帰国直前まで西洋人と全く接触しなかったのではなく、第1の襲撃後、第2の襲撃までの間に、2度も現地駐在の宣教師と会っている(詳細後述)。宣教師に会った際にそれまでの旅について話さなかったのか? 話さないのは不自然だし、宣教師たちもバード女史が現地民の憎悪を買って襲撃を受けたと聞けば、轎や服装について、何かしろの忠告をしたのではないか? それにバード女史は現地駐在の宣教師たちが、中国の慣習と礼儀を順守するよう努めて、中国人を怒らせないようにしていることを繰り返し書いている。なのに、なぜそれにならわなかったのか?

 その上で、バード女史は対中伝道の宣教師向けにこのような忠告を書いている。

 たとえば、[西洋の]女性が、覆いのない轎に「乗った」り、自分の家に男性客を招き入れたり、男性と握手したりすることは好ましくない。中年の中国人女性に付き添ってもらわないで町や村の道を歩いたり、住民の家を訪問したりすることも同様である。また、ぴったりとした婦人用胴着を身につけたり、身体つきがわかるような恰好をすることは単に好ましくないだけでなく恥ずべきこととされる。さらに、外国の少女がつばの広いふわっと波打った帽子をかぶって現れたら、おそらくは聞きたくもないような言葉を浴びせられ、帽子には鳥や昆虫・羽・草花などが見境なく投げ込まれる羽目になる!  成功をおさめているある大きな伝道会の委員会は宣教師の服装と礼儀作法を定めるのが望ましいことに気づいた。また、中国内陸宣教会の宣教師はすべての地で、英国教会伝道協会の宣教師は四川省で中国風の服を着ることによってこの難問を解決した。この服はヨーロッパ人が品よく、威厳を保って着られる唯一の東洋風の服である。中国風の服装に反対の伝道会も、こぎれいでシンプルな、また中国人の礼儀作法観とヨーロッパ人の好みを同時に満たすような夏用と冬用の制服の着用を認めさえすれば、女性宣教師の身の安全ははるかに保たれ、尊敬されもすると思われる。 そしてこの制服なら、その着用者が大きくて重要な国際的組織に属していることを一見して示せるし、叱責を受けることもなくてすむと思われる。(2巻第三十九章「中国のプロテスタント系伝道会に関する覚書」334ページ)

 本書全巻通じて、バード女史は「覆いのない轎」に乗ることは、「旅行者にとっては些細なふるまいでも、現地民からすれば『自分たちの習慣・文化・伝統・価値観を破壊する「重大な攻撃・敵対行為」』と認識される」との自覚があったのではないか? とも感じる。現に、バード女史は以下のように、中国人の対外感情に正確な認識を記している。

 彼らは(引用注。四川省在住の宣教師を指すと思われる)外国人、「外国の悪魔」なのである。その目や肌の色、座り方や手の動かし方、すべてが嫌悪の気持ちを引き起こす。それに、気の毒になることも時にはあるのだが、外国人は「子供食い」であり、子供の目や心臓を薬として用いるとの盲信が今やあまねく広まっている。そんなところへ彼らはやってきた。たとえ多くの人が信じるようなスパイや政治的手先でなくとも、西洋の宗教[キリスト教]を教えるためにやってきた。そしてその宗教は中国人の国民性を滅ぼし、孔子が広めた素晴らしい社会秩序を破壊することになる。また、尊敬に値する純粋な国民生活と先祖への忠誠を壊してしまうことになるし、忌まわしい慣習をもたらすことになる――多くの人はこう信じているのである。
 中国人の立場からすれば、宣教師の目的は忠実にいえばこのようなことになると思う。(1巻第二十三章393ページ)

 それ故に、「現地の慣習に反する振る舞いをすれば、身に危険が及ぶ」ことが明確になった、第1の襲撃の後も、なぜ「覆いのない轎」に乗り続け、日本の笠をかぶり、英国の靴を履いたのか? 特に憎悪を向けられる都市部・主要街道のときだけでも、轎に覆いを付ける、全身中国服で固めることをしなかったのか? 実際、第2の襲撃を受ける直前の、2巻二十七章58ページでは、以下のように都市部に入ることを警戒している。なのに轎と服装については、かたくなだったのか? 無邪気なのか? よく分からない。

 梁山[県]の暴動(引用中。第1の襲撃)以来、私は大きな城郭都市には足を踏み入れないようにしてきた。(太字は引用者)

 バード女史が、バリバリの西洋キリスト教至上主義者で、キリスト教と西洋近代文明を礼賛し、中国人に対し、侮蔑・憎悪・差別をあらわにする人であれば、「郷に入っては郷に従え」は当然のこと、従わなかったのが悪い、と切って捨てただろう。「2」「3」も含めて、このような疑問を持つことはなかったかと思われてならない。

2、バード女史の服装・行動に対する宣教師たちの対応

 バード女史の中国四川での旅は、「伝道状況の視察」との目的があり、現地駐在の宣教師の協力に拠っている。フランス領事が暴動被害について、不当に高額な賠償金を得たこともあり、本書の旅の時期には、四川省都市部の知識層間で排外感情が強い。にもかかわらず、西洋キリスト教世界と中華世界との衝突の最前線にいる、協力者の宣教師たちの対応が、以下のように甘くてチグハグな感じを受ける。

 ・トンプソン宣教師

 出発地、万県で、バード女史の轎をはじめ、四川の旅全般を手配(1巻第十八章)。しかも1日目はバード女史に同行。1巻第十六章271、272ページでは、トンプソン宣教師の伝道所が現地民の憎悪の対象になっている。

私がここを訪れた一カ月前に深井戸が枯れた時も、暴徒が伝道所の外に集まり、建物を焼くとか、「外国の悪魔」をみな殺しにするとか言って脅かした。「外国の悪魔」が井戸から水を抜き取りこの都市の「幸運」の蟹を盗んだというのである。暴徒は、結局は引き揚げさせられたけれども、官吏が伝道所にやってきて、ここの住人が子供たちの目を取ろうとして子供たちを殺し、死体を裏のタンクに捨てたと言って激しくとがめた!――この官吏は私がここにやってきた時にはちょうど退職したところだった。

 トンプソン宣教師は、バード女史の旅の初日に同行し、手配がうまくいっているのかを確かめるほどの慎重な人だ。上記の引用の通り、極めて緊迫した情勢下なのに、バード女史の護衛を手配していない。清国官吏によるバード女史の安全保障が機能する、と判断していたのだろうか? バード女史には役所から派遣された差人(付添人)が同行している。この差人が旅行許可証(護照=旅券)を振りかざせば騒動は収まる。ただ、2度の暴動・襲撃時には真っ先に差人が逃亡しているし、他の場合も含めて官吏もギリギリの状況になってようやく出張っている。旅の最終盤を除いて、清国官吏がバード女史の安全を積極的に確保しようとしている印象はない。なお、バード女史の記述からの勝手な憶測だが、外国人への悪印象、職務不熱心、暴徒への恐怖があったにせよ、現地の官吏は対外条約順守の北京の中央政府と、地元民(特に有力者)の感情との板挟みになっていたのではないか? 外国人の味方をしたと地元民の反発を恐れたのでは? とも考えられる。

 どの国でも知識層は礼儀作法に厳しいが、中国は特に厳しい。バード女史も、こう書いている。なのにバード女史が中国の作法に反し、「覆いのない轎」に乗り、日本の笠をかぶり、英国の靴を履くことを止めていない。トンプソン宣教師はバード女史の旅の初日に同行し、これも問題ないと判断したのだろうか?

 私の体験の限りでは、宣教師は、ごく一部の例外を除いて男女の別なく、中国の慣習と礼儀を、知っている限り順守しようと一生懸命だったのだが。また住んでいる地方の人々を何とかして怒らせないようにしていたのではあるが。(1巻第二十三章393ページ)

 ・ウィリアムズ宣教師

 
 バード女史が、第1の襲撃と第2の襲撃の間に訪れた保寧府駐在。同府でバード女史の廟撮影をきっかけに、バード女史への憎悪が向かう場に同席(2巻第二十五章18、19ページ)。バード女史の写真撮影が、中国の慣習と礼儀に反する、とこれほどまで強く現地民に認識された場面にいながら、バード女史が「覆いのない轎」「日本の笠」「英国の靴」で旅を続けることに忠告した形跡がない。

 郊外にある立派な廟には疫病の神[瘟神]が祀られている。私はウィリアムズ氏とこの廟を訪れていた。地上からではどうしてもこれを写真に収めることができなかったので、轎かきは向かいにある開けっぱなしの廟の舞台から撮ればよいと言って梯子を持ってきて、私が上がるのを手伝ってくれた。戻ろうとすると、一人の文人がこの行為に対しウィリアムズ氏をとがめた。そしてこの翌日、女性宣教師の従者たちは、彼女らにどうか家の外に出ないでくださいと頼んだ。通りや茶店ではこの「不埒な行為」とこれが神の憤りをかうだろうという話でもちきりで、「外国人を皆殺し」にしてやると話されていたからである。ウィリアムズ氏はこんなに激しい「外国の悪魔!」[洋鬼子]とか「外国の犬!」[洋狗]という叫び声は聞いたことがなかったと言った。そして、この叫び声と住人を駆り立てる憎しみは、都市に外国人が長く滞在すほどひどくなるように思われるとも言った。

 この撮影は、中国人の轎かきに勧められてのこと。轎かきは雇い主のバード女史を喜ばせることにしか念頭になく、現地民、特に文人の外国人への憎悪まで考えが至らなかったのかもしれない。にしても、同座しているウィリアムズ宣教師も撮影を制止しなかったことからすると、ウィリアムズ宣教師は撮影には問題がないと判断したのだろう。バード女史も、轎かきが撮影に不安の色を示し、もしくは止めるように懇願され、同行の宣教師から制止されれば、それを振り切ってまで撮影を強行するとは考えにくい。

 ・ホーズバラ宣教師夫妻

 梓潼から灌県までの間、バード女史に同行、途中の羅家場で第2の襲撃に遭遇。バード女史から、1度襲撃を受けたことや直前の保寧府で写真撮影がきっかけで強い憎悪を向けられたことを聞かされなかったのか? 轎に覆いを付けることや、せめて目立つ笠だけでも脱ぐことを忠告しなかったのだろうか? ホーズバラ夫人は、自分の中国服をバード女史に貸すことをしなかったのだろうか? 

 襲撃とその後の箇所を読んでも、中国の作法にかなった服装・轎と思われるホーズバラ宣教師夫妻には暴徒の被害があった様子はない。バード女史が「覆いのある轎」に乗っていれば、暴徒に取り囲まれて罵声を浴びせられても、重傷を負わされるまではなかったのではないか? ホーズバラ宣教師夫人の判断で、渡河を下手に回ったのは暴動を恐れてか? 単に混雑していたからか? の別は判然としない。バード女史もホーズバラ宣教師夫妻の忠告なら、聞き入れたものと思われる。

 長い屋根付きの橋を渡ると羅家場という小さな町へ行くことができた。しかし砂利が一面に堆積して坂のようになっている一番高い所では、六〇〇人ほどもいようかという群衆を前に芝居が行われていたので、、ホーズバラ夫人はこの橋を渡って街へと入っていかずに、このままこちらの堤防を進み、もっと下手でわたりましょうと言った。私は昔から「難局には勇敢に立ち向かう」のを信条としてきたのだが、ここでは長い経験のある彼女の考えに従った。そして、正真正銘の中国服を着た彼女が、覆いのある轎に乗って進む少し後を中国服、ヨーロッパ製の靴、日本製の笠という〈ごった煮〉スタイルで、覆いのない轎に乗って続いた。
 群衆は私の乗った覆いのない轎を見つけた。このような轎は彼らには珍しかったので、憎悪の対象となった。そして、優に二〇〇〇人を超える男が、棒切れや荷物棒を振り回し、「外国の悪魔」とか「子供食い」といった言葉を喚き散らしながら、また、轎かきに向かって轎を下ろせと言いながら、小石だらけの堤防を駆け下りてきた。また、こちら側の堤防を駆け上がってきた。それなのに、私の使い走りの連中といったら、私からずっと離れた所で自らの保身に躍起になっていた。後で抗議をしたところ、「二〇〇〇人に対してわしら二人に何ができたと?」と答える始末だった。しかし、官吏の認可状(引用注。旅行許可証)には効力があるに決まっているのである。それから私たちには石が次々と飛んできた。飛び道具は手近にいくらでもあった。「外国の悪魔」とか「外国の犬」という叫び声のすさまじさといったらなかった。石が轎をめがけて雨霰のように投げつけられた。そして一つの大きな石が私の耳の後ろに命中した。このひどい一撃によって、私は前に倒れ込み、気を失ってしまった。(2巻第二十七章76ページ)

ドラコン
作成: 2025/07/01 (火) 18:56:47
最終更新: 2025/10/20 (月) 20:01:51
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