青子
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2019/09/13 (金) 01:37:04
議題【花沢勇作の経歴】
タグ【資料】【年表】【尾形百之助】【花沢勇作】【第七師団】
《5-1》勇作の年齢(1)
>> 1から>> 8で尾形の年齢を特定しようとしてきたのですが、
「勇作さんの年齢を割り出せたらもっと絞り込める可能性がある」
ということに気づいたので、勇作さんの年齢を考えてみます。
「本妻との間に男児(勇作)が生まれ」たとき、尾形は「まだ赤ん坊」とされる年齢です。
この証言は「何歳までを赤ん坊と呼ぶか」という感覚に左右されてしまうのがつらいところですが、
参考程度に3点。
(1)現代日本の児童福祉法および母子保健法では、1歳未満「乳児」、1歳~未就学児を「幼児」と定義
(2)梶谷真司「母乳の自然主義とその歴史的変遷」によれば、「1894年に医師の進藤玄敬は『乳の友』で、(略)満1歳以下の死亡率の高さを指摘して、嬰児の衛生に気をつけなければならないと主張」
(3)厚生労働省「授乳・離乳の支援ガイド」2019年版によれば、「離乳の開始時期は、『6か月』の割合が(略)最も高く、(略)離乳の完了時期は、『13~15か月』」
数少ない根拠ではありますが、この辺を考慮すると尾形と勇作との年齢差は0~2歳程度、
と仮定してもよいように思います(が違和感ありましたらご意見頂けたら助かります…)
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《5-2》勇作の年齢(2)
花沢勇作は少尉であり旗手(聯隊附旗手)、
歩兵第27聯隊(※第七師団、歩兵第14旅団。日露戦争では第三軍隷下)の所属と思われます。
そして、ほぼ確実に陸軍士官学校の卒業生であろうと考えられるので、
陸士の卒業・任官時期と、日露開戦~二〇三高地戦の時間軸を整理してみます。
可能性がありそうなのは「陸士14期~16期生」です。
陸軍士官学校卒業生は通常、11月に卒業して6月に任官(少尉として勤務開始)されていたようなのですが
15期生、16期生に関しては、卒業や任官の時期が大きくずれてます。
参考:【陸軍士官学校卒業生一覧(日本)】
https://ja.wikipedia.org/wiki/陸軍士官学校卒業生一覧_(日本)
日露戦争開戦や旅順攻囲戦に伴い、急いで将校を確保する必要があったためのようです。
実際の陸士16期生は、戦地へ赴いた人と留守部隊として日本に残った人にわかれるようで、
かなりぎりぎりな感じですが、もしかしたら大連へ向かう27聯隊にすべり込めたかもしれません。
「旗手(連隊旗手)は、新任の少尉(稀に中尉)の中の成績最優秀者が1年間交代で務め」たそうなので、
勇作は「任官から1年以内の新任少尉」であると考えるのが最も妥当な気がしたのですが、
引用:【軍旗】https://ja.wikipedia.org/wiki/軍旗
選択肢として14期生も含めているのは、
戦時や出兵前に配属替えをどれだけ行うのかがわからなかったためです。
(ご意見募集中です)
少なくとも、第七師団に動員令が出た1904年8月4日以降、
現任の旗手を交代させる可能性は低いのではないか…?
16期生の任官は1904年11月1日なので、可能性はかなり低いのではと思っています。
15期生についても、任官が開戦の4日後ですし、
15期生の任官当時、まだ14期生が任官1年未満ですし(15期生の任官が4ヶ月繰り上がったため)
よほどのことがなければ14期生を続投しそうな気がします。
「師団長の息子」という立場にはどれくらいバイアスが働くのか? とか
陸軍士官学校の席次とかも絡んできそうで、ややこしいです。
《5-3》勇作の年齢(3)
大事な補足3。ひるがえって、「確実に14期生」とも断言できません。
これには二つの理由があります。
多門二郎『日露戦争日記』の冒頭には、日露開戦直後、筆者が異動を言い渡され、国内に留まることになった、
しかし「戦地に行きたい」と訴えつづけたところ、再異動になり、従軍が叶った、という記述があります。
そもそも、開戦時には「平時編成」から「戦時編成」への編成替えは行われるわけですから(各編成については別項にまとめたいと思います)開戦時に異動があってもまったく不思議ではありません。
ただ、聯隊旗手は平時編成にもある役職ですし、ある種の特権的な意味合いのある立場でもあったようです。
まず、日本陸軍ではとりわけ「軍旗が神聖視」されており、「戦場では軍旗を守護するために1個中隊が編成」されたとのこと。(引用:【軍旗】https://ja.m.wikipedia.org/wiki/軍旗)
また、「明治23年(1890年)11月1日制定時の『陸軍定員令』(明治23年11月1日勅令第267号)」によれば、
平時編成の一個歩兵聯隊には「将校70名、准士官下士145名、兵卒1,440名、各部66名の総計1,721名」が所属しますが(引用:【歩兵連隊】https://ja.m.wikipedia.org/wiki/歩兵連隊)
このうち少尉は25名ほどで、就きうるポジションは「中隊附」または「聯隊本部附」=「聯隊旗手」のどちらか。
(※さらに上位単位では、師団司令部の副官部に少尉が任官されることもあるようです)
中隊附少尉24名、対して聯隊旗手は1名のみと考えると、やはり容易ならぬ役職のようには感じられます。
参考:【師団】https://ja.wikipedia.org/wiki/師団#師団司令部の構成
【歩兵連隊】https://ja.wikipedia.org/wiki/歩兵連隊#歩兵連隊の定員(明治23年平時編制)
【大隊】https://ja.wikipedia.org/wiki/大隊
【中隊】https://ja.wikipedia.org/wiki/中隊
さらに、「旗手に選ばれる」ということは、参謀将校を養成するための陸軍大学校(陸大)への進学にも関係してきたようです。
「陸大に合格するには3年程度をかけての受験勉強が必要とされていた。陸大受験資格を有したのは『所属長の推薦を受けた、陸士を卒業して少尉任官後に隊附(部隊勤務)2年以上の中尉・少尉』であったが、中尉・少尉の期間に陸大の受験勉強をするためには、所属長が便宜を図ってくれることが重要であり、かつ優秀な部下が陸大に入校することは所属長にとって喜ばしいことであった。所属長から陸大入校を期待された中尉・少尉に対しては(中略)1.連隊旗手(連隊本部での勤務となるため、余暇が多い)に選ぶこと。…などが行われた。」
引用:【陸軍幼年学校】https://ja.wikipedia.org/wiki/陸軍幼年学校
以上三点、特に有力な証拠とは云えませんが、
「聯隊旗手は特殊っぽい」ということは憶えておいたほうがよさそう、とは思いました。
もう一つは、「士官候補生」「見習士官」などの期間を考慮すると、任官から日が浅くとも旗手も務められたかもしれない、と考えられるからです。
陸士の学生は、入学前には「士官候補生」として、卒業後は「見習士官」として、各隊にいわば実地実習に出されます。
陸軍士官学校の制度はかなり改変が多く、ややこしいのですが、勇作さんが在校していた(と思われる)時期は、
「士官候補生(a)→陸軍士官学校→見習士官(b)→少尉として任官(c)」
という流れのようです。
また (a)~(c)はすべて同じ隊に配属されることが基本だったようです。
(※任官までに必要な期間は、中央幼年学校卒業者、地方幼年学校卒業者、中学校卒業者で異なる。別記。)
参考:『陸軍士官学校』秋元書房、1969
【陸軍士官学校(日本)】https://ja.wikipedia.org/wiki/陸軍士官学校_(日本)
「軍人になるには」http://www.ndl.go.jp/scenery/column/tokyo/military.html
15・16期生は、卒業・任官時期の調整が行われている点を見ても、在学中からすでに日露戦争が想定されている状況で教育を受けていたはずです。
であれば、たとえ勇作が15・16期生であったとしても、見習士官時代から「日露戦争で旗手を務められるように」予め教育訓練を受けた、という可能性は否めません。
見習士官は「曹長」として配属されるとのことなので、その時点で聯隊旗手を任されるということはないでしょうが、
間もなく戦争が始まるという危機感をうけて早期教育を考え、さらに、たとえば成績優秀者である、あるいは師団長の子息である、という理由により、
見習士官時代の勇作が、任官すれば「聯隊旗手」という役職を担うものと期待され、相応の教育を施された、という可能性は考えられるかと思います。
【(1)補足】に書いたように、ある種の特権性を帯びた「聯隊旗手」という役職ではありますが、
任官から日の浅い15期生または16期生であっても、これに任ぜられた可能性はある、と考えます。
《5-3つづき》
14期生であった場合、勇作が任官されるタイミングでは第27聯隊の編成は完了していません。
・士官候補生時代、見習士官時代は別隊に配属されたのか
・編成途上の27聯隊に一貫して配属されていたのか
年齢特定には影響しなさそうですが、これらも気になるところではあります。
いずれにせよこの時期は、陸軍も軍学校もまだまだ発展途上であり、
さらに「間もなく戦争が始まる」というイレギュラーさもあります。
後年の陸軍、また平時の陸軍の状況に比べて、変則的な動きが見られることは想定しなければならないでしょう。
①士官候補生の教育の詳細、特に14~16期生の士官候補生時代の状況はどのようなものだったか?
②日露開戦直前の異動はどのように行われたか?
③士官候補生、任官後、ともに成績優秀者の扱いはどのくらい違うのか? そもそも勇作さんの成績はどの程度だったのか? 聯隊旗手=陸大進学候補者と考えるならやはり成績優秀だったのか?
さらに、
④以上全ての点において、「師団長の息子」という立場は(直接間接を問わず)どの程度、どんなふうに影響したか? 士官候補生時代、原隊や任官先の選定、役職を受ける際などにこの条件はどの程度の効果をもったか?
⑤同じく全ての点で、「上官の判断による差」「部隊ごとの慣例の差」などはどの程度あったのか?