渾沌という神がいて、これは「姿かたちがない」ことが正体で、姿かたちがないゆえにのっぺらぼう。荘子では他の神が好意から耳鼻目口の穴を空けてやることにするが、そのせいで死んでしまう。そして渾沌は鴻蒙とも書く。
ここから先は私見ですが、のっぺらぼうであることが重要で、必要なだけ面の皮を用意しておいて表情を張り替えるもののその実本体は「顔そのものがない」、という幻想体がいます(恥ずかしがり屋の今日の顔)。張り合わせた顔に相応の感情で振る舞うものの、実は選ばれた顔に従って振る舞うだけで感情はその後について来るものでしかなく、順番がおかしくなっている。それに対して、いつでも微笑みを浮かべていつでも穏やかに交流するのがホンルですが、ホンルは感情そのものがない。「感情から表情や行動が発露するのが正しい繋がり方」だとして「"ガワ"が中身と転倒したり、中心や内側に在るべきものが無い」ことがのっぺらぼうだと言えないでしょうか。ホンルものっぺらぼう。……①
翻って、8区は他の地区と違って路地裏まで建物に覆われているし医療系の特異点のおかげで他の区より福祉が行き渡って見える。しかし再積日によって住処は簡単に剥奪されるし、正しく適切に丸を使えるだけの余裕(金銭的にも知識的にも)はないからどんどん異形化していく。再積日の心配をする必要がないのは本家と四大家だけ。
そのうえ、家主も人間性を剥奪されるし、虫のぬけた老人たちにまともな意思や欲求が戻ってくることもなく、他者を眺めるくらいしかやることがない。下層の方は何も得られないから空っぽで、上層も「人間性が残っていない」という意味で空っぽ。地区そのものもまともに人を住まわせない。(まともではないが上にいるなら幸せになれる会社や地区はある。それぞれのやってられなさはあるけど…)そういう意味で「見た目からはいいように見えたが、中身は他の区と比べてもむなしい」し、やっぱりのっぺらぼう。……②
①と②から「人であれば上から下までみんな中身はなにもない。会社や特異点として見ても、それを持ってる人間でさえろくな目に合わせない」といえて、総じて「のっぺらぼうの園」という意味で鴻園、と言っているのではと。
ですから広大という意味で名付けられているのも正しくて、それだけ立派なものに中身がないというのは(お話を読み終わった管理人向けではあるものの)やはり正しくて、二つで一揃いなんじゃないでしょうかね。