そうかもしれない。「現代のオタクっていうほど定義上のオタク[ディナミスワンが掲げるところのOTAKU]じゃなくない?」みたいな問いは立つと思います。
そのような論点を早期に掲げた人の一人
政界への接近試みる以前の東浩紀(『動物化するポストモダン』,2001)。
データベース消費
- これは現代から覗くと部分的にアタリ、部分的にハズレであったようですが。
核心部分では
「提示された世界全体の受容」
⇨「任意の萌え属性に分解された消費」
みたいなトレンド移行論を受けて、思想史としてのポストモダンと結び付けた[ここがユニークな主張]文章。
海の向こうで後にキム・ヨンハが唱えるところの萌え論に近いフレームが提示されている。
- ただしこれらは2001年当時のサブカルチャー・オタクカルチャーから導かれた論であるため、現代的に生存している範囲は限定的。
SNSでよく唱えられている話
- 世間が商業マーケットとして受け入れたのは「オタクコンテンツ」であり、
- 「オタク」が受け入れられたわけではない。
- 「オタク」ではない層がカジュアルにオタクと名乗るようになっただけで、
- 従来「オタク」だった層は、異なるレッテルの下に隔離されたままである。
- どこまでホンマの話なのか常に疑ってはいますが、こうした物語を唱える層は以前から見かける。
似たような話を度々並べているWiki評:
物語ってあんまり読まれてない。
広義の文学作品を物語体験の母艦とするオタクは(中略)現代日本において多数派であるとは考えていない。小説は売れてねえし、読まれてねえ。
(2024/09/旧コンテンツ後始末系ページ)
この時点で考えていた「多数派であるとは考えていない」より、実数はさらに落ちると思う。
(2025年の修正)
いずれにせよ、現在の私は「オタク」の内訳に対して「[なにかこう教条的な条件]である/あるべき!」とは思っていません。(物語に興味持つ人が増えてほしいとは思っています)
- 私がミリタリー興味ないけど特に気にせずオタク名乗っているように、別の人は文学興味ないけど特に気にせずオタク名乗っている。
- 「ディナミスワンが掲げたOTAKUとは何か?」って問いに限るなら、好奇心の下でどこまでもコンテンツを掘り下げていくような狭義のオタクを指すものと捉えてはいます。
現代から見てどうなのか
- 「興味ある人は興味あるし、無い人は無い」に終始すると思う。
- 「後期参入ユーザー(特にプリコネに留まっていた/コンテンツではなく流行を見て移住した層)って、ホンマにエデン条約編読んでいたのはどの程度だったのだろう?」みたいな疑問にも繋がりうる。
- ソシャゲシナリオに絞った頻出の反例…先行世代のFGO(2016〜)。
- でも、これもシナリオを読みたい層・キャラクター消費したい層がハイブリッドに存在していたコミュニティっぽく映る。
⇨シナリオ志向vsキャラ志向がどちらか一方へ傾ききったオタク史って、現実には存在しなかった/今後も存在しない気がする。
旧誤訳Wiki
後発かつ治安の悪い形態を選んだWikiでしたから、規模感的にはあんなもんで相応な気もする。
(SNS経由での拡散を意識していなかった)
Wiki立ち上げの背景
koan周りの情報を拡散するために即時的インパクトを優先した
(まったく気付かれずに埋没する<文面上煽りまくってでも反応を引き出す と損得勘定した)
- この判断のツケを二年間払い続けているともいう。(自業自得)
主任≠ユーザー仮説のロジック単純化
- ブルアカ作劇
⇨先生=ユーザーなので姿は描かず、年齢・性別も定めません。 - アスオラ作劇(仮定)
⇨主任≠ユーザーなので姿を描き、年齢・性別も定めます。- ここまで狭めた仮定に修正してもよいかもしれない。
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あえてかなり強い主張をしますと、私は「Dynamis Oneは、そもそも『オタク』という言葉の定義を更新したのではないか」と賭けてみたさがあります。
彼らが現在も「オタクの夢の実現」を掲げているのであれば、近年その総数を大幅に増えたと思われる、かつてとは異なる形で日常性へ頽落した新たな「オタク」の存在を無視しているとは考えづらいというのが一つ。
仮にDynamis Oneが従来どおり、対象への強い関心を持ち、自らの欲望や関心を主体的に引き受けている人々だけを「オタク」と考えているのであれば、そうした人々に何かを伝えるために、主任のような非常に具体的かつ斬新なプロフィールを設定する必然性が、私にはあまり感じられないのというのが一つ。
以前このWikiで挙げられていたように、ブルアカのボリューム層が平均的に主任に近い(成人付近の男性)プロフィールを持つ人々であることから、より真に迫ったアプローチをすべく敢えてここまで強力な具体性をもったキャラ付けをしたのではないかと思うのが一つ。
先生はかなり抽象的な存在だったため、キリスト的存在であるといった方向へ解釈が広がってしまいましたが、主任は逆に抽象性を捨てて具体化することで、プレイヤー自身の日常性を突きつける人物として設計されたのではないでしょうか。
かなり強い仮説ですので、流していただいて構いません。ただ、こうした読み方もあり得るのではないかと思っています。