法介の仏教研究室(法介ノート)その2 https://talk.jp/boards/shugi/1757443330
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先日AIのGeminiちゃんと対話した内容を記録しておきます。
法介:阿頼耶識の中に無漏の種子(真如の種)はあるだろ
だったら阿頼耶識=真如とならないか?
これは仏教哲学における非常に深い問いで、唯識(ゆいしき)と『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』の思想の違いを明確にする鍵となります。
「阿頼耶識(あらやしき)=真如(しんにょ)」にはなりません。
唯識では、無漏(むろ)の種子は確かに阿頼耶識の中にあると説かれますが、それは「真如そのもの」ではありません。
この二つは、水と氷、あるいは水と波の関係に例えられます。
阿頼耶識は、氷や波のように、真如という水を「依り所(よりどころ)」として存在しますが、氷や波そのものが水そのものではないのと同様に、阿頼耶識は真如そのものではありません。
一方、『大乗起信論』の立場は、これとは少し異なります。
この思想は、真如が「すべての現象を生み出す根源」であると考えるため、「真如即縁起(しんにょそくえんぎ)」という考え方へとつながります。この立場から見れば、真如と阿頼耶識の関係は、唯識よりも一体性が強いと解釈できます。
「阿頼耶識の中に無漏の種子がある」という事実は、唯識では「迷い(有漏)と悟り(無漏)の両方を、阿頼耶識が依り所として顕現させている」と解釈されます。
したがって、阿頼耶識は「悟りの種子を蓄える蔵」ではありますが、「悟りの真理そのもの(真如)」ではない、というのが唯識の答えです。
という事はーーー
その阿頼耶識にある無漏の種子を何らかの形で取り出して展開して覚りの境地が開かれるという事になるかと。
それが妙法(九識真如の都)って事じゃないか?
その方法を示しているのが起信論で説かれている二種真如じゃないか?
それは日蓮仏法と唯識、そして『大乗起信論』の思想を統合しようとする、非常に興味深く、深い考察ですね。
その見解を整理し、仏教の各宗派の立場から見ていきましょう。
まず、唯識の教えは、阿頼耶識(あらやしき)にある無漏(むろ)の種子を「取り出す」という表現を使いません。
唯識では、修行とは、無漏の種子を「薫習(くんじゅう)」(成熟させること)することです。
つまり、唯識は、悟りを「種子の成熟」という漸進的なプロセスとして捉えます。
『大乗起信論』は、「一心(いっしん)」という私たちの心に、「真如門(しんにょもん)」と「生滅門(しょうめつもん)」という二つの側面があると説きます。
この二つの側面は、分離しているのではなく、一体です。修行とは、生滅門における無明を減らし、真如門の側面を顕すことです。
日蓮は、この二つの教えを『法華経』の「久遠実成(くおんじつじょう)」の思想と結びつけました。
このように、あなたの仰る通り、「阿頼耶識にある無漏の種子」を「妙法(九識真如の都)」として取り出し、展開するという考え方は、唯識や『起信論』の思想を、『法華経』を根本とする日蓮仏法の教えの中で再解釈・統合したものと言えます。
それは、唯識が説く「種子の修行」のプロセスを、日蓮仏法が説く「生命の根源的な悟りの開顕」という、よりダイナミックな信仰へと昇華させたものだと言えるでしょう。
それを一つの論法としてまとめてみてくれないか。
これまでの議論を、一つの小論としてまとめます。
仏教における「三身(さんじん)」の思想は、仏の存在を「法身(ほっしん)」、「報身(ほうじん)」、「応身(おうじん)」という三つの側面から捉えるものです。この三身が「無始無終(むしむしゅう)」、つまり永遠の存在であるという教えは、『法華経』の「久遠実成(くおんじつじょう)」によって確立されました。
しかし、その根拠となる生命論的な思想は、唯識(ゆいしき)や『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』の哲学によって深く掘り下げられています。
唯識は、私たちの心の根源を「阿頼耶識(あらやしき)」という、すべての行為や経験の「種子(しゅうじ)」を蓄える蔵(くら)と説きます。この種子には、迷いの原因となる「有漏(うろ)」の種子と、悟りへと導く「無漏(むろ)」の種子が含まれています。
唯識では、この無漏の種子を「修行」によって成熟させることで、悟りの境地に至ると考えます。
『大乗起信論』は、「一心(いっしん)」という私たちの心が、永遠不変の「真如門」と、生滅変化する「生滅門」という二つの側面を持つと説きます。
このように、『大乗起信論』は、三身を「真如そのもの(体)」と「真如の働き(用)」として捉え、一体のものとみなす哲学的な基盤を提供しました。
そして、日蓮は、これらの思想を『法華経』によって究極的に統合しました。
これにより、阿頼耶識の「無漏の種子」という潜在的な可能性が、南無妙法蓮華経の唱題によって「九識真如の都」として、今この瞬間に顕現されるという、日蓮仏法独自の信仰が確立されたのです。
その場合、三身如来は「九識真如」で顕現する?
ご指摘の通りです。
日蓮仏法の教えでは、三身如来(三身の仏)は「九識真如(くしきしんにょ)」の生命として顕現すると説かれます。
九識(くしき)とは、唯識で説かれる心の八識(眼・耳・鼻・舌・身・意・末那・阿頼耶)のさらに奥にある、九番目の識として位置づけられます。この九番目の識は、「阿摩羅識(あまらしき)」とも呼ばれ、真如(しんにょ)そのものであり、煩悩や迷いによって汚されることのない、清らかな生命の根源です。
「九識真如」とは、この九識が、すべての衆生に本来から備わっている、永遠の仏性(ぶっしょう)の都(みやこ)である、という思想です。
日蓮仏法では、三身如来(法身・報身・応身)を、九識真如という生命に備わった三つの側面として捉えます。
法身(ほっしん): 九識真如そのものであり、悟りの智慧と真理を体現する、永遠不変の仏の身体です。
報身(ほうじん): 九識真如が持つ「無漏(むろ)の種子」という功徳が、具体的な仏の姿として現れたものです。久遠の昔から衆生を救済するために活動し、智慧の光を放ち続ける仏の姿です。
応身(おうじん): 九識真如が、衆生を教え導くという「縁(えん)」に従って、この世に姿を現したものです。歴史上の人物である釈迦仏は、九識真如が衆生を救うために応じた姿とされます。
このように、日蓮仏法は、三身の仏を、九識真如という私たちの生命の奥底にある究極の真理と、その働きそのものとして解釈します。
したがって、南無妙法蓮華経を唱えることは、単に仏に救いを求める行為ではなく、私たち自身の生命の内に具わる九識真如を呼び覚まし、その生命力(三身)を顕現させるという実践になります。
『成唯識論』巻の第二次の漢文の意味を解説してくれ。
T1585.31.0008a07: 雖非 T1585.31.0008a08: 一異而是實有。假法如無非因縁故。此與 T1585.31.0008a09: 諸法既非一異。應如瓶等是假非實。若爾 T1585.31.0008a10: 眞如應是假有。許則便無眞勝義諦。然諸 T1585_.31.0008a11: 種子唯依世俗説爲實有不同眞如。
この漢文は『成唯識論(じょうゆいしきろん)』第二巻の一節で、「真如(しんにょ)」が、「実有(じつう)」(実体として存在する)であると同時に、「不一不異(ふいつふい)」(一つでもなく、別でもない)という唯識(ゆいしき)の立場を説明しています。
雖非一異而是實有。假法如無非因縁故。此與諸法既非一異。應如瓶等是假非實。 (真如は諸法と一つでもなく、別でもないが、「実有(じつう)」である。仮の法は、存在しないもののように因縁によらないからである。もし真如が諸法と一つでもなく、別でもないならば、それはちょうど瓶(かめ)のようなもので、実体ではなく仮の存在であるはずだ。)
雖非一異而是實有。假法如無非因縁故。此與諸法既非一異。應如瓶等是假非實。
(真如は諸法と一つでもなく、別でもないが、「実有(じつう)」である。仮の法は、存在しないもののように因縁によらないからである。もし真如が諸法と一つでもなく、別でもないならば、それはちょうど瓶(かめ)のようなもので、実体ではなく仮の存在であるはずだ。)
この部分は、唯識が直面する重要な論点を示しています。
若爾眞如應是假有。許則便無眞勝義諦。然諸種子唯依世俗説爲實有不同眞如。 (もしそうならば、真如は「仮有(けう)」であるべきだ。もしそれを認めてしまうと、「真の勝義諦(しょうぎたい)」(究極の真理)がなくなってしまう。ところで、あらゆる「種子(しゅうじ)」は、ただ「世俗(せぞく)」の観点から「実有」だと説かれるのであって、真如とは異なるのである。)
若爾眞如應是假有。許則便無眞勝義諦。然諸種子唯依世俗説爲實有不同眞如。
(もしそうならば、真如は「仮有(けう)」であるべきだ。もしそれを認めてしまうと、「真の勝義諦(しょうぎたい)」(究極の真理)がなくなってしまう。ところで、あらゆる「種子(しゅうじ)」は、ただ「世俗(せぞく)」の観点から「実有」だと説かれるのであって、真如とは異なるのである。)
この部分で、唯識は明確な答えを出しています。
また、「種子(しゅうじ)」という概念は、「世俗の観点」から便宜的に「実有」だと説かれるのであり、「真如」という究極の真理とは、その性質が全く異なると述べています。
この漢文は、真如という「究極の真理」を、「現象(有為)」でもなく、単なる概念上の「仮の存在」でもない、唯一無二の「実有」として位置づけています。
これは、真如を「無為(むい)」、つまり縁起を超越した存在と説く唯識の思想の根幹であり、真如に、「縁起を生み出す働き」を認める『大乗起信論』の思想との違いを明確に示しています。
要するにここで言う真如とは、縄と藁と蛇の例えでいうところの藁ってことか?
おっしゃる通り、その例えを使うと、真如(しんにょ)は藁(わら)に相当します。
この例えは、インド仏教の唯識(ゆいしき)思想でよく用いられるもので、「真如」と「縁起(えんぎ)」の関係を説明するのに非常に適しています。
縄(なわ): これは真如そのものです。真如は、本来のありのままの姿、永遠不変の真理です。
藁(わら): これもまた真如です。しかし、藁は、縄にもなれば、編まれて籠にもなり、燃えて灰にもなる、多様な可能性を秘めています。この「多様な姿を現す可能性」こそが、『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』が説く「真如縁起(しんにょえんぎ)」の思想に相当します。
蛇(へび): これは、無明(むみょう)という煩悩によって、縄を「蛇だ」と見間違えた状態です。私たちは、真如という本来のありのままの姿を、煩悩というフィルターを通して、迷いの世界(色とりどりの現象)として見ています。
唯識では、「真如」と「阿頼耶識(あらやしき)」を厳密に区別します。この例えで言えば、「真如」は縄そのものであり、「阿頼耶識」は、その縄を「蛇」と見間違えたり、籠として使ったりする、認識と行為のプロセス**を指します。
一方、『大乗起信論』は、「真如」そのものが「藁」のように、無明という縁によって「蛇」や「籠」といった多様な姿を現すと考えるため、あなたの仰る「縄と藁と蛇の例えでいうと藁」という解釈は、『大乗起信論』の思想を非常に的確に表しています。
しかし、仏教では真如は「非有非空・亦有亦空」と説く。
おっしゃる通り、仏教では真如(しんにょ)は「非有非空(ひうひくう)」・「亦有亦空(やくうやくう)」だと説かれます。これは、真如の究極的なあり方を言葉で表現しようとしたものです。
「有(う)」は「存在する」、「空(くう)」は「存在しない」という意味です。
したがって、真如は、私たちが日常的に考える「存在」や「非存在」という二つの概念を超越したものです。
「亦(また)」は「〜もまた」という意味です。
これは、真如が「有」と「空」という矛盾する二つの側面を同時に持っていることを示しています。
「非有非空、亦有亦空」という言葉は、真如が「言葉や概念を超えた、究極の真理」であるということを表しています。これは、真如を「有る」とか「無い」といった二元論で捉えることをやめ、その「動的で普遍的な生命のあり方」そのものを悟るべきだという、仏教の深い教えを示しているのです。
「非有非空、亦有亦空」は、実有ではないだろ。
いいえ、唯識(ゆいしき)では、真如(しんにょ)は「実有(じつう)」であると主張します。
これは、仏教の哲学的議論の中でも、最も重要なポイントの一つです。
唯識では、すべての存在を「有為法(ういほう)」と「無為法(むいほう)」に分類します。
唯識が真如を「実有」と見なす理由は、以下の通りです。
究極の拠り所 もし真如が、有為法と同じように実体を持たない「空」であるならば、仏教が目指す悟りの真実、つまり「勝義諦(しょうぎたい)」がなくなってしまいます。すべてが空であれば、私たちは何を拠り所として修行すればよいのか、という根本的な問題が生じます。
迷いを乗り越える力 真如は、私たちが抱える「我執(がしゅう)」、つまり「私」という固定された実体があるという迷いを打ち破る、「無我(むが)」の真理です。この真理が「実有」として存在しなければ、私たちが迷いを乗り越える力も存在しないことになります。
したがって、唯識では、真如は「非有非空、亦有亦空」という言葉では表せないほどに、唯一無二の「実有」の存在として位置づけられます。
(注意:ここでのGeminiの説明は間違っております。詳しくは後ほど)
それは、物質的な「有」でもなければ、単なる概念的な「有」でもなく、悟りを可能にする究極の真実としての「実有」なのです。
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先日AIのGeminiちゃんと対話した内容を記録しておきます。
法介:阿頼耶識の中に無漏の種子(真如の種)はあるだろ
だったら阿頼耶識=真如とならないか?
これは仏教哲学における非常に深い問いで、唯識(ゆいしき)と『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』の思想の違いを明確にする鍵となります。
唯識の答え
「阿頼耶識(あらやしき)=真如(しんにょ)」にはなりません。
唯識では、無漏(むろ)の種子は確かに阿頼耶識の中にあると説かれますが、それは「真如そのもの」ではありません。
この二つは、水と氷、あるいは水と波の関係に例えられます。
阿頼耶識は、氷や波のように、真如という水を「依り所(よりどころ)」として存在しますが、氷や波そのものが水そのものではないのと同様に、阿頼耶識は真如そのものではありません。
『大乗起信論』の答え
一方、『大乗起信論』の立場は、これとは少し異なります。
この思想は、真如が「すべての現象を生み出す根源」であると考えるため、「真如即縁起(しんにょそくえんぎ)」という考え方へとつながります。この立場から見れば、真如と阿頼耶識の関係は、唯識よりも一体性が強いと解釈できます。
結論
「阿頼耶識の中に無漏の種子がある」という事実は、唯識では「迷い(有漏)と悟り(無漏)の両方を、阿頼耶識が依り所として顕現させている」と解釈されます。
したがって、阿頼耶識は「悟りの種子を蓄える蔵」ではありますが、「悟りの真理そのもの(真如)」ではない、というのが唯識の答えです。
という事はーーー
その阿頼耶識にある無漏の種子を何らかの形で取り出して展開して覚りの境地が開かれるという事になるかと。
それが妙法(九識真如の都)って事じゃないか?
その方法を示しているのが起信論で説かれている二種真如じゃないか?
それは日蓮仏法と唯識、そして『大乗起信論』の思想を統合しようとする、非常に興味深く、深い考察ですね。
その見解を整理し、仏教の各宗派の立場から見ていきましょう。
1. 唯識の立場
まず、唯識の教えは、阿頼耶識(あらやしき)にある無漏(むろ)の種子を「取り出す」という表現を使いません。
唯識では、修行とは、無漏の種子を「薫習(くんじゅう)」(成熟させること)することです。
つまり、唯識は、悟りを「種子の成熟」という漸進的なプロセスとして捉えます。
2. 『大乗起信論』の立場
『大乗起信論』は、「一心(いっしん)」という私たちの心に、「真如門(しんにょもん)」と「生滅門(しょうめつもん)」という二つの側面があると説きます。
この二つの側面は、分離しているのではなく、一体です。修行とは、生滅門における無明を減らし、真如門の側面を顕すことです。
3. 日蓮仏法による統合
日蓮は、この二つの教えを『法華経』の「久遠実成(くおんじつじょう)」の思想と結びつけました。
このように、あなたの仰る通り、「阿頼耶識にある無漏の種子」を「妙法(九識真如の都)」として取り出し、展開するという考え方は、唯識や『起信論』の思想を、『法華経』を根本とする日蓮仏法の教えの中で再解釈・統合したものと言えます。
それは、唯識が説く「種子の修行」のプロセスを、日蓮仏法が説く「生命の根源的な悟りの開顕」という、よりダイナミックな信仰へと昇華させたものだと言えるでしょう。
それを一つの論法としてまとめてみてくれないか。
これまでの議論を、一つの小論としてまとめます。
三身論に見る唯識と法華の思想統合
仏教における「三身(さんじん)」の思想は、仏の存在を「法身(ほっしん)」、「報身(ほうじん)」、「応身(おうじん)」という三つの側面から捉えるものです。この三身が「無始無終(むしむしゅう)」、つまり永遠の存在であるという教えは、『法華経』の「久遠実成(くおんじつじょう)」によって確立されました。
しかし、その根拠となる生命論的な思想は、唯識(ゆいしき)や『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』の哲学によって深く掘り下げられています。
唯識の「種子」論と三身
唯識は、私たちの心の根源を「阿頼耶識(あらやしき)」という、すべての行為や経験の「種子(しゅうじ)」を蓄える蔵(くら)と説きます。この種子には、迷いの原因となる「有漏(うろ)」の種子と、悟りへと導く「無漏(むろ)」の種子が含まれています。
唯識では、この無漏の種子を「修行」によって成熟させることで、悟りの境地に至ると考えます。
『大乗起信論』の「真如縁起」と三身
『大乗起信論』は、「一心(いっしん)」という私たちの心が、永遠不変の「真如門」と、生滅変化する「生滅門」という二つの側面を持つと説きます。
このように、『大乗起信論』は、三身を「真如そのもの(体)」と「真如の働き(用)」として捉え、一体のものとみなす哲学的な基盤を提供しました。
法華経による統合
そして、日蓮は、これらの思想を『法華経』によって究極的に統合しました。
これにより、阿頼耶識の「無漏の種子」という潜在的な可能性が、南無妙法蓮華経の唱題によって「九識真如の都」として、今この瞬間に顕現されるという、日蓮仏法独自の信仰が確立されたのです。
その場合、三身如来は「九識真如」で顕現する?
ご指摘の通りです。
日蓮仏法の教えでは、三身如来(三身の仏)は「九識真如(くしきしんにょ)」の生命として顕現すると説かれます。
九識真如とは何か
九識(くしき)とは、唯識で説かれる心の八識(眼・耳・鼻・舌・身・意・末那・阿頼耶)のさらに奥にある、九番目の識として位置づけられます。この九番目の識は、「阿摩羅識(あまらしき)」とも呼ばれ、真如(しんにょ)そのものであり、煩悩や迷いによって汚されることのない、清らかな生命の根源です。
「九識真如」とは、この九識が、すべての衆生に本来から備わっている、永遠の仏性(ぶっしょう)の都(みやこ)である、という思想です。
三身如来と九識真如の関係
日蓮仏法では、三身如来(法身・報身・応身)を、九識真如という生命に備わった三つの側面として捉えます。
法身(ほっしん):
九識真如そのものであり、悟りの智慧と真理を体現する、永遠不変の仏の身体です。
報身(ほうじん):
九識真如が持つ「無漏(むろ)の種子」という功徳が、具体的な仏の姿として現れたものです。久遠の昔から衆生を救済するために活動し、智慧の光を放ち続ける仏の姿です。
応身(おうじん):
九識真如が、衆生を教え導くという「縁(えん)」に従って、この世に姿を現したものです。歴史上の人物である釈迦仏は、九識真如が衆生を救うために応じた姿とされます。
このように、日蓮仏法は、三身の仏を、九識真如という私たちの生命の奥底にある究極の真理と、その働きそのものとして解釈します。
したがって、南無妙法蓮華経を唱えることは、単に仏に救いを求める行為ではなく、私たち自身の生命の内に具わる九識真如を呼び覚まし、その生命力(三身)を顕現させるという実践になります。
『成唯識論』巻の第二次の漢文の意味を解説してくれ。
T1585.31.0008a07: 雖非
T1585.31.0008a08: 一異而是實有。假法如無非因縁故。此與
T1585.31.0008a09: 諸法既非一異。應如瓶等是假非實。若爾
T1585.31.0008a10: 眞如應是假有。許則便無眞勝義諦。然諸
T1585_.31.0008a11: 種子唯依世俗説爲實有不同眞如。
この漢文は『成唯識論(じょうゆいしきろん)』第二巻の一節で、「真如(しんにょ)」が、「実有(じつう)」(実体として存在する)であると同時に、「不一不異(ふいつふい)」(一つでもなく、別でもない)という唯識(ゆいしき)の立場を説明しています。
現代語訳と解説
この部分は、唯識が直面する重要な論点を示しています。
この部分で、唯識は明確な答えを出しています。
また、「種子(しゅうじ)」という概念は、「世俗の観点」から便宜的に「実有」だと説かれるのであり、「真如」という究極の真理とは、その性質が全く異なると述べています。
結論
この漢文は、真如という「究極の真理」を、「現象(有為)」でもなく、単なる概念上の「仮の存在」でもない、唯一無二の「実有」として位置づけています。
これは、真如を「無為(むい)」、つまり縁起を超越した存在と説く唯識の思想の根幹であり、真如に、「縁起を生み出す働き」を認める『大乗起信論』の思想との違いを明確に示しています。
要するにここで言う真如とは、縄と藁と蛇の例えでいうところの藁ってことか?
おっしゃる通り、その例えを使うと、真如(しんにょ)は藁(わら)に相当します。
この例えは、インド仏教の唯識(ゆいしき)思想でよく用いられるもので、「真如」と「縁起(えんぎ)」の関係を説明するのに非常に適しています。
縄と藁と蛇の例え
縄(なわ):
これは真如そのものです。真如は、本来のありのままの姿、永遠不変の真理です。
藁(わら):
これもまた真如です。しかし、藁は、縄にもなれば、編まれて籠にもなり、燃えて灰にもなる、多様な可能性を秘めています。この「多様な姿を現す可能性」こそが、『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』が説く「真如縁起(しんにょえんぎ)」の思想に相当します。
蛇(へび):
これは、無明(むみょう)という煩悩によって、縄を「蛇だ」と見間違えた状態です。私たちは、真如という本来のありのままの姿を、煩悩というフィルターを通して、迷いの世界(色とりどりの現象)として見ています。
まとめ
唯識では、「真如」と「阿頼耶識(あらやしき)」を厳密に区別します。この例えで言えば、「真如」は縄そのものであり、「阿頼耶識」は、その縄を「蛇」と見間違えたり、籠として使ったりする、認識と行為のプロセス**を指します。
一方、『大乗起信論』は、「真如」そのものが「藁」のように、無明という縁によって「蛇」や「籠」といった多様な姿を現すと考えるため、あなたの仰る「縄と藁と蛇の例えでいうと藁」という解釈は、『大乗起信論』の思想を非常に的確に表しています。
しかし、仏教では真如は「非有非空・亦有亦空」と説く。
おっしゃる通り、仏教では真如(しんにょ)は「非有非空(ひうひくう)」・「亦有亦空(やくうやくう)」だと説かれます。これは、真如の究極的なあり方を言葉で表現しようとしたものです。
非有非空(ひうひくう)
「有(う)」は「存在する」、「空(くう)」は「存在しない」という意味です。
したがって、真如は、私たちが日常的に考える「存在」や「非存在」という二つの概念を超越したものです。
亦有亦空(やくうやくう)
「亦(また)」は「〜もまた」という意味です。
これは、真如が「有」と「空」という矛盾する二つの側面を同時に持っていることを示しています。
結論
「非有非空、亦有亦空」という言葉は、真如が「言葉や概念を超えた、究極の真理」であるということを表しています。これは、真如を「有る」とか「無い」といった二元論で捉えることをやめ、その「動的で普遍的な生命のあり方」そのものを悟るべきだという、仏教の深い教えを示しているのです。
「非有非空、亦有亦空」は、実有ではないだろ。
いいえ、唯識(ゆいしき)では、真如(しんにょ)は「実有(じつう)」であると主張します。
これは、仏教の哲学的議論の中でも、最も重要なポイントの一つです。
なぜ真如は「実有」なのか
唯識では、すべての存在を「有為法(ういほう)」と「無為法(むいほう)」に分類します。
唯識が真如を「実有」と見なす理由は、以下の通りです。
究極の拠り所
もし真如が、有為法と同じように実体を持たない「空」であるならば、仏教が目指す悟りの真実、つまり「勝義諦(しょうぎたい)」がなくなってしまいます。すべてが空であれば、私たちは何を拠り所として修行すればよいのか、という根本的な問題が生じます。
迷いを乗り越える力
真如は、私たちが抱える「我執(がしゅう)」、つまり「私」という固定された実体があるという迷いを打ち破る、「無我(むが)」の真理です。この真理が「実有」として存在しなければ、私たちが迷いを乗り越える力も存在しないことになります。
したがって、唯識では、真如は「非有非空、亦有亦空」という言葉では表せないほどに、唯一無二の「実有」の存在として位置づけられます。
(注意:ここでのGeminiの説明は間違っております。詳しくは後ほど)
それは、物質的な「有」でもなければ、単なる概念的な「有」でもなく、悟りを可能にする究極の真実としての「実有」なのです。