わたしはこのマジカル云々というのはここでずっと追ってはいるが、隣ではル・グインの古典的な『闇の左手』なんかを読んでいてさえ今日また同じような連想をしていた。ただし、ル・グインを読むのに適当かはべつ。わたしの中でそれに残響しているものがあるの話。
富野話題では、この6回の対談記事中、第5回「未来の開き方」という、ここではVガンダムのときに「時の見かた」と書いたのを思い出した。
それにしても、かつて80年頃アニメの中の少年少女が『ああ、刻が見える…!』と叫んだその頃に、テレビの前や映画館で少年少女に「刻が見えたか」というと、見えんし、わからんかったと思う。『いつか見えるだろうという希望を投げかけた』のような評論なら書かれたかもしれないが、少年少女の多くはべつにそんな希望なども抱かず、ただぼんやり眺めていれば感動できたと思う。
それを、刻を見に行こう、あるいは、見るならどんな仕方で見えるか、と考え進めていくのはさらに10年、20年と経ったからだ。『今なら』という。その経過も読み返すことはでき、「ニュータイプ論は後に否定された」とかではない。
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