富野由悠季監督作品・著書の周回ログ。現在は主に小説作品の再読整理中。
蔵書マップ
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- 1987-92 ガイア・ギア 1 / 2■ / 3 / 4■ / 5
- 1987-92 破嵐万丈 1 / 2■ / 3■ / 4
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- 1988 機動戦士ガンダム 逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレン
- 1989-90 機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ / 上 / 中 / 下
- 1991 機動戦士ガンダムF91 クロスボーン・バンガード 上■ / 下■
- 1993-94 機動戦士Vガンダム 1 / 2■ / 3 / 4 / 5■
- 1995-96 アベニールをさがして 1 / 2 / 3
- 1995-97 ガーゼィの翼 1■ / 2 / 3 / 4■ / 5■
- 1995-96 王の心 1■ / 2■ / 3■
- 1997 密会〜アムロとララァ
- 1998-99 ブレンパワード(共著) 1 / 2 / 3■
- 1983-86 リーンの翼 1■ / 2■ / 3 / 4 / 5 / 6 ←今ここ
- 2010 リーンの翼(完全版) 1 / 2 / 3 / 4
前にも触れたように思うが、やはりこれは不可解というか……不可解でもなくて、「天蓋」には「キャノピー」とルビしたつもりが、「コクピット」と書いてしまったんだろう。他愛ない書きあやまりにしても、さすが普段、戦闘機とかモビルスーツのことばかり考えている著者ならではと思えるところ。
読者としては妙に感心してしまい、面白いんだけど、作中ではシリアスなところなのできっと修正はされたほうがいい。
これは「大義」ではなく「大息」。書き間違いとは思われない。誤植だが、メモしておかないとわたしは読み返すたびにつっかかると思う。
第一の物語 完。短いしね。初読ではびっくりしたと思うが、読み返し、この第一話はすばらしい。
富野作品で「納骨堂」なんてゴシックな舞台が出てくるとは思わなくて、おおっと思ったのを思い出す。暗がりの剣劇の映像の間に、蜘蛛の巣にかかった蛾、なんて絵に描いたようなというか……リアルさでない。富野文でこうクラシックに見える伝奇ファンタジーを書いてもいけるというのが感動した。血みどろのゴアとかなら、バイストン・ウェルでも見慣れてる。
やはりこのアカイアーの話がわたしはまず好きだな。これから何が始まるのかと思う、なんの話をする気なのか全然わからない。続く第二話がまた、グロテスクなというよりは、みょうに定型的なはなしで、なんかの説話文学のような古典にモデルを取ってるようには思うけど、インドなのかペルシアなのか中国なのか……と思うのはそのあたり。二巻からは一挙に違うものになっていくはず。
これも去年か、クラーク・アシュトン・スミスの三巻本を通し、これも再読ではあったがその際、毎回のように納骨堂、腐敗、屍臭。「またか、飽きないのか」のように思えて、文章の美しさよりうんざりする方がつのった。
スミスのそれは……ラミアか。ジーニーとかグール、ピシャーチャとも言ったが、ラミアというのもいた。
またBirthgraveの話をすると、その三部作の内容に触れなくても、作中ずっと屍臭が染みていて、まともに息ができないほど空気が悪い場面が多い。同じ作者でもジュブナイル作品になると、「アヴィリスの妖杯」が清潔に感じるという今度は面白い感想になった。ジュブナイルって健全なんだ、とあらためて新鮮さ。
ラミアというのは、文字通り古典古代でいうと、あまり恐ろしい妖女ではなくてむしろ子供を怖がらせるお化け。わたしはルキアノスの小噺集の中に出てくるような言葉としてその印象だが、上のは、現代の耽美的なラミア。青年と人外の愛に耽るが、そのまやかしの魅力を逃れようもなくじきに彼は食い殺される。
わたしはこのマジカル云々というのはここでずっと追ってはいるが、隣ではル・グインの古典的な『闇の左手』なんかを読んでいてさえ今日また同じような連想をしていた。ただし、ル・グインを読むのに適当かはべつ。わたしの中でそれに残響しているものがあるの話。
富野話題では、この6回の対談記事中、第5回「未来の開き方」という、ここではVガンダムのときに「時の見かた」と書いたのを思い出した。
それにしても、かつて80年頃アニメの中の少年少女が『ああ、刻が見える…!』と叫んだその頃に、テレビの前や映画館で少年少女に「刻が見えたか」というと、見えんし、わからんかったと思う。『いつか見えるだろうという希望を投げかけた』のような評論なら書かれたかもしれないが、少年少女の多くはべつにそんな希望なども抱かず、ただぼんやり眺めていれば感動できたと思う。
それを、刻を見に行こう、あるいは、見るならどんな仕方で見えるか、と考え進めていくのはさらに10年、20年と経ったからだ。『今なら』という。その経過も読み返すことはでき、「ニュータイプ論は後に否定された」とかではない。
この小説通読では富野作品を読みながら何かしらの音楽をこれまで探しているのだが、『王の心』の架空のサウンドトラック、というのも今まであまり、考えたり想像したことがない。
Vガンダム後だから千住明か、というのはむしろ『アベニールをさがして』でもよかった。『ガーゼィの翼』にもあれこれ空想はしたけど、『王の心』については、作品内容がブレンパワードや∀ガンダムにすでに直接接近している部分があって、菅野よう子音楽をそろそろ聴いていきたいかな、というのがわたしはある。
わたしは菅野よう子さん作品は「てつ100%」の頃の旧いのからほぼ網羅している。時期的には、1995-96年頃というとマクロスプラスのあとエスカフローネという頃なのだけど、わたしはまず管弦楽を聴きたい。「エスカフローネ」を聴いてエスカ以外に聴こえるリスナーがいるわけがない。……
『王の心』がブレンパワードに近いというのは、シーマ・シーマから一連の「浮上する世界」という、だいたい背景舞台世界のことで、オルファンが海底から徐々に、徐々に浮上して海上に全貌を現してくる上昇イメージはよく踏襲していると思う。でも、「愛の輪郭」を聴くとやはり歌詞がブレンすぎる。オフヴォーカルでも良い曲だけど……。
ブレンパワードのサントラ全般はやたら映画っぽいというか、ノヴィス・ノアは海軍艦じゃないがバグパイプでは今ないな。("Departure"のこと)
歌詞をいえば、∀での「月の繭」の歌詞に直接繋がるようなワードが『王の心』このあとの巻に出てくる。それを言っている。それだけでも『王の心』が今後読み返されていいくらい大事なところ。ただ∀のサントラ全般も∀の音楽にしか今は聴こえないものだろう。
菅野よう子音楽については、絶大な人気なので評論は数多あると思う。わたしはその関心ではない。今わたしの関心では、根はポップスの作家で自己主張が強く、菅野楽曲になじむと、いずれ何を聴いても「ニャッ」というあの、どんな時にも例のユーモア、何ともいえず可愛らしさが聴こえてくる。……
映像の場面と音楽が一見ちぐはぐでも強烈な印象でアピールするくらいで、「本編をMVにするアニメ」の一ジャンルを築いた偉業はあるが、サウンドトラックでは、作品の求める一定の劇的動機を提示するみたいな劇伴音楽のドラマツルギー論からは常に収まらない。こういう話は今はトピック違いなのであまりすまい。わたしは菅野も富野もファンだ。
浮上する音楽
サウンドトラックでない菅野よう子オリジナルアルバム「Song to fly」かな。飛ぶための音楽と称しているから浮上力、フロート・エナジィだ。もともとゲーム音楽のためらしいが、これはあり。
上で触れたのは野菜畑の話なので、「アルジュナ」もかな。アルジュナって、映像は綺麗なんだけど話の内容がクサすぎる、流石インド人監督と揶揄られるアニメだったけど、主役のバカップルがエイサップとリュクスみたいと思えばわりと逆に富野的だったかもしれない。今夜もう遅い時間になったので、Song to flyを聴こう。ABC Mouse Paradeは久しぶりに聴く。
『王の心』第二の物語 完。第二話にしていきなりハードルの高いエピソードだとは思うが、ガンダムよりは想定読者の年齢か文芸経験は求めるということだ。趣味についてはむしろ微笑ましくもある。
わたしは、今この説話チックなシチュエーションに連想をかき立てられることはもう前から書いた。実際に読み返すとそんなに古典ほど古めかしくもないけど、おかげで『屍鬼二十五話』以下からの読み返しを始めるきっかけにはできた。あれやこれ併読のモチベーションになる。
この第二話の中の、騎士の領地経営のあれこれ話題はこれ単独で独自の興味にもなる。『オーラバトラー戦記』にもジョクの領地経営とそこにアリサを連れてくる話があり、『戦記』中ではそれだけで面白い小説にはなりきらないかもしれないが、その話もう少し詳しく聞いてみたいような気はした……のを思い出す。田舎の館のつくりは古代よりはだいぶ新しい時代のよう。
「老覇王」のキャラクターについてはこれまで触れてきたが、ゴゾ・ドウやズムドゥ・フングンの面影を引いているのはわたしの印象ではこの『王の心』では主人公グラン王その人で、ここで、「クワウンゾゥ」という思いにはあまりならない。
フングン王が恐獣使いで国興しをしたようにクワウンゾゥは機械信奉者とはいえるかもしれないが……。ゲトラ・ゲイはむしろクワウンゾゥ寄りの覇王かもしれなかった。ゲトラ・ゲイの実像は、じつはよくわかっていないことも面白い。
上の話ならドレイクと較べたほうが妥当じゃないのかな。わたしは意外にドレイクを思い出さない傾向があるらしい。
たまたま、騎士の領地の話で、ドレイクの場合ガロウ・ランとの戦争では騎士の戦功に報いる封土を得ることがないので、それが騎士の時代の終わりと次の覇権主義の台頭を推し進めたという論旨で書かれたが、クワウンゾゥの機械信奉はこの世界で「新時代の思想」のようには言われていないだろう。
それはむしろカロッダのほうで、フローランドという新秩序を宣布してカロッダ全土をまとめたというほうがドレイクの思想にも近い、はず。クワウンゾゥの動機とする機械力によるコングリヨンのフローランド化は倒錯、グラン王やグラン王の息子から見ればむしろ時代遅れの妄想、狂気と見えた。これらは作中に書いてあるが、読み返しでは幾らか意識的に追い直してもいい。
争闘やまないカロッダを鎮定するために掲げたフローランド思想は天下布武、ではないし八紘一宇、でもない。四字熟語でいえば……わたしはいま、「天壌無窮」のような言葉を連想したが、それは先日の菅野よう子のイメージが若干あった。
政治思想(政治目的)としてのフローランド思想は壮大だ。壮大で、言っててちょっと荒唐無稽だと、自分で言っているグラン王も思えてしまうほど。
グラン王が掲げたフローランド思想は宗教的な面はあるけど、フロー教という宗教国家を作ろうとしたわけではない。フローランドが現実に実現している現在に至ってもフロー教徒の地位はやはり何故か、あんまり高くない。
フロー教のアジャリの容貌をみるに、フロー教徒の使命はまず第一に古伝説(創世記)の伝承。自然哲学と、修行者の能力開発に専念している。知的選良(エリート)のみの教義で、凡愚のともがら=民衆の生活態度には全く何も指導しないし、権力に容喙しない。ネオ・フリーメーソンやヘルメス財団に似ているといえば似ている。
はっきりとキュンとなる胸
『ライラを乗せた二頭だての馬車は、恋人との距離が離れていく切なさそのままに、オッカム家の領地からベーブ家の領地にはいっていった。』……第三話は、前二話とも別の意味で、始まって早々から文体がおかしい。
富野作品でこういうのって珍しいかというと、いや、そういうわけでもないとは思うのだが。半分、気恥ずかしさで書いてはいない? マシュマーセロみたいなか……。
破嵐万丈でもなかなか吹っ切れてないような半端な印象だったが。戦争でコロニー落としするのはリアルでも、愛で空が落ちてはこない。井荻麟の詞はどうだったろうか。井荻麟の恋愛詩。
ラハブはともかく、プリアプスとかいう夫人の名前には非常に違和感があるけど、この世界の人名はとくに既知の何かとは関係ない、のは当たり前として。
逆に、ライラがいかにもありふれた中東の美人の名前すぎるくらいか。『ライラとマジュヌーン』など、手元になければ求めておこうかな。ニザーミー去年頃に開いて詰んだきりでないか――それは前回、クラシック音楽のグルジア作曲家かの話題の流れだった。
(プリアポスは、古代ギリシアの巨大な男根を下げた牧神。卑俗な笑話によく出てくる)
なるのか!
空が落ちる理由
『コロニー落としはリアルか?』というのも繰り返し訊ねて面白い。この話はわたしは時々思い出す。『人類が増えすぎた人口を宇宙に移民させ半世紀たって、宇宙生活者が世代を重ね、ついに地球と宇宙で戦争が起こるまでになった。その究極の大作戦でこうなった結果がこのよう』は、リアルだ。
その恐怖体験を、数年後に『空が落ちてくるのよ!』と語られるのを聴くと一気に古代ケルト人みたいなファンタジーに逆戻りしたかのように感じる。もちろん、戦争トラウマというストーリーもリアリズムの内ではある。
空が落ちてくるのはなぜか? 「愛で」というのはロック。それはショック。
「杞憂」というのは中国の故事。しかし、シャアの隕石落としなんて杞憂だよと語る高官にとっては宇宙世紀のその瞬間にまで空が落ちてくることは幻想になる。そのときは、シャアは政治家に違いないから。(政治駆け引きの虚構に違いない)
都市を消滅する方法
わたしは自分がリアリストだとは自分で思えず、所詮、どうやって物ごとを幻想化するかに関心を砕いている。
最近の似た話では、都市を消滅させる方法……「江戸を消し去る方法」というのは気づいて特に面白かったな。
この引用で『伽羅物語』に難を付けている気持ちは、都市滅亡の予言を語り、果たして滅亡するか滅亡を防げるか!と関心を煽っておいて結局「予言はデマだった」という方に話をすり替えるから。歌劇の製作事情はわからなくはない。それでも、世界の涯にあった都市のできごと――今は思い出す者はおらず、そこに行った者もいない――と語り終えることで架空都市は幻想化する、ともいう。おとぎ話化だな。
富野由悠季作品では「人類抹殺の方法」がやはり大きなテーマ。それはここまでも見た。
今の興味は、リアリズムで世界を描き出しておいて、それを物語の中に忽然と消し去ること。『世界は核戦争で吹き飛んだ』と言っても、その大崩壊のシーンを映像に描いたとしても、依然としてその世界の歴史から消えるわけではない。
マジックという用語は富野発言中にもあるのをわたしは知らなくて先日、意外な気はしたが、わたしが知らなかっただけだ。
『――遠い昔の物語。』として、遠い昔の時間流に流し去ってしまう。『ディアナ様、また明日』なら、そんな明日に続くいつかの夜にこの世界を置き忘れる。
第二話、第三話ほどでも既に、グラン王の霊は時おり『走り回った』と文中で書かれる。所によっては人間が徒歩半日かかるほどの距離を瞬時に移動しており、霊の足でしゃかりきに走るというよりはスゥーと飛翔している。
まあカロッダとグラウンドを行き来しているからもとより当然のようだが。
砂原に起こる怪異を調べている際には、
とあるように松葉ていどの物体は霊としても持ち上げて動かすことができる。雨雲を呼ぶときは自分でもどうやったのか分からなかったが、このときはあえて松葉を動かしていることを文中で意識してもいない様子だ。松葉で砂に字を書くか、松葉そのものを列べて文にすれば生者と通信するのは容易いようだけど、気づいてそんなことを始めたら冥界の禁忌に触れるのだろう。
いや、グラン王の霊のスペックなんか気にしてもしょうがないんだよ……。霊のすることなんて、できようと思えばできるし、禁止されている接触をすれば冥途に戻ると掟にされているんだから、生者と接触もどうにかすればできるとは冥界の者にもわかっていることだ。
そのわりに、聴こえない声で一晩中呼びかけたり、絶叫したりグラン王の身悶えはつづくと……。
ここは、この章の段では『砂の兵』ではなく『丘』ではないかと思われるのだけど、このあとにゴレンゴン登場なので尚よくわからない。ここでゴレンゴンを見ていたら後で驚きはしない。場は、屋外の砂原ではなく、館の寝室のこととはいえグラン王の観察の経緯から周囲の砂が流動していると見ているのだし……。
「ゴレンゴンの兵士」という表現も後の方であるから、ここも先立って「兵」で合っているのか……。
『王の心』にも本文に誤植が点々とあることはここまでもわかっているが、あからさまにそれがわかる『ガーゼィ』とは別のレベルで厄介だぜ。
『これの母親』は『己れの』ではないかと思う。富野文章ではないが近年の光学スキャンを通すようなとき己れがこれになってることは頻繁にあり……原稿当時、肉眼でもありそうなことだ。この頃ワープロで書いてるんじゃないかとは思うが。『これ』でもグラン王的には言わなくもなさそうではあり、悩ましい。仮に著者自身に確かめてもらっても煩わしいだけで、確かにはわからないだろう。
ぶっちゃけたところ、現在高齢の富野監督にこんな頃の文章の確認訂正を求めても、鬱陶しいだけで、しかも本人にもよくわからないと思うんだよ。だから、むしろ富野ファンでガチの編集者が、今からでも責任を預かって校訂することをしないと、集中して読めないんだ。ガンダムシリーズも一回そうしろ。とわたしは言いたい。
第三の物語 完。続けて2巻へ。
第ニ巻(天女生誕の書)序文「欠の章 うたた星々」
前巻を読み終えて続きに開くと良い文章だ……富野序文が読めるようになると、大人までファンで良かったと思うことかな。
わたしは『シーマ・シーマ』は元から高く評価してる。常づね、話題にすることがないだけで、良い小説だとは言えば言ってる。人に言うとセン・セートがセンセーションでどうせ受けないだろうと思うだけで……。こんど読み返して、『小説Vガンダム』の良さがあらためて認識されて意外だった。ガンダムならF91かハサウェイほどじゃないと思っていたみたいだ。
年数を空いて再読するたびに印象が変わっているというのは、やはり読み返してみるべきで、それには、電子のように今後アクセス手段を押さえておいてほしいこと。わたしは、ファン同士で交流するようなことには結局ならんかったが、その意見は良識のうち。
『王の心』以降の話題は作品単独トピックへ。
『王の心』三巻読了。次は『密会』へ。
『密会』読了。ブレンパワード。
可愛くて好ましい。わたしには権利や利害関係はなくてそう言っている。「わたしの」のようには思ってない。ネットの人間関係に差し支えるからそう言ってるわけでもない、同好の話をする人間関係も周囲にない。自分の投稿スコアになる二次創作もしない。ただ、「旧作描写に偏って主役三人のドラマを置き去りにしている」という評は間違いだ。それもある程度のコンテキストに頼っているというのはわかる。
いま、『リーンの翼』に入る前に『∀の癒し』をやっぱり読んでいる。少し時間がかかりそう。
楽しかったよなあ……。効果線バリバリで漫符的表現あふれるガンダムなんて、当分みられそうにないし。ハサウェイは、そりゃ違うしね。
そういえばわたしは、榎戸洋司さんの小説『フリクリ』を去年、なぜか思いついて読んでいた。ジークアクスのノベライズがもしあるなら、普通には榎戸氏の手でああいう、アニメに沿った内容になるんだろう。
でも、『ジークアクス 富野由悠季:著』とか、今からどうにかならないものかな。ミニ文庫の薄いのでいいし、タイトルと著者だけでもう面白い。なんなら、打診はしてみて断られたというエピソードだけでも面白いのに。流石に、駄目か。
それで∀の癒しかよ。全然、落差。富野エッセイなんか今やめればよかった。福井小説のほうがましだったろうか。まあ一冊だし。
セイラ・ライラ
この∀の癒しにも、『パズルボブル』のボブルを「ボルブ」とか、デスクを「デクス」とか、富野文に特有の誤記がある。小説作品中にも時々みた。なぜかはわからないが、癖のようらしい。
富野文のこの、カナが時々入れ替わることはずっと前から気づいてはいたけど、わたしは自分自身のキーボード癖を思い出してもたんに「ワープロの打鍵がおぼつかない」みたいな素朴なことではないと思う。口で、普段喋っている音声処理のパターンが、書き文字にもキー入力にも現れるものだ。
わたしの癖……とここで引き合いにすると、キーボードはローマ字入力で長年していても「さ」(sa)を「ざ」(za)、「は」(ha)を「ぱ」(pa)のようにキー配置からは考えにくいミスをし、二十年も前から気づいていても癖が抜けない。意識的にわかって自分の手を観察していてもスッと手が間違うのを見ることもあり、無意識に音韻的な偏り、圧がかかるのは訓練ではなくて個人の脳の仕組みに由来する。人によっては、プロの作家や文筆家の中でも文章は音声よりビジュオ・スペーシャルな処理をしてると見て取れる人もいる。
富野文は、御本人の風貌からも意外ではないと思うけど、ヴィジュアルの仕事をされてるのに本人はかなりオーディオな人だ。バルブがバブル、ベリルがベルリになるくらいは「いつもの」と感じるが、小説の最中に登場人物の名前がそれで変更になるなど、前回では「カブジュ」が2巻の途中から「ガブジュ」に入れ替わっていくような、キャラ名をうろ覚えの結果そうなったとは思いにくい。一、二度と手が誤るのを気づいても直さずに原稿しながら「こっちの方が口に乗せて面白いから」変えてしまっているみたい。
それとまた少し違うはなしで、この『∀の癒し』で印象的に覚えているのはサンライズだバンダイだという話の中で、
この文句、ガンダムからララァまではわかるけど、なんでそこで「ライラ」?と、読者は思うと思う。ジェリドの尻を叩く姉御パイロットのライラ……が、そこであまり念頭にあるとは思わないけれど、ララァだライラだ、という、口馴染みするライラのキャラ名についてはガンダム以外の他の作品にも出てくる。
文章の意味でいえば、ここのライラの場所にはまりそうな典型的なガンダム女性の名というと、しばらく考えて……キシリアって意外に富野監督の中では肉感が薄いんじゃないか、商業的にも……ハマーン? ハマーンの名前がライラ(『王の心』ではカロッダの女王)と響きとして代替可能のような想像は、ちょっと面白いじゃないか。
わたしは富野作品にかぎらず、エッセイ作品というのはこうした文章や文字の飛び跳ねをよく読んでいるようでもある。〈思想〉なんてものは、〈思想は伝達可能〉と世間一般では思われている程度には、コピーは可能。
ああ、いや、ここは「セイラ」か。文脈からはセイラだろうな。まあいい、もう書いたし。
……ライラをセイラとすれば音韻よりはっきり視覚的だ。誤植ではないのか?
ララァの響きとセイラの名前が、衝突したんだ。ちょっと感動的な発見。わたしは今まで気づかなかった。
§2 「臨終行儀」まで。この次の「なぜ人を殺してはいけないか?」は、何か最近べつのところでこの話を読んだ気がする。富野記事の何だったかわからない。これはあと。今ここまで。
『地球光・月光蝶』について急に興味がわいてきた。Xの発言をZawaに引用すると巨大文字で表示されてしまうので、最近はその利用はblueskyでしている。
これはアニメや映像にかぎらず、伝えるのが難しいことを印象操作を駆使して伝える、という今のわたしの興味になる。表現主義になってもいいんだけど、とくにその必要がなくて表現をもてあそんでいてもその意図を問われる。そのはず。
エッセイ作品はエッセイという文芸ジャンルだが、ノンフィクションのドキュメンタリだと思い込んで読む読者がとくに多い著者だ、ということも思い合わされる。巻頭にそのためか一部脚色があるとわざわざ注記してある。ノンフィクというか、富野監督が文をかくムック記事だと思って読まれるんじゃないか。
そういうことを考えたことも今までなかった。「小説作品」だけに絞って通読としてきたけど、やはり不足か。……まあ映像作品をスキップしているんだから不足は当たり前だ。周回と付けているし、一回で足りないことはわかっている。
富野アニメの蓋然論
§2 「なぜ人を殺してはいけないか」~「母系社会」までは、この通読ではトミノ流の蓋然的な言い方の真骨頂ともいえる。富野エッセイだから独擅場で許される。学者がこれをしたら許されない。エリアーデやフレイザーでも両手を振って止めるだろう。
わたしは好感と嫌悪感をこもごもに読み、どういう気持ちかというと、もしも、全面的にトミノが好きだったらあえてトミノを信じる必要ないだろう。「嘘つきだ」と思えばそれまでだ。トミノさんにとっても「そう信じたい」と言っているだけの、これは願望かもしれない。だから読者も、信じるかどうか考えるんだ。それは、トミノは真摯だからじゃない。
夜の言葉
これが前回『ブレンパワード』での話題だったのは示唆というか象徴的かのようにもわたしは感じるんだが、『ガーゼィ』でもそんなこと言っていたな。ル・グインだったら許さないだろうという。昼の言葉など忘れていいから……『夜の言葉』をおぼえよう、か。
この読み方をしている人は、富野ファンでもまず多くはいないはずなのでわたしは今スリル。今読んでやっぱり良かった。
『ブレンパワードは、情感を排したサイバー・テクノロジーの「世界」を描こうとしたのだが、緻密な世界を描くことには失敗して思いがけずエモーショナルなものが噴出してしまった。結果として出来たものは、こうなったのである』とはいっていない。
もともと、タイトルから誰しも想像されるのと違うところを狙って志向した、と言っている。そんなことを言っていいのか? でも序文に書いてある。どこまで嘘で本当かは、見てみよう。
今夜さきほどまで、§2まで読んでいた。ターンエーの話題でさほど費すつもりはなかったのでここでそのまま書いてたが、これくらいあるなら単独トピック立てればよかった。もうすぐ読み終わりそうだけど、今からするべきなのか。
あらかじめ書き込み先のトピックを立てておけば、それでないと書かないことも書く、という行動する。あらかじめ先を読んでなければならないが、それが読めないか、薄々必要を感じていても混雑をきらってそれを怠る。
実際にはその「混雑」というのは、各トピックのナビとタグを駆使して管理していれば起こらない。この整理編纂にはそれをする勘どころと、ツールの使い方の基礎的なテクニックはあり、ユーザーユースでそれをできる実演という意味がある。
∀は「地球光・月光蝶」を見て今回おしまい。つぎは、リーンの翼の新旧版を並べて読む。読み比べの方法はまだ考えていない。
恋愛とサイコミュ戦争でなくて、「恋と狩り」をいっしょにするのも古くから型としてある。わたしは最近ずっと追っていたのがタニス・リー作品で、ヴァンパイアリズム、フェミニズムな話ともやはり関係するかな。
今回の通読でわたしの読み方が大きく変わったのは「蓋然的な言い方」と「サイコミュで嘘をつくか」のこと。知らないかというと、読み初め頃に印象として挙げているくらいだから知っていたはず。
そもそも、わたしのそれは富野作品についての関心ではない。幻想文学のほう。
「富野作品には出てこない」と言っていたのが、どこかの時期から懐疑的に挿入されるようになり、のちに重要テーマに収まる、と考えるようになったらしい。求めれば古くから跡は見つかると思うが、「新旧のファンで態度が違う」ことも知っていて、やはり作家としての変遷はあってそう見えているだろう。
かなり最近で、ほんの5月頃まで「ニュータイプは嘘がつけない」の線でおおむね考えている。Vの間にもカテジナ等あえて話題にしてないが、「ゴレンゴンは嘘つかない」「でもジャコバは信用ならない」あたりで言い方を変えているようだ。この間にル・グインを確認しているので、やはり引かれたかな。
富野監督自身が、すっかり変わった、以前はどんなに間違った一本槍だった、と言っているのは『∀の癒やし』中で、そこはブレン∀で変わったというよりは、変わる理由はそれ以前にも求めている。
作品中にどう変わったのかについては、「白富野は明るくなった」というのは漠然とあまり当たっていない。∀は正攻法で行く等の方針がそう見られているので、グロテスクなところ等はべつにやめていないし、皆殺しは多用すると飽きることは昔から言っているのではないか。
ル・グインは、偉大な作家だし文学史的にも大事だが、ル・グイン自身が洗脳電波のようで「信じるな」と念を押し続けるのがやはり難しい。「ダンセイニを信じるな」はジョーキンズを信じない程度にたやすい。ダンセイニの方が偉い。
富野監督は、「富野を信じてはいけません」というと仕事にならないので言えないのだが(と言う)、こんなものを見てはいけない、あまりにひどいので愕然とした(というと皆が驚いて見にくるのだが)、との言いを繰り返すことで信者を増やしている。
そりゃあ、そうかもしれないが、そういう言い方はないでしょう……というときが「そういう言い方」のサンプルになるわけで、わたしはそれを続けて追う。
富野発言を信じないことを疑うのがなかなか難しい。「もしかして本気なのではないか?」と疑うとリアルロボットアニメがシリアスにさえ見えてくる。現在ご高齢とはいえ、生きた驚異だ。
このたび小説作品を追い直していたとはいえ、まとまった書籍にならないもの、断片、トミノメモ、わたしの手元にないものはあえて求めないで来た。エッセイ作品は触れずに進んだが『∀の癒やし』が前回やはり面白かったので、小説とエッセイに区別はあまり意味なかった、という反省には、後でなった。2000年代以降はそのほうを続けて追ってもいい。
『∀』から『リーンの翼』(2010)に移っていて、その間の『キングゲイナー』は飛んでる。
『キングゲイナー』の小説というか挿文(ビジュアルストーリー)はずっと前に通し読んで、好感だったのだけど今回のために求めなかった。古雑誌を漁るには今書いた、エッセイ以外にもインタビュー、対談など記事が膨大なものを区別する気にならなかったから。それは追々してもいいかな。
ゲイナーはアニメ自体は今そんなに好きでもない。「後半のだらだら気味が苦痛で」という派。アニメの感想は今飛ばす。
第一話だけ見返すと完璧だと思うけど。シンシア・レーンのデザインはやっぱり好きで、富野小説を今読み返すうちにもアイリンツーに連想もしていた。
ゲイナーのサントラ音楽は最初、「菅野よう子じゃないんだ」と正直思ったはずだが、それは聴いてみればやはり「田中公平すごいな」と思ったはず。アクション音楽は当然として、今聴いて一番好きなのはオーバーデビルのための「デビルズ・アイシング」になっていた。先日、∀のOSTを聴いていてそれを逆に連想したくらい。残念ながらわたしは田中サントラアルバムはまたあまり蒐集していない。
キッズ・ムントとシンシアは、ドレイクとアイリンツーの間をモデルにしているようには直接あまり関係ないと思う。とくにそれが参考でなくてもゲイナー時点で発案されることに何も不思議でない。
シンシア同様、アイリンツーもコクピットにキャンディを持ち込んでいることも、「アスリートに糖分摂取が欠かせない」理由と「スイーツ女子」の理由とが一緒になっているキャラの原型がまた何か別にあった気がしながら、それがまたわたしは思い出せない。
シンシア/アイリンが最強の敵パイロットとして、最後はオーバーマン/オーラバトラー戦で決着してほしい願望はまた、あるね。それこそアスリート的な。スポーツでも、カードバトルでもその激突で互いの葛藤も昇華されるだろうという、決闘や呪術思考だと思ってもいい。恋人として付き合ってもないのに、全身全霊の衝突では誰より知り合ってる未成年で危険な異性、とか。
「浮気じゃん」といえば、そうで、サラには決してわからない領域のそれ。
氷雪の歌
月は凍りつき 太陽はなく
冷気門を開き 存在を撃つ
ヤェーエェーヤァー(それは事実か)
「人の心がわかるマシンはいいな。そのくせ、暇なときに話し相手にはならないのは物足りないけど」
「言葉で語り足りるなら、存在本来の意味もないからだろう」
「なるほど。戦うマシンが『戦わなくていいや』ってなるんじゃ本末転倒なのか。それは言えてる」
「マシンを使いこなしたものはいない」
氷もって築 く息吹の主は
知恵と記憶それに 命そのものを
アァーエーヤァ(それは事実だった)
「言葉がマシンとして作動するとき、過去は事実となり知恵はただ記憶の内なる葛藤となる」
「フーム。毎日つらそうな話ばかり聞かされてつらいというあれか。泣いていいところ?」
「泣くことが慰めになるなら」
「過去の記憶って、心の傷ってこと? あたしにはそんな重い過去なんてないよ。ゲームで最強の自信はある」
「全てはゲームだと思う者もいる」
「そこまでお馬鹿でもないかな……。そうか、馬鹿だと思われたのは傷つくな」
無意味なほどに軽い涙は頬を落ちて、膝に届くまでに凍り粒となる。それだけの感傷が、
……命そのものを
氷の結晶にすべて埋め込み
存在そのものを消すのだという
人の為したこと 汚濁であるから
「そんな理由で世界も滅ぼすのか。世界を滅ぼすってどういう気持ちなんだ? 動画見れる?」
「自ら望んでしたことではなくても、結果としてそれに加担してしまうことはある。やってしまったことは酷すぎるので、そんなものを見てはいけません! そういう言い方がある。デビルを信じてはいけない」
「そっかー。デビルもつらいんだ?」
「やはり馬鹿か……」
ヤォーヤォーヤァー(それは事実とする)
ヤォーアアー(悲しいが)
アアーオオー(悲しめよ) 人よ
氷もって築く息吹の主、という、「築く」の意味がよくわからんのだが、「息づく→息吹」は直感的でないだろうから、不明にしておく。「築 く」とも読むはずなんだけど、だからとも断言できない。
響きとしては、またまた日本武尊伝説の、伊吹山の神が氷雪を降らして祟るのを思い出していたけど『ガーゼィ』の頃からもうだいぶ経っており、巨きな猪だというその神の姿と、デビルの豚か蝙蝠かという容貌を結びつけるのもこじつけめいているね。「ヤーパンの伝説が下敷きにある」といえば、氷もってつく息吹(伊吹)の主、というのはスッと腑に落ちるようには思うものの、無念ながらここは保留か。
∀から前後の著書等の連想から上の詩は、わたしは今日そんなに自由に解釈したつもりでもない。型通りに当てた、といいたい気持ちだけど、信じるなとは言っておくべきなんだろうな。
こちら引用させて頂くと「コウモリ」ということになっていてとくに豚だの猪だと指定などはないらしい。そうだろうと思う。詩のことは結局よくわからない。
『キングゲイナー』はそんなに好きじゃないと言いながら、めちゃくちゃ真面目に書いてない? わたしはシンシアが好きなんだとは言ったろう。
一つの詩の一つの句に一晩中考えるなんていつ頃振りだろう。それも、こういうのは詩の作者にとってはたいてい、重要事ではない。ただ、出版の後に作詩の経緯など湮滅してしまい、読者にはわからないブラックボックスのようになったというだけのこと。
文学研究の必要などほとんどがそれだろうという気がするが、それを考えるにも妄想ではなく、それなりの方法があるとは思い起こしておきたい。しかもわたしはその専門じゃない。