リーンの翼 (1983-86 / 2010)について。
1 (完全版1-21 : 旧版1-33)
- バイストン・ウェルの記憶
- フェラリオのだらしなさ
- 空に棲む魚の話
- 男の死に体
- 死に損ない
- 生き神様考
- フェラリオ交響曲
- ガダバの結縁
- ガロウ・ランの神話
- 英才教育…規範 / 恣意
- 卑屈にしている暇はない
- バイストン・ウェルの黴菌
- アマルガンの民衆史観
- ドラ・ロウ
- テレパシーでからかう迫水
2 (完全版22- : 旧版34-70)
- コモン界の黒歴史
- トゥム、ネイラ・ザン、ノム
- 大和こころと桜ばな
- 純粋に戦いを楽しむコモン
- 理由はない
至誠 に悖るなかりしか- 「守るだけでは勝てないから」
- 至誠と桜花
- 勝つために戦うこと、戦争を始めないこと
- 俗に言う八方眼
3
- バランモン
- 妥当ではある
- 我に返る迫水
- 心の物語
- ためらいがちな語り
- 語本来 ~作中2ch語
- 迫水の終生のテーマ
- リュクス姫様 / コドールとハッサーン
- バッベルの巨樹 / バルシュの大木
- エイサップの条件
心の物語
「第三章 新国家に生きる」
オーラバトラー開発史はひとまず置き、章題の通りメッオの新しい国家建設の展望を語る。迫水と語っているのはおおむね最近にコモン界に落ちてきた地上人、おもに軍人達。二十世紀世界の政治批判、その分析というディスカッションが続く。歴史が苦手な読者のことも、逆にこういう座談的なノベルが大好きな読者というのもわたしは想像つくのだが、文中の批評が妥当かどうかよりも、語る態度自体がときに高踏的で無責任でもありがちだとはあらかじめ承知したほうがいいと思う。
小説なので本来注意するのは、この忙しい生活の中で迫水の気持ちがどこにあるのか、徐々に変わっているならどこが変わっているのか見落とさずに追っていくのは、かえって、案外むずかしい。
ふわっと読んでいると、読者の印象は「最初と最後だけ」……特攻隊員であったこととオウカオーで昇天したこと、だけを結びつけて、あとリンゴの歌と天皇がどうのこうの、とだけを記憶して終わってることになってそうではある。すべて、地上と地上のことだけ憶えている、そのような印象になっているとしたら『バイストン・ウェルの物語を憶えている』とはいわない。
コモン人も地上人もおなじ人か
迫水の心の動くところ、心情、感情に注意すること。バイストン・ウェルは魂の物語。
蓼科中尉がコモン界の政治を解説し、ドイツと同じようにヘリコンの地で民族が独立したがるのは、条件が同じなら人間はそう振る舞うという『人間の問題』ではなく、各集団の勢力関係の間で国家が何を志向して振る舞うかには法則があるという『政治の問題』だという。――
異生物。根本的な条件が違うかもしれない。ただし、この言動は迫水には容認ならない。
コモン人も地上人もおなじ人でなければ、リンレイとの関係は迫水にとって「幽霊相手」だったことになってしまう。ハロウ・ロイとの記憶も生々しいのだから迫水にとってはこの点では妥協しない。重要なところ。
道徳形而上学
諸国を放浪しているアメリカ人学生のジョン・ロンは、この地ですっかりバランモンと化していてバイストン・ウェルでカント哲学を語ったりする。哲学というよりは『道徳形而上学』――形而上学、の部分はなお保留せざるをえないけれど、『語るべきことは倫理、道徳だ』(モラル)というポイントはわたしは近頃になって非常に興味がある。
モラルをいかに語るかは興味あるけどちょっと外部に参考書がいる。そして、「自分は実践者ではない」と語るジョン・ロンはやはり迫水と同行せず、別れてゆく。
蓼科中尉やジョン・ロンにしても、彼らはやはり地上人であり、地上界で自分達がなしえなかった思想の実験をバイストン・ウェルのコモン界に来て自由に展開しようとしているのではないかのきらいはある。
アピアが新思想に感動するのはまことに純真なことだが、コモンにはコモンの風土に根付くものはないのかと訊ねると怪しい。文中にそう書いていないが、アメリカが戦後の日本にしたことを今ヘリコンでやろうとしているのは彼らではないかのように。
この世界は夢か
話のあとにジョン・ロンは、
リンレイを幻想にはすまいとし、一方で迫水自身が聖戦士など幻想かもしれないと言う。
迫水に返って、『リーンの翼』のストーリーでは、迫水は特攻の死に損ない意識から発して、この世界バイストン・ウェルは究極的には自分にとって夢・幻ではないのか? という疑念が常にあったことは、前巻までの新旧対読で注意してきた。アマルガンに対しても常に食い下がっていったのはそこだ。ここで、なぜ生きるのか。
ガダバとの戦いの果て、迫水は聖戦士としてバイストン・ウェルに帰属することを選び得たようだったが、再び帰って来た今はまた曖昧になっているのか。ただし、その疑いを自覚して言葉にするようになっているのは、以前とは違う迫水に変化しつつあるように言っておきたい。
ためらいがちな語り
迫水とアピア(メッサラ族)の結婚にあたってオルッメオ族から族長の家系の少女ロドウ・ハッサが祝辞を述べる。メッオの民にとっては、
の二つの意味があり、国民意識を醸成するものとして新聞報道もされた。まだ十歳にならない少女ロドウの紙上デビューはまたちょっとしたアイドルだ。
コモン人の熱狂ぶりを見たイギリス人ジェフリー・スコット公爵は『幼女の祝辞は奇妙なものだ』という疑問というか感慨を投げるので、人々の新国家建設の熱気を擁護したい迫水は積極的に答えようとする。
『リーンの翼』はヒロイック・ファンタジーで、ロマンは大事なことは前巻までもわかっているがロマンチシズムがロマン主義になり、国家主義になろうという時に来てスコット卿が不審がるポイントが、文章ではどうもわかりにくい。若い迫水相手とはいえ、スコット卿自身がとりとめない話をする上に、迫水が(英語ではなく)テレパシーを介して応対するので余計な混乱もする。
大地と女性
ここは神話よりは、民俗学/民族学の知識で社会人類学的な方位。リチュアルやフォークロアに基づいて社会と人間の関係を説明しようとする。ドイツ人の受け売りとあるように学問では既知の考え方で、有名なフレイザー等の本には「女性=畑」のような型は多く載っているだろうし、宗教学概論でも諸々の事例を挙げていた。
この説明としては、『けがれを知らない幼女』(=ロドウ)つまり未婚の処女が、新郎新婦に祝福を与えるで、(アピアではなくロドウが)メッオの土地を体現するもの、無垢の大地(畑)の身代わりとして演じるということを言っている。
原文から目を離して読者としては、バイストン・ウェルのコモン人にそんな大地感覚があるのかは作中で語られたことがないので不明だけど、あるんだろう……。太陽は燐の塊。「宗教」「神話」「民俗」がどう違うのかはわたしは意識的に区別するが、今その説明は省く。それはエリアーデとかの通読で続ける。
これはキリスト教以前の宗教だからキリスト教徒はこんなことを知らないか、というとドイツにもフランスにも、イギリスの農村にも近代まで結婚式にはあった風習で、田舎ではとくに教会ぐるみでもあっただろう。キリスト教にはキリスト教なりの因循があるだろうし、スコット卿もそんなことは知らないわけではないだろう。
スコット卿にも迫水の結婚の国家的な意味がわからないはずはないが、彼の気分をいえば、幼女の祝辞は村祭りの精霊か、女学生がする地元のカーニバルの女王みたいな田舎臭さに見えて、どうも壮厳じゃないね、というところにあるのは窺われる。迫水はまずそこが察せなくてクソ真面目に解説した。
『こうした土俗の儀式は、国民国家社会主義といったイデオロギーを必要としない契約です』と迫水が言ったために、ちょっと待てとスコット卿が口をはさむ。
まず「大地と女性」のような定式には、各国各時代の風習や昔話からおびただしい例を引いてくることができるが、無数の民話を挙げているその研究が、反例についても少なくないだろうに、なぜその例をとくに強調して挙げるのかといえば、自説を補強するために好都合な事例ばかりを選んでいるからもっともらしく見えるのではないかという、比較研究につきものの恣意的な引例の問題が言われることがあった。
「人間の営みを大きく理解する上で有用な定式」として提唱するには、有用な考え方だとは思われる。しかし、その蓋然的な定式から派生してどういう言説が生じてくるかには注意を要する。それは現代では常識として置いておこう。
テレパシーを誤読する
迫水は大尉の受け売りから完璧にコピペで回答したのだが、国民国家の頭文字から卿はセンシティブに反応して「ナチのことか」と問い返す。
今ナチスの話はしていません、メッオの土俗をどう考えたいかという話です、と迫水は言ったつもり。だが、迫水のテレパシーでは「考え方」と「思想」のボキャブラリーを区別しない。スコット卿は「?」と困惑したあと、文脈を誤読してナチスの解説を始める。
「科学的な社会主義の理解」ここでは社会人類学の成果が、ドイツでは情緒的な受け止められ方をして、当時のドイツのナショナリズムと結合する。ナチ政権に至る土壌を形成する……つまりナチの政治思想のプロパガンダに使われたという歴史の語られ方は、現代のわたしらには中学生でも知っているような常識、通説として飛ばす。
同語を言い換える
問題はスコット卿の言葉遣い。
素朴に土着のものなら政治イデオロギーと無縁に存在すると言いたいなら、ナチスを例にするなら、まさにそうしたものが国家社会主義か、国家民族主義のカンバンに使われてしまって……と言いかけたところで、迫水に未知の言葉だったために、「ナショナリズム」を「国家主義」と言い換えて「わかるだろう?」というと、迫水はナショナルではなくロマンの方に食いついてきて脱線する。スコット卿はロマン主義の解説を始める。
ジェフリー・スコット公爵は1944年のロンドン空襲の際にV1ロケットに遭ってバイストン・ウェルに落ちてきたという。現在メッオにいる地上人の中では年嵩の古参に当たる。その後の地上の歴史の情報共有はしているが、ナチスなどを語るときにはあくまで1940年代の人物による理解だと思いたい。1950年代や60年代の小説を読んだりはしていない。
文芸や芸術運動としてのロマン主義がドイツやフランスでは政治と連動していき、一方でイギリスのロマン主義はそうならなかったといいたい。もとに戻って、現在メッオの大衆がロマン的国家主義になっているかといえば、そのロマン主義的だから駄目だというかは不決定だ。
イギリス人に言わせればロマン派というのは霧と墓場と夜の憂愁……つきつめれば「孤独」でもあるが、スコット卿は孤独については言わない。ゴシックホラーは通俗文学で大衆文化だよのように言うときにも、大衆的なことが駄目だと言ってるわけでもないだろう。
説得しない会話
ファンタジーやフィクショナルものが嫌いなわけじゃなさそうだ。ただし、ポップカルチャーが「公」の顔になる、「公」の顔をするのはいやだねのような気持ちを今の青年に分かってほしいと思って言葉を探している。迫水は文学青年ではない。
「お祭り騒ぎにしやがって」のような不快感があるんだろう。大衆というものはいつも権威的なもの、公という権威に媚びるものだが、新興貴族とはいえ貴族だからこそ反権威的な気分もあるんだろう。
国家におけるロマン主義は単なる看板かといえば、きっと、
「精神性はありますよ」
「精神的なことが良いことじゃないよ」
のような噛み合わない会話が続く。精神的なことが洗練されたことじゃあるまいに、と。
迫水は「他人の受け売り」「勘違い」「思潮を考えるセンスがない」。スコット卿もとりとめなく自分の知っていることを並べた上で、テレパシーの曖昧さや誤訳、言葉の意味理解の行き違いでちぐはぐな会話をし、お互いに「???」と疑問符を浮かべながら、ロマンの定義か、ロマンの是非かはその場はウヤムヤに過ぎていく。バランモンとの対話とはまた違ったが、富野文としては「ためらいがちな語り」をする。
国内の工場の基礎技術習得のために桜花の模造品を作らせるプランは、やはり奇妙にわたしは思える。とにかくその図を描いている夜、迫水は突然に涙をあふれさせて慟哭する。
前巻までにくり返した地上界の日本軍の回想とはもうだいぶ違う。エリート官僚やインテリを非難する思いはこれまでもずっと続いていたはず。天皇を隠れ蓑に使った、というのも既に言ったことがある。
言葉遊び、美辞麗句を使うことで直面した現実から逃避し、止まないことを、
本文ではこのあと東條英機の述懐を上げて続く。『戦陣訓』を書いた男などはこういうものだと述べているが、それでもまだ、作中の迫水はその東條の後の発言は知らないし、それが美文だったからといって「至誠」への思いも崩壊したようには、言われていない。このときは一人でただ自室で怒号し、涙するのみだった。
『国家に騙されていた……』の発言は、戦中を経験した世代の方々が戦後になって過去を語るときに、広く共有した態度のようで、わたしもそういう回顧は直に聞いたことは幾度かある。
「戦争中は自分も一緒になって旗を振っただろうに、それ自体が責任転嫁的でないか」というのはまさに当時を知らない者だから言える、それこそが時代錯誤(歴史観の欠如)だとは書いておく。騙されていたと振り返ることは正しい。
戦中世代だけでなく、戦後生まれの人でも自分の親がたびたびそう言っていたのを聞いて育ったというのは、富野監督はそれよりやや年が上だが「父について」語るときに零すことがある。
そのように育った場合、どんな国家観・社会観を抱くに至るかでは、『二度と国家が人を騙してはいけないぞ』とは、その結果考えるとはかぎらない。『俺はもう騙されてはいない』とは、いつの時点でも大半は考えていることだろう。その経緯からでも、人間は騙されるべき性質のものであるから、いかに集団を騙し導くことだけが組織を語ることだ、のような次世代の学生の運動に通じることも思える。
模造「桜花」の一機はこの当時、新国家建設時代の記念として保管してあり後にエイサップ達に見せているアイテムでもあるから。
第四章。
ブログ文化がまだ盛んだった頃を「現代」としているのでロウリィのネットの行動は今2026年の読者の感覚とはだいぶ違う。といっても、その感触なら『リーンの翼』完全版の出版時点2010年頃でも、最初からそうだったように思えなくもない。もともと違和感がある。
作中でも、当時若者文化の最先端という行動をしているわけではなく……ロウリィはロウリィなりに時代錯誤的な、『十年くらいは古いのでは』という感じはする。わたしの感触は、日米関係や軍事についてにはかまわず、ネットの情報に対するナイーブさのようなもの。リテラシーの質感は時代かもしれないし、彼は二十歳くらいだし。
ロウリィの行動に添って読むことになかなか気が進まない一方、ロウリィもオンラインユーザー由来の曖昧な情報処理に悪戦苦闘しながら、
歴史感覚に悩まないで心理的なポイントを言えば、
を確立することが彼の現在の課題、と一文で書き述べてしまう。富野小説を読む読者は大方、前後のけばけばしい文章に目を流されて続けてロウリィがどんな気持ちなのか、彼の動機に興味を置き続けることが難しいんじゃないだろうか。
語本来
作中の、架空の2ch語から。
『その心性のありようは質 が悪い』というタチの悪さの文脈は本文に任せるとして、
書き込みユーザー(書き手)の意図にかかわらず、言葉(文字)にはそれ自体の本来を含んでいるし――という言及について、富野監督もやはりそういうことは思うのか。思うはずだろう、とは思う。
教育の文脈で言われるような心性を涵養するとかいう話、ではなく、今は富野小説を読んでいるにあたって、富野文中の語法にも語の一般的な用法、語本来の意味からも離れた使われ方、時には全く間違っているんじゃないかと思えるような言葉遣いをされることはファンには知られているわけで、……最近ここでよく扱うのは「蓋然的」とか……そういう自覚はおありなんだ。じゃあやっぱり、わざとやっているんですねのように覚えておく。
たちの悪さ
今それは飛ばしたけど、当時の2chを例に「たちの悪さ」と富野文のここで言っているのは、
という点を挙げていて、荒んだ暴力的な言葉づかいをたくさん使っているということではない。
大ざっぱにロウリィはこうしたバーチャルさを嫌うに及んで「実行してみるかない仲間たち(ジスミナ)」を夢想するが、そうする間もロウリィ自身は同じバーチャル感覚に浸りきっているし、ロウリィの気分では実行することが先にあって何を実行するかはまだ決まっていない。
『煽りではない』
平和憲法の本文に解釈の余地はなかろうと思えるものも政治的にどうでも解釈される
というレベルに較べれば、銃刀法か何かを根拠にアキバで若者をしょっぴくみたいな次元は問題にならない。
ここはちょっと違うなと思う。当時のネット語の「煽り」は相手の書き込みに対して意図的に挑発的か、侮辱的な言いがかりのレスをつけて、相手が乗ってくればスレで寄ってたかって盛り上がる遊戯の習慣。『リーンの翼』のここでは、『集団の気勢を上げるための(仲間を)扇動するスローガン』と解しているようだ。
2ちゃねらーの感覚でこの文章を読むと少し変な気分になると思う。もともと字義通りではないし、「らしい」と紹介した行動とも違う。スレを加熱か加速させる、祭りという意味では同じだが。ともかくロウリィは「これは掛け値無しにシリアスな現実だ」と言いたかったのだが、『煽りではない』もリアルジスミナに通じたかどうか。
2010年の小説を2026年に読んでいるだけなのに変な注釈だ……。そんなこと言うわたしも真面目にネットに耽っていたことはないし、小説としてどうしても完璧な考証を期すことは誰にもできまい。深入りはせずに、ロウリィやエイサップの話に集中しよう。
ごく最近出版の、現代日本語の用法の言語学の本をめくったとき、20年は昔のネット語も現代語研究の中で手短に紹介しなければならないらしい事情には一読してげんなりした。その項に続いては、「ケータイ語」とか。
正調の常用語でいえば、
『今良い話をしているんだから余計な茶々を入れるな。煽ってんじゃねえよ。こういう馬鹿がいるからスレの空気が悪くなって荒れるんだ、クソが』
のように半ギレになった人がいたら、『そいつ煽ってねーよ。興味あるからその話つづけてよ』というのは『煽りではない』という言い方になると思う。穏当な宥めかな。そんな執り成し対応は普通されないと思う。黙ってNGしとけが鉄則のはず。
あぽ~ん
小説の『リーンの翼』中の2ch語の表現はやはりフィクションのもので、どんな世代の読者が読んでも多かれ少なかれ「変だわ」という気にはなると思う。
まず、あぼ~んではなくあぽ~んというのを読者は見たことがあるか、どうか。その意味説明にも違和感があるが、著者の富野由悠季は2ちゃねらーではあるまいし、あくまで一通りの取材の上で、現実の2chとは違う作中に通じるネット語を創作したのかもしれない。
そのうえで、ここで『質の悪い言葉だ』と評しているのは、著者による評言なのか、この場面での主人公格を担っているロウリィの気分なのかというと、後者だろう。
富野監督はネットに詳しくないとは言い切れず、仮に詳しかったとしても小説の中で創作を加えていいし、フィクションまじりにせよ根本的なところの批評は妥当だと思う。その批評はネット上の言葉の使われ方のバーチャル性を指摘しつつ、一見して浅はかで見境のない行動にロウリィを衝き動かしていくものを書いている。
ロウリィの動機は「父親への反発から発する反米思想」「自己中心的な性格」「承認欲求」などの説明は、作品に対して単純化がすぎる。が、アニメでは到底わからないし、小説を読んでも大半の読者にそこまで彼の身に添って読むほど文芸に興味がないんだろう。
小説『リーンの翼』は、3巻ではここまでのバランモンや、漂流地上人の各人談話・思想や、現代ネット語といった諸々の言葉の使い方・語りの間をくぐり抜けながらその先に再びヒロイック・ファンタジーの確立を目指す。
テロリストにロマンを認めるべきかは、今2026年2月にはハサウェイの話になってしまい、同情・共感すべきことでハサウェイと比較ではロウリィに分が悪すぎる。彼の気分をせめて理解できろとも言われまいか。
どういうタチかというと、当時でいういわゆる非リアを自認するのに理論武装が要るオタク、という同類だろう。『そのへんの学生のアウトドアとか、その手の女をひっかけるのに使うんじゃねぇよ』。
金本の人物導入だがこれまでのロウリィの経緯のまとめでもある。ロウリィはネットの板の住民を「格好わりぃ」と思ったからテロは実践・実行あるのみが本当だと思ったので、そこに至るまで何かの大義から発したとか生活苦や官憲横暴への怒りのような現実から発したわけではない。
道路で四駆を走らせることについては、富野小説では『破嵐万丈』シリーズの4にそんな節があった気がする。
オフロード
運転手の青年を脅迫しながら占拠した4WDでカーチェイスさせるところ。
第四章おわりまで。
「第五章 オーラマシンのもとに」
実弾の数を製造できなければ実戦的な訓練ひとつ行えないということから、そのための工場が必要で、またその実績ある企業を外国から誘致もする等の経過は、リアリズムを欠いた空想からは出てこない、書けないだろうと思い富野作品の特徴に今は挙げるだろう。
一方で、現実世界の社会基盤のあれこれをノウハウとして異世界に移植してみればいい発想は、「異世界もの」ジャンルにむしろありふれたテーゼになりきっているかもしれず、異世界を安易に文化汚染しては足をすくわれる、いけない理由も深く訊ねなくても約束事で済むのが1990年代頃だったのではないか。それは『ガーゼィ』で前回。
『リーン』のホウジョウ建国記を読んで富野作品の独自性がどこにあるのかを言える読者もそんなにいないだろう。どこを取って読めばいいのか?
本章中、起こっている事件の間隔は何年単位で進んでいき、十年がまたたく間にか過ぎる。ひとつひとつを取り上げていけば目にも留まらぬ時間の渦の中のようだ。
アピアとの子シンイチは乳児から七歳になり十歳で急死する。明朗な少女だったアピアはいつしか妻らしい婦人になり、一子の死後は鬱にしずんでいく。
オーラバトラー開発記は本章のメインテーマではそんなにないが、マリアはパジャマリアになり、新型機の計画も。マットウタの上空戦で迫水のオーラバトラーから(思い出したように)リーンの翼が顕現し、圧倒的不利な戦況で五十機近い敵を殲滅。この機械化時代でも聖戦士伝説が生きていることを世界に印象づける。
バイストン・ウェルの地上人の最年長者のスコット大佐はこの戦いで戦死。戦死であって老衰で死んだわけではない。蓼科中尉らは現役で健在。ポーランド人が落ちてきた頃には東京オリンピックの頃、学生運動闘争の頃で、日本は戦後二十年になっていた。
迫水の終生のテーマ
二十年がすぎる間に迫水の仕事はものすごく忙しかった。休む間もない、妻子の顔を見に帰る間もないほど。読者としては、迫水が何に忙しかったかを一々挙げ尽くせない文章量だが、迫水が何を中心軸にしているかでは、
ここでは、コモン人の部族社会を一新して考えなければならない仕事は軍・産業・民生に及び、戦争だけではない経済から医療から教育からとシステムを整えていくほど、社会の体裁が社会主義や全体主義になっているじゃないか――ではなく、『人は性善説でうごくのか、性悪説なのかといった問題だ』という。
これも富野読者に区別がわかりにくいポイントかもしれない。迫水のこれまでのテーマについては、前巻までのガダバ編までではあくまでも彼の個人的なロマンチシズムに集約できたと思う。今のテーマが「組織と人間」になり、それは終生というから死ぬまで。
この巻の後の章には、「エメリス・マキャベルの終生のテーマ」もある。それは、「正しい戦争はあるのか」「軍人にとって命令は常に正しいことか」等。追っておこう。
新しい国ホウジョウを「覇権主義」にはしてはならないという自戒を、迫水や地上人らがたびたびする。彼らは第二次大戦までの反省が身に染みてあってそう言っているが、読者には、「覇権主義がなぜいけないのか」は、日本の教育一般としてインプットされているとしても、主体的に説明できる人はそうはいない。
このたびの富野通読では、富野作中で「国家の覇権主義への傾斜」を警戒し拒む気持ちは『王の心』に書かれていて参考になった。1995年の作品でありこういう時に前後を繋げておきたいが現在、絶版が壁になるところ。
それをして本当に憎むべきはジャコバ・アオンなのか??は、こんどその章まで追ってから考えよう。簡単にそう思ってしまってはヒロイック・ファンタジーは面白くないかもしれない。ジャコバは所詮とるにたらないフェラリオとも言える。
第六章。空母パブッシュから一機の戦闘機が発艦するところは、2010年にもなった富野文の行き着くプロセス文の真骨頂みたいである。
『……して、……なので、……である。』
『……って、……れば、……なのだ。』
『……れば、……って、……っていく。』
『……して、……ていって、……になって、……になる。』
くどいほどの『……って』接続が三ページ以上にわたってめんめんと続く。各文の末尾は『……していた』『……する』の時制は混在、リズミカルな内に現在形を畳みかけるほど緊迫感は高まる。間に、
ドウッ、ズオウッ……。
という富野擬音も混ぜる。バイストン・ウェル作品ではガンダムシリーズほど擬音は多くないが、効果的に使われる。
エモーショナル。マシン描写が一気にファンタジーになる。『機体は生き物になる』の表現は適切でかっこよく、みごとに一文を締めくくっていると思うけど一連の文章全体はすごいくどさで、とても真似できない。リーン作中ではこれまで、『風車になる』のような凄まじいと面白いの半々のような興味があった。
陳腐さ
ハンナ・アーレントはいずれにしても読むが、ここで挙がっている
『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』
について、「陳腐さ」については最近も面白い連想があった。できるだけ早めに続ける。その際は、「悪の陳腐さ」ではなく、「死」を陳腐なものとして語ったこと。死について。
「ロマンチックさ」をあくまで追究しながら「陳腐さ」とも戦わなければならなくなりつつある……。わたしは一体、現在2026年の住民なのか怪しい気分になる。少なくとも何十年かは昔の文学のテーマじゃないのか。でも、足りないなら追ってみるしかなかろう。
六章まで。発艦する戦闘機は『生き物になる』だったが、海上自衛隊の海難飛行艇のほうは、海上を加速して『飛行することをめざす飛行艇 になっていった』と同じような文でも表現がユーモラスになっている。飛行艇はお船。
「第七章 ホウジョウの名」
エレボスは見た目は小娘のようだが、リュクスが生まれた頃にはすでにジャコバの側で小娘然としているし、少なくともリュクスよりは年長。
エミア、コドール、アマルガンと迫水の、各場面でのそれぞれの年齢をおよそ推算できると思う。それには電子書籍版で前後を検索できたほうが少し便利だ。
コドールが前回出生したときの話のあとに、すでに二十歳頃のこと、その次には三十前頃を語っていて、文中では「ホウジョウ暦何年」という年次を書かない代わりに人物の加齢で年月の経過を語っていく。
蓼科中尉については「遺言」と書かれているから亡くなったんだろうなとわかる後で、回想として老年の蓼科中尉との談話がもう一度語られもする。迫水より少し上なので八十歳を超えているのか。老衰での死去だったんだろう。
文章ではアマルガンの訪問のあとに、
とあるのだけど、アマルガンが抱いてあやしているリュクスは三歳頃のこと。後に岩国で邂逅したときは、たしかエイサップはリュクスより二つか三つ年上だったと思う。文章の叙述の順序は曖昧に前後する意味の『このころ』かもしれないし、バイストン・ウェルと地上界の年代は厳密にシンクロしていないでオーラロードが開くたびに何年も齟齬していることもすでにいわれている。
リュクス姫様
このたび『リーンの翼』は、三巻になってから据え置いたきり既に三か月ほどもゆっくりしたペースで読んでいて、その間に他の作家の作品も飛び歩いている。わたしの読書数自体、わたしの事情でめっきり少ないが。それで『リーンの翼』については、電子版を開けばこの三か月は「迫水と国家の話」を考えているところだった。
アマルガンが訪ねてきた年から、アマルガンが蜂起するまでは作中の迫水の感覚ではまるでつい先日のように書かれているが、リュクスの歳をみるとその間に十三年ほど過ぎている。
少女リュクスのキャラクターは迫水譲りの気性もあってまず活発な子。従順で大人しい子だったら政治や軍事に口出さないか、元気でも現在のホウジョウの気風に逆らわず軍国少女か、艦隊少女になっていたかもしれないところ。それが、実母のエミアの影響と現在の義母コドールへの反感もあって「反軍思想」になっている。
そのコドールとの家族関係もあってリュクスが物語に加わってくると、父迫水との政治の話から移って発進するキントキに潜り込もうとするまでが、いつの間にか「冒険に憧れて城を抜け出すお姫様の話」にすり替わっているんだった。
わたしは最近はずっとファンタジーを読んでいることが多いし、タニス・リーもそうだがフェミニズムの流れを汲む作家に興味もあって直近では『アリーテ姫』を読んだり観返したりしていたな。
が、わたしはとくにフェミニストでもなく、リュクスのことは『ジュブナイルになった…!』と思ってアレッと思うような気分。
リュクスは十六歳と作中に書いてなかったっけ? ここまではない。エイサップは十九なのでエイサップのほうが歳上のはずだ、が前回。
リュクスの性格付けは、読み返すほど念入りに準備されている。エミアの人柄だけでなく、エミアから見たコドール評も。
アピアと結婚したときに祝辞を述べた十歳のロドウが成長して産んだ娘がコドールで、コドールが生まれたときに四歳のエミアが迫水と会った。その約二十年後にアピアが亡くなり、エミアと再婚した娘がリュクス。
この関係というより、その時点その時点で迫水にとって記憶(追憶)にどんな思いを残した女性達だったのかで、それは描かれているけれど章が移ると時間が流れ次々に現れ消えてゆく物語の中で読者がしっかり印象に残しているかはどうかな。『リーンの翼』の読者はおおむね文芸よりはアニメファンだろうし……。
コドールとハッサーン
コドールについて、「コドールは悪妻」のようなイメージをあらかじめ固めて読むのは、避けたい。アニメではアニメの受け手に向けデフォルメするというのは、ナディア・ロナもそうだった。
コドールが迫水の故郷の地上界を見てみたいという憧れ、それはきっと少女時代から迫水を見て抱いたのだろうことは、想像したい。
地上世界の文明を見たい夢を抱くことでは『ガーゼィ』のハッサーンを連想するとはまえに書いた。巫女ハッサーンによるバイストン・ウェルの理解は神話的な物語よりは即物的な捉え方で、それも何かコドールに通じるように感じる。話にきく地上界の原子力や原子爆弾が「存在そのものを脅かす」と語っているのに、そういう世界も見てみたいのです――のところ。
あってはならないことが起こっている地上界の現状は恐ろしいことだが、恐ろしいや忌むべきはそれとして、見てみたい。世界に対しては冒瀆的か、言うを憚るようなことかもしれないが、ある意味正直でもある。そういうところはコドールに好感をもってもいいはず。
結婚前のアピアがジョン・ロンの地上由来の哲学を訊いて感激していたようだったが、少女アピアのようなたんに新しい考え方への興味でもなく、世界の成り立ちや、存在そのものの驚異を体得したい、やはり実在への志向というか、哲学や科学者ではなくてもその思いはあるはず。
コドールは生まれたときから迫水を間近に見て育った娘だったんだ。実存への傾きは迫水由来に違いない。
「権力闘争を勝ち抜いて独裁者になるべき人物に求めるべきパーソナリティは孤独な実存主義者」というのも今日昨日、別件で考えていた。後で追う。
『オーラバトラー戦記』のルーザ・ルフトのような人は、わたしはコドールには連想しないな。
バッベルの巨樹
第七章まで。
リーンの翼の顕現がオーラロードになって天地を繋ぐ光景を「バッベルの巨樹」と喩える。バッベルの樹についてはこの三巻で数回すでに文中に現れ、迫水達の物語をしているよりずっと北方の地の伝説で、スィーウィドーのさらに巨大なものか神話の世界樹のようなものと思われていた。
最初その話は、ホウジョウという国の名が定まるより前にハッサ家の長老が「ハッサ・バッベル」というのはどうかと提案してきて伝説も語ったのだが、ハッサの名前を国名にするのは国にもハッサ家にも危うい点を挙げたりして迫水は退けた。
ずっと後になって「バッベル・ホウジョウ」なる理念をコドールが口にしたときは、コドールはまた現在の長老から聞き知って言ったのだが今度は『ホウジョウ中心の部族統合』『ホウジョウの国を中軸にした世界秩序』『ホウジョウによる覇権』のような響きを読者にも感じられて、パックス・ロマーナとか八紘一宇のような印象のスローガンとして言った。
迫水はそのときにもコドールから改めて伝説を聴き直し、『ガダバの人間からは、きいたことがない』とも言っていて、ヘリコンの地から見て北辺の地というと旧来ガダバのことで、ホウジョウの国で働いている人間にもガダバ出身者がこの頃いたのだろう。
コドールは『巨樹伝説は広く語り継がれている』とも言うが伝説中では「遥か北の地にバッベルの巨大樹というものがあり――」といつも伝わり、その北の辺境に住む民にも必ずしも実物を目の当たりにしているわけでもなければ、北辺の民はさらに北の北、無限の遠くに巨樹はあると語り伝えているのかもしれない。
バルシュの大木
『ガーゼィの翼』には同様の伝説が「バルシュの大木」として伝えられる。メトメウス族とクリス達の目的地としてやがてそこを目指していく聖地。
バッベル・ガダバ
ゴゾ・ドウの時代に「バッベル・ガダバ」という発想はなかったらしいが、ゴゾ・ドウは「ガダバの結縁」との考えをその当時すでにもっていた。
早い巻からゴゾ・ドウがバッベル・ガダバを唱えていれば面白かったのかもしれないけど、明らかにガーゼィから継承してる要素だしなあ……。スィーウィドーのタブリの樹と「世界樹」要素は被っていて、スィーウィドーの森を現に目にして神秘視しているコモン人が、さらにあえてそれと別の世界樹を空想するのかは不思議なこと。
(『スィーウィドーのタブリの樹をたばねたものが、巨大樹バッベルともいわれております。その物語るところは、オーラ力の統合論でありましょう』とバランモンは解釈している)
エイサップの条件
ローテンブルガー大尉が存命の頃、オーラロードについての「観測」を告げにきたことがあり、オーラロードはあらかじめ地上界とコモン界の双方に引き寄せ合う生体があり、そのオーラ力によって発生する、どちらか一方の存在、一方の思いだけでは生じないらしい、と述べた。
オーラマシン研究所の研究からどうしてそういう観測が得られるのかは詳しくはわからないが、長年にわたる地上人の降臨事例を集めていった結果なんだろう。判明したことは、たいていの場合に『むこうとこちらの回線の端末があった』とも表現している。
この「端末」の両端が、かつて迫水の場合はアマルガンだったのだろうとはわかる。ハロウ・ロイではない。リュクスにとっては、岩国に鈴木君がいたからだ! と迫水はそのときに腑に落ちるものがあったのだろうけど、上で挙げたリュクスの側の因縁はいかにもそれらしい条件が揃っているにしても、鈴木君が何故?……と読者は思わないだろうか。三巻の内容だけなら、『ロウリィがいたからだ』とは考えないか。
エイサップ鈴木君はキャラが薄いというわけではないけど、冗談みたいな「やってみるしかないテロ」にしても生体力らしい不穏さを準備しているのはロウリィで、その準備した状況に乗って聖戦士として迎えられるのがエイサップで、ロウリィと金本はそれほど評価されず読者・視聴者にも嫌われるではエイサップに都合が良い。……
……と考えるのは浅はかな読者で、エイサップの聖戦士の条件はこれから読んでいこう。迫水を見てわかるように、バイストン・ウェルで聖戦士になるために必要なのは「曇りなき眼」とか「平和を希求する心」等では、とくにない。
「やってみるしかない核戦争」と、もくろむ大状況の規模はエメリスのほうが格段にでかいが、生体力のでかさはロケット弾と核爆弾の物理的なエネルギーの比較では測れないかもしれない。オーラバトラーが地上界に上がったときの異常なパワーの例からも想像できる。
エメリス・マキャベルはロウリィよりも生体的に強力とは限らない、とわたしは思うが、エメリスが聖戦士の資格があるとは誰も思うまい。
誰も思うまい……、と書いたけど、ガノタ由来の富野読者の中にはエメリスの思想を読んでも『そうだなあ』と思う人が実際には結構いるかもしれず、その程度はわからなくはない。今は、エイサップの条件。
空中に消えていく白鳥の翼を視認し、その翼のついている靴を見、靴からのびた脚を目で追っているところで、脚、尻、胴体と黒髪をもった体が一気に視界に迫ってくる。
それから1ページ余りにわたり、訳のわからない肌の生暖かいような感触と、濡れた布が顔に貼り付く感触に混乱させられて、ようやく視界をふさいでいた脚が動いて退いてくれたと思ったときには、その一方の膝で、横面をなぐられていた。
どうみても、エイサップの側の条件はここで確立したとしか考えられない。
このあたりからもう、今アニメを観ていなくてもアニメの映像を彷彿として読んでしまう。このたび、読み終えてからもう一回アニメの方を観ようかと思っているけど、どうしようか。今、先に観てしまおうかな。
いや、やはり今回は小説の本文を読み込んだ後で映像でイメージを追っていくことにしよう。「エミア」とか「シンイチ」のような思いは、映像を先に観ても伴わないはずなんだ。
遅読すぎるほど遅く読んでいるとはいったけど、やはりここに来ると一挙にラスト入ってきた気がする、熱くなるね。だって前半のガダバ編の新旧対読にもあれだけ丹念に読み込んだのは初めてだ。「やってみたかった」とは最初から思っていた。それは、富野小説の通読を今回再開したときに、だな。迫水にもエイサップにも普通の並の読者とは思い入れが違うよ。
「生き神様考」のような予備的なトピックはその後、そんなに進展したわけではないが、この間半年ほど、それをきっかけに巡った範囲はわたしにはなかなか収穫が多かった。
エイサップが膝で殴られたことでオーラロードを開く一端の端点だったとわかる、思える、みたいな読み方は人にわかるものかな? それがわからない人とはわたしは一緒に作品を喋りたくないとも思うので、それなら「誰でもわかる」と言ってもよかろうものだ。
なぜ錦帯橋を砲撃するのか
そんな馬鹿な砲弾があるか。あってたまるか。
3巻読了。続けて4巻。
第九章まで。
地上/バイストン・ウェル融合の思想
「第十章 ホウジョウの王」
オウカオーという特殊な一機のオーラバトラーについての話から、その開発にいたる技術的背景が語られ、ことはオーラエンジンだけではなく地上由来のコンピュータ開発も行われているんだ等。
オーラバトラーの話は技術問題だけに済まず、マシンを建造できるための基礎工業力が求められること、この地のこの時代の社会つまり政治を考えることになり、迫水がなぜ政治を考えるようになったかを振り返れば、迫水自身がこれまで出会ってきた人々、体験がある。何より、聖戦士として世界から求められていることを問わなければならなかった。この長い年月、理由はわからないが、自分は若いままで歳を取らない事実はあったからだ。
芋づる式に話は引き続き、迫水の聖戦士の使命とは。バイストン・ウェルと地上界を交流させる、ひとつに繋ぐことが迫水=現代の聖戦士の使命ではないか。
旧伝説のリーンの翼の聖戦士は、ひとつの戦乱が収まれば去ってゆき、また後の時代に現れては同じ伝説をくり返す。「歴史のくり返し」を語り続けている人々の心、バイストン・ウェルの世界観には「世界存在は無限である」という前提が、ある。
バイストン・ウェルは地上の人々の心の反映ではないかといわれている。そして、その地球については、地球上で人を生かし続けるには限界に来ていると近年言われているのだった。このことを解決するため(地球を永遠にするため)に聖戦士は地上界にバイストン・ウェルの存在を教え伝えるのが使命なのだと思い知った。まで。
地上界(地球)の人々にバイストン・ウェルのことを伝える使者として――というのは、もっと早く『ファウ・ファウ物語』のようなストーリーを読んだほうが素朴に読者にわかる。ファウ・ファウは、ファウ・ファウのことを地球のみんなが知ればきっと幸せになるのに、というくらいのごく素朴なはなしだった。
『リーンの翼』の中では今回、前の巻の頃に「ガロウ・ランの神話」のようなトピックで、地上の歴史をバイストン・ウェル物語に編入するもくろみとして考えていた。それは作家・富野由悠季の野心として。
「バイストン・ウェルがある」と地上の人々が皆知れば、地上界の現代史もバイストン・ウェルの存在を踏まえて語り直されなければならないだろう。個人の生き方も国家政治もバイストン・ウェルありきで考え直されることになるはずだ。
その使命なる求めにより、圧倒的なオーラバトラーと巨大戦艦を率いて地上の日本国を制圧しに行こう、という言い方をすれば、フェラリオのファウ・ファウと英雄たる聖戦士の違いはわかりやすいはず。
無垢のフェラリオやエミコちゃんに語らせれば夢や希望に聞こえるものを、悪意的に歪めてるんじゃないか?というのは、そういう風に読むべきではない。『どうせ伝わらないのでしょうが』というペシミスティックな言いは、ファウファウでも同じだ。
迫水真次郎はその使命を糧に、個人的には地上への望郷や憎悪ももろともに燃やして浮上する先を求めているんだ。その情念は子供には足りない。フェラリオの節を横に除けておいてようやく生き神様のところに戻るみたいだな。
そして戦艦フガクは、コモンの人々のロマン主義も含めて、夢の実現!
富野文に慣れていてもなお時折この「を」の使い方に目が止まったりするのだが、一文に三連の使用はあまりないだろうか。富野文中でもこの用法は、主にメカの戦闘機動の叙述にするもので、加速をかける、とか、後退をする、という。「(羽の)展張」「滞空」「旋回」という一つひとつが機動の一単位として語っているニュアンスがある。
「滞空する」「旋回する」という気分とは違うんだ。と思うけど、その説明は決してされたことがなく、そんなことは言う必要も絶対にないような態度でもあるから富野ファンに対してでもあまりいわない。あえて真似をする必要はない。
その威力あるものを
アニメの台詞と少し違うが『リュクス姫様の父であり、王であるならば、その威力あるものを正しくお使いください!』だったと思う。その威力あるものを、のところは視聴者は多分そうとは聴き取れないと思う。小説のほうで確かめられる。
エイサップのヒーロー像
第十一章まで。小説を何回か読み返してもエイサップの行動は不自然なような気がしないわけではない。
ロウリィの「エイサップてめえ!」っていう、美味しいとこ取り奴、って気分と妬みは普通わかるとして、もともと優柔な性格にバイストン・ウェルの意思だかジャコバ・アオンの委嘱が乗っているから傍目からみれば実際に怪しい。エイサップにすればジャコバの代言をさせられる言われもないのにそうなるのも理不尽だ。
アフランシとか、オノレ、クリスという「曖昧なヒーロー」の系列のあとにエイサップのキャラクターは、消去法で残ったような印象にしてもわたしはべつに嫌悪感とかはない。ジョクは最終的にヒロイックになりすぎ、格好良いのはともかく地上人離れしたとは思う。
超人的生い立ちの聖戦士達
迫水の少年時代のプロフィールも冷静にみればかなり変人で、横浜育ちで自由な価値観を持ちつつ古流剣術を鍛えながら何だかんだ古典教養もある、当時あたりまえの軍国少年とは言いがたいところはある。「完全版」では迫水のプロフィールは少し薄められているけど、それでももともと超人的な育ちにはみえる。
クリスの剣道の背景は、競技としてもうだつの上がらなかったクリスのスポーツ剣道はバイストン・ウェルに来て実戦に活用できてしまい、行き着くところやはり超人的にはなっていった。エイサップは、剣道も全く習っていない。
メタ視点を当たり前に語る世代
善良で穏和、毒にも薬にもならない優柔不断で、日和見の気性にも見えるというのは、平成年代の視聴者や読者には我が身に近く、一般人にありふれた性格にもかかわらず、アニメを観るときには叩くのに手頃な主人公像だったろう。巻き込まれ型とか……。
大勢の人々がしている目先の利害、功利的な判断を捨てて「世界の意思」のような大局的な観点、モラルからものを言うのは、これも一時期のアニメの主人公にはよくあったかもしれないが、捨てがたい身内のしがらみや怨恨に駆られている当の人々にすれば上から目線で腹立たしい、世間知らずで傲慢な子供、不遜な主人公像というのもあった。
『ガーゼィ』のクリスの場合、コモン界を地上文明で汚染するのは安易な自滅パターンでやばいよな?……のようなメタ視点から判断もするのは、コンピュータRPGや映画由来でその手のカタストロフ展開を知っているからで、とくに自身の経験から得た歴史的反省ではなかった。
エイサップはアニオタでは全然なさそうだが、2010年にもなれば、世代的にもはや自然に所与のものとして、オタ教養としてとくに求めなくてもメタ視点混じりで考え、喋っているとも思える。クリスとエイサップはどう違うのかは富野読者としては考えてみていいポイントかな。
『人は、大地を離れては生きられないのでしょう』――なんでだよ、と白々しく問い返せるのは00年代には珍しい性質ではなかっただろう。場合によっては、条件次第では、天空や宇宙でも人は生活できると思うけどな。
『今そういう話はしてないです』と言われたら、――優しさとか平和の話ならわかってます、それと飛翔できない話とは別だと思います、という。そういう口を挿むのにいちいち、からかい気分や悪意は求めてない。ネットにそういう発言はありふれている。
時代錯誤発言のようなものを駆使できる人は、読者も必ずしも全員ではないだろうから、こういうことを書いても誰彼なく頷けるというわけではないだろうな。90年代と00年代の文化差は抽出できそうに思う、というくらい。
富野由悠季は「現代の青年像」については毎回、その時代に考え直し、何かしら発言しているだろう。富野記事を読んで読者も「そうだな」と思うかはべつとして、「いつも言っているな」とは思うはず。
時代錯誤発言、歴史認識のなさ。当時に生きた人の気持ちを知らないことからする、無遠慮で身も蓋もなさ。
地獄の審判官メッヘル
また新たな神話ワードが出てきたようだが、リュクスも例外ではないことに、とかくコモン人は「誰もその目でみた者はない」という暗黒世界のガロウ・ラン伝説を語ることには飽くなき絶大な興味をもっている。
悪いことをしたりウソをつくと地獄界でメッヘル様に舌を抜かれる……ような、子供の物語がされているのだとは思う。
実在するガロウ・ランに他人を裁くようなどんな法律や正義や倫理観があるのか??というと、そんなものはないので、「魂の審判」を称するにしても、ものすごく独善的で専断的に罪状を決めつけているにちがいない。実態は、捕虜の魂を拷問し責め苛むことにだけ愉しみ耽っているのが地獄の獄卒や裁判官の本性だろう、と思う。
法服をまとってその実、法や秩序を徹底的に侮蔑し、転倒するための活動をしているのがきっとメッヘル裁判だ。バイストン・ウェル物語では各シリーズの最終巻のクライマックス頃にガロウ・ランの暗黒神のような存在もちらりと現れることがあるが、その名前は憶えていたことがない。
ガロウ・ランが「法秩序の守護者」を称して審判官の席に収まっているというイメージはとても気に入った。わたしはコモン人の趣味がわかるな。
第十二章まで。
反乱軍と停戦合意する(恭順を促す)ために反乱軍と直接関係のないフェラリオを解放してみせる、という理屈がいまだによくわからん。理由は文中に書いてあるが。ここでは、フェラリオは平和の象徴のハトのような生き物なのか。
フェラリオの扱いもシリーズでそんなに一貫しているようでもなく、『リーンの翼』の中でも早い巻の頃のコム・ソムやノストゥの扱いと今ひとつちぐはぐに思える。
所詮フェラリオのこと、あんまり気にしない。
首都にいたフェラリオが反乱軍に関与していたか等はわかりはしないが、男はみんなフェラリオが好きだからお咎めなしで解き放ってやればサコミズの寛大さを示す。……そんなこと誰が信じるんだ? 真意としては、大勢のフェラリオを一か所に集めておけばオーラロードを開く要因の足しになる思惑なんだろうけど、書いてあったかな。
五万人ほどのサイキッカーを集めれば世界を変革できようと思う。……サイキッカーって数が問題なの? 超常やオーラの大小は、たとえ百万人を集めてもある一人より大きいとはかぎらないはず、生体力の大小でも前回それに似た連想をしていたな。即物的解釈のことか。