リーンの翼 (1983-86 / 2010)について。
1 (完全版1-21 : 旧版1-33)
- バイストン・ウェルの記憶
- フェラリオのだらしなさ
- 空に棲む魚の話
- 男の死に体
- 死に損ない
- 生き神様考
- フェラリオ交響曲
- ガダバの結縁
- ガロウ・ランの神話
- 英才教育…規範 / 恣意
- 卑屈にしている暇はない
- バイストン・ウェルの黴菌
- アマルガンの民衆史観
- ドラ・ロウ
- テレパシーでからかう迫水
2 (完全版22- : 旧版34-)
- コモン界の黒歴史
- トゥム、ネイラ・ザン、ノム
- 大和こころと桜ばな
- 純粋に戦いを楽しむコモン
- 理由はない
至誠 に悖るなかりしか- 「守るだけでは勝てないから」
- 至誠と桜花
- 勝つために戦うこと、戦争を始めないこと
- 俗に言う八方眼
至誠と桜花
旧48新30まで、約6(3)章にわたる暗い道のりの追跡行が終わる。発端の呟きは「至誠に悖るなかりしか」、この章末はふたたび「桜花」の和歌に返る。旧版ではここにその歌を吟じる理由は書いていない。心の中のわだかまりが消えていることを知った、とのみ。
完全版では、なんでそんな歌がこんな時に、と自分で呆然としながら、「それはアンマへの返歌であることは否定できない」と言って閉じる。返歌、というからにはアンマから迫水へまず投げかけたクエスチョンに対していうので、アンマのそれは、前夜の慟哭した「なぜ信じてくれなかったのか」「聖戦士がどうしてそんなに自信がないのか」だっただろう。
海軍五省のうち「至誠」について、前章の旧版のほうにやや詳しい。
そのいずれも、バイストン・ウェルに迫水は持たない。だからあえてアマルガンなりリンレイを仮の対象として筋を通そうとしてきた。それは誠と言えたのか、が曖昧な疑問符になっていた。追跡行をへてアンマに再会してやっと言えたことは「今日まで俺を生かしてくれた人々に、俺のできる限りのことはして見せなければ」という戦意表明になった。それが迫水の中で前後相通じたことに、迫水自身が知ることなく、言った、という経緯。旧版の上の箇所が、完全版では抜いてある。その代わりに「アンマへの返歌」と書き足してある。
迫水はバイストン・ウェルの者ではない。死に損ないの自分の情熱を燃やし尽くすためだけに闘うにしても、バイストン・ウェルの人々に対して究極的に責任をもてないという意識を自覚しつつあったんだ。それでは至誠とは言えん、確かに。
異世界から来てこの世界のために戦う戦士がどれくらい誠実であるべきかという問いは、2025年とかの今でもできると思う。まず問われているかというその意味も含めて、だな。
「53 あぶりだし」(旧)
「33 夜明けから」(新)後半
ダム・ボーテの指揮の凛烈なことを、
「も」と「は」による文の書き変えだが、「かくや」の意味は異なり、完全版が正しい。
旧版この章末(53)、迫水はノストゥの容態を見て不審に思い、クロスとアンマに問い合わせた上で「ヒロポンか……?」と初めてフェラリオを覚醒剤で操作している可能性に気づき、バイストン・ウェルにあってもそうした悪辣な手段が戦争で横行していることに愕然とする。クロスとアンマはここでは麻薬を知らないことになっている。
ここだけを読むとショッキングな場面だが、旧版のこの巻の前の方の章で迫水はフェラリオが麻薬漬けの可能性はアンマに語っており、読者から見ても今更驚愕する迫水がおかしい。
完全版ではクロスとアンマはノストゥが麻薬中毒なことはとうに承知している。迫水はクロスとアンマに禁断症状に適当な薬はないか訊ね、フェラリオと天の水についてやリーンの翼の光の回復力などをアンマがまくし立てたりするが、旧版のちぐはぐを修整した跡で、やはりぎこちなく不自然な会話をしているみたい。
神の降臨
「55 シュムラ・ドウの首」(旧)
「35 シュムラ・ドウの首」(新)
前巻、コモン人の信仰態度「理由はない」からの直接展開。
『聖戦士の出現は、正義か悪かの判定の基準であって、聖戦士が荷担しない軍が敗北を喫するのは、バイストン・ウェルの世界での理であった。』につづき、
その代り、彼等は、世界そのものに対して、本能的な恐れを抱いていた。……と続く。神がないので「神話」とはいわないが、概念は神話相当の「伝承」をもつ、までは本文中の表現にある。
われわれ地上人的な読者からすればバイストン・ウェルのそれを「神話」と呼んでも大して差し支えないが、コモン人にはその語では理解しない、というだけだ。「理由はない、知っている。信じているのだ」というほどの態度を「敬虔」と呼んでも差し支えない、も同じ。
個人としてのコモン人の信念の持ち方はばらつきがある。世界の意思の公正なる体現として映る、これは、地上人にとっての神に近い。「近い」も取り払ってしまえば、
に続く。
そこまで言って「宗教ではない」と言い張るのはいい加減、難しいと思うが、作品執筆当時の空気も感じられなくはない。1986年頃、『リーンの翼』のシリーズは『小説Zガンダム』と同時進行くらいの執筆だと思う。
完全版では、『コモン界には、一神教的な神という概念はなく、百仏、千の仏という概念である森羅万象それぞれの事象に神性が宿ると考えられているのだから、』と、たぶん妥当ではあるけど、新旧を較べれば言い方はずっと弱くなっている。
『神性が宿る』と『神である』は違う。『神の降臨である。』はとんでもなく強い。
コモンは多神教だから、空飛ぶ聖戦士はその神格の一柱に見えた、という言い方だ。またそれについては、迫水には「八百万の神」も自分の口で説明できなかったよ、というところ。旧版が惜しい。だがリーンの翼を世界の神とまで言い切ってしまうと完全版の後篇に続かなくなってしまうかもしれない。
余談
リーンの翼を神と言い切ってしまうと完全版後篇に続かないというのは、バイストン・ウェルの人々にとっては神のごとき世界の意思の体現者として顕現するには違いないけれども、もう一方では、人に使われる「道具」としての在り方をやめることはないから。
道具または「機械」とまでは言いうるかどうか。これは後でジャコバ・アオンの言い分などを読んで考え合わせてみたい。
「57 ミラヤマ」(旧)
「37 ミラヤマとゴゾの夢」(新)
凱旋し、リンレイの王座の前まで進んでいく迫水は旧版では馬上のまま、完全版では馬からおりたと書いてある。
旧版のこことはなぜ馬上のままでいいと思ったかは、うぬぼれでも傲慢でもなく素直にそう思ったのである、とある。聖戦士の威光は誰しも認めるところ。
似た場面ははるか以前の章に、リンレイの出迎えに下馬することも忘れて慌てて飛び降りるところがあった(旧15/新10)。そのときの迫水は一戦士でしかなく、降りるのが当然求められるべきだった。今度の場合は、リンレイの王座のある台上には馬上からでも仰ぎ見る高さがある。それでもやはり、馬のまま挨拶と口上をするのはそんなに絵にならないと変更になったのだろう。
「59 夜から昼へ」(旧)
「38 蜜月から抜けて」(新)
リンレイとの朝方の絡みは完全版ではさっぱり省略されている。
キャンタ・マメード
チッから来ている観戦武官キャンタ・マメードは、完全版で少しだけ人物評に字数が書き加えられて「武将候補生の若者」「優等生」「歌うように言う」と、この通読で挙げたレーン・エイムやウル・ウリアンと共通する属性をなぜか盛られてある。たぶん、以後登場しないのでは。
スパイについての返答中、アマルガンは床山を知っているが、作中ここまででガダバの床山組織についてはその名についても部外者に広く知られているとは思えず、読んで若干不審。もっとも、ノストゥ・ファウを訊問はしているはずで、そこから最近得た情報と思ってもいい。
「60 胸に血」(旧)
「38 蜜月から抜けて」(新)つづき
ミラヤマから先鋒隊の出陣にあたり、リンレイの見送りと大歓呼の呼号は完全版には省略。ノストゥとカランボーの会話と世話をした経緯でやや親しくなった関係が新たに補われている。
スパイ・インテリジェンス
聖戦士の威光とこの時勢を見てミラヤマのリンレイ軍に寄り集まってくる有象無象の傭兵武者の中には先日までガダバ軍に与していた者もおり、スパイもいるだろうと思えるのだがほとんど問題ではない。『怪しんでいる間に、戦争は終り、傭兵たちは、結局の処、戦争が終る頃には、開戦前から勝つ方についていたような顔をして、戦功の報酬を待つのである。』に続き、
どっちにしても当時のコモン界に諜報組織の認知は乏しいことは前にも書いてあった。豪胆さか要教養かのスパイ観はだいぶ異なる。このあと、流浪の傭兵達の動向は世の成り行きの目安、民意の秤という本論が続く。
孔子曰ク、地ハ神気ヲ戴 ス。神気ハ風霆 ナリ。風霆ハ形ヲ流 キテ、庶物露生ス。……鬼ヲ神ニシ帝王ヲ神ニシ、天ヲ生ジ地ヲ生ズ。
引用は「礼記」孔子閑居篇より。完全版では「露生 ス」にもルビが加えられている。
続く解説は新旧ほぼ同文。前章での「神」論について東洋的な方位から補っている。雷 として示される神とは、
文意自体は長くなく、難しくはないものの、『具体的な宗教が生まれる以前は、人は、広い概念で自然と人の関係を摑んでいた(気)。賢しく考える手掛りを得るための道具(理 )としての宗教などは、必要としなかったのだ』(気から理へ)のような宗教史観の点ではそれでも現在は一歩退いて読むかもしれない。「富野文中のここにある」とメモしておくには好都合だろう。
「浩々たる元気は、天地を造るのだ……元気とは、天と地の意志を汲む力のことだ」(旧。新版では、「赫赫たる元気」)のようにわかる迫水は聖戦士の自覚ができたにしても戦前にどういう基礎教育を受けていたのか(語彙力)はわたしは今わからないところだ。学校だけでなく剣の先生も個人指導してたかもしれない。
上は、巻末の引用出典によると、東京大学出版会『気の思想』(1978)よりと書いてある。この本いまちょっと高額なのと、近所の図書館にもないので捜してもらうのも面倒だが引用箇所は「礼記」なのでそこ自体は困らん。どこにでもある。その解釈のことで……
わたしは孔子についてあれこれ言えるほど真面目な儒家じゃないが、孔子の宗教性と古代宗教の進展についてなら、エリアーデの『世界宗教史』中にその章があるはずで、わたしの関心なら今そちらでもいい。エリアーデ再読も遅速だが、思わぬところで接点を見つけた。
勝つために戦うこと
上の神気、元気に続く、再々々々度にわたる日本軍批判の文は、新旧版で内容がだいぶ異なる。
〝戦闘ハ勝利ヲ得ル唯一ノ手段ニシテ、戦闘ノ必要トスルトコロハ何ヲオキテモ充足セシムベシ〟(旧、海戦要務令)から続く〝日本軍はなぜ大陸や太平洋で開戦できたのか〟(新)という問題については、日本人は戦闘という基本概念を喪失していた、作戦を策定したインテリの日露戦争以来の気分のままの妄想のせいだ、というのは言葉は変われどすでにくり返しでもある。
完全版では、ミラヤマで軍需品の調達問題にかかわったことから軍需産業(資本家、経済人)の関与、大手新聞や日本放送協会の関与と、戦争を消費活動と考える人々について逆算的に迫水にわかっていったことが書かれる。
戦争を始めないこと
上は、まだ大ざっぱに言えば「勝てる戦い方をしなかったからだ」との思想で、では戦争自体は是か非かには踏まない。
の一文は旧版にはない。これは富野論としては今後、重要な差異だろう。
完全版41章に挙げる古典的出典では『孫子』『論語』『老子』に続けて、
を平和を維持するということはいかなることをするかの学問として挙げている。
「61 王と拳銃」(旧)
「39 王とノストゥと」(新)前半
旧版のこの章は一章すべてがゴゾ・ドウを主人公にしたほとんど独立の短編小説、または詩。この文章のリズムを味わうことができれば詩と思っていい。
旧版の文中では「ゴゾ・ドウ」は「ゴゾ」と略されることはなく常にフルネームで書かれるようだ。完全版にはその規則はない。
完全版でも、弾丸の一発が不発になること以外は旧作を完全に保存してある。
「62 異世界人」(旧)
「39 王とノストゥと」(新)つづき
これは言うまでもなく2000年頃のベストセラーについての言及。今はそれほど聞かなくなったかもしれないが、全くというわけではまだない。
「63 ダーナとダム」(旧)
「40 ダーナとダム」(新)
接収した工場の機関砲を急いで据え付けて試射もせずに接近中の敵とそのまま実戦、はあまりに無理と思われたのか、完全版では試射まではしてみる一くだりが挿む。その大慌ての中でノストゥのことも頭から消し飛んでしまうのだった。
完全版ではこの章の始めから果樹林や田んぼの周辺のシチュエーションの描写を挿みつつ、開戦するとダム隊を迎え撃つダーナ隊の騎兵戦術がみっちり加筆。ここはいま頭の中で概念的に追っているけど、その興味があればあらためて手許で図に描きながら追い直してみるといいかもしれない。「戦術巧者だ……」との富野文。
「64 床山の名誉」(旧)
「41 名のあるところ」(新)
「儂の子等は、まともすぎた。ガロウ・ランの力にすがる術でも知っておれば、男になれようものを……」
「しかし、民は、シュムラ・ドウ様を嫌っていましたぞ?」
に続き、
完全版で加筆された「ガロウ・ラン観」のうちでもここに来て痛快な一言。ちなみに完全版のメタバはシュムラを呼ぶのに「様」は付けない。
上に続く文、『二人は、老いたのである。』から、強大なガダバの存在は二人に暴虐な支配者になることを忘れさせ、治世者にした……
これは文意が逆転してみえる。わたしには、ここまでの文脈からなら旧版の方が正しいように思う。読み方では、ゴゾら親達は若いままの行動原理を老いるまで実践せずに治世者になってしまったが、暴力という「簡単な論理」は子らに引き続き実践するよう「任せた」。任せたところが子の世代は貧弱であった、という意味かな。
文意が逆になっても文脈上、意味が通じる(だいたいわかる)とはな……。言葉の面白さではある。著者は御自分の文章を長年をおいて読み取りかねる、「これは書き誤りだな」と判断しているらしいリライト箇所がいくつもある。読者としてはもともと合ってる気はするとか、さらに間違ってる気がする等の面白さもあった。
『男をうごかす力になっている女の色香以前の属性というものはなにか』
ゴゾ・ドウは知っているのだが、口にするのは難しい。言葉にしてしまうのは面倒なので、笑った。フッフフ……ハハハ! これは完全版の加筆。
この『属性』について、はるか以前の章(旧16新11)では迫水の台詞を借りて「女の魔性」と呼んだだろう。旧版のそれはいかにも陳腐な表現で、まだしも2010年頃の現代には「女性性」とでも呼ぶのがセオリーだった。その「女性性」なる言葉にせよ、女性の具体的にどんなところも意味してはいない、所詮ナンセンス語だとわたしは思う。
俗に言う八方眼
完全版では文中に当たり前に書き流していていちいち八方眼の説明はない。
八方眼はバイストン・ウェル物語の主人公に伝統の特技、聖戦士のお家芸ともいえる。オーラバトラー戦記(5巻)でも「俗に言う八方眼である」と書き出される。そのさい、「少なくとも百八十度の視野」「百八十度以上」とも書かれる。ジョクもクリスもこれを発揮するがその修業などはない。シリーズ戦い抜いた末に終盤で身に着けている。
新旧でその描写が異なることもあって、わたしはカランボーが完全版でいつ退場したのか憶えてなかったが、どうもこの瞬間の錯綜状況を何か読み飛ばしていたらしい。カランボーについて作中で触れられるのもこの章が最後。
完全版の文中で最後に触れられる箇所は、わびしいが、完全版では前章にノストゥとカランボーのささやかな会話シーンが追加されていたのでもあった。フェラリオの話はしないことはこの通読の最初からいってる。
「65 アマルガンとリンレイ」(旧)
「41 名のあるところ」(新)つづき
そんな事実あったっけ? なかったと思う。完全版では、『あのサンダルが、リーンの翼を顕現するかどうかは不明なのだが、迫水は、リーンの翼とは無縁だとは思えないという』とある。迫水の信心。
カランはシュムラ軍との戦いで大いに働いたはずで、不可解な言い草。その後の二週間あまりで、ミラヤマを飛んでドラバロまで送り戻されたような扱いは考えられない。完全版ではこの台詞は「サッド・アデタプトなんか」と聞いたことのない人物のことになっている。
「66 ゴゾの前」(旧)
「42 ゴゾの前の闇」(新)
丘の斜面に横断幕を巡らすというのは、つい最近べつの小説で読んだばかりの気がする。それと思い当たるようなものは『ガーゼィ』くらいしか読んでいないと思うが、ガーゼィのそれらしき箇所が今ちょっとわからない。憶えておく。ずっと注意して読んでいるつもりでもこれで、無念だ……。
「69 ベッカーラの炎」(旧)
「43 ベッカーラの炎」(新)後半
コム・ソムが空から撒くビラについて、旧版では、『勿論、印刷の機械などはない。』として、
完全版では、
文字の書ける兵士がカーボン紙を使う。それも、「携帯できる印刷機」がないので、印刷機自体はこの世界にすでにあるのかもしれない。印刷機については後の巻の展開でさらに触れられていたような気もする……どうだったか。
わが恋は火中の車 かた輪ぐるまよ
ただに怨を載せて燃えける
完全版では「火中 」「怨 」にルビが書き足されている。「うらみ」ではないのか。歌に対する迫水の感慨は新旧で異なる。
旧版の「体験できた」についてはこれまでの「ロマンチシズム」等を引いて、迫水は地上で体験できなかった青春をバイストン・ウェルにきて始めて得られたことと、また小説執筆当時(80年代)の、1950年代や60年代生まれの戦後世代にとって自分らは「体験」から切り離されている、何もない、という一般的な風潮も思わせるだろう。
それはいいとして、2010年の解では「それを悪しきものにしなかった、よかった」という総論にして穏やかなものだ。当たり障りのないくらい。そのどちらを採るかには、今後まだ論じたいことがあってもいいだろう。
歌の真意なら、やるせない怨みを込めてでも激情に生きたい、生きるべきこと、じゃないのか? それはまだくり返していい。
「70 地上」(旧)
「44 地上」(新)
すでに笑いを挟むような余地のないクライマックスなのに妙にユーモラスに感じるのはやむない。根っから爆弾野郎だったよな、愛すべき。旧版のここは、すでに原爆が二度使われた事実を迫水は知らないおかげで「間に合った」と安心できたのだと書く。それは悲しい。
「チョンタルの血の歌」が完全版では省略。その変更に伴って、それに続く、
は完全版ではここでは語られない。それはきっと後篇に保留されることになるだろう。迫水の故郷を見届けたリンレイが消え、喪失感が迫水を生身の意識にもう一度引き戻し、生々しい怨み・怒りを吐き出させる。浄化された魂になりかけたところで『我に返った』みたいでもある。
歌の詞はリンレイのなかに戻ること、迫水はリンレイのなかに戻らなければならないと教えているのかもしれないが、それを裏切って迫水は再度の飛翔を欲望する。リーンの翼は、その迫水の欲に答える。
として、完全版2巻と、旧版全6巻まで終わり。新旧対読はここまでとし、完全版はこのまま3巻へ続き。
バランモン
第三巻再開。第一章から。
ワーラー・カーレーンのシュエル・リドンのスンガリカというか、スンガリカのシュエル・リドンというのかも知れないが、そこにいるジャコバ・アオンのところ。
バランモン。コモン人の学者、賢者、知識者一般をいうようだ。この口ぶりでは知識者を「バランモン」と呼ぶ習慣はフェラリオでなくコモンのものらしい。作中の登場人物がそう呼んだり呼ばれたりしているのを見たことがないけど。インテリとは頻繁に呼んでいるけどな。
バランモンはインドのバラモンのイメージかどうかはわからなくても連想は当然するだろう。わたしは、もう何か月も前になるけど、「英雄叙事詩の時代」が語られるとき印欧語族のケルト人のそれと、メソポタミアはシュメールの叙事詩のスタイルが似ていることから「英雄時代に共通する社会体制」なるものを予想しえ、それは社会の三区分制だというクレイマーの言及しているデュメジル等の話を思い出す。王侯、祭司、庶民。そのうちの祭司の階級に当たるとみなされるバラモンとかドルイドだと思っている。バイストン・ウェルはまさに英雄時代。
このあとすぐにバランモンのムツトウが登場する。
バランモンは旧版の範囲では登場しなかった、迫水が会ったことがないタイプのコモン人で、流浪の学芸家、「哲学をかたる寄生虫」とも言われている。処によっては尊ばれるが、アマルガンのような(実戦主義の)武者には嫌われている。
インドの話の続きだと、ミリンダ王みたいな王侯の顧問をしている学者もいる一方、諸方を流浪しては議論を好む乞食学者もいたとかの……。そういえば『十王子物語』をトピックを立てたきり中断して忘れているけど、ああいう伝奇に出てくる。
出生によるカーストとしての知識者階級ではなさそうか。婆羅門か仏僧かのような、宗教はない・神はいない、ということにバイストン・ウェルはなっている。日本的にわかりやすいイメージの語彙にはないのか。修験者や修行者というわけでは必ずしもなさそう。道人とか上人ではどうだろうか。
歴史については「フェラリオの語り」に歴史学者の居場所を取られてしまうのではないかと言ってた。フェラリオとバランモンに学的な交流はなさそうでもある。
水輪
水輪は「みずわ」とも読むようだがここは「みなわ」と読みたい。本文のそこにルビは振っていない。
少女のミ・フェラリオは羽の生えたフェアリータイプなのに水界では人魚のような伝説もされる。
「みなわ」にこだわるのは三善晃「音楽詩劇 オンディーヌ」から
妥当ではある
クスタンガの丘の結界を形成する嵐の壁の実在についてと、かまいたち現象との関連を語る1ページほどの文章はわたしには意味がよく掴めない。言わんとしているらしいことはわかる。文章が支離滅裂で前後のつながりが読み取れない、怪文だと思う。
嵐の壁にコモン界のものが接触することは過去にない、というのはジャコバの記憶違いで、実は頻繁にあって珍しいことではないのでジャコバの記憶に残らなかったが、やはり金輪際なかったと言っていい。
それとはべつに、
かまいたち現象が確認されたとき、
しばらく悩んでみてもあまり「妥当」な推論には思えず、行方不明者とかまいたち被害者の関係は、とくに語っていない。それとはまたべつに、不思議に思える思案の筋道を「不思議ではない」と決定する論法は以前の章でもあった。
ファンタジーにこういう書き方はあるだろうか?
富野読者でも、ここで富野監督が意識的に幻想文学を書いていると思う人はあまりいないだろう。「ボケておられるのか」と思うと思う。ジャコバはかなり耄碌している……地の文はよくわからないことを「理屈の上で妥当」としている。不思議の国のアリスみたいなものとも違うし、先例を何に求めるといえばいいかも思いつかない。ゴリゴリした狂文。
我に返る迫水
これは驚くべき。完全版で読んでいる読者は不審に思ってもいいだろう。『リンゴの唄』について旧版ではたしかに迫水はそんなことを思いながら昇天していったみたいではあったが、完全版2巻を読み返せば、そちらでは上のような感想を呟いているのは迫水ではなく、リンレイの意識だったはず。
サコミズの故郷の地上界を見、その明るい歌を聴きながら少女リンレイは感動して蒸発していったようだった。迫水の方は、その瞬間までほとんど自我も拡散して自分が誰だったかもあやふやな魂に浄化しかけていたものが、リンレイの消滅に心引き裂かれ、愕然として我を取り戻し、リンゴの歌だとぉ! つい今しがたまで戦争をしていたのにこんな能天気は許せん、こんな日本に誰がいるものか! 俺は日本人を捨てた! と激昂したことでオーラロードが再び開いた。
オーラロードを通っている間の迫水の意識は混迷していて間のワーラーカーレーンの光景なども素通りしていく。わけもわからないままその界に突入したのだろうけど、
と侮蔑するジャコバ・アオンには唾棄し返し、見知らぬ船上でリンレイ似の少女の声を聴いて目覚めたあとには、上の感情的経緯はけろりと忘れていたらしい。ダークサイドの怨念の塊のようには、意外にも迫水はなっていなかった。驚くべきこと。
前回、∀ガンダムのときに引用したが、上の「我 のありよう」については『王の心』と引き較べるのがよい。だが、『王の心』は入手が難しくなりつつある作品でもあり、べつに∀作中でそのように言われていることでもないから、今は富野作中のエゴについての延長というしか。ここで「我に返る」と書いておくのは適当か。
「我であるもの」は純粋に戦いを楽しむもの、我執ゆえに戦うためには戦う相手としての他者を求める。それはコモン。我を脱却してしまうとコモン界からもいなくなる。
アマルガンが新国家建設を後の者に託してその地を去った心境は、とても興味深いが、後に出てくるのを待とう。
『リンレイ・メラディをガダバのゴゾ・ドウの刃から守ることができなかったことを恥じた聖戦士サコミズは、雲のような巨人になって霧消し』云々と、伝えられる中にリンレイや迫水だけでなく「ゴゾ・ドウの末路」も色々と曲がって伝わっていることもわかる。ゴゾ・ドウはベッカーラ以前に没したはずであったが、やはりラスボスとして語り直され、リンレイとは刺し違えたということになったのだろう。
刺殺の場には迫水、アマルガン、もう一つのサンダルを履いて飛来したリンレイ、の三者しか居ず、リンレイの遺体は残ったようだが迫水は蒸発し、アマルガンは跡の事情を取り繕うしかなかったのだろう。
読み返すと旧版ではリンレイがその場に登場したときサンダルの翼が顕現しており、挿画も描かれているが、完全版にはサンダルについての文はない。なぜ突然リンレイが乱入してきたのか不明だし、例のサンダルはその後どうなったか新しい方だけを読んでいると記憶があやふやになっていたかな……。
わたしは『リーンの翼』旧版はカドカワノベルズ(新書判)でこれまで読んでおり、文庫版で読んだことはない。その違いはないんだろうと思っていた。イラストについては湖川友謙による本しか見てないけど、「サンダルの翼が描かれている」の違いなどはあったのかな……? それは文章にあることだけど。
ほかは……イラストでテラビィの人相が特定できる程度の情報源としてしか言及はしてなく、あとは好み。『オーラバトラー戦記』については読者によるイラストの好き嫌いがありそうだ。
ヒロポンの記憶
食後の甘い紅茶と蜂蜜菓子に元気を回復させられた迫水は、桜花出撃前にのまされたヒロポンのような作用をまた連想する。
迫水はヒロポンについて作中でこれまで三回ほど思い出しているが、そのつど「まるでヒロポンだ」と以前も思ったことを忘れているようだ。旧版五巻ではその巻のうちで二回思い出し前後で事実のつじつまが合わなくなるほどだった。でもまたヒロポンを思い出す。ヒロポンを使った後でヒロポンのことを忘れるという中毒なのかも。
逆撫でするがおさめる
バランモン会話の続き。
「蓋然的な言い方」については既に再三再四。『リーンの翼』に入ってからも幾度か挙げたはず。
富野的な用法の中では、「蓋然的な言い方は無責任で腹立つ」「大人の世慣れた、空疎な言葉使い」という否定的な意味だけでなく、「気持ちを逆撫ではしても承服するしかない」「ウソは言わなくて済むものね?」という有用さを暗に語っていて、富野監督自身がよく使っている。
『何々、という言い方があります』と言われるたび人をイラッとさせるが、否定はさせないという使い方をする。独善ではないかと思えるのだが…等。
ウソを言うためというより、それをもってファンタジーやマジックも成立させる技術にしようというテーマが窺われる。小説作品を読んでいると年代的な(年齢的な)変化は微妙だが、若い頃(三〇代)にはまだそれほど表に現れてこない。積極的に用途を考えているのは90年代になってからのよう。
現実世界ではたとえば、「われわれ民族の方針の正しさは神の認めるところで、このたびの侵略が神意にもとることなら神罰があったはず。現に罰されないのは、神が認めているからだ」とか、優生学などを語るときには問題がある。
神意は実証はされないが反抗を塞ぐにはその言い口が見え透いていても実際に通用している言い方だ。その論法を批判する人が少数いたとしても、ネットの大勢はそれを通説、事実、として信じるのは今も同じ。
これはまるでフロー教の教義。「空を飛ぶこと」と「世界平和」がなぜ関係あるのか? 宇宙に行くため?
バランモンの話はわたしにはとくに面白いみたいだけど、あまりかかわると横道に逸れる、はまるので、程々に切り上げるのがよいみたい。信じてはいけません! と言う。
使う人次第です
この上まだバランモン話が面白いが――
迫水の去ったシッキェの地は急速に軍事国家になりつつあり、その尖兵たる兵器オーラバトラーなるものの第一号の名が「サッコウ」、という話は当の迫水の気分を甚だ害するのだけど、ムツトウ師は聖戦士伝説が大衆に訴える影響力、社会心理についての知見を披瀝するだけで迫水本人への悪意はないらしい。そこで『皮肉なものですなあ』のように言わない。
「……!!」と迫水は思うが、堪えて技術的な関心に話を戻しつつ、
「道具は使う人次第」という台詞は、これは昔ながらのアニメファンの身に馴染んでもいる信条で、善人には正しく使われるが悪人に渡れば悪事に使われる、鉄人28号みたいなつもりでモビルスーツ(軍用兵器)も語るのはおよそ平成頃まで通じてガノタにも引き継いでいる。たとえばホワイトドールもそれで語ろうとするので……『∀』はロランの無条件の善良さありきのストーリーだ、と後から言う人もいたりする。
Gレコまで下るとそれにはもう躊躇う。この『リーンの翼』は2010年。
バランモンはあくまで知識者としての楽観的態度。人間は集団になれば相争うもの(性悪説)であるから、オーラマシンのような強力なものは、使う者が善人であれ悪人であれ、誰が使おうといずれは戦争の道具になるのでは……とは思ってもみない(想定しない)。あえてシニカルな言い方をするつもりもなかった。
――ではある。
(本来的に闘争的なのだ とは言っていない)