ミルチャ・エリアーデ著書の再読進捗とメモ
エリアーデの本のデータをしばらく前から手元で整理しているが、『宗教学概論』から始め、それがたまにする暇潰しの手遊び状態になっていて進んでいないので、進捗状況を管理する。
べつに、エリアーデの信者に今からならなければならないわけではないが、2025年の出版書にでも70年前のその書名が今でも載っているのを先日も見たところだ。わたしの読書傾向とはもとより接点は多いはずだから、トピックを立てておけば行き交いはしやすい。
今は、『宗教学概論』久米博訳、原書が1949(第一版)・訳書が1979の、ニ巻「豊饒と再生」第七章88、にいる。
今思いついたのは、「ヴェルトアンシャウウンク」という言葉について、1970年代にル・グウィンが「コスモロジー」と呼んでいたよなというのを思い出した。エリアーデはエリアーデ独立で以後扱う。
直近には矢島文夫『ヴィーナスの神話』(1970)中で引用されていた。わたしはこの本には昔世話になっている。この中には石田英一郎『桃太郎の母』についてかなりの字数を割かれていて、今その再読もしたい。
最近のものでは、『宗教認知科学入門』(クレア・ホワイト, 訳書2025.5)を置いている。全然読んでいないが、タイトルだけで「関心がちがえば、言うこともちがう」と思って済みそうな題ではある。けど、わたしはどっちかと言えば認知科学のほうの出自であるはずで……こうした「概論」や「入門」を開くと、既存の学閥批判か同派閥の名簿しか載っていないような印象にいつもなるが、先行研究の要覧を挙げるのが要務だからその印象で合ってる。
これらは一々にやっていては始まらないから、同時に読む。石田英一郎トピックなどを別に立てなければ経過もここに書くかな。
昨夜90まで。
94まで。第七章「大地、女性、豊饒」おわり。
第八章冒頭95、ここに、 われわれは蓋然的であるが便利な定式を用いて、いわゆる「植物礼拝」を次の群に区別してみよう。 のようにあるとき、わたしは「蓋然的」という言葉の意味はもとよりわかっているつもりではあるが、続くリストを眺めてみてどのように蓋然的なのか考えてみないとやはりいまだによくわからなくなったりする。
「蓋然的であるが、便利な」定式の書き方はどういうものを言うかの例にここを憶えておいてもいいか。
昨夜『ブレンパワード』よりビープレート仮説の印象がわたしには残っていた。
内容を挙げていないと不便か。
(a)石=木=祭壇の型。これは宗教生活のもっとも古い層において、有効な小宇宙を構成しているもの(オーストラリア、中国=インドシナ=インド、フェニキア=エーゲ海諸島)。 (b)宇宙像としての木(インド、メソポタミア、北欧、など)。 (c)宇宙における神の顕現としての木(メソポタミア、インド、エーゲ海諸島)。 (d)生命、無尽蔵の豊饒、絶対的実在の象徴としての木。大女神や水のシンボリズムと関係をもつ木(たとえばヤクシャ Yaksha)。不死の源と同一視される木(「生命の木」)など。 (e)世界の中心で、宇宙を支える木(アルタイ人、北欧人、などにおいて)。 (f)木と人間との神秘的な絆(人類を産む木、祖霊の容器としての木、加入儀礼に木が存在すること、など)。 (g)植物の再生、春、年の「再生」の象徴としての木(たとえば「五月木」など)。 以上の分類は簡略で、おそらくは不完全であろうが、少なくとも、すべての資料に共通な特徴に、はじめから注意をむけさせる利点はある。
太字は、原文では傍点部。 これが蓋然的なと断っている理由は、本文のこれまでの章の態度と、序文にあったか「比較宗教学」を提唱するときのスローガンを念頭にする。
100 「逆立ちした」木まで。
102まで。
105まで。
わたしは今、本文の「読み飛ばし」や「斜め読み」はしてない。カッコ中の発音記号のいちいちも読んでいるけど、「原註」の参考書目は確かめずに進んでいる。それをするともう全く読み進まなくなってしまうからで、それでなければ同時併読30冊くらいなら今いける。
108まで。
116まで。
120まで。
「第2巻 豊饒と再生」終わり。続けて3へ。ちょっと飛び飛びになりがちだが落としてはない。
この章の終わりでもくり返し力説されていることだが『木や植物は、木や植物そのままでは、けっして聖とはならない』――のような言い方のことは、一度は飲み込めても、しばらくその態度というか理解の仕方から離れていると、長く保持していることができないのか、忘れるのだ。忘れるなら読み返せばいいようなことだが、この忘れるということをよく知っていないし、それで争うということもあるみたいだな。
131まで。
139まで。第九章おわり。
この終節、『農耕の発見が、人類に豊富な食物を確保し、それによって人口の大幅な増加が可能になったために、人類の運命は根本的に変った、と通常いわれている。だが、農耕の発見が決定的な結果をもたらしたのは、まったく別の理由による』――以下、その別な理由を述べるのはこれまでのまとめとして。
その得た理論、諸々の類比の啓示、人類の発展に重要になった心的綜合……を、啓示された者が誰かや、啓示体験の内実はここでは述べようがない。『植物世界の観想から』のようにいわれるが、夢の話はまたいつかするのかな。
このあと著作集の順でなくいったん『世界宗教史』全四巻に進んで30年後のそれとどう違うか等あらためて読み返したい。わたしに手に余るかというと、そんなことはないと思うが、今そのつもりでいて古い本であまり停滞しておられないはずだが。
143まで。
146、十章おわり。
155まで。十一章おわり。
158まで。
161まで。
165まで。第十二章おわり。この二章あたりもまた何度読んでも、『今はいったん目を通し、また後で読み返してみないとならんな』という気持ちになるので、手元に持っておいて時々読み返せるといいんだ……通読すべき、とは既に書いたけど、まずテキストのアクセス性。
「概論」は必ずしも「教科書」じゃない、「基礎論」とも限らないが、ともかく「再習」を求めること。
その、書籍の紙束自体が重量物になってしまうので、とまた、こうした三十年前や半世紀前とは「文書に向かう読者の環境」が違ってしまい、『朝からスマホをいじったりPCでSNSの粗雑で大量の文字を読み流し等を習慣にしながら、要件に当るときは腰を据えて紙葉を一枚一枚丹念にめくる』などいう、態度の使い分けする気持ちの距離差は相対的に大きくなっている。しかも、時代・世代の情報環境というその事情をほとんど誰も意識しない。それぞれが『自分の興味のあることは、他の誰にとっても読まれるべきだ』のような思い込みしかなくて、その間に、学ばれなければ色褪せていく知識は継承されないみたいだ。
「3 聖なる空間と時間」、『宗教学概論』終わり。このあと、20年ほどあとの『世界宗教史』に行く。内容は重複するところも変化もあるだろうが、わたしに分かるならその比較もあるのと、各地・各時代・各宗教の個別事情からの照明が関心になるはず。
『世界宗教史』第一章 1-2まで。読み始めはやはりわくわくするね。今ここまで。
7まで。第一章おわり。
第二章 10まで。
14まで。
15まで、第二章おわり。
第三章の冒頭、S.N.クレーマーの引用から始まる。わたしはクレーマーの著作も再読したくて積んだきりになっているが、この際に併読するか、また遠い先にするか……。「予定」としておくと嘘になりそうだし、自分の根気の問題でしかないのだが、悩む。
『シュメールの世界に生きて』S.N.クレーマー 久我行子訳、読了。 続き、もう一冊同著者の『聖婚』を今読む。
『聖婚 ―古代シュメールの信仰・神話・儀礼―』(1969, S・N・クレーマー 小川英雄・森雅子訳, 1989)、おわり。
エリアーデのここに言及されているのは『歴史はシュメールに始まる』だが、それは今回いいとする。その邦訳はちょっと古い(増補版での追加分がない)のと、英語で新しい本をわたしは持っていたが今手元になく、電子版があるわけでもなくて古本を見たら高騰していたので……そこまでこだわらなくていいだろう。この『聖婚』はしばらく前から読み返したかった。
クレイマーの本については、
彼の研究上の特色、すなわちシュメール語を読む際にそれの文法の詳細な分析よりはむしろ自身の主観によって理解することが多いという点(これは文学作品を「なめらかに」読むために有効ではあるが)
という批判をされることが、当然ながらある。彼の研究の動機に文学志向的なものがあるからだ、とは自伝に述べているし、研究スタイルにしても、たとえばロシアの研究者は古代人の経済観念や技術史的な興味に強かったようなエピソードも加えていた。
もう少し突っ込むと、フレイザー批判や、もしかすると柳田批判のようなときにも同じような語調をたびたび聴いているかもしれない。井筒批判などもそうかな。
『世界宗教史』16-20まで。すぐだった。このあと、『古代オリエント集』からアッカドの部にもどる。
『エヌマ・エリシュ』を通し読み、世界宗教史は21-22まで読む。次は、『ギルガメシュ叙事詩』。
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宗教学概論
エリアーデの本のデータをしばらく前から手元で整理しているが、『宗教学概論』から始め、それがたまにする暇潰しの手遊び状態になっていて進んでいないので、進捗状況を管理する。
べつに、エリアーデの信者に今からならなければならないわけではないが、2025年の出版書にでも70年前のその書名が今でも載っているのを先日も見たところだ。わたしの読書傾向とはもとより接点は多いはずだから、トピックを立てておけば行き交いはしやすい。
今は、『宗教学概論』久米博訳、原書が1949(第一版)・訳書が1979の、ニ巻「豊饒と再生」第七章88、にいる。
今思いついたのは、「ヴェルトアンシャウウンク」という言葉について、1970年代にル・グウィンが「コスモロジー」と呼んでいたよなというのを思い出した。エリアーデはエリアーデ独立で以後扱う。
直近には矢島文夫『ヴィーナスの神話』(1970)中で引用されていた。わたしはこの本には昔世話になっている。この中には石田英一郎『桃太郎の母』についてかなりの字数を割かれていて、今その再読もしたい。
最近のものでは、『宗教認知科学入門』(クレア・ホワイト, 訳書2025.5)を置いている。全然読んでいないが、タイトルだけで「関心がちがえば、言うこともちがう」と思って済みそうな題ではある。けど、わたしはどっちかと言えば認知科学のほうの出自であるはずで……こうした「概論」や「入門」を開くと、既存の学閥批判か同派閥の名簿しか載っていないような印象にいつもなるが、先行研究の要覧を挙げるのが要務だからその印象で合ってる。
これらは一々にやっていては始まらないから、同時に読む。石田英一郎トピックなどを別に立てなければ経過もここに書くかな。
昨夜90まで。
94まで。第七章「大地、女性、豊饒」おわり。
蓋然的であるが便利な定式
第八章冒頭95、ここに、
われわれは蓋然的であるが便利な定式を用いて、いわゆる「植物礼拝」を次の群に区別してみよう。
のようにあるとき、わたしは「蓋然的」という言葉の意味はもとよりわかっているつもりではあるが、続くリストを眺めてみてどのように蓋然的なのか考えてみないとやはりいまだによくわからなくなったりする。
「蓋然的であるが、便利な」定式の書き方はどういうものを言うかの例にここを憶えておいてもいいか。
昨夜『ブレンパワード』よりビープレート仮説の印象がわたしには残っていた。
内容を挙げていないと不便か。
太字は、原文では傍点部。
これが蓋然的なと断っている理由は、本文のこれまでの章の態度と、序文にあったか「比較宗教学」を提唱するときのスローガンを念頭にする。
100 「逆立ちした」木まで。
102まで。
105まで。
わたしは今、本文の「読み飛ばし」や「斜め読み」はしてない。カッコ中の発音記号のいちいちも読んでいるけど、「原註」の参考書目は確かめずに進んでいる。それをするともう全く読み進まなくなってしまうからで、それでなければ同時併読30冊くらいなら今いける。
108まで。
116まで。
120まで。
「第2巻 豊饒と再生」終わり。続けて3へ。ちょっと飛び飛びになりがちだが落としてはない。
この章の終わりでもくり返し力説されていることだが『木や植物は、木や植物そのままでは、けっして聖とはならない』――のような言い方のことは、一度は飲み込めても、しばらくその態度というか理解の仕方から離れていると、長く保持していることができないのか、忘れるのだ。忘れるなら読み返せばいいようなことだが、この忘れるということをよく知っていないし、それで争うということもあるみたいだな。
131まで。
139まで。第九章おわり。
この終節、『農耕の発見が、人類に豊富な食物を確保し、それによって人口の大幅な増加が可能になったために、人類の運命は根本的に変った、と通常いわれている。だが、農耕の発見が決定的な結果をもたらしたのは、まったく別の理由による』――以下、その別な理由を述べるのはこれまでのまとめとして。
その得た理論、諸々の類比の啓示、人類の発展に重要になった心的綜合……を、啓示された者が誰かや、啓示体験の内実はここでは述べようがない。『植物世界の観想から』のようにいわれるが、夢の話はまたいつかするのかな。
このあと著作集の順でなくいったん『世界宗教史』全四巻に進んで30年後のそれとどう違うか等あらためて読み返したい。わたしに手に余るかというと、そんなことはないと思うが、今そのつもりでいて古い本であまり停滞しておられないはずだが。
143まで。
146、十章おわり。
155まで。十一章おわり。
158まで。
161まで。
165まで。第十二章おわり。この二章あたりもまた何度読んでも、『今はいったん目を通し、また後で読み返してみないとならんな』という気持ちになるので、手元に持っておいて時々読み返せるといいんだ……通読すべき、とは既に書いたけど、まずテキストのアクセス性。
「概論」は必ずしも「教科書」じゃない、「基礎論」とも限らないが、ともかく「再習」を求めること。
その、書籍の紙束自体が重量物になってしまうので、とまた、こうした三十年前や半世紀前とは「文書に向かう読者の環境」が違ってしまい、『朝からスマホをいじったりPCでSNSの粗雑で大量の文字を読み流し等を習慣にしながら、要件に当るときは腰を据えて紙葉を一枚一枚丹念にめくる』などいう、態度の使い分けする気持ちの距離差は相対的に大きくなっている。しかも、時代・世代の情報環境というその事情をほとんど誰も意識しない。それぞれが『自分の興味のあることは、他の誰にとっても読まれるべきだ』のような思い込みしかなくて、その間に、学ばれなければ色褪せていく知識は継承されないみたいだ。
「3 聖なる空間と時間」、『宗教学概論』終わり。このあと、20年ほどあとの『世界宗教史』に行く。内容は重複するところも変化もあるだろうが、わたしに分かるならその比較もあるのと、各地・各時代・各宗教の個別事情からの照明が関心になるはず。
世界宗教史
『世界宗教史』第一章 1-2まで。読み始めはやはりわくわくするね。今ここまで。
7まで。第一章おわり。
第二章 10まで。
14まで。
15まで、第二章おわり。
第三章の冒頭、S.N.クレーマーの引用から始まる。わたしはクレーマーの著作も再読したくて積んだきりになっているが、この際に併読するか、また遠い先にするか……。「予定」としておくと嘘になりそうだし、自分の根気の問題でしかないのだが、悩む。
『シュメールの世界に生きて』S.N.クレーマー 久我行子訳、読了。
続き、もう一冊同著者の『聖婚』を今読む。
『聖婚 ―古代シュメールの信仰・神話・儀礼―』(1969, S・N・クレーマー 小川英雄・森雅子訳, 1989)、おわり。
エリアーデのここに言及されているのは『歴史はシュメールに始まる』だが、それは今回いいとする。その邦訳はちょっと古い(増補版での追加分がない)のと、英語で新しい本をわたしは持っていたが今手元になく、電子版があるわけでもなくて古本を見たら高騰していたので……そこまでこだわらなくていいだろう。この『聖婚』はしばらく前から読み返したかった。
クレイマーの本については、
という批判をされることが、当然ながらある。彼の研究の動機に文学志向的なものがあるからだ、とは自伝に述べているし、研究スタイルにしても、たとえばロシアの研究者は古代人の経済観念や技術史的な興味に強かったようなエピソードも加えていた。
もう少し突っ込むと、フレイザー批判や、もしかすると柳田批判のようなときにも同じような語調をたびたび聴いているかもしれない。井筒批判などもそうかな。
エリアーデについても言える。
『世界宗教史』16-20まで。すぐだった。このあと、『古代オリエント集』からアッカドの部にもどる。
『エヌマ・エリシュ』を通し読み、世界宗教史は21-22まで読む。次は、『ギルガメシュ叙事詩』。